未成年による喫煙は法律により固く禁じられています。
また喫煙は貴方の、ひいては貴方の周囲の健康を害する可能性があります。

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未成年の喫煙は法律により固く禁じられています


先生も煙草を吸う

 学園を出る頃には零時を大きく過ぎていた。

天心を少し外れたところに、端が少し欠けた、不出来な円月が浮かんでいる。事務処理が思いのほか長引き、気付けばこんな時間になっていた。終電の時間は既に過ぎている。家に帰るには、何処かでタクシーをつかまえなければならない。

 とりあえず駅に向かい、歩を進める。学園前の大通りを道なりに歩いていけば駅に着く。通りすがる人はほとんどおらず、時折ヘッドライトを煌々と光らせる車が猛スピードで隣を走り去って行くぐらいで、あたりは夜の静けさに包まれていた。夜風が吹き過ぎては、街路樹がカサカサと鳴る。

 しばらく歩くと、シャッターの下ろされた建物の軒先に、数人の生徒がたむろしているのが目に入った。その建物は年中シャッターが閉じられていて、その上から何かの張り紙が張られていたり、カラースプレーの落書きがされていたりする。そんな場所だから昼間はないにしても、夜になると不良生徒の溜まり場になっている。

 目の前の不良生徒たちは静かに何かを話している様子だったが、こちらに気が付くと、水を打ったようにピシャリと会話を止め、代わりに刺すような視線をこちらに送り始めた。素知らぬ顔で通り過ぎると、舌打ちに始まり、再び、背中からコソコソと話し声が聞こえる。

 家に帰ったら、晩ごはんは(まあ、もういいだろう)、シャワーを浴びて、髪を乾かして、歯磨きをして、そして泥のように寝る。少しの工程でも、寝るまでにしなければならない事を考えるだけで面倒だった。心身は既に疲弊しきっている。

 そんな事を考えながら歩いていると、駅と学園のちょうど真ん中に位置するコンビニに差し掛かった。街が寝静まる中、ひとり誘蛾灯のように白々と光を放っている。コンビニ弁当で晩ご飯を済ますのも悪くないかもしれない、とコンビニに視線を移すと、店先に設置されたスタンド灰皿、その傍に佇む人影が目に入った。

 人影に目を凝らす。

うっすらと見える見覚えのある顔、服装、立ち姿。それは間違いなく先生だった。軽く身だしなみを整えて、先生の方へ歩き出す。近くなるにつれて先生の姿がはっきりと確認できるようになる。先生の指には一本の煙草が挟まれていた。

 先生は遠くを見つめて、思い出したかのように煙草をくゆらせる。

 先生は、そういう事はしない人だと思っていた。そういう事、我ながら曖昧な言葉だと思った。先生は心身ともに成熟した大人で、一緒にいると私の幼稚さが浮き上がってしまうようで、それでも時おり子供らしいところを見せる人だ。それに生徒の頭を急に嗅ぎ始める、そんな残念なところもある。

 けれども、煙草が必要な、そういう意味での残念な大人だとは思っていなかった。煙草が必要な大人、適当に言葉を宛てがってみたものの、それが何なのかは自分でも分からない。

 それでも、期待を裏切られたような感覚とはまた違う、当て嵌まると思っていたパズルのピースが嵌らなかったような、妙な驚きと居心地の悪さが感じられた。

 もう数歩先まで近づいた時に、ようやく先生はこちらに気が付いた。先生は少し驚いたような顔を見せ、そしてきまり悪そうにはにかんで笑った。目じりに皺が寄る。目の下にはうっすらと隈が浮き出ていた。

「こんばんは、ヒナ」

「こんばんは、先生」

「珍しいね、こんな時間に先生がゲヘナにいるなんて」

「仕事で用があってね。ヒナは今、帰りか。お疲れ様」先生こそ。

自然と視線が先生の手元に向かう。

先生の手の中でそれは、灰がかった先端からじりじりと白い煙を上らせている。

 視線を察したのか、先生は吸いかけの煙草を灰皿に放り捨てた。

「終電、もう出ちゃってるよね。良ければ送るよ」

そう言うと、先生は私の背後を顎で指した。

振り返ると、そこには白のセダン車が停まっていた。

「先生、車運転できたんだ」

「使う機会は少ないけど、一応はね」

じゃあ、お願いと返すと、先生は了解、とだけ返事をして車の方へ歩き始めた。先生が運転席に座り、エンジンをかける。後を追って私も助手席に乗り、シートベルトを締める。車内にはわずかに煙草の臭いが漂っていた。

 時を置かずに先生が車の窓を下ろす。車内に籠った空気がほの冷たい夜気に入れ換わる。

「ごめん、少し煙草臭いかも」

すんすんと臭いを嗅いでみるも、外から入ってきた空気に流されて、煙の臭いはすっかり無くなっていた。大丈夫と返すと、先生は、なら良かったと呟いた。

 駐車場から出た車が、駅に向かう道路を走り始める。先生はアクセルペダルを勢いよく踏み、徐々に車のスピードを上げていった。道路の照明灯の光が前から後ろへ次々と流れていく。

 先生は何を話すでもなくハンドルを固く握り、真っすぐと前を見据えていた。駅に近づくにつれ、街の明かりも人通りも増えてくる。それでも街は静まり返ったままだった。車内には夜の気配が流れていた。

「先生、煙草吸うのね」

 先生と煙草、不相応の組み合わせだと思っていた分、先ほどの光景に密かに興味がわいていた。特にその始まりに惹かれた。先生はいつどうして煙草を吸い始めたのだろうか。そこには先生の秘密が隠れているような、そんな気がした。

「うん、ちょっとね」

意外だった?と先生が付け加える。うん、と返すと、先生はみんなには内緒だよ、と言った。横を見ると、先生は前をしっかりと見据えたまま、小さく口元に笑みを浮かべていた。

「先生は、いつ煙草を吸い始めたの?」

そんな事聞きたいの?うん。

「あー、初めて吸ったのは大学に入りたての頃だったかな」

「好きになった先輩がいてね。綺麗な肌をした、一人が似合う大人な人だったなあ」

「その人が喫煙者でね。どうにか近づきたくて私も吸い始めたんだ」

 先生は私よりもうんと長く生きていて、恋の一つや二つ、或いはそれ以上を経験していても何もおかしくない。けれども、私の知る先生は、どこか子供っぽいところがあって、それでもやはり大人の余裕を残す人だ。惚れられるならともかく、そんな人が煙草に手を付けてまで恋に必死になる姿が全くといって想像できなかった。先生が恋した人は、先生にとって、どれほど素敵な人だったのだろうか。

「あ、でもその人の前だけで、それ以外はほとんど吸わなかったんだよ?」

先生が弁明するように付け加える。

「3年に上がる頃にはもうきっぱりと吸わなくなっていたな」

「いつも思ってた。どうしてあの人はこんな不味いものを進んで吸うんだろうって」

「それでも、社会人になってしばらくして、改めて吸い始めた」

 不味いと思っていた物をわざわざ改めて始めるものなのだろうか。先生が好きだった人がそうだったように、先生も煙草が必要になったのだろうか。思えば、私は先生の過去について何も知らない。先生の過去、そこには今から私がいくら推し量ろうにも疎かになってしまう、そんな私の知らない先生がいるような気がした。

「幻滅した?」

先生はごく平坦な口調で尋ねた。先生の顔を窺う。

先生は無表情で依然として真っすぐと前を見つめていた。

「多分、してない」

「何だか上手く言えないけど、これも先生なのかなって」

 へえ、と先生が驚いたような声を出す。

多分、私は先生の事を分かった気になっていた。先生と接して、先生の先生らしさが分かってきてそれで満足していた。けれども、それは先生という人間の一面でしかなくって、きっと私の知らないところに私の知らない先生がたくさんいる。それなら、煙草を吸う先生、これも先生なのだろう。

「でも、やっぱり健康に悪いから、程々にお願い」

 善処します、と先生は困ったように笑って言った。

私の知らない先生。今日はたまたま見られたが、次はいつ見られるか。

先生も煙草を吸う。その言葉が今はもう少し、先生に似合うような気がした。


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