僕はある日、朝起きると何の前触れもなく唐突に意味不明に体が女になった。
読書家であった自分からするとカフカの『変身』を思い出すかのような、そんな不条理な出来事。
その朝から僕の世界は大きく裏返り、破れ、ぐちゃぐちゃになり、壊れた。
もう、僕に家族はいなくなった。
母も父も妹も、僕という存在を覚えていても、僕を僕だと思わなくなっていた。
何が起きたのか最初は理解すらできてなかったと思う
自分が女になっていることに気がついたのは家を追い出されてからだ。
それまで僕はのんきに普段通りの朝のルーティンをこなそうとしていたのだ。
あのときの母の顔は未だ覚えている。
あの優しかった母が浮かべる恐怖の顔、知らない顔、思い出してなお、あれが母の顔だと信じたくない自分がいた。
妹は何も言わなかった。
多分、困惑が強かったんだと思う。
僕の家族だった人たちの中じゃ一番マシな反応だった。
しかし、それになんの意味があるのか。
彼女は結局僕が追い出されることに加担こそしなかったが、止めることもなかった。
厳格でありながら優しくもあった父には睨まれた。
あの目は……思い出したくない。
異物、敵、あの目にはどんな心情が込められていたのか。
ただ僕という存在を歓迎していないことだけはあまりにも明白で。
あの父が
どんなときも僕の味方であった父が僕にあの目を向けているのが
信じられなくて
何もわからなくて
嫌で、嫌で嫌で、怖くて怖くて怖くて怖くて
世界がガラスのように一瞬で壊れていくようなそんな、幻覚。
割れる、割れる。
「はぁっ、はぁっはぁっ」
息が、荒れる。
家族の姿はもう僕にはとても直視できなかった。
今までとあのときとあまりにも差異がありすぎて、理性と本能が否定と肯定を繰り返して、親が親と結びつかない。
今でも夢に出てくる。
家族の姿をした何かが、あのときの家族は本当に家族だったのだろうか。
ああ、でもしかし、目に映るのはどうしようもなく家族で。
今の体はどうしもなく僕ではない。
結局のところ一番家族から遠い存在なのは僕でしかないのだろう。
僕は僕じゃなくて
異物で
異物じゃない、違う異物、僕は
伊咲、伊咲、僕は違うそうじゃない、僕は異物、違う
駄目だめダメダメ、僕いや、
「っ宏にぃっ。宏にぃっ」
乱れる思考を、奥へと沈む思考を誤魔化すように名前を呼ぶ。
宏にぃの顔を思い浮かべれば、心が落ち着く。
彼が笑ってる顔も、なんだか少し落ち込んでる顔も、獣のように僕を求めるときの顔も
どれも好きで
「んくっ、はあっはあっ」
それを思い返せば、宏にぃが近くにいる気がして僕は僕でいられる。
忘れられる、あのときを
数瞬の開放感とともに熱が体が少しずつ抜けていく、昂っていたかのような気持ちは落ち着いて、なんだか寝起きのような気だるさがあった。
少し落ち着く。
しかし、落ち着けばまた、嫌なことが頭の中をよぎる
やめろと思えば思うほどその思考はさらに加速し、僕の心に毛糸針が刺さるかのような痛み永続的に加えてくる。
こうなるのならば、もっとこの欲望の海へと浸かっていたい。
なんて願望が、肉欲が、幾度となく頭をよぎる。
だから僕は宏にぃのことを考える。
宏にぃは、僕にとっての全てだ。
あのとき宏にぃは、宏にぃだけは僕が僕であるということを肯定してくれた。
一目で、たった一目で僕が僕であることに気がついた
正直、不思議に思う。
初めて僕の姿を鏡で見た時、僕はそれが鏡だと気がつけなかった。
自分が、自分ではないように感じた。
自分ですら自分が異物だと感じた。
それなのに宏にぃは、僕という存在を異物ではなく伊咲として認めてくれた。
嬉しかった。真っ暗な世界を突き進む中で一筋の光が見えた気がした。
まるで後光が差してるかのように、宏にぃの姿が神様のように見えた。
宏にぃのことを考えていれば、僕は僕でいられる。
何もない、何もなくなった僕に何かをくれた宏にぃ。
だから、宏にぃは僕にとっての全て。
真っ暗な世界を塗り替えてくれた人。
それから、僕は宏にぃのお世話になっている。
お世話になっている。
そう、僕はお世話になってしまっている。
宏にぃに何も返すこともできず、お世話になっている
僕には何もない、何も無いから何も出来ない。
今の僕には何もなくて、宏にぃにお世話になることしかできなかった。
世の中は等価交換の世界。
貰うだけなんて、許されるのは子供くらいだ。
宏にぃはよく僕のことを子供扱いする。
いや……まあ、事実子供ではあるのだけど。
でも、僕はもう働ける歳でもある。
そんな齢の人間が、貰うだけ。
それが、どうしようもなく辛い。
宏にぃは、優しい。
僕を家においてくれてる。僕に笑いかけてくれてる。僕に優しくしてくれる。僕を犯してくれる。
その優しさに、僕は甘えている。
それは良くないことだ。
恩を仇で返している。
なにより、
優しい宏にぃは知らない。
僕はとある嘘をついている。
初めてお酒を、お酒飲んだあの日、一番最初の日。
あの日宏にぃは酒の勢いで僕を襲った……と、勘違いしている。
違う、事実は違う。
違う、違う……ごめんなさいごめんなさい。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
そのことを思い出すと、胸の奥がきゅっと締まる。
宏にぃに、嘘をついたこと、そして何よりも
あの日、あのとき、あの瞬間。
夜の帳が下り、世界が暗く闇に包まれた時。
僕はただ不安になっていた。
暗い世界、その中にいる時僕はあの真っ暗な世界を、思い出して一人のような、そんな気がした。
すぐ近くに宏にぃがいるのに一人のように感じてしまった。
不安と恐怖が襲っていた。
ただ、未来という狂気に胸を押しつぶされていた。
そのとき、僕を占めていたのはこれからどうなるのだろうという、未来への恐怖だけ。
宏にぃに拾われた。
でも
でもでも
でもでもでもでもでも
宏にぃはいつまでこの生活を許してくれるだろうか。
宏にぃは僕を捨てるんじゃないか。
そんな不安が頭の中によぎった。
だって、そうだろう?みんなぼくを捨てたのに宏にぃが捨てないなんて思えない。
それを抜きにしても、一人を養えるほど宏にぃに余裕がないのは察せられた。
いつか捨てられる。
宏にぃが信じられない。
何もかも信じられない。
怖い、怖かった。
光の中からまた闇に戻るのが。
夜のような暗い世界にまた戻ってしまうのが怖かった。
なによりも、宏にぃにすら裏切られた時僕は本当にだめになってしまうと思ったから
だから
だから
だからだからだからだからだからだからだからだから
犯した
襲った
宏にぃが寝ようとしてるときに。
無理矢理、身勝手に、僕は襲った。
初め、宏にぃは抵抗していた。でも、そのときの僕は頭がおかしくなっていた。
……ああ、いやおかしいのはきっと今もだろう。
それはお酒の影響とかではない、僕はどうもお酒に強かったみたいだから。
ただ、恐怖という一時の感情に飲み込まれた僕にまともに思考する能力がなかっただけだ。
捨てられるかもしれないのなら。
捨てられない関係になればいい。
繋がりたい、繋がっていたい。
そんな感情の入り混じった短絡的な浅はかな思考で僕は宏にぃを犯した。
最初は僕が上で
途中からは怒った宏にぃが僕を乱暴に犯してくれた。
それで、朝起きたら宏にぃは夜の記憶を全部なくしていて
僕は、それを利用した。
後悔
その行為はあまりにも罪深い。
僕は宏にぃの優しさにつけ込んでいる。
いいや、そんな生易しいものじゃなくて、僕は宏にぃを利用している。
寄生虫が如く、ただ宏にぃという存在に寄生している
それも、寄生主に不幸をもたらす貧乏神のような寄生虫。
完全なるマッチポンプ。
僕を救ってくれた宏にぃに、そんなありえないことをしてしまっているという罪悪感。
後悔
後悔
後悔
後悔を
しなければ、ならない。
しかし、このときのことを思い返せば思い返すほど、あのときのあの情事が
あの瞬間が
天地がひっくり返ったあのとき
宏にぃのトゲトゲした髪が僕に垂れたとき
宏にぃが僕を求めた瞬間が
僕の体をどうしようもなく発情させる。
パブロフの犬のごとく、そんなつもりじゃなくても体が暗くほのかな熱を持つ。
あさましい、あさましい、あさましい。
最低で最悪で罪悪だ。そんな自身を罵倒すればするほど、その罪が蜜のように僕を溶かす。
忘れられない。
まとわりついている。
中毒。
そう、中毒だ。
承認欲求のような、それよりももっと暗いような。
自分が求められたという喜び。
その瞬間に、僕の身がすがりついている。
「んんっ」
記憶が浮かべば、それに呼応して体が疼く。
良くない、これは良くない。
何かが内側に入ってくるような感触がした。
欲求に流される体に思考はあまりに弱く脆い。
「だめっ、だめっ」
僕はクズだ。
優しさに寄生して、蜜を吸い、それに興奮する。
これがクズでなければ、なんだというのか。
それを理解してなお、疼く子宮がムカついた。
この天国から抜け出すことはきっともう僕にはできないのだろう。
罪を、罪の味を知ってしまった僕はもう真の底から折れ曲がり切れてしまった。
謝らなければならない。
嫌だ、こわい。
想像をすれば、最悪が思い浮かぶ。
なんだか、自分ではないものが体の中にあるのような、そんな感触がして、それを紛らわすために宏にぃの姿を思い浮かべた。
「うあ……宏にぃ……好きだよ」
宏にぃの顔が思い浮かぶ。
好きだった。あの少しだけ口角を上げた優しい笑み。が、頭を撫でる優しい手が、宏にぃの優しさが。
そんな相手を僕は……違う。
逃げたい、離れたい、向き合いたくない、でもこれと向き合わないということがなによりも宏にぃに失礼な気がして逃げられない。
きっと忘れたほうがいい。
不安定ながら、不完全ながら、僕と宏にぃの生活は歪のまま形になり始めている。
それを壊すような発言を、真実を伝えるのは間違っている。
そんなわけない。
宏にぃに、宏にぃに嘘をつき続けるなんてなんてありえない。
最悪で、それは最低で
自分の思考がわからない。
天使と悪魔のように相反する感情が僕の中で戦争をしている。
宏にぃは僕にとって、全てであって同時に罪であった。
精神を落ち着かせるためには宏にぃを思い出さなければならないのに。
宏にぃの姿を思い浮かべるとどうしようもなく精神が乱れる。
自業自得としか言いようがない。
僕があの罪を犯さなければ、どうなっていたのだろうか。
ああ……………………
考えたくないや。
考えれば考えるほど、この罪が、楔が僕の心臓をえぐり取るかのように刺さってくる。
はは
辛い、辛い?
違う、宏にぃのほうが辛いだろう。
僕なんかを居候させて、宏にぃは嘘をついていたけど金に余裕がないのなんて僕はわかっている。
優しさに甘えて、騙して、そんな人間に辛いなんて言う権利はない。
ましてや、助けてほしいなんて
傲慢が過ぎるのだ
そんな、乱れる思考を抑えるために僕は宏にぃの名前を鳴くのだった。
わかんないや