降谷さんの災難   作:千里亭希遊

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2.降谷さんの初陣。

 小さな会議室を貸切り、僕の教育係になるという先輩が、お前が目を通したあと処分すると言いながら資料を差し出してくる。

 その中身は一人の女性に関するざっくりとした情報だった。

 

櫛森汀(くしもり・みぎわ) 21歳 〔写真〕

〔出身、学歴等々〕

東都大薬学部薬学科研究員

留学先のオクスフォードは飛び級で卒業。

開発する薬剤がほぼほぼ過剰防衛にあたるとされ成果を認められていない。

その研究成果を売ろうとしているらしき現場を捜査員に目撃されている。

 

「……過剰防衛?」

「ずいぶんな美人さんだろ? 小さい頃から結構な目に遭っていたらしくてなあ。その経験からか本人は防犯用と主張して色々と開発しているようだ。ようなんだが……吹き付けるだけで気絶させる等々、まあまあ過激なんだよ」

「……それは」

 

 一歩間違えれば化学兵器だ。

 

「ああ。もちろん犯罪者の手に渡ればおおごとだ」

「そのおおごとになりかけているか、既になっている、と」

「そういうことだ。……彼女に取り引きを持ち掛けていた人物が問題でな……」

「? ……取引現場を捜査員に目撃されてその場で確保されていないということは、泳がせる必要があったんですか?」

「ああ、捜査員はもともと彼女の取り引き相手のほうを探っていたんだが、それがな……今後きみに潜入してもらう予定の犯罪組織の、構成員の疑いがある男でね」

「……!」

「トカゲの尻尾切りにならないよう慎重に追っている。まあどうも、ただ話しているだけにしか見えない現場で、確たる証拠を得られそうになかったというのもあるようだ。まだ取引は交渉段階にみえたらしい」

「なるほど……」

 

 僕は複雑な気分で彼女の資料に再び目を落とす。

 先輩が小さく苦笑した。見ると眉が下がっている。先輩もどこか思うところがありそうだ。

 

「今のところ彼女個人を危険人物扱いはしていない。武道の類なんて今まで一切触れていた様子がないのはもちろん、防犯グッズに対する思いが過激ではあるようではあっても、攻撃的な性格ではないようだ」

 

「そうなんですか」

「ただ、調べてみないとまだ何も分からない。最悪、全部知っていて組織に協力しているのかもしれない。だから正面から説得に行くのは危険だ。あの組織の協力者なら拳銃か何か隠し持っていても不思議じゃないし、周りに護衛か何かも潜んでいるかもしれない」

「そう、ですね……」

 

 彼女は身を守りたくて、あるいは痴漢や誘拐などの被害から他の人々も守りたくて、これまで必死に研究してきたのだろう。それを悪用される、もしくは、自身で悪用する、なんて。

 

「降谷、一般人の態で彼女に近づけ。何としてでも取引成立前に情報を集めるんだ。そして状況に応じて、彼女を保護するか、確保するか……利用しろ」

「……!」

 

 一瞬目を見張ってしまった。……だがきっと、公安とはそういうもの、なのだから。

 

「承知しました」

「……きみはやはり察しがいいようだな」

 

 最悪、彼女を組織潜入の足掛かりにしろ。

 先輩はそう言ったのだ。

 

「この件に関しては俺が教育係としてサポートする。以後は別の人間が一人つくだろう」

「はい!」

 

 真剣な顔でそう言う先輩に僕はしっかりと頷く。

 

「俺はきみみたいな優秀な人間を早々に潰したくないんでね。それは上も同僚もみんな同じだろう。なりふり構わず、細かいことでも相談するように。いくらきみが優秀でも、こんな最初から独りで何でもできると思わないことだ」

 

 ふと、卒業前既に爆処からスカウトを受けていた同期二人のことが浮かんだ。松田は即決していたが、萩原ははじめ悩んでいた。そして悩んだ末にきちんと決めた。

 伊達もコンビニの一件からどこか吹っ切れたような様子で、ますます真っ直ぐに進んできたと思う。

 そして卒業後連絡が来なくなった景光(ヒロ)を思う。きっと皆に何も返せない僕と理由は同じだ。

 

 固い決意で未来を選んだ皆は、きっと今も隣で一緒に前を見ている。

 

「僕も潰れる気はありません。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」

 

 僕は僕で、愛しい愛しいこの国を守りたい。だからそのためには何もかもを利用する。

 敬礼した僕に、先輩はニッと笑った。頼もしい笑顔だった。

 

 自己紹介時点でこんな人間は本当は居ないんだぜ、変装だ、と先輩が自ら言ってきて、公安の秘密主義もたいがいだと思ったが、でもどこかでこの人にならついていけるという気がしていた。

 

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「この一件の間だけの、きみの偽名と各種身分証明書とスマホ」

「ありがとうございます」

「余程のことがなきゃ、『お前の教育係だった』っていう、今後近くにいるべきでない俺がお前の偽名を把握しないために、次に引き継がれない」

「承知しました」

「淋しいくらい言ってくれよ」

「無理もないと思いますから」

「かわいくねえなあ」

 

 じゃれ合いのような会話をして思わず笑ってしまう。けれど先輩はすぐに真剣な顔をした。

 

「降谷零じゃない別人を作り出せ。性格などを自分で設定してみろ。まずはそうだな……彼女は夜独りで飲み歩いてるらしい。近づきやすいのはどういう人間だと思う?」

 

 眉をひそめる。防犯意識が過激になるくらいの過去を持っておきながら、そんな……いや。

 

「……彼女はわざと妙な輩に絡まれようとしているんですか? ……認めてもらえない薬剤を実際に試すためでしょうか?」

 

 先輩は首を振った。

 

「分からない。身辺捜査が始まってからも何度か絡まれていたようだが、誰かの助けが入るか自力でどうにか逃げるかしていて、妙な物を使って撃退した様子はないそうだ。しかし薬剤使用を狙っていないという保証はできない」

 

 ないことの証明は難しい。

 

「気に入りの店もあるみたいでな。単に酒が好きなだけかもしれない。……だといいなと思ってるが」

 

 先輩が苦笑して、僕も苦く笑った。楽観できるわけはないもんな。

 

「……彼女が辟易しているであろうナンパを装うのは警戒を解く手間を考えて除外します。……絡まれたのを助けに入ったら比較的気を許してくれますかね。かといって正義感が明らかに強そうだと、取引について口を割ってくれないかもしれませんね」

「正義感が強そうなヤツは組織潜入にも向かないだろうな。……あまり偽人格は増やすものじゃない。少しずつ自分が分からなくなって潜入にも日常にも支障を来しだす」

「承知しました」

 

 必要があれば百人だって演じてみせるが、慢心しないに越したことはない。

 

「そしてまあ……薬剤の現物はともかく、自分が作ったデータなんてさくっと手渡しできてしまうくらいのものだ。ゆっくり友情を築くような時間は恐らくない。独り暮らしで、恋人はいないらしい、堕とせ。それができそうな人格がいい」

 

 内心息が詰まるが状況は理解できる。二十一なんていうまだまだ成人したばかりの娘の心を弄ぶようで気は進まないが、彼女が危険人物と化さないためを思えば、彼女からの僕の印象が汚れることなんて些末なことだろう。

 

 少し考えてから、僕は考えを口にしてみる。

 

「……インテリっぽくはあっても少し危なそうな性格を作ってみようと思います。真面目過ぎても不真面目すぎても、彼女には近づけないような気がします」

「危なそう、ね。きみはめちゃくちゃ真面目な正義漢のイメージがあるんだけど、でき……いや、警察学校在籍中は色々とやらかしてるんだっけか」

「何のお話でしょうか?」

「……ッフフ」

 

 僕はいたって真面目な人間ですよ?

 アイツらが色々やらかしたのに手を貸してただけです。

 

 ……なんて()れ言は口にしない。

 

 先輩もそこを深く追及する気はないらしい。

 そんなふうに話しながら、ある程度『俺』を作りあげた。そう、ある程度だけ。

 

「変に固めすぎると臨機応変にいかなくなるしこれくらいでいいだろう。あとは……きみにはまだ『協力者』がいないからな。尾行だの張り込みだのの探りはこちらで入れる。万一を考えれば、表に出るきみ自身がそういうのをやるのは下策だ。欲しい情報があったら言ってくれ。ああ、怪しまれない範囲なら自分で探るのはとめない」

 

 協力者。風の噂では色々聞く。僕もいつか探すべきなのだろうか。あまり自分でできないことは浮かばないが、顔割れを防ぐため等と言われれば居るに越したことはないのかもしれない。

 

「よし。あとは彼女が夜街に出たって連絡があるまで書類仕事でも手伝っててくれ」

「書類仕事」

「たとえ実働部隊だろうと警察の本分はソレだ。永遠に人が足りない」

「新人の僕が関わってもよろしいのですか?」

「守秘義務に抵触しない書類は山のようにある」

「山のように」

 

 その人手不足はいつか解消される時が来るのだろうか。

 よくよく見れば、先輩の目の下にはメイクで隠されている隈があった。

 

 ……少しでも負担を減らそう。

 そう思ってデスクにかじりついていたら、その日の晩にはもう連絡が来た。平日だぞ。

 どうやら彼女は、毎日とはいかないまでもずいぶんな頻度で飲み歩いているようだ。アルコール依存症になっていないといいが。

 

 僕は小さくため息をついた。

 

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 店から出た時点の彼女は足取りもしっかりしていたのだが、それがだんだんおぼつかなくなってついには既に閉店している店先で壁に寄りかかってしまった。

 妙な輩をおびき寄せる演技かと疑いつつ様子をうかがっていると、男が二人彼女に声をかけた。

 

 本当に具合が悪そうなら先輩たちサポートに回ってくれている『仲間』に連絡しようと思っていた矢先のこと。最悪ナンパを装って仲間が声をかけることも想定しているそうだが、そんなことは必要なかったらしい。

 

 僕が声をかけようとしたその時、男の一人がぐいっと乱暴に彼女の腕を引いた。彼女はいとも簡単に男の腕の中に倒れ込む。……ちょうどよくは、ある。

 

「……オイ」

 

 思ったより低い声が出た。守るべき一般市民(仮)に乱暴を働くなど言語道断。

 

「あ? ンだよ、邪魔すんな」

 

 こちらを睨む男が彼女をぎゅうと抱き込む。ろくに抵抗もしない彼女は本当に具合が悪いのかもしれない。

 もう一人の男が鼻で笑うのが聞こえて、僕はちらりとそちらを見遣った。気分の悪くなるニヤニヤ笑いを浮かべている。

 

「なんだ。お前も仲間に入りたいってか」

「一緒にしないでもらいたい」

「ァア? そんなナリして善人面か?」

 

 お前は今禁句を言った。だがこんな程度で熱くはならない。彼らのほうこそ守るべき一般市民のうちだ。

 

「ともかく」

 

 僕はスマホを取り出した。男二人が忌々しそうな、あるいは慌てた顔をする。

 

「通報されたくなかったら、散れ」

 

 二人は舌打ちするなどしてその場から走り去る。これで諦めてくれるのは可愛いものだよな。

 ふらりと傾いだ彼女を支えた。

 

「……大丈夫ですか」

「……」

 

 返事というか反応がない。

 これは、先輩たちに預けて病院に運ぶべきだろうか。

 顔色をうかがってみる。……そこまで悪いものではないし呼吸もおかしくない。

 

「……きみ、きみ」

 

 軽く頬を叩いて呼び掛けると、彼女は薄っすら目を開けた。

 

「……ぁ」

「具合が悪いの?」

「……いえ……すみません、徹夜明け、で……」

「……」

 

 そんな時は大人しく家で寝てなさい。何で外で独りで飲んでるんだ。

 僕の呆れが伝わったのか彼女は眉尻を下げた。

 

「……ごめんなさい」

 

 もっと反省したらいいという思いで少し大げさに溜め息をつくと、彼女は身を縮めた。

 

「ここからは自分の足で帰れそう?」

 

 そう遠くないのは知っているが尋ねる。

 

「はい。……ごめんなさい。……ありがとうございました」

 

 そう言って歩き出した彼女の足取りは比較的しっかりしていた。ため息がきいてくれただろうか。

 小さなため息をもう一つついて、目に入った自販機で麦茶を購入し、彼女を追いかける。

 ペットボトルで二の腕の辺りにぽんと触ると、彼女は足を止めて振り向いた。蓋を開けて彼女に突き付ける。

 

「……少しは目が覚める」

「……」

 

 彼女は悲壮な顔をした。売れる恩は押し売りしておこう。

 

「……本当にごめんなさい」

 

 申し訳なさそうに受け取って、彼女は素直に受け取って口をつけた。蓋も手渡しておく。

 ここで変に遠慮したりはしないんだな。面倒がなくて良い。

 

「じゃあ、くれぐれも気を付けて」

「は、はい。ありがとうございました……」

 

 僕は彼女と反対の方向に歩き出す。初対面でこれ以上関わるのも不自然だろう。

 彼女が帰宅するまではこちらのある意味監視な目がついてくれているそうだから心配ない。

 一つ二つ仲間と事務連絡を取り合って、その日は解散した。

 

 そして次の日。

 

「お前、人タラシの素質ありそうだなあ」

 

 楽しそうに先輩が言った。やめてほしい。いや、潜入捜査官的には誉め言葉なんだろうか?

 

-----------------------------------

 

「きみはバカなの?」

 

 少し本気でそう言ってしまった。

 二日目は彼女が夜の街に現れることがなかったために、僕の出番はナシ。

 そして三日目。

 帰路、彼女は先日のようにふらふらしてはいなかったが、素でナンパ男に遭遇していた。またもこちらの偽装ナンパ男は必要がないらしい。

 ナンパ男は僕が声をかけるとそれだけで逃げていった。本当可愛らしいな。

 

「……え……? ええと……」

 

 彼女は本気で混乱して首をかしげている。

 僕は何度目かも分からない溜め息をついた。

 

「一昨日も絡まれてたよね?」

「……あ、もしかして、お茶をくださった……」

「それはいいよ」

 

 僕みたいな目立つ顔を覚えてなさそうってことは、やっぱり人の外見に興味がないタイプなんだろう。それを売りにしたような接し方をしなくてよかった。

 

「何であんなことがあったあともこんな時間に独りでうろついてるの? 危機感無さ過ぎ」

「……ごめんなさい」

 

 しおらしく謝るくらいならやめてほしいものだが。もしやめてくれたらその後の接触方法は、とぼんやり考えていると。

 

「でも、大丈夫です。……だれもこまらない」

「……は?」

 

 小さく小さくこぼされた声でも僕の耳が聞き逃すはずないだろう。聞こえると思ってなかったのか彼女は目を見開いて身を縮めた。

 

「な、何でもありません。ごめんなさい、助けてくださってありがとうございました……っ!」

 

 そう言って彼女は踵を返して走り去る。放っといて後日話を聞くことも考えられたが、僕はあえて追いかけて距離を詰めることにした。時間はそうないのだから。

 難なく腕を捕まえる。全然足も速くないし、本当、何にも身体を鍛えたりしていないらしい。

 

「……何か、訳があるの?」

 

 あれこれ思索しながら声をかける。

 

「っ、あなたには、関係ないです」

「あるね」

 

 こういうことにしよう。

 

「きみみたいなお綺麗な子が無防備にうろついてたら商売の邪魔なんだ」

「……!」

 

 これで、自分を助けてその上諭してくるような人間に対してでも、正義感の塊のような印象は薄れるはずだ。夜の街に僕がよくいることも不自然に思われなくなるだろう。

 

「……そ、そんな、変な格好してませんし……! 目を引くようなことは……!」

「その容姿で酒が飲めるようになってまで自覚ないの? 顔も良いし、細いのに出るとこ出てるし」

「!? か、身体の線分かるような服着たことありません!」

 

 顔を赤くして庇うように身を縮める彼女。こういう下世話なことを言っていったら、正義漢っぽさはなくなっていくだろう。

 

「そんなんじゃ誤魔化せないよ。分かったらもう独りで夜うろつくな。酒が好きなら家で飲め」

「……そんなことしたら、毎日毎日妙に飲み過ぎちゃうんです。加減が、できなくて」

「……アルコール依存症?」

「いえ、禁断症状とかはないから違うらしいです」

「そういうのを診てもらったことはあるんだね」

 

 いえ、調べました、と彼女は小さく首を振った。

 

「だから……外で飲むと、人目があるから……」

 

 何が『だから』かは知らないが、人目があれば自制が利くのか。

 

「……家にお酒は、置かないようにしています」

「……ふうん」

 

 彼女はどこか危うい。組織の人間と取り引きしようとしているのも、軽率なだけの結果なのかもしれない。ちょっと誘導すれば勢いで流されるタイプに見える。

 何にしろ反省する気がなさそうだ。

 

「そんなに夜飲みたいならウチで働く? 好きなだけ飲めるよ」

「っそれは……独りじゃないじゃないですか」

「独りに拘るの?」

「うるさいのは、苦手、です……」

「一緒に飲んでくれる友達いないの?」

「っっっ、わ、悪いですか……!」

 

 交友関係の乏しさについてはあがっていたが、改めて聞くと哀れになるな……。

 ハアァァ、と、僕は努めて大げさに溜め息をつく。彼女がまた身を縮めた。

 僕がスマホを取り出すと、彼女は怪訝そうに、あるいは不安そうに目で追っていた。

 

「……これ、俺の連絡先」

「え?」

 

 そう言って画面を彼女に向けると警戒と驚きの入り混じった目を向けられる。

 

「飲みたい時は連絡しなさい。俺は商売の邪魔者の監視ができる、きみは酒のストッパーと夜道の護衛を手に入れる。悪くないだろ?」

「で、でも……」

「じゃなきゃ見つけ次第交番に突き出すよ。たびたび深夜徘徊してるって」

 

 いつもいつもこんな0時付近になるのは遅くまで研究を続けているからなのだろうか。

 

「ッ?!」

「このままきみの家まで着いて行って、酒持って毎日上がり込んでもいいけど」

「だめです、いやです、交番もついてくるのもやめてください……! れ、連絡します、しますから……!」

 

 慌てた様子で彼女はスマホを取り出して『俺』の連絡先を登録し始める。やはり押しには弱そうだ。

 

「一回かけて」

「……はい……」

 

 彼女は素直にワンコール入れて即座に切った。仕草が怯えている。まあ流されているとはいえまだ警戒が解けるわけはない。

 

「きみの名前は?」

 

 彼女の番号を登録しながら既に知っている情報を聞く。

 

「櫛森汀、です」

「字は?」

「苗字は多分そのまま……はい、それです。みぎわ、は……はい、それです」

 

 打ち込みながら画面を見せると素直に伝えてくれた。……本当、ほいほい流されるなあ……。過去に散々嫌な目に遭ってるんじゃなかったか? いや、こんなだからずっと痛い目を見てるのか。

 

「じゃあ、きちんと連絡してね。時間は気にしなくていいよ。俺の仕事はこのあとだから」

「は、はい……」

 

 彼女が街に出る時間が早いことはまったくないのと絶対0時付近には帰る情報を知っているから言えることだが。

 思えばそういう時間帯だから先輩たちも比較的動きやすくて、厚いサポートを受けられているのかもしれない。僕も公安の研修を受けつつ進められている。そのあたりは最初の任務に適しているのかもしれないな。できすぎた偶然な気もするが。

 

「で、これからちゃんと自分で家に帰れそう?」

「か、帰ります! 自分で帰ります!!」

 

 慌てる彼女に思わず笑う。柔らかそうに笑っておこう。思惑通り少し彼女がはっとした気がした。警戒させてばかりじゃいけない。

 

「じゃあ、気を付けて」

 

 それだけ言って背を向けて僕は歩き去ろうとする。

 

「はい……あなたも、お気を付けて」

 

 彼女から聞こえたそれに、内心で驚く。気を付けてなんて僕に言った人は最近いただろうか。

 そんな小さな感情は押しのけて、僕はひらりと片手を振った。

 

 そして次の日。

 

「やっぱお前、素質どころか、天然人タラシだな」

 

 先輩は今日も楽しそうだった。解せぬ。

 

 

 

 数日で僕へのサポート体勢は軽くなっていった。信頼を得られているようで嬉しい。皆暇じゃないもんな。張り込みや尾行などは引き続き仲間任せのままだが。

 

「小さなことでも聞けよ、報告もだ」

 

 彼女と僕の様子をつきっきりで聞き取る態勢を解いた先輩は、相変わらず口を酸っぱくしてそう言ってくれる。

 彼女のことが終わればきっと僕は一人でできていなければいけなくなるだろう。今のうちに、聞けることを聞いておきたいのは僕もだ。

 

「はい! よろしくお願いします!」

 

 真剣に頷く僕に、先輩はにかっと笑った。

 

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 彼女は本当にきちんと素直に僕に連絡をくれるようになった。ほぼ毎日。こんな制限をかけられたら普通は頻度が下がるものじゃないのか?

 そんな彼女に思うところは多々あったが、そこはもう置いておくことにする。

 

「……あなたと飲むと本当にちょうどいいくらいで終われます。ありがとうございます」

「……」

 

 そんな妙な信頼をもらったらしい。

 

 彼女が好きなのはお洒落そうなカクテル系だった。酎ハイや焼酎、日本酒、ワインなども飲むらしいが、ビールは苦手だという。

 同期たちと飲むときはビール中心だったから、彼女の付き合いで飲む時間は少し新鮮だった。

 

 酒を飲むのは好きだがあまり知識はないという彼女に、既に知っていたことを含め話のネタとして色々更に調べたことを語ると、原料や成分の話には興味を持つらしかった。情報がほしいとかどうこうではなく、単純にそうした方面に知識欲が向くらしい。この性質(タチ)が今の研究へと結び付いたのかもしれない。防犯用ならシステムやグッズ開発にいきそうなものをと思ったが、このあたりのことがあるんだろう。できる範囲で、何かやろうとした。身を守るために身体を鍛えるという発想にいかなかったのも、興味がなかったからだろう。

 

 困ったのは自身の研究についてまったく触れようとしてくれないことだった。そこは流されないのはさすがと言うべきなのか。多少の警戒はまだみえるとはいえ、自惚れではなく客観的に随分親密な雰囲気には持ってこれている。彼女の監視役をしてくれている仲間が生ぬるく微笑んでいたくらいだ。

 

 それでも、彼女の口から薬学科の研究員だということを引き出した時には、接触してから既に一週間ほどが経っていた。それだけですらだ、思った以上に堅実だ。

 

「……いいかげん、奢ろうとするのはやめてください」

「だってきみ、学生だろう?」

 

 そうでないと知ってはいるが、真実を明かさないわけにいかない状況に持っていける可能性を想定して。

 

「違います。ちゃんと働いています。社会人です」

「本当か? 歳は?」

「に、にじゅう、よん……」

「……本当に?」

 

 僕がにこにこしながら圧をかけるのを躱せる人間なんてそういない。アイツらか鬼教官たちくらいだ。

 

「に、二十一です……」

「……本当か? 免許証を見せなさい。下手したら未成年飲酒で交番だ」

「酷いです! 私はちゃんと成人しています!」

「……免許証」

「……っ」

 

 彼女はしぶしぶといった様子でカバンから免許証を取り出した。

 

「……これは……イギリス発行の国際免許証か。二十一というのは嘘じゃないんだね。けど、どうしてこんなものを?」

「留学、していたんです。期限までには日本で切り替え手続きをします……まだ、先なので」

「飲み歩いてる暇ある?」

「そ、それくらいは……!」

「まだ先とか言ってないで早めにやりなさい」

「……うぅ……」

「本当、子どもみたい」

「子どもじゃないです」

「俺から見たら子どもだよ」

「……っ! あなただって私と同じくらいでしょう? むしろあなたこそ未成年って言われても……」

 

 お前も地雷を踏んだな。でもまあ、熱くなる程じゃない。僕は大人だからな。

 

「……何歳に見える?」

 

 にこっと微笑んでみせる。

 彼女は少しだけ顔をしかめた。

 

「…………あてつけで十六歳とか言ってみたいですが、それくらいの子は鍛えてもあんまり太くなれない気がします。それに、あなたからは成人してる人たちと同様の雰囲気を感じます」

 

 僕は笑みを深めた。成人に見えるという断言ではあっても一言余計だ。

 

「ホォー……十六、ね……」

 

 彼女はびくりと怯えた。逃げられないように腕を掴む。やんわりとにしかならないように注意して。骨ばってはいなくとも本当に細くて、今にも折れそうだ。

 

「……二十一ってことはやっぱり学生じゃないか。大人しく……」

「が、学生じゃないです! 飛び級、ってやつです、もう卒業してて……」

 

 既に知っている情報ではあれど、やっと自分の素性を話し始めた。このまま押し流せるか。

 

「してて? で?」

「そ、その笑顔、怖い、です……」

「で?」

「だ、大学で、研究員をしています」

「証拠は?」

「しょ、証……っ」

「ニュースで見たことあるけど、大学にも社員証みたいなのがあるんだろう? 役所の人が首から下げてるみたいな」

 

 あんまりよく知らないけど知ってるぞ感を出されると誤魔化し難いんだよな。

 

「……!」

 

 彼女は眉根を寄せて困り顔をした。あるのを知られてるなら、ってところだろう。チョロい。大丈夫か。大丈夫じゃないからこんなことになってるか。

 

 彼女はまたおずおずとカバンからIDカードを取り出した。それを受け取って眺める素振りをする。

 

「ふうん。本当に『学生証』ではないね。まあ、きみが社会人だってことは分かったけど……」

 

 そう言って彼女にIDカードを返すと、僕は『俺』の免許証をすっと彼女に示した。

 

「年下だから、大人しく奢られてなさい」

「嫌です! 二個しか違わないじゃないですか! あっちがう、私誕生日まだだから一個しか」

「どっちにしろ年下だ。それに、分担すると支払いが面倒だ」

「私が払います!」

「それはムカつく」

「ええ……!? 世間ではこう、奢ってもらって当然という女性をこきおろす風潮がですね……! 私の名誉が……!」

「誰に対して惜しむの? その名誉」

「ウッ……!」

 

 友達いないんだもんな。可哀想だな。

 

「奢られたくないから、もう連絡しません」

「交番に突き出されたい? 家まで追いかけられたい?」

「っっっもううううっ、なんですかその頑固さと極端さっ」

「俺には名誉を惜しみたい友達がいっぱいいるんだ。観念して諦めて」

 

 経費で落としたりしないからいいだろ。僕の意地みたいなものだ。面倒なのも本当。

 

「……きみと話すのはなかなか楽しいんだよ。これでもね」

 

 酒の話とかは楽しかったからな。

 彼女は少し面食らったような顔をした。本当、このへんはチョロいんだよな……。

 

「ひとことよけいです」

「ふふっ……それに、薬の研究員とかしてるなら、もっと難しい話題にしても平気だろう?」

「……難しい話題?」

「きみと酒の話をするのは楽しい。そのうちカクテル作りの良い案が出てきそうじゃないか。成分とかまで考えての、さ」

「……お仕事に必要な協力でしたら、お金を取らなきゃいけなくなりますよ」

 

 それを奢るだの奢られるだのに当てた気分になってくれればいいんだが、彼女もたいがい頑固だしそう甘くはいかないんだろう。だから、話題に出ただけのことにする。

 

「まさか、趣味だよ。ウチの店で重要なのは味だのなんだのじゃなく、雰囲気と値段だからね」

「……い、嫌なことを聞いた気がします……」

 

 はったりだけど。そもそも『ウチの店』なんてない。そんな横柄な店がそうあるとも思わない。だが興味がないのかどこの店かなんて彼女が聞いてきたことはない。探られそうなそぶりさえない。きっとこれからもないんだろう。

 

-----------------------------------

 

 あれ以降、あれこれとカクテルについて語り合っているうちに、何気ない接触では妙にびっくりされないようになっていった。ただし意図的に手を伸ばしかけると未だに避けられる。そして相変わらず彼女の研究については少しも触れさせてくれない。ストレートに聞いても、探ってみても、だめだった。

 

 アルコールその他さまざまな成分の話をしていると、多少食い込めそうにはなるのだが、うまく躱されてしまう。

 

「……なかなか気を許してもらえません。面目ありません」

 

 人心なんてそう転がせるものじゃない。相性なんかも考えればなおさら確実なことはない。とはいえ、焦りが無いと言えば嘘になる。……が。

 

「お前は根っから良い奴だからな。むしろ彼女は絆されてるんじゃないかと感じた」

 

 相談した先輩から返ってきたのは意外な言葉だった。

 今でもまだ、たまに先輩が監視をしていることもあるらしい。

 

「……え?」

「彼女も危ない橋を渡っている自覚はあるんだろう。だから、よく知らない他人には素性すら明かさないし、多少近づいた相手には……危険が及ばないよう、滅多なことを語らない。そういう類の人間と見える」

 

 僕は目を丸くする。

 

「ぽやぽやしているようでいて、一番厄介な相手だな」

「ぽやぽや……」

 

 ふっと先輩は笑った。

 

「様子を見ていて本気で願ったよ。彼女が自ら進んで組織に協力しているわけじゃないことをな」

「……」

 

 そう、それすらまだ、分からないんだ。

 先輩がすっと真剣な顔をする。

 

「降谷……彼女の取り引き相手とおぼしき男が、再び米花町に入ったそうだ」

 

 僕は絶句した。ひらりと先輩が一枚の捜査資料を渡してくれる。そこには彼女の時の資料と同じ程度の、一人の男の情報が詰まっていた。目つきの悪い黒服の、目線の合わない顔写真が貼り付けられている。

 そして先輩は何かを机に置いた。成分表のようなものも添えられていて内心少し穏やかじゃなくなる。

 

「彼女とお前の優しさは本件の上では相性が悪い。すべて終わった後に嫌われる覚悟があるなら早々に一線を越えろ。……勧めたのは俺だ(・・・・・・・)

「……!」

「他に手がありそうなら頑張ってみろ。……嫌われるのはな、どんな奴でも案外(こた)える。そういうのは自分のためにも、相手のためにも、極力排除しなきゃならない。そして公安だからってバンバン違法行為をしろなんてことはない。だが、時間がない。最悪彼女の技術は組織に流れ、そして彼女も死ぬ」

「……」

「……ああいう人は、少し近づいたどころじゃなく恋人くらいになれば、頼って全部話してくれるかもしれない。……だが忘れるな。お前が惚れるなよ」

「その点は問題ありませんよ」

 

 僕はふっと笑う。

 

「公私混同はしない主義なんです」

 

 先輩は、少しの嘆息を混ぜながら苦笑した。

 

「公僕の鑑か。まったく、頼も(おそろ)しい後輩だよ」

 

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『勧めたのは俺だ』か。

 新人の後押しとしては間違っていないんだろう。一歩踏み出す切っ掛けがつかめないことなんて誰にでもある。ましてや今回、時間が無さ過ぎた。

 

 変装していて、恐らく名も偽りのものだ。けれどそんな『先輩』を恨みの対象にできる隙を作ってもらってしまった。

 

(僕もまだまだだな)

 

 新人が何を、だが、配属されたらもう僕たちはプロなんだ。

 

 そんな遣る瀬無さをひとまず置いておき、僕は渡されたモノを眺める。

 成分表からすれば、きっと一時的にぼうっとして、動けなくなる。言い合いの負担をすっとばしてしまえるモノ。後遺症や依存性は確認されていないとある。一応の確認で少し舐めた程度の僕にはなんともなかった。

 

 まったく恐ろしい。こちらはある程度の服用量が要るとはいえ、彼女をとやかく言えないだろう。

 しかし、世に出そうとする危険を考えられなかった、あるいは考えないようにしたかもしれない分は、彼女に責があるのかもしれない。




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この教育係さんの中身は実はころころ替わってるという設定です。
先輩たちは先輩たちで変装技術や情報共有の効率化、他人を演じる腕、等を磨いてる。
だから降谷さんはその力量や熱意を無意識に感じ取って『この人なら』と思ったのかもしれません。
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