煙草に火をつけようとして、やめる。
時たま吸おうとしていたのに、直前になってその気がなくなることがある。
昔から、煙草に限らずそういうところがあった。
今思えば、自分の本質はそういうものだったのだろう。
なんだかもやりとした感情にはあ、とため息を吐く。
一度取り出した煙草を今更戻すのも面倒で、適当に置いて放置した。それでも覚えていれば使うだろう。
時間はもう夜の四時。
外は暗く、音もなく、ただ月明かりだけが部屋に差し込んでいた。
隣には伊咲が眠っている。
一糸まとわず布団で仰向けに寝転がる彼女はこの月明かりを合わさり、もはや宗教画のようなある種の神々しさすら感じられた。
その身に起きたことを考えれば、ある種奇跡とすら言えるような出来事で、事実彼女は神の使いのような聖女だったりするのかもしれない。
まあ、その聖女はその純朴な見た目からは想像できないほど俺の手によって汚れているのだが。
寝返りをうったのか少し崩れたその髪に手を伸ばす。
サラサラとした髪が手の合間を抵抗なく通り抜ける。
柔らかくて流れるような、男とは違う、そう女性の髪。
これが少し前まで男だったなんて、信じられる人間はいるのだろうか。
知っているはずの俺にだって、未だどこか信じきれていないような、夢見がちのような部分があった。
そんな人間が俺の隣で寝ていることも
髪をかき分けて現れた顔は変わらず可愛らしい。
魔性、その言葉が似合うようなその顔つき。
素朴な顔つきながら閉じている瞳、鼻、唇。どこをとっても神が作り出したがごとく。
近づけば近づくほど、彼女の顔つきがどれほどまでのものなのか理解できる。
今さっきまで落ち着いていた情欲を再燃させる、それほどの魅惑、もはや魅了のような、それほどの美貌。
聖女というよりは淫魔の名のほうがしっくりくるとすら思えた。
しかし、そんな彼女の閉じた瞳。
それが、少し、本当に少しだけ腫れていた。
それにうっすらと薄く隈もできている。
「伊咲……」
泣いて、いるのだろう。
最近、ようやく、あまりにも今更に気がついた。
俺の前では隠そうとしているが、伊咲は間違いなく俺がバイトに行ってる合間に泣いている。
思えば、最近の伊咲は少し前と変わった。
精神は安定してきている、間違いなくあの時よりは良くなってる。
ただ、最近また表情が少し、ほんの少し暗くなっている気がした。
表情だけじゃない。
特に顕著に出てるのは俺と身体を重ねている時。
前は伊咲が俺にセックスを求めるのは愛を確かめたいからだった。
それは今も同じ、しかしどうも最近は
伊咲が何も語ってくれない以上、予想でしかないが、そんな気がするのだ。
しかし、
何を忘れようとしているのか、何故泣いているのか。
俺にはわからない……いや、泣く理由の予想はついている。
ただ、泣く理由が多すぎた。
伊咲は、不幸すぎた。
家族を失った。
自分を失った。
俺に犯された。
全てなのか
不幸が多すぎて、彼女を苦しめる不幸が俺には分からなかった。
伊咲はなんで泣いてるいるのだろう。
女になったことか、家族に捨てられたことか……俺と体を重ねることか。
わからない、伊咲のことがわからない。
その可能性の中に、俺という存在がある以上、直接聞くこともできない。
もし、彼女を苦しめているのが俺だとしたら
俺は、どうすればいいのだろうか。
俺がもし、彼女を完璧に救えていたら
今のような歪で、破綻しかけてるようでしていない、バランスを崩すことでバランスを取ってるかのような救い方ではなく
完璧に完全に救えていたら
伊咲は泣かなかったのだろうか?
最初は善意だったはずなんだ。
同情、憐憫……共感
彼女を救うのに、裏側というもの何もなかったなんて言わない。
打算、裏、嘘、彼女のような純粋無垢とは程遠いような、自分でもよくわかってない何かが渦巻いていた。
仕方あるまい、俺は純粋なヒーローのような自己犠牲に満ちた人間ではなく、それよりも暗い人間なのだから。
しかし、それでも最初はそれが少しにしても善意があったのは間違いない。
俺というクズにも少なからずあった良心だったんだ。
それが、こうなるのか
クズにはたった一人の好きな人すら救うことが許されないというのか。
そうなのだろう。
今まで俺がやってきたことを考えれば当然とすら言えるかもしれない。
だとしても、それに彼女を巻き込まないでほしかった。
酒一つ、全てが壊れた。
あの夜のことを俺は全く覚えていない。
伊咲に酒を渡したのは憶えている。
お酒は体に悪いものであるが、そう単純に一蹴できるようなものであればこれだけ流行るわけがない。
薬が一つ間違えれば毒になるように。
毒も一つ変えれば薬なのだ。
特にあのときの伊咲のような、精神が限界に近い者にとっては最高の薬となる。そのことを経験則で知っている。
だから渡したんだ。伊咲は未成年だが、それでもあのときの伊咲は逃げ道が必要だった。
酩酊、酒は現実を遠くへと置き去ってくれる。
その一時は間違いなく救いなのだ。
それが、間違っていたのだろうか。
酒は薬であり、やはり毒だ。
酒が薬であろうと、毒性があることには変わらない。
底なし沼のような、そこの見えない恐ろしい毒。
その毒に二人して蝕まれて今がある。
けれど、けれど、けれど
じゃあどうすればよかったんだ?
どうすればよかったんだ。
慰めればよかったのか? 違うだろう。何も知らない慰めなんて鬱陶しいものでしかない。
放置すればよかったのか? それだけは絶対にない
わかる、知っている俺は知っている。
あのときの伊咲は憔悴しきった伊咲は
俺の前だから気丈に振る舞おうとしていたが、間違いなく死が見えていた。
本人に自覚があったのかはわからない。
ただ、一手、何かがあれば、もう一つ絶望があれば、死を選ぶような、そんな状態だった。
自殺というのは思い悩んでするものではない。
閃いてするものだ。
刹那的に、死を選ぶ。
人間は死を恐れる。
それは当然だ。本能で死を恐れる。
だから自殺なんて本来できないようになっているのだ。
それでも自殺するのは、恐怖という感情を抱くよりも早く死ぬからだ。
伊咲はそれだった。
いつ死を選んでもおかしくない状態だった。
だから、酒を渡したんだ。
不幸も幸運も忘れられる瞬間。
逃げられる道。
その救いを与えてやるために。
その俺の考えは間違ってない、間違っていないはずなんだ。
いくら考えてもあの時、あの状況で伊咲を救えるのはあれしかなかった。
なのに、なのに、なんで、なんで
なんで伊咲が俺の隣で寝てる?
彼女は綺麗で美しい。
本当はこんな薄暗い部屋にいていい人間じゃない。
もっと明るい人間なんだ。もっと違う世界の人間なんだ。
だが、彼女が望んだ。
この世界を望むようになってしまった。
そうなってしまったのは俺のせいで
これは本当に救ったと言えるのだろうか?
改めて生まれる罪悪感。
彼女の命を救ったのは俺で
彼女の心を堕としたのも俺だ。
それは救ったと言えるだろうか
伊咲は幸せなのだろうか
わからない
何が、彼女の幸せなのだろう。
どうすれば彼女は泣かないのだろう。
どうしていれば、彼女は純粋でいれたのだろう。
分からないんだ。
伊咲がこうなってしまったのは俺が原因だ。
それは事実であり否定なんてできない。
でも、選択肢はそれしかなかった。
最悪と最悪からマシな方を選んだ。
だからこそ、納得ができない
もっといい選択肢があったんじゃないか?
もっとうまくできたのではないか?
そんな後悔が脳裏をよぎるのだ。
たらればの想像なんて意味がないというのに
もしもの可能性も模索してしまう。そして、後悔だけを積み重ねる。
俺はどうしようもないクズだった。
伊咲を堕とした。
彼女を壊してしまった。
そのくせに
一人で
それを後悔して
この生活を、気に入ってしまっている。
バイトを終えて家に帰れば、伊咲がいる。
たったそれだけで俺の生活は色づいた。
ただ、無心であり何も感じなかったバイトが少し苦痛になった。
何もせずぼーっとする時間がなくなった。
パチンコなんかに時間を使わなくなった。
いつからかなくしていた何かが、俺の中に戻っている気がした。
伊咲が隣にいた。
たったそれだけで、俺は変わることができた。
そう、俺は伊咲に救われているんだ。
なんて
なんて、
なんて、ふざけた話だろうか
俺は伊咲を救わなければいけなかった。
なのに、俺は伊咲を傷つけた。
そして、救われたのは俺だった。
なんだ、これは?
なんで俺が救われる?
救われるべきなのは伊咲だろう。
俺みたいなクズが救われて、なんで純粋である伊咲が救われないんだ。
伊咲の頬へと手を伸ばす。
伊咲は今、俺の手の中にいる。
彼女は俺のことを信頼してくれている。好きでいてくれる。
それが辛かった。
嫌ってくれていたら、どれほど楽な気持ちに成れただろうか。
なんて思って、伊咲に嫌われる自分を想像して嫌な気分になる。
自己満足でそんな想像をしてしまったことも、伊咲に嫌われることも、あまりにも自分勝手だった。
自分から堕として、嫌われるのを嫌う。
はあ、俺も女性にしたことを考えれば市成のやつと大して変わらないのかもしれない。
伊咲は、もう戻らない。
壊れてしまった。
俺が壊した。
俺が、俺が、俺が。
後悔は止まらなかった。
喉が痛い。全て吐き出したくて、そんなこと伊咲の前でできるわけもなくて
自分のことすら理解できなくなりそうだった。
俺が望むことはただ一つで
伊咲が幸せでいて欲しかった。
それだけだった。
ならば、伊咲と俺は離れなければならないのかもしれない。
伊咲の幸せを考えるのなら、俺は伊咲の近くにいてはならない、そんな気がしていた。
伊咲は俺に依存している。
でもそれは客観的に見てあまりにも正しくない。
だって、そうだろう。自分を犯した相手に依存するなんて変な話だ。
それで、昔学んだものにそんな物があることを思い出した。
ストックホルム症候群、なんてものがある。
そんな心理なんて専門でもないので、詳しくは知らないが犯罪被害者が犯人に対して好感情を抱いてしまうというものらしい。
あまりにも今の伊咲に近いと思った。
伊咲がストックホルム症候群とはいかないまでも、俺に対して似たようなことを起こしてるのではないか、そう思った。
だとするならば
俺なんていないほうがいい
そう思うのだ。
伊咲は俺に依存している。
そんな彼女から依存先を取り上げれば何が起こるか分からないのは理解している。
しかし、それでも今の歪から抜け出したほうがいいのでは、とも思う。
伊咲と俺は物理的に離れ離れになるべきなのかもしれない。
距離を置いて冷静にならなければならない。
ずっと水の中にいないで息継ぎをしなければならない。
それが、伊咲を幸せにするための道
ああ、でも
嫌だ
心はそう思ってしまう。
伊咲から離れたくなかった。
好きな人と離れ離れになりたくなかった。
なんて言い方
ロマンチックな言葉かもしれないが、俺が伊咲にしたことを思えば、そんな思いはあまりにもグロいものだ
伊咲を好きならば離れるべきだ。
でも、好きだからこそ伊咲から離れたくない。
まるで迷路の十字路に囲まれたかのような気分
なんて、最低なのだろう。
なんてはた迷惑。伊咲を好きなんてどの口だという話だ。
「伊咲……」
瞳を閉じて、寝息をたてる彼女に声を掛ける。
当然、反応は返ってこない。
「俺は、どうすればいいんだろうな?」
反応は、返ってこない。
その当たり前に、ため息を吐いた。
雲に阻まれたのか月光が消えて部屋がさらに暗くなる。
嫌気が差してくる。
クズが、と心のなかで自身を罵倒した。
その罵倒に、俺は何も言い返せなかった。
「こうにぃ……?」
けれど、声がした。
「伊咲?」
「どうしたの……?」
起こしてしまったのだろうか?彼女は目をこすり眠そうにしながら上半身を少しだけ持ち上げた。
いつの間に戻った月の光は後ろから伊咲を照らしている。
逆光に照らされた彼女は、まさに女神としか言いようがなく。
「怖い顔してる」
「そうか……」
「何か、あった?」
「……いや、何も」
さっきまで考えてたことを言うか迷って、やめた。
覚悟ができなかった。
そんなヘタレでゴミでクズな俺に伊咲はどう思ったのか不思議な表情を浮かべる。
「そっか……じゃあ、おっぱい揉む?」
「……お前なぁ」
「男ならこうすれば悩みもはれるかなって」
男心を完全に理解できるって強いなと思いつつ、俺は手を伊咲の胸へと伸ばした。
仕方ない、男だもの
なんて、言い訳だけど。
「んっ」
伊咲との関係をどうすればいいかは未だ分からない。
「悩み、はれた?」
「……ああ、ばっちりだよ」
「キスもしよ?」
「……ああ」
でも、今はそんなことを忘れて少しだけこの時間に溺れていたかった。
伊咲ちゃんは単純なんで書きやすいんすけど、こいつ無駄に人生経験あるし無駄に頭いいし無駄に考えるしそのくせ微妙に気分屋だしであまりにも脳内が分かりづらいです。自覚なしに嘘つくタイプの語り手