未来へ響け! 北宇治高校吹奏楽部   作:大好きのハグ

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9話 さよならトロンボーン

「俺、やっぱ東京行くの止めるわ」

「え……」

 

 東京に行く秀一を彼女として応援する。

 私の決めた結論は、言葉にする前に散ってしまった。

 

「なんで」

「なんでって、久美子が京都にいるのに東京には行けないだろ」

「やりたいことがあったんじゃ」

「あったけど、まだ就職が決まったわけじゃないし、やってみて違ったって思うかもしれないし」

「それならやってみたほうが」

「お前は、反対なんだろ」

「…………」

 

 答えにくい質問に、とっさに口から何かを音として発することができなかった。

 東京に行く秀一を応援する。

 そう決めたばかりだけど、それは秀一が東京に行くのであればという前提であって、東京に行くことに対して賛成か反対かでいえば、どう答えたらいいのかが分からなくなってしまった。

 落ちつけ。どうにか回っていない脳に酸素を取り込むべく、深い呼吸を繰り返す。

 

「……秀一は、私が反対したらやめるわけ」

 

 自分でもゾクッとするほど低い声が出た。

 

「……そう言ってる」

「東京でやりたかったことって、その程度なの?」

「違う。でも、そういうことじゃないっていうか……どっちが大事か前に訊いただろ」

 

 仕事と私のどっちが大事なの。売り言葉に買い言葉でぶつけたその言葉だろう。

 秀一は、自分の胸を右手で押さえて、大きく息を吐いた。

 

「俺にとっては、お前の方が大事だから」

「そっか……ありがとう」

 

 質問をぶつけたときに、聞きたかった言葉だ。

 あのタイミングで聞けていたら、どれほど心が躍っただろうか。

 秀一の言葉は、感情としては嬉しかった。でも、冷静になった私の理性が、それは違うよ、と警鐘を鳴らし続けている。

 

 私は、秀一よりも北宇治、仕事を選ぶことに決めた。

 秀一は、仕事よりも私の方が大事だと言っている。

 それは、私の望むことだったはずなのに、このアンバランスな歪さが、望んでいいこととは思えなくなってしまっていた。

 秀一は、私のためを思って言ってくれている。

 真剣な表情が痛いほどそれを私に伝えている。

 その眼差しが、あとは私が頷けば、私の幸せが約束されていることを訴えている。

 

 最高の彼氏である秀一。

 このまま離れることなく京都で付き合い続けていけば、遠くない未来に結婚するんだろうな、と前よりも実感させるものがあった。

 それはどうしようもなく甘美な、私にとって優しい世界。

 

「すごく嬉しい」

「久美子」

 

 どこか犬を連想させる嬉しそうな表情はやめて欲しい。

 私の中で一番好きな表情だ。

 秀一はこれだけ私のことを考えてくれているのに、分かりあえていたはずなのに、私と秀一の気持ちは一致しなかった。

 近くにいるのに遠く感じてしまう。

 身体が熱いのに、思考が冷めていく。

 

「でも、ごめんね。私は、秀一の気持ちに応えられない」

「は?」

「秀一は、秀一のやりたいことをやって欲しい」

「お前が嫌だって」

「嫌だけど、それでも秀一は秀一のやりたいことをやらなきゃダメだと思う」

「なんでだよ」

 

 秀一の表情が歪む。彼の瞳が大きく揺れたのが見えた。

 彼の優しさを私が壊してしまった。

 自分で切り捨てておきながら、胸が苦しくて痛い。

 見ていられず、視線を逸らしたかったけど、じっと秀一の姿を、自分が傷つけてしまった相手を視界におさめ続けた。

 

「ねえ、秀一」

「…………」

「秀一は、ずっと我慢し続けるの?」

「…………」

 

 私は、秀一に対してずっと聞けなかった、後ろめたいことがあった。

 それを聞くと関係が終わってしまうような気がして、気づかなかった振りをし続けていた。

 私が飲み込み続けていた言葉。

 

 秀一は、本当はもっといい大学に進めたんじゃないかってものだ。

 

 秀一の当初の本命は、大阪の私立大だと聞いていた。

 だから、一緒に居られるのは、高校までで大学からは会いにくくなることを覚悟していた。

 それから、私の進路が決まった後で、秀一の本命が私の選んだ大学近くの国立大へと変わり、三年の二学期に入ってから進路変更という相当な無茶を乗り越えて、合格をもぎ取ってしまった。

 秀一が滑り止めに受けた私立大も、私の大学からそう遠くない立地だった。

 

 どちらに通うことになっても、私と一緒に途中まで通えて、同じサークルに入れるような大学だった。

 

 繰り返しになるけど、秀一が北宇治を選んだのは、私の勘違いでなければ、私が北宇治を選んだからだ。

 だとすれば、大学を選ぶ際にも、同じように私が選んだ大学の近くだからというのが大きな割合を占めていたと考えるのは、自意識過剰だろうか。

 

 最初から希望していた私立大に専念していれば、もっとレベルの高い大学に進むという進路もあったのかもしれない。

 一年の頃から吹奏楽部と並行して塾通いを頑張っていたのを知っているだけに、その成果が私のために歪められたのだとしたら辛い。

 

「べつに我慢なんかしてねえし」

「じゃあ、なんで東京で働きたいって言ったの」

「それは……」

「秀一がやりたいことがあって東京に行きたいのなら、東京に行った方がいいと思う」

「でも……」

 

 秀一は何かを訴えるような目で見てきたけど、私の言葉を否定はしなかった。

 私の考え通り秀一がやりたいことは、東京にあるというのは正解みたいだ。

 

 だとすれば、私はその背中を押さなければならない。

 たとえそれが私にとっての辛い結末だったとしても。

 

「だから違う」

「違わないし」

「違うんだって」

「違わないでしょ」

「東京に行ってやりたいことがあったのは本当。でも、俺はそれよりもお前と一緒にいたい」

 

 私の両肩に秀一の指が食い込む。

 正面からぶつけられた感情に、秀一の熱意に、思わず抱き返したくなって両腕を伸ばした。

 が、ギリギリのところで踏みとどまり、自身の両肩を掴む彼の両手を叩くにとどめる。

 

「痛いよ」

「わ、悪い」

 

 秀一の手が私の肩から外れて離れた。

 秀一の手だ。私を近くでずっと支え続けてくれた大きな手だ。

 それを私は、自分から離れさせてしまった。

 

「あのさ、秀一。私は秀一のことが好き」

「だったら」

「好きだけど、秀一よりも北宇治の方が好き」

「…………ッ」

「私は秀一よりも吹奏楽部のことを優先すると思う。そんな女に、秀一が合わせる必要ないよ」

「俺の気持ちはどうなるんだよ」

「秀一の気持ちは嬉しいよ。でも、私のことを優先されても私は秀一に返すことはできない。だから、別れないとダメだと思う」

「なんでそうなるんだよ」

 

 秀一も私よりもやりたいことを優先させてくれれば良かったのに。

 そうしてくれれば、私は私でやりたいことを優先して、かつ、秀一の恋人でいられた。

 でも、それは秀一には言えない。

 もし言ってしまうと、秀一は私に言われたことによってやりたいことを優先するって言い出しかねない。それだと結局、私のことを優先しているだけで何も変わらなくなってしまう。

 

「私がわがままだから」

「なんだよ、それ」

 

 ここが分水嶺だ。

 これ以上ズルズルといってしまうと、秀一はずっと私に都合のいい存在であり続けてしまう。

 私はずっと秀一の優しさに甘え続けてしまう。

 それはきっと、どちらのためにもならない。

 終わらせよう。

 

「ありがとう秀一。ずっと楽しかった」

「終わりみたいに言うなよ」

「終わりだから。私と秀一が恋人だったのは今日までで、これでおしまい」

「意味が分からないし」

「嘘だ。秀一だって分かってるんでしょ」

 

 今思えば、最初からずっとおかしかったのかもしれない。

 自己中でワガママな私に、秀一がいつまで耐えられるのか。

 私と秀一の関係は、ずっとそういう関係だった。

 

 惚れた弱みじゃないんだろうけど、秀一はずっと耐え続けてくれていた。

 もしかしたら、ずっと耐え続けてくれるのかもしれない。

 でも、それが秀一の幸せだとは、どうしても思えなかった。

 

「分からんし」

「それならいい。私が自己中だから、これで終わりってことで」

「は?」

「私が自己中なのは知ってるでしょ」

「…………」

 

 二度目に付き合いだしたときの言葉だ。

 自分から終わらせておきながら、私からした告白に対して、秀一は「自己中だ」と返してきた。

 それでも、また付き合うことに同意してくれて嬉しかったのをよく覚えている。

 

「これは返さないから。秀一との思い出として大事にするし」

 

 イタリアンホワイトのヘアピンは、二十歳まで愛用していた秀一からのプレゼントだ。

 さすがに子供っぽくなってきたので、髪につけることはなくなったけどお守り代わりに常に持ち歩いている。

 花言葉を思えば、秀一を自由にするためにも返すべきなんだろうけど、そこまではできなかった。

 嫌いになって別れるわけじゃない。私のワガママで別れるんだから、最後までワガママを貫かせてもらおう。

 

「本当に、もう終わりなのかよ」

 

 このヘアピンは、二人が付き合い始めた日に初めて私の髪を飾ってくれた。

 二人が別れたときに、秀一に返した。

 そして、二人がもう一度付き合い出したときに、改めて秀一からもらったものだ。

 つまり、私と秀一が付き合っていることの象徴であり、ヘアピンを持ち出すことで秀一も私が本気だと伝わったらしい。

 

「こんなめんどくさい私の彼氏になってくれてありがとう」

「……自分で言うのかよ」

「自覚あるから」

「そんなめんどくさいところ含めてお前が好きなのに」

「今度は、めんどくさくない女だといいね」

「それを久美子には言われたくない」

 

 そりゃそうだ。

 ガシガシと髪をかき混ぜる姿を見るのは久しぶりだ。

 秀一が困惑したときの癖で、私と付き合い出してからは見ることがなかった気がする。

 なんだかんだ上手くいっていたのかもしれない。

 それももう終わりだけど。

 

「それじゃあ、笑って、さようならしよっか」

「笑えねえよ」

「そっか。でも、私は笑うから。前向きな別れだと思ってるから」

「お前なー」

 

 涙腺が緩んでいるのが分かる。

 でも、泣くわけにはいかない。

 泣いてしまったら、この別れが前向きなものから外れてしまう気がして、私は強くヘアピンを握り締めることによって、なんとか耐えた。

 

「ありがとう、秀一。さようなら」

「……俺と別れたからって、人前であんま飲むなよ」

「最後がそれなの」

「うるせー。心配なんだよ」

 

 私は自覚がないことだけど、酒を飲むとただでさえ流されやすいのに、より流されやすくなるらしい。

 秀一から禁止されて、秀一の前か家族の前でしか飲まなくなっていた。

 今日飲まなかったのも、資料作りのためだというのは嘘じゃないけど、秀一と喧嘩中で秀一の前と言えるのかどうか微妙だったからだ。

 

「分かった。なるべく飲まないように気をつけるから」

「俺と別れたこと、後悔させてやるからな」

「はいはい、楽しみにしてる」

 

 たぶん秀一がどんな相手を選んでも、私は後悔してしまうんだろう。

 それでも、二人にとって必要なことだったと信じて、私と秀一の関係はリセットされた。

 なんとか最後まで涙を流さずに、笑ってさよならできたと思う。

 

 私の身勝手に、ずっと付き合わせてごめんなさい。

 さようなら、ありがとう。

 

 そして、次の曲がはじまるのです。

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