トレセン学園警備員さんは、ウマ娘に勝ちたい。 作:秋津モトノブ
9月1週目、日本武道館は熱気に満ちていた。
それもそのはず、今日は色々な意味で話題の『無名』が戦う日だからである。
「待ち遠しかったぜ、この日がよォ!」「チケット取れてよかったよな!」「転売屋ほんと許さねえ……」
集まった観客たちは、口々に話をしている。
「っていうかフドウギクの応援団すっげえな……」「そりゃお前、天下の巌流だぜ?門下生なんて日本中……いや世界中にいるんだからよ」
会場のそこかしこに、空手着を着込んだ応援団が点在している。
フドウギクの所属する、巌流空手道の門下生たちだ。
「でも、もっと殺気立ってるかと思ってたけど……普通だな?」「そりゃ、『無名』は筋金入りのウマコンだからな、『反ウマ』の連中とは違うだろ」「本人が全否定してんのに、反ウマの連中は元気だねえ……見たか?会場の外で変な演説してたキモい集団」
無名が勝利を収める度に盛り上がってきた、『反ウマ娘思想団体』
無名が『公式見解』として、ウマ娘への溢れる愛を全世界に公開した今でもなお、その根は深い。
誰も彼もが、ウマ娘を好意的に見ているわけではないのだ。
どんなに平和な世界にも、その平和を望まぬ連中がいる……ということなのだろう。
「そのキモいの、USCと騎バ隊の連合軍に一瞬で取り押さえられてたぜ」「無許可だもんなあ……残念でもねえし当然だわ」
観客たちはとりとめのない話をしつつ、間近に迫った試合開始を待っていた。
・・☆・・
「ミギャアアアアアアアアアアアアアアッ!?なんで、なんでいるんスか!?!?」
『無名』専用の控室に、ライデンオーの悲鳴、いや怒声が響いた。
無名こと山田は、その後ろで頭をかいている。
「プリヴェット(やぁ)、ヴォールク♪」
彼らが部屋で準備をしていると、やおら扉が開き……アトヴァーガが姿を現したのだ。
そして、いつかのように……その後ろには申し訳なさそうな顔をしたセコンドがいた。
「すまねえ……止めたんだがよ、マジで止まんねえんだわ、コイツ。物理的に」
「なんスか!!リターンマッチスか!?パイセンの唇はウチのもんス!!ずぇったい渡さねえッスよォ!!!」
「俺のもんだよバ鹿」
山田のツッコミは完全に無視をされている。
「もう、そうカリカリしないでよ後輩ちゃん♪」
「ここでカリカリせずしていつカリカリするんスか!!こんのッ、歩くわいせつ物陳列罪!!!!」
ライデンオーの威嚇を受け流し、アトヴァーガは胸ポケットから何かを取り出した。
彼女はそれを山田に差し出し……
「ヴ、ヴォールク……ウマインのコード、教えてくれル?」
そう、顔を赤らめて呟いた。
ライデンオーはこけてパイプ椅子に突っ込んだ。
「……なんだよ、それくらいなら別にいいぜ」
今度は何をされるんだ……と身構えていた山田は、傍らの携帯を操作して認証モードを起動した。
「っだ!だだだ駄目っすよパイセン!教えたら最後、1分間に1回くらいエロい写真が送られてくるッスよォ!?!?」
「……あー、セコンドさんよ。それは安心してくれていい……コイツは死ぬほど惚れっぽいんだが、身持ちは永久凍土くらい硬ェんだ」
セコンドの発言に、ライデンオーが目を見開いた。
「はー!?信じられねッス!今まで噂になってた某有名企業のCEOは!?若手有望ハリウッドスターは!?」
「……デートに全部アタシも連れていかれた。そして、暗くなる前に帰った」
「……おかあさんッスか!?」
「旦那もいねェよ!!……まあ、そういうわけでな、ムミョウ……頼むわ」
山田は苦笑いしつつ、アトヴァーガの連絡先を登録した。
「ああ……ホレよ、アトヴァーガ。あとな、俺はヴォールクなんて格好いい名前じゃねえ……山田一郎ってんだ」
「イチロウ……イチロウ!いい名前ね、とっても!――それじゃ、試合頑張ってね!応援してるから!!」
アトヴァーガは、登録の完了したスマホを抱きしめ……顔を真っ赤にして部屋から飛び出して行った。
まるで、嵐。
「……マジすか、情緒が初等部ウマ娘レベルッスよ……人間って見かけによらないんスねェ……あれ、でも前にキ、キスしてたじゃないスか!?」
「アレはな、たぶん暴走したんだろうよ。我に返ったら、あの後3時間くらい毛布に包まって出てこなかったぞ」
「えぇえ……」
初恋の男子に手紙を渡す小学生のようなムーブに、すっかり毒気を抜かれたライデンオー。
山田はその後ろで、(でっけえウララみてえなもんかな……)と、考えていた。
「じゃあ、今回も迷惑かけたな……ほんと、すまねえ。後でUSCの社長さんにも連絡しとく……あんなんでもウチのお姫様だ、勝ったお前には、今回も勝って欲しいもんだね」
「――言われるまでもねェよ、そいつはなァ」
山田が拳を突き出すと、セコンドは歯を剥いて笑った。
「ッハ!やっぱアンタ、ヴォールクだな……いい男だ」
セコンドが去り、山田とライデンオーは顔を見合わせて苦笑いした。
・・☆・・
会場。
その一角に、記者が向かっていた。
「あの!ムソウシンザン社長、少しお話を――」
「――失せろ、プライベートだバ鹿者。正規のルートで申し込め、粗忽者が」
「っひ!?」
記者は、VIP席に座っていたムソウシンザンに一睨みされ、震えて引き下がった。
彼女は、溜め息をついて『連れ』の方を見る。
「――スマンな、騒がしくて。飴をやろう」
「わ、わわ、お、おおきに……」「ありがとう、ございます!」「相変わらずの『飴のお姉さん』だ……いただこう」
『連れ』の3人はそれぞれ飴玉を受け取った。
「お、おい、あそこにいるのってナリタブライアンじゃないか?俺大ファンなんだよ……サイン欲しいなあ」「じゃあムソウシンザンの前通ってサインくださいって言いに行けよ」「む~り~……さっきの記者、生まれたての小鹿みてえになってたじゃん……」
ムソウシンザンの横のVIP席。
そこにいるのは……ナリタブライアン、オグリキャップ、そしてタマモクロスの3人だった。
「ヤマ……無名はまだ出てこないのか、結構時間がかかるものだな」
「ふふ、こうして待つ時間もまた素敵なものだよ若者……だがまあ、それだけでは足りんだろう。『――私だ、どんどん持ってこい』」
ムソウシンザンがどこかへ連絡すると、販売員が6人やってくる。
彼ら彼女らは、両手と背中に軽食を満載していた。
ここは、一般席からはガラス戸で隔離されているので、匂いが漏れる心配はない。
先程の記者は、許可無しに踏み込んできたのだ。
「嘘だろ……なんだあの量、ばんえいウマ娘ってすげえなあ」「いや待て!?ナリタブライアンの隣ってオグリキャップじゃねえか!?あの子むっちゃくちゃ食うんだぞ……前にトレセンの催し物でトンデモねえ量食ってた!」「その横にいるちっこいのは……妹さんかな?同じ葦毛だし」「なんかどっかで見たことあんな、小学生かな」
「タマモクロスやァ!!」
「……どうしたんだ、タマ」
「……なんや、今イラっとしたんや……ウチにもわからん」
両手の全ての指の間に肉串を挟み、オグリキャップは首を傾げた。
「ムソウシンザン社長、招待してもろうた上に飯まで奢ってもろて……ありがとうございます」
「いやなに、気にするな。招待席が余っていたので丁度いい、それに娘やその学友なら軽く3倍は食うからな、安いものだ」
「ばんバ、恐ろし……」
どうやら、ムソウシンザンの招待席を3人に解放したようだ。
「テンマも来たがっていたがな……急な補習が入ってしまったから仕方がない。キミらはイチローの『稽古』に協力してくれたので、まあ関係者のようなものだ」
「むぐ……山田さんの稽古は確かにすごかったな」
「ああ、あんなことを毎回やっていてよく生きていられるものだ、アイツは」
『稽古』を思い出したのか、2人の表情が曇る。
「せやな……ウチも、他人に思い切り石をぶん投げる経験なんか初めてやったわ……」
タマモクロスも、何かを思い出したように声を落とした。
「人間って、目隠ししていても飛んでくる岩を砕けるんだな、タマ」
「そこら辺の人間どころか、ウマ娘でもやったら普通に死ぬで……オグリ」
「『山籠もり』はどうやら刺激的だったようだな、その話も詳しく聞きたいところだが……時間だ」
ムソウシンザンが言うように、場内の照明が消えた。
いよいよ、両選手の入場が始まる。
・・☆・・
『――ご来場の皆様、大変長らくお待たせいたしました!!』
ざわ、と会場が湧く。
誰もが切望していた試合が、ついに始まるのだ。
『衝撃のエキシビションマッチ、そして驚愕の初戦……果たして今回はどうだっ!? USC所属!!流派名『討マ流』ッ!!』
スポットライトが、選手入場口を照らす。
闇に浮かび上がるのは、黒いマスクで顔を隠した胴着役の男……無名。
『人類の範疇を超えつつある男ッ!!ウマ娘へのリスペクトも持ち合わせた紳士ッ!!その強さッ!そして『全てのウマ娘を愛している』発言には世界中の格闘ウマ娘からのラブコールの反響ッ!!』
無名が、誰にもわからないほど少しふらついた。
「(あの紹介、考えた野郎の脳天砕いてやりてえ……!あとなんだよラブコールって、嘘も大概にしやがれ!)」
「(愛っすよパイセン、愛。あ、ちなみにラブコールはマジっす……今度『♯ LOVE MUMYO』でウマッター検索してみてくださいッス)」
「(嘘だろ……)」
後ろに続くライデンオーは、少し嬉しそうである。
『さあ今日も魅せてくれッ!!無名ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!』
「「「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」」」
会場が、熱狂で揺れる。
無名がリングに上がる頃、反対側にライトが当たった。
『そしてェ!!会場のそこかしこにいる胴着の応援団が熱視線を送るこの選手ッ!!』
ライトの中に、空手着姿のウマ娘が現れた。
『全日本ウマ娘空手道大会3連覇にして殿堂入りッ!!伝統派、実戦派、全ての空手の頂点に立ったウマ娘ッ!!!』
「フドウセンパイ!ファイトですっ!!」「1000年がなんぼのもんじゃいっ!!こっちは濃度が違うぞッ!!」「フドウせんせー!がんばえーっ!!」
後輩の、先輩の、そして教え子の声援。
それらを背に受けて、フドウギクの口元が微笑みを形作った。
『その鍛えに鍛えた体に、人類の牙は届くのかッ!?強力無比な打撃に、人類の鎧は対抗できるのかッ!?』
ゆっくりと、フドウギクが歩き出す。
リングだけを、まっすぐ見据えたまま。
『巌流空手道ッ!!フドォオオオオオオオオオオオオオオオオッギクゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!!!!』
「「「ウワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」」」
そうして、両者はリングに上がった。
「……山田さん、怖い顔をしているな」
「当たり前やろ、ニッコニコのまんまで戦えるかい」
「……いや、アイツ笑ったぞ、今」
レフェリーのチェックが終了。
お互いの視線が、交錯した。
「――押忍、よろしくお願いしまス」
ビシ、とフドウギクが礼。
「――ああ、よろしくな」
無名もまた、頭を下げた。
「……楽しみにしてたス、今日」
「……奇遇だなあ、俺もだよ」
フドウギクが、そして無名が。
獰猛な笑みを浮かべて、お互いに視線を合わせた。
「――ファイッ!!」
ゴングと共に、戦いが始まった。
「ォオッ!!」
初めに動いたのは、フドウギク。
両手を腰だめに構え、吠えつつ前に出る。
対する無名。
両手を緩く前に伸ばし、迎撃の構え。
「ッシィ!!」
フドウギク、踏み込みつつの右正拳。
十分に腰の回った、驚異的な拳速。
それが、無名に向かう。
「――ッ!!」
無名はそれを僅かな体捌きで躱しつつ、ローキック。
カウンターの形で、それはフドウギクの右脛に叩き込まれた。
どずん、という異音。
「――ッ!!」「……!」
無名が僅かに目を見開き、バックステップ。
フドウギクは、追わない。
「(……思ってたよりも、岩だな、岩)」
無名は蹴った足に、鈍痛を感じる。
まるで、鉄柱に蹴り込んだような感触。
「(……これが、人間の蹴りスか)」
フドウギクもまた、驚愕。
防御の稽古の時に、木刀を受け損なったようなダメージ。
「(だが、まあ……)」「(でも、そうスね)」
2人は、再び相手に視線を送る。
「(楽しめそうだ……!)」「(いいスね、彼!)」
そして、同時に飛び出した。
「っふ!!」
今度は無名が先手を取る。
間合いに入るなり、顔に向けての左正拳。
「(素直ス、ね!)」
それに、フドウギクが右手を合わせる。
外へ払いつつ、開いた体に左正拳を入れる目的で。
だが。
「(掴みッ――!?)」
払おうと伸ばした手。
その袖口に、無名の左手が絡みついた。
そのまま、引かれた。
万力の握力と膂力に、フドウギクの上体が揺らぐ。
左手を引くと同時に、無名が踏み込んだ。
その反動で、右手が翻る。
「(しまッ!?これ、肘――!)」
エキシビションマッチで見せたように。
電光石火の勢いで、無名の右肘が――上体の崩れたフドウギクの、左胸に。
「――破ァアッ!!」「~~~~~~ッ!?!?!?」
どご、と轟音が響く。
フドウギクの顔が歪み、無理やり掴まれた左手をほどいた。
「(肋骨ッ……!)」
だが、フドウギクは逃げるでもなく、しゃがむ。
しゃがみながら、ダメージを感じさせない鋭い動きで下段を払う蹴り。
「っち!」
追撃の体勢に入りつつあった無名は、それを跳んで躱す。
「(な、にぃっ!?)」
空中で、無名の背中に悪寒。
下段を払ったフドウギク。
その動きが、止まらない。
躱されて足を止めるのではなく、止めずに……そのまま鋭く一回転。
回転の途中で軸足を入れ替え、そして立ち上がりつつ――
「――ッチェリヤァアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
未だ空中にいる無名へ向け、回し蹴りを放った。
「(避け――いや、着地が間に合わん!!)」
空中の無名は、迫る蹴りに向けて身を捩る。
肘を突き出し、そしてもう片方の手の肘を内側に重ねる、十字受けの構えだ。
その構えが完成した瞬間、唸る蹴りが無名を捉えた。
「ッガ――!?!?」
周囲に響く轟音。
そして、無名だけに聞こえる体内からの、異音。
まるで勢いよく蹴られたボールのように、無名の巨体が横向きに跳ね飛んだ。
『フドウギク選手の蹴りがまともに直撃ッ!!無名選手、吹き飛ばされたァッ!?!?』
『肘で受けていましたけど、これは……大丈夫でしょうか?』
リング中央付近で蹴りを喰らった無名。
その体は、二度バウンドしながらリング端まで滑る。
「(バ鹿、みてえな威力だ!肘に車が、突っ込んできた、みてえなッ!!)」
無名が、ダメージを感じさせぬ風に起き上がる。
レフェリーのカウントは、それを確認して4で止まった。
そして、そのまま構えた。
「(……くそ、まずった。受けは完璧だったが、威力が予想より、高い……!)」
無名の体内に響く、痛み。
――防御に使った右肘が、痛んでいた。
軽く曲げた状態の肘には、鈍痛と呼ぶには鋭い痛みが襲ってきている。
「(初撃、左胸に叩き込んだ段階で違和感があった……フドウギク、受ける瞬間に肋骨を『当てて』来やがったな)」
アトヴァーガ戦で無名が使ったような、骨を使った受け。
その上、先程の蹴り。
「(折れてはいないが、少しマズい)」
だが、内心を感じさせずに無名が前に出る。
「(マズいのは他にもだ……思った以上に、相手の防御が固い。巌流、予想以上だぜ……あの時の三下共とは、やはりワケが違う)」
フドウギクも、迎えるように構える。
「っふ!!」
またも無名が出る。
軽いフットワークを刻みながら、少しずつ間合いに入る。
「ッシ!」
間合いに入った瞬間、フドウギクの右ハイキック。
無名がスウェーで躱し、足が通り過ぎた瞬間に再度間合いへ入る。
「オォッ!!」
無名が一気に距離を詰め、お返しとばかりに右ミドルを放つ体勢。
その予測される軌道に、フドウギクが腕を動かす。
「(――ここッ!!)」
右ミドルがガードに触れる数瞬前、無名が腰を捻って重心を動かす。
「――るぅ、おおっ!!」
ミドルキックの軌道が、変わる。
鞭のようにしなり、上方へ。
「(変則の、ブラジリアンキック!?)」
変化した蹴りが、フドウギクの側頭部へ。
「っちぃ!!」
腕の防御は間に合わないと見て、フドウギクは頭を振った。
避けるのではなく、当てに行った。
頭蓋骨の硬い部分で、その蹴りを迎撃したのだ。
ぱぁん、と蹴りの当たる音。
「――っ!!」
無名の足に伝わるのは、岩を蹴り付けたような感触。
その衝撃に、一瞬動きが止まった。
「(好、機!!)」「(馬鹿な、動くっ!?)」
フドウギク、頭部に打撃を受けつつ踏み込む。
踏み込みつつ、極小の空間で腰を捻った。
「――セイッヤアアアアアアアアアッ!!」
蹴りを放った体勢の無名に向け、裂帛の気合と共に放たれる右正拳。
避ける隙は、ない。
無名は、その迫る拳に向け――体を捻り、右肘を叩き込んだ。
どおん、と突き抜ける異音。
空気が震え、衝撃が拡散する。
「っぐ!?」「うぅっ!?」
両者、ともに短く苦痛を漏らす。
『無名選手、正拳突きの反動で後ろへ体がズレたッ!?それほどの、それほどの衝撃ィ!!』
『迫る拳に肘を叩き込みましたね、何という反射神経――凄まじい!』
ざり、と地面をかいて無名が停止する。
「や、山田さんの腕が……!」
「アレ、大丈夫やろか……」
「(あーあー……死んだわ、右肘)」
再び間合いを外した無名。
「(肘が曲がらん、恐らくこの試合中は死んだまま、か)」
津波のように襲ってくる痛み、そして――伸びきった、腕。
『どうしたァッ!?無名選手、右腕が力なく垂れ下がって……出血も見られます!!』
『先程の交錯のダメージでしょう……人間とウマ娘、基礎能力の違いが、こうも残酷に出るとは……!』
フドウギクの拳は、無名の右肘の胴着を抉り、引き千切った。
ぽっかりと空いた胴着の隙間から、拳へと血が滴っている。
『……いや、待ってくださいッ!フドウギク選手の様子もおかしいぞッ!?!?』
対して、フドウギク。
彼女もまた、ダメージを受けていた。
「(まぐれ……いや、違うス。正確に……肘を!)」
『折れているッ!!フドウギク選手の右拳……!!その小指が歪に変形しているッ!!』
フドウギクの握った拳から、小指だけが不自然に飛び出している。
小指の根元が、その可動域を超えて折れ曲がっている。
「(俺の肘と、フドウギクの小指一本……交換条件としちゃ、ちょいと損したなァ)」
無名は、右腕全体が使えない。
つまり、防御と攻撃の時に使える手段を……一つ失ったのだ。
「(だが……それがどうしたってんだよ)」
無名が足を踏み出す。
「(人間が、格闘ウマ娘とやろうってんだ。この程度でビビッてちゃあ……勝てるものも、勝てねえ)」
死んだ右腕を庇い、左半身を前に向けて。
「(負けてもともと、だ。負けが、まず当然なんだ……!)」
『無名選手前に出るッ!!どう考えても激痛の嵐のはずが!!その口元には笑みが浮かんでいるッ!!』
「――嗚呼、やっぱり素敵……」
会場の片隅で、アトヴァーガが震えている。
「イカれてんな、あのヴォールク」
セコンドが、青い顔をして呟いた。
その声が耳に入らぬとばかりに、アトヴァーガは熱く、震える息を吐いた。
「当たり前でしょう?イチロウはヴォールク、気高いヴォールクよ。『狼を飼っても、その目は森だけを見る』……彼は、最後の最後まで、敵だけを見つめるのよ」
自分があの場にいないのが、悔しくてしょうがない。
それだけを思いながら アトヴァーガはリングを見つめていた。
「っぐ、ウゥ、あっぐ!!」
『ふ、フドウギク選手ッ!!折れた指を無理やり元の場所に戻したァッ!?なんという根性、さすが――えっ』
「――ッ!?」
歪んだ小指を、力ずくで拳の形に戻すフドウギク。
そんな隙を、見逃す無名ではなかった。
「るぅう、あああっ!!!!」
フドウギクの意識が一瞬逸れた瞬間。
その意識の間隙に、無名は間合いに踏み込んでいた。
無傷の左腕を、腰だめに。
「――!!」
なんとか指を元に戻し、フドウギクが防御の体勢に入る。
――冷静に考えていれば、見抜けたはずだった。
だが、指の痛みと不意打ちに混乱した彼女は、見抜けなかった。
――あまりにもわざとらしく溜められた、その左手の意味を。
「――じゃッ!!」
無名は、左拳を放たなかった。
拳を溜めたまま、身を捻って軽く跳躍し――右の踵を、フドウギクの無防備な右膝に。
横からの軌道で叩き込んだのだった。
それは、さながら空中で回るコマのようだった。
討マ流、打ノ型『
踵という肘に次いで硬い部位を、関節に叩き込んで……破壊を狙う技である。
「――うぁっ!?っっぐ!?」
びきり、とフドウギクの体内に衝撃が走る。
意識していない部位への、不意打ち。
防御の為に筋肉を固めることもできていない状況でもたらされた衝撃は、関節を軋ませた。
体勢を崩した彼女の目に飛び込んできたのは、獰猛な笑みを浮かべて――今度こそ左手を放つ瞬間の、無名。
「――鋭ッ!!」
その左手は、掌の形でフドウギクの胸の中央に直撃した。
加速と、体重。
それらの力を余すことなく乗せた一撃が、貫通する衝撃となって彼女を襲う。
「っが、ぁあッ!?」
フドウギクの体が、揺らいで後方へ流れる。
「っしぃい……!!」
息を吐きながら、無名がそれを追う。
「(はん、反撃!反撃、しない、と――!!)」
迫る無名。
迎撃を放とうと、拳を引き込むフドウギク。
それらを遮るように、ゴングが鳴った。
1ラウンド目、終了のゴングである。