「ここは………」
横たわる私が目を静かに明けると、そこには薄暗い地下室の壁があった。
「いつもの…あれか………」
饐えた臭いにこの肌寒さ。ああ、嫌と言うほど覚えがある。
最初の数年程はこの光景を見る度に恐慌状態になっていたものだ。
「………はぁ…。」
手の平を自分に向けるとそこには”小さくなっている”手があった。
忘れたくても忘れられない、コンクリートの壁に繋がれてチャリチャリと鳴る鎖の音。
首と手足にガッチリと嵌り、冷たさと重さでその存在を忘れさせない金属。
胴体には焼かれ、金属で貫かれ、異物を入れられた事で出来た数々の熱を持つ生涯消えない傷。
そして…私に膨満感と確かな重みを伝えてくる、少し出たお腹。
「…先生。」
聞いたことのある声がする。
だが、その声は夢の中でよく聞いたあの少女の声では無かった。
「…貴方に私の夢に入っていいなんて、一言も言ってないんだけど。」
酷く不快な気分でその姿を見遣る。
そこには黒い人型が罅割れ、中から光が漏れ出しているかの様な容姿を持つ男がいた。
本名は不明だが、その名は黒服。アビドスで不本意ながら因縁ができたゲマトリアの一人だ。
「大変失礼しました、この非礼は別の形で返しましょう。」
「本来、彼女が関与している件に干渉するつもりは無かったのですがね…」
「一先ずはこれを。…夢の自覚がおありなのですね。」
そう言うと黒服は羽織っていた自分のスーツのジャケットを脱ぐ。
そして、それを私に手渡してきた。私の鉄しか纏っていない身形が原因だ。
私は手を伸ばし、それを受け取る。黒服から渡された物だろうが、躊躇いは無かった。
好き好んでこんな恰好をしている訳はない。寧ろ今すぐにでも外したい。だが外せない。
怖気がする、吐き気がする、嫌な汗が吹き出る。
だが、そんな発狂しそうな心持ちを必死に押し殺す。
私は鎖に繋がれて立つことは出来ないまま、黒服に相対して視線に力を込めた。
「…それで、何の用かな。」
「…本題に入る前に少し話でも、と思っていましたがやめました。」
「ここは心象風景でありながら、貴女にとっての地獄だ。」
「…」
この男はどこまで知っているのか、それが堪らなく不安だった。
あの日からの半年、そして十ヶ月の事はこの男に交渉材料として使われかねない。
しかし、黒服は私の心を読んだかの様にその不安について否定する。
「心配なさらないでください。私はここの景色をどうこう言うつもりはありません。」
「貴女が許さない限り、誰にも口外しないことを私の名に懸けて誓いましょう。」
「…そう。」
「ここは他でもない貴女の夢の中。時間は止まっているに等しい場所です。」
「私は情報提供に参りました。貴女に死なれるのは彼女を除く私達にとって本意ではありません。」
「ですので、落ち着いて聞いて下さい。今ここで焦ってもどうにもならないのですから。」
私の緊張がやや落ち着いた事を見た黒服は本題を切り出す。
「まず、貴女はアリウス分校の生徒に撃たれました。」
私が撃たれた。その言葉によって夢の中で鈍っていた思考が活性化し始める。
そして思い出す。燃える古聖堂、重傷の生徒達、ミメシス、アリウス、そして、私を庇ったヒナを。
「…!」
「貴女は辛うじて一命は取り留めたものの、瀕死だった事に変わりありません。」
「どれだけ治りが早くとも、一年はまともに歩くことは叶わないでしょう。」
「そんなの関係無い。生徒達が嘆き、悲しんでる。」
「私が行かないなんて選択は無い。」
生徒たちの夢、その実現を助けるのは大人の義務だ。
私は生徒たち自身が心から願う夢を信じ、それを支えるためにここにいる。
そして何より、あの子の幸せのために止まってなんていられない。
「私も止めるつもりはありません。」
「ですがあと一点…お伝えしておきたい最も重要な事があるのです。」
勿体ぶって話す黒服に、私は苛立ちを覚え始める。
だが、次の一言はそれを吹き飛ばすものだった。
「…丹花イブキさんが…貴女の仇討に出撃しました。」
「ッ!? どういうこと…!?」
私の大事な娘、イブキが戦場に向かった。
まだ幼く優しいイブキが何故、どうやって、あり得ない、と私は混乱する。
そんな私を余所に、黒服は淡々と言葉を紡ぐ。
「貴女を助けるために駆けつけた彼女は、その瞬間を見てしまった。」
「現場も、下手人の顔も、血だまりも沈む貴女も、全てを明確に。」
「え…?」
「その上、彼女は一部のトリニティ生にまで憎悪を抱きました。」
「貴女の容態が一刻を争う状況で、その行く手を阻んだからです。」
「今しがたアリウスと交戦を始めたばかりの様ですが、終わればその矛先はそちらに向かうでしょう。」
「そんな…!?」
「以上が、貴女への私からの情報提供です。」
そう締めくくると黒服は指をパチンと鳴らす。
すると鎖はパンと音を立てて砕け、私の手足は自由を取り戻した。
私は立ち上がり、改めて黒服を見遣る。
すると彼の後ろにある扉が開いており、外の白い光が差し込んでいた。
「私が来てから、百合園セイアという生徒が貴女を呼んでいました。そこの扉を潜れば会えるはずです。」
「順番を待って頂いたことにお詫びと感謝をお伝えください。」
「後は貴女のご自由に、先生…それでは。」
「待って。」
「…何でしょう?」
踵を返す黒服を、私は呼び止める。
彼はこうなることを見越していたのか、ゆっくりと振り返る。
「さっきのツケは…今ここで払って行って。」
「…どの様に?」
尋ねられたのはそのツケの払い方。
そんなものは今の状況であれば分かり切っているだろうに。
「私を…私の身体を、動ける様にして。」
信用ならない連中との間に、貸しも借りも持ったままはごめんだ。
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「はぁっ…はぁっ…!無線は…やはりダメか…」
「ヒヨリ、無事か…!?」
通信機から聞こえてくるのは砂嵐の音だけだった。
万魔殿は自分達の一点狙いで、ジャミングを展開しているのだろう。
遮蔽物の影に隠れ、匍匐前進でヒヨリに這い寄る傷だらけのサオリ。
そして、ヒヨリからは掠れた弱弱しい声が返ってくる。
「すみま、せん、リーダー…右目があまり見えてません…あと、音も…」
「目は…一時的なものだ、安心していい。右耳は恐らく鼓膜が破れているな…」
イブキが率いる万魔殿の追撃は、苛烈の一言に尽きた。
轟音を響かせながら向かってくる戦車に、人員の数の暴力。
高射砲に迫撃砲、果ては火炎放射器まで持ち出して潜む二人を燻り出してくる。
おまけに自分達の動線を予測し切っているのか、攻撃はとても執拗かつ的確に飛んで来た。
行く手を阻む様に着弾させ、囲む様に攻撃、その後にその円を収縮と、確実に仕留めるという意志を感じる物だった。
死に物狂いでアツコを抱えたミサキは何とか先に離脱させることが出来た。
だが、ヒヨリはそれらを避け切ることが出来ず、迫撃砲の至近弾を受けてしまったのだ。
「まだ走れるか…?」
「…無理、そうです…平衡感覚が死んでます…もう、置いて行って、下さい…」
「ふざけるな…!もうすぐカタコンベの入口だ、だから頑張れ…!」
自身を見捨てる要様に進言するヒヨリ。
だが、サオリにそんな気は毛頭ない。
その選択は、サオリの願いと相反するものなのだから。
「………そうか、これが…」
傷だらけのヒヨリを見て、サオリは全てを察した。
これがあのイブキという少女が味わった苦しみ、大切な人を目の前で嬲られ、奪われることだと。
これまで自分達は奪われるばかりで、何も得る事が出来ない日々を送っていた。
全ては虚しいと、自分達の不幸はトリニティを始めとする者達のせいだと教えられた。
故に自分達は被害者であり、振るう暴力は指示に従っているだけで正当なものだという意識がどこかにあったのだ。
「私は…間違っていたのか…?」
「リーダー…?」
だが、それは違った。自分達の行為は徒に憎しみの連鎖を広げているだけだ。
自分達が報いるべきは過去のトリニティであって、今を生きる者達ではない。
ましてや、ゲヘナなど最早無関係に等しいのだ。
その事に気づかなかった。いや、気づかない様にしていたのだろう。
「だが…もう退けないんだ…!」
アツコを救うためだ、これはやむを得ないことだ、等という言い訳も無意味で空虚だ。
どれだけ理由を重ねたところで、自分達の行いが変わることはない。
あの少女にとって自分達は母を殺した悪であり、怨敵であることに変わりはないのだから。
だからこそ、もう退くことは出来ない。
ここで退いてしまえばアツコを、スクワッドの皆を救うという原初の願いすら潰えてしまうのだ。
「ヒヨリ、私が気を引く。その間にカタコンベを目指せ。」
「リ、リーダー…!?」
「心配するな、必ず合流する。姫を助けるまでは私は絶対に斃れん。」
ヒヨリに指示を下すとサオリは目立つ様に腰を上げ、走り出す。
砲撃と銃声、そして怒号の中を駆けるサオリは駆け、数々の弾丸や爆炎がその身を襲う
だが、サオリは怯まない。投げられた手榴弾を蹴り返し、瓦礫で射線を切り、気づかれぬまま背後に回る。
そして、多数の万魔殿の構成員を倒し、漸く目的の場所に辿り着いた。
「いた…!」
「ッ!? 一番厚いポイントを突っ切ったの…!?」
イブキの部隊配置は時間を重ねた事でサオリに見破られていた。
だからこそ最も防御の厚い場所を突破し、イブキの意表を突いたのだ。
サオリはミサキから預かり、背負っていたセイントプレデターを構えて跳躍する。
「…!」
そして、その引き金を退いた。
「イブキじゃない、まさか!?」
だが、狙いは指揮を担うイブキではなかった。
空中で花開いた閃光が狙ったのは、近くにあった電子戦専用車両だ。
「うっ…!」
車両は爆炎に呑まれ、その機能を喪失する。
自分達の居場所が即座に連携され、こちらの通信は一切通らないのだ。
かの車両がこの戦場で最も脅威度が高いことは言うまでも無かった。
「よくも…よくも…!!」
「丹花イブキ、議員…」
無力化に成功したことを認めたサオリは離脱しようとする。
だが、それを阻まんとする者がいた。
他の誰でもない、サオリに滾る憎悪を向けるイブキだった。
イブキは車上からアサルトライフルを構え、サオリに叫ぶ。
「逃がしてなんかあげない…!絶対に、お母さんの痛みを返してやる…!!」
幼い容姿に全く見合わない程の凄まじい怒気に、サオリは冷や汗を流す。
そして、自身の罪を更に自覚した。
こんな幼子にここまでの憎しみを植え付けたのは紛れも無く自分だ。
故に、この光景を脳裏に焼き付ける。
いつか自分が裁かれるその日に、自分を裁くのは彼女かもしれない、と。
「…悪い事をした。」
「何を…!?」
「だが、私にも譲れないものがある…ここで討たれる訳にはいかない…!」
サオリは振り絞る様に声を発し、切り札に取っておいたそれを地面に投げた。
それは鈍い破裂音と共に辺りに月明かりをも通さない煙を吐き、辺りを漆黒の世界へと変える。
その隙を突いてサオリは足音を隠しながら戦場を離脱し始めた。
「煙幕…!?待って、待ってよぉ…!!」
「どこまでも追いかけてやる…!絶対に、絶対に赦さない…!!」
その怨嗟の声を背に受けながら。
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「…だが、先生。」
「君の前に立ちふさがるのは憎悪と不信。長きにわたって久遠に近い集積を経た、それらの具現だ。」
「じゃあまずは、それと相対してくるよ。」
「また後で、セイア。」
そう言って踵を返し、現実へと戻る先生。
どんなトリックを使ったのか、あの怪我でも先生は起き上がることが出来る様だ。
夢の世界からの退出によってその姿は薄くなり消えていく。
そうしてその姿が完全に消え、気を抜いたその時だった。
「うぶっ…!おえぇ…!!」
夢の世界だというのに私は吐いてしまった。
何とか先生に悟られないようにしていたが、限界だった。
「先生は…私が見た、あの光景は…!!」
眠る先生にこちらからアプローチを掛けた瞬間、流れ込んできた光景。
先生が「大人」ではなく、まだ「子ども」だった刻。
なりたい自分、叶えたい夢、未来への希望。
そういった諸々を大人に汚らしく食い荒らされ、踏み躙られ、誰にも救われなかった絶望。
黒服を名乗るものに早々に止められなければ、私は自我の崩壊すら起こしていたかもしれなかった。
「先生…君はこれを乗り越えて、此処にいるんだね…」
「敬意と感謝を…私も、生徒として君に応えていきたい…」
私は自分の身を抱き、震える。
悲哀に満ちた結末への恐怖がなんだと言うのだろうか。
これに比べれば何てことはなかった。
故に本来はいけないことであるが、自分がそうならなくて良かった、と思わずにはいられなかった。