昼間は功夫教室をやっている広場に夜になった今ではストリートファイトに興じる人たちがたむろしている。それを横目に吊り灯籠がぼんやりと煌めくビルの一角を見上げるとストリートファッションに身を包んだ腰まで垂れる辮髪の人が頬杖をついて町を眺めているのが見えた。こちらに気づいてひらひらと手を振るのを、内心どきりとしながらもなんでもないような顔をして見つめ返す。
彼は名をジェイミーと言う。ジェイミーさんとの最初の出会いは夜食を買いにチャイナタウンをひとりでうろついていたとき。ジェイミーさんは私のことを夜道を一人歩きしているかよわい女の子と思って声を掛けようとしてくれたのだけど、そうとは知らない私はナンパな黄巾族かと勘違いをして寸剄を繰り出し、急いでその場を離れてしまった。寸剄を受け止めたのがジェイミーさんと知ったのは随分と後のこと。片やジェイミーさんはそれで私のことを認識したらしい。
二度目は私がマッドギアに呼ばれてほいほいついて行ったのをマッドギアによる誘拐と思われて春麗大姐やみんなに心配をかけた事件のあと、姐姐にしこたま怒られてケンカして家を飛び出したとき。姐姐と顔を合わせたくなくて行き場のない一人歩きをしていて、夜道で声をかけられたのが始まりだった。
「おいお嬢さん。こんな時間にウロウロしてちゃ危ないぜ、って」
このときもナンパな黄巾族かと思って振り返りざまに裏拳を繰り出そうとしたけれど、そうする前に声の主は私の手首を掴んでそれを止めた。思わぬ速さに視線を上げた先には腰辺りまで垂れる辮髪のへそ出しルックな中国系のお兄さんがいた。目元の鮮やかな紅色が印象深いその人は私を見て驚いた顔をしている。
「アンタ、……もしかして春麗さんとこのリーフェン、だったか?」
「あなた誰?なんで私のこと知ってるの?」
咄嗟に距離を取って構えるけれどお兄さんは両手を上げて闘う気のないことを示した。
「この街で暮らしてりゃ、春麗さんのことは誰でも知ってるだろ。その妹分なアンタのこともおんなじぐらい有名なんだよ」
「……そっか。そうなっちゃうんだ」
構えを解くとお兄さんはほっと息をついて腰に掛けた瓢箪に手を触れた。触るのが癖なのだろうか。
「あー、話は戻るけど、こんな時間にウロウロしてちゃ春麗さんも心配するんじゃねぇの?」
問われてさっきまでの姐姐との舌戦の数々を思い出して苛立ちがぶり返してくる。
「……姐姐とは今絶賛ケンカ中なの」
「あっ、そう。もしかしなくても、マッドギアのアレか」
「それも知られてるんだ」
「そりゃそうだろ。功夫習ってるやつらも飯店の店員もみんなすげぇ心配してたって聞いてるぜ。アンタが帰ってきたこと、知らねえやつらもいるんじゃないか?」
姐姐からのお説教でもみんなが心配してたとは聞いていたけど、見ず知らずの人にまでそう言われるとわざとマッドギアに捕まったことがけっこう、いやかなり軽率だったと思えてきた。姐姐からの言葉の端々がチクチクと心を突いてくる。
「おっ、ケンカ中の説教が今ごろ効いてきたって感じか」
「……なんでわかるの」
「俺も昔は無鉄砲なクソガキだったからな。そういうのは身に覚えがありまくるってやつよ」
腕組みをしてこころなしか鼻を高くするお兄さん。なんだか小さい頃をたやすく想像できてしまう。
「……じゃあ、自分が悪いって思ってるのにまだ帰りたくないっていうのも、わかる?」
「ああ、わかるよ。気持ちの折り合いがつかないってやつな」
「そういうとき、お兄さんはどうしてた?」
「そうだな……」
言ってお兄さんはビルを見上げる。視線の先にあるチャイナタウンの空はせり出した看板や灯籠がごみごみとひしめき合っていて狭く感じる。
「ついてきな。いいもん見せてやるよ」
歩き出したお兄さんはニッと笑ってみせる。少し迷ったけれどまだ帰りたいとも思えなかったし、付いて行くことにした。
向かった先にはハシゴ、そして階段。普段行かないようなところを通って登って、やがて辿り着いたのはビルの屋上だった。
「わぁ……!」
先ほどまで見上げていた看板や灯籠のぼんやりした明かりは眼下にあり、大きな中華街門も間近に迫っている。それらが邪魔をしていない空は広々として大きく、高いところには月が青白く輝いていた。
「俺がガキの頃はふて腐れたいときは眺めのいい場所で気を紛らわせたもんさ。そうすると、なんでか落ち着いてきて自分の本当にやりたいことなんかがわかってくる」
転がっていたベンチを足先で器用に起こしたお兄さんに席を促されて座ると、次にお兄さんは脇に抱えた紙袋からおまんじゅうを取り出した。ビルに登る前に寄った屋台で買ったもので、まだあたたかそうな湯気が出ている。
「んで、そこに美味いものがあればなおよし、ってな」
半分に割ったおまんじゅうのどちらがいいかを尋ねられて、間髪入れずに大きい方!と指差したら笑いを噛み殺しながら渡されてとても恥ずかしかった。
「うん、うんめぇ」
「買ったことないとこのやつだけど、おいしい」
ふかふかの生地の中に具がみっちり入ったおまんじゅうをふたりともしばらく無言になって味わう。ちゃぽ、と液体の揺れる音が聴こえて目をやると、お兄さんは腰に掛けていた瓢箪の中身を煽っていた。
「それ、お酒?」
「んん、まぁ……そんなとこだな。どうだ?帰って春麗さんと顔合わせる気分になってきたか?」
「……もうちょっとってとこかな」
「そうかい。ま、気の済むまでいるといい」
お兄さんはまた瓢箪を煽ると月を見上げた。同じように空を見上げているとチャイナタウンの喧騒がなんだか遠くに感じられて、いつもの街がいつもの街じゃないみたいに思えてくる。ぼんやりした気分で姐姐から言われたことのひとつひとつを思い出していると、どれも私の身を案じてのことだったとわかって申し訳ない気持ちになってきた。……私、ちゃんと謝らないといけないな。今も姐姐はおそらく心配しながら私の帰りを待っているだろうから。
何を言うでもなく傍にいてくれたお兄さんにおずおずと声を掛ける。
「……お兄さん、私やっぱり帰るね」
「おう。寂しくなってきちゃったか」
「それもわかっちゃうんだ」
「まぁな」
心の内を言い当てられて照れ笑いの私とお兄さんは笑い合いながらビルのふもとまで一緒に降りる。お兄さんの足取りがお酒のせいかなんだか陽気にふらふらしてるのがちょっと危なっかしい。
「そういえば、お兄さんの名前聞いてなかった」
階段の踊り場あたりで振り返って尋ねると、お兄さんは自分を親指でビッと指して名乗った。
「俺はジェイミー。ジェイミー・ショウだ。よろしくな、リーフェンちゃん」
「ジェイミーさん、今日はいろいろありがと。おまんじゅうも、ごちそうになっちゃった」
ポシェットからお金を、と探ろうとしたのをジェイミーさんの手が私の探る手ごと掴んで止めた。掴んだ手からジェイミーさんの顔へと視線を巡らせて、さっきよりずいぶん距離が近いと感じる。呼気に混じるお酒のような薬草のような香りはまるで私の周りにも漂っているかのようだった。
「お代は結構。それよりもだ」
ジェイミーさんが自分の頬を指してトントンと指先で叩いた。暗に頬にキスしろと示している仕草に戸惑いの声をあげてもそんなの恥ずかしくて無理だよと言ってみてもジェイミーさんは姿勢を崩さない。お酒が入ると人が変わっちゃうタイプなんだろうか。けどお世話になったのは確かだし、ほっぺにチューぐらいならやってもいい、かな?という気持ちにだんだんとなってくる。
「……わかった。けど目、瞑っててよね」
「オッケー」
こころなしかニヤニヤするジェイミーさんは目を瞑り、ちょっと屈んで私を待っている。少しの逡巡の後にジェイミーさんの肩にそっと手を置いて深呼吸。それからギュッと目を瞑って顔を近づけた。ほんのりとおしろいの匂い、それから花みたいな香水のいい匂いがして、唇に柔らかいものが当たった。なんだかちょっとお酒くさい。それにしてもほっぺたって柔らかいんだ、と薄目を開けて様子を伺うと、ジェイミーさんがこちらを向いていて、視線に気づくとニッと笑った。じゃあ、さっき唇に触れたのはもしかして。
「えっ!うそ!やだ!なんで!」
「お代は確かに。饅頭より良いもん貰っちまったな」
唇の前に人差し指を立てて笑うジェイミーさんに私は思わず蹴りを見舞っていた。けれどふらふらとした酔っぱらいとしか思えない足運びのジェイミーさんにはなぜだか全然当たらない。
「バカ!ジェイミーさんのスケベ!……バカ!」
「あっはは!悪口のバリエーション少ないな!いい子ちゃんでかわいいねぇ」
近づいてこようとするジェイミーさんから全力で距離を取って走って振り返ると、地上から二階辺りを見上げる形になった。
「もうあんまり夜道をウロウロするんじゃねーぞ!次会ったらチューぐらいじゃ済まさなくしてやるからな!」
「〜〜バカっ!」
心臓がかつてない早鐘を打っている。思い返せるのは微かなお酒の香りと、薄目を開けてみたあとのきれいな顔、そしてその後の満面の笑み。恥ずかしさに振り返ることもできず、自分の身に湧く未知の感覚に戸惑いながら私はその場を駆け出していた。
それから姐姐の待つ家に帰ったはずだったけど、ちゃんと謝ったのかどうだったか判然としない。しばらくうわの空だったりシャオピンをあまり食べなくなったりとマッドギアのときとは別な方向でみんなから心配されたりもしたけれど、それはまた別の話。
ジェイミーさんとの二度目の夜の遭遇を思い出しながら今の私は吊り灯籠がぼんやりと煌めくビルの一角を見上げている。相変わらず夜道の一人歩きをしている私に向けて頬杖をつくジェイミーさんは意味ありげに唇を尖らせて微笑んでいる。それに対して小指で口の両端を引っ張り上げてみせると遠くからでもジェイミーさんが大笑いしているのがわかった。
「チューぐらいじゃ済まさないって言ってたくせに」
だから今夜の遭遇はそれでおしまいにする。ジェイミーさんが声を掛けてこないなら、私も屋上に向かわない。屋上に行きたい気持ちがなくはないのだけれど、なんだか妙に意地を張って足を飯店がある方向へと向かわせる。
「でも、いつか声を掛けられたらどうしよう。……いつか、私から屋上に行ったら、」
意識した途端に胸に鳴る鼓動がうるさい。飯店に近い路地からはジェイミーさんのいるところは見えない。それなのに私はチャイナタウンの狭い空をまた見上げていた。