ホルン吹きの少女   作:衝角

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第8話 ぶんだんオーディション

 

 祭囃子は遠くに去り、雨露の匂いが近づいてきた。雨が降る前にする匂いのことをペトリコールというらしいが、語感が独特過ぎて日常会話では使えないな、とそんなことを朱莉は思った。

 どうでもいいことに現実逃避したくなるほど、今の音楽室の空気は重苦しい。

 それもそのはず、これからオーディションが行われるのだから。

 

「受かるかなぁ、オーディション」

 

 朱莉の横では森本が楽譜にひたすら目を通してみる。そんな彼女に朱莉は迂闊に声をかけられなかった。

 大体の慣例としてホルンパートは4人がAメンバーに選ばれてきた。今回の曲である『プロヴァンスの風』と『三日月の舞』もだいたい4人ホルンがいれば事足りる曲だ。

 そして現在のホルンパートは6人おり、実力的にAが堅いのはパートリーダーの沢田と朱莉ぐらい。ララは流石に初心者だから除くにしても、加橋、岸部、森本の3人は割と実力が近い。森本が頭ひとつぶん抜けているがそれでもミスをしたら分からなくなる。

 

「やれることをやるしかないよ」

 

 朱莉にはそう無責任な言葉を投げかけるしかなかった。

 オーディションはトランペットパートから始まり、トロンボーン、低音と続き、3番目にホルンパートが受けることになっている。

 今は低音パートがオーディションを受けていた。

 

「みんなが今日のために頑張ってきたことは知ってる。だから、誰が落ちても恨みっこなしだよ。まあ、あたしは受かる自信しかないけど」

 

 ホルンパートの練習教室で沢田がメンバーを見回しながら言う。

 

「流石は樹里だよねー。そのつよつよメンタル、私にも欲しいわ」

 

 呆れたように加橋は笑う。それで緊張していた場が緩んだ。こういうときにも笑える辺り、ホルンパートの雰囲気の良さが伺える。

 ある程度は場がほぐれた後で、こんこんと教室のドアが叩かれた。

 

「次、ホルンパートの皆さんお願いしま〜す」

 

 低音パートのオーディションが終わったのだろう、久美子がおずおずと朱莉たちを呼びにきた。

 

「ありがとう、久美子。それで手応えは?」

 

「緊張し過ぎて分かんない」

 

「普段通りの演奏が出来てるんなら大丈夫だと思うよ。久美子、普通に上手いし」

 

 北宇治のユーフォにはあすかという絶対的なエースがいるため、相対的に霞むが久美子もかなり上手い部類に入る。北中時代に一年生ながらAメンバーに選ばれた奏力は伊達じゃない。

 どうにも久美子自身は自分の奏力を過小評価している節があるが、朱莉はそれなりに高く評価していた。

 オーディション自体は音楽室に一人一人学年順に呼ばれる形式で行われる。音楽室の前には順番待ちのために椅子が何脚か置かれて呼ばれてないパートメンバーはこちらで座って待っている格好だ。

 ただ、音楽室は完全防音というわけではないためオーディションを受けているメンバーの音が漏れ聞こえてくる。

 朱莉は1年生のため中々呼ばれない。だから、沢田の音も加橋の音も岸部の音も聞いた。

 

(先輩方みんな4月の頃と比べるとすごく上手くなってる……)

 

 2ヶ月前のやる気がなかった姿からここまで変わるとは朱莉も思わなかった。多分当の上級生たちも思ってもみなかったんじゃないだろうか。

 岸部が小さく握り拳を作ってからホルンパートの教室に帰るといよいよ1年生の番になる。

 最初に呼ばれたのはララで拙いながらも懸命に吹いているのが音でわかった。

 

「ふぅ、ララなりにやりきりました。次は美千代ちゃんだそうです」

 

「ありがとう、行ってくる」

 

 どうやら朱莉は最後になったらしい。

 いつ呼ばれるのだろうかという気苦労は去ったが、緊張は抜けない。

 森本の演奏に耳を澄ませる。

 東中の経験者としての面目だろうか。いつも通りの安定した音色で上手さならやはり上級生にも引けを取らない。

 半ば安心して朱莉が聴いていたその時だった。

 

「ッ! ……ああ」

 

 思わず朱莉の声が漏れてしまう。

 ホルンには珍しい自分からメロディーを作る譜面のその手前、これからが美味しいところの手前で盛大に森本は音を外した。

 

(よりにもよってここで外すなんて……)

 

 ホルンは楽器の構造上、音の制御が難しい楽器である。そしてその上で比較的ミスしやすい高音域を担当することも多い。だから、世界一難しい金管楽器と呼ばれることすらもある。

 堅実な演奏が持ち味の森本とて音を外すことがないわけではない。

 けれど、それがオーディションで、さらにはここからが勝負どころという場面で外すとなると森本の心境はいかばかりか。

 森本はなんとか立て直そうとするが、必死になるほど肩に力が入ってしまって音が外れてしまう。

 

「……ッ!」

 

 音楽室を出てきた森本は拳を握りしめて、唇を震わせている。

 そんな彼女に朱莉はかける言葉が見当たらなかった。

 

 オーディションの結果発表は期末テストの後に発表されることになっている。

 ただ、丸々テスト勉強期間が間に入っているのは精神衛生上良くないと朱莉は思う。

 あの後、朱莉自身のオーディションはミスをすることなく終わった。この分ならAは堅いだろう。だが反対に森本はもう気が気でない。テスト勉強にも身が入らないのではないだろうか。

 入部した当初は森本は上手かった。それこそ疑いなくパート内で三番手の位置にいた。だが、それを加橋と岸部が必死に追いかけた。

 年功序列から実力と適性に比重が傾いた環境は、それまでぬるま湯にいた層により大きく作用していたらしい。

 

「以上、4名がホルンパートのメンバーだ」

 

 だから、朱莉はオーディションの結果発表の時に森本の名が上がらなかった時、さして驚くことはなかった。

 

「……ッ。ああっ」

 

 森本は悔やんでも悔やみ切れない様子で歯を食いしばり、涙を堪えている。朱莉には手を伸ばして慰めることはできない。ただ1人、1年生で選ばれてしまった朱莉には。

 その後も副顧問の松本美智恵によってAメンバーが発表されていく。朱莉が親しい部員では久美子と麗奈、秀一と同じクラスの順菜と万紗子も選ばれていた。

 

「以上、55名がA部門に出場する。合奏練習はこのメンバーで行うからな、心して励むように。ソロパートの担当者はトランペットは高坂麗奈、オーボエは鎧塚みぞれの以上2名とする」

 

 美智恵が部員たちを見回した。その言い切るような口調がいよいよ部が二つに割れたように感じる。

 部員の悲喜交々の中に混じる「ソロ、中世古先輩じゃないんだ」という呟き。

 誰かが言ったかわからない小さな落胆。それが朱莉の耳に嫌に残った。

 

 1

 

 部活が終わり、朱莉は家路につく。

 ホルンパートは加橋主導で森本とララの慰め会をしているようだが、朱莉はどんな顔をして彼女たちに会えばいいのかわからないため参加を断った。

 

(やっぱり、顔を出した方が良かったかなぁ……)

 

 断ったものの、どこか引きずってしまっている朱莉がいる。自分が出なかったことでいよいよAメンバーとBメンバーの間の溝を作ってしまったようなそんな気がした。

 気持ち重い足取りで京阪宇治駅を降りてあじろぎの道を歩く。その途中で見慣れた毛先を見つけた。

 

「あ、久美子」

 

「朱莉ちゃんか」

 

 2人並んで歩き出す。思えば最近久美子と長い時間話したことはなかったと朱莉は気づいた。せっかくこうした形で出会したのだから、少し話したい。なんとなく1人で考えているとずっと引きずりそうな気がした。

 

「少しお腹空かない?」

 

「私は夏紀先輩とマック行ってたから少しだけ」

 

「じゃあマンションの近くのお茶屋さんにしようか」

 

 久美子が頷いて、お茶屋に入る。

 この店はお茶の専門店であると同時にカフェも併設していた。値段は高校生の朱莉たちにとっては少し高いが味の質は担保されている。

 朱莉と久美子はいつも長く話したい気分の時はお財布事情と相談してこの店を使ってきていた。

 それぞれ抹茶なりアイスなりを注文して席に座る。道路沿いのカウンター席からは宇治川の流れを見渡せる。あじろぎの道の途中にあるベンチと並んで朱莉のお気に入りの場所だった。

 

「まずはオーディションおめでとう、久美子」

 

「朱莉ちゃんも受かってたよね。ホルンの1年生だと朱莉ちゃんだけだよね」

 

「まあ、練習はしてきたから」

 

 森本のことが脳裏をよぎったが、わざわざ言うべきことではない。ただ、森本も練習をしてきてないわけではない。たくさん練習して、それでも本番でしくじってしまえば全てが水泡に帰す。

 結果だけが全てではない、と大人は優しく慰めるけれども朱莉はそれは意味がないと考える。

 だって、過程が満足できる出来なら必然と結果も満足できるものを求めてしまうから。

 報われなかった、届かなかったことは変わらなくてその事実が自身を傷つける。

 結局のところ、掴めなかった物の傷を癒すにそれを掴み直すしかない。幸い、森本にはまだ来年がある。

 

(けれど、中世古先輩は。3年生の先輩だったら、どうしたらいいのだろう)

 

 もう2度と掴めない物。癒すことが叶わない傷。それを負ってしまった場合を意識してしまうと、急に朱莉は恐ろしくなってきた。

 

「よくよく考えたら怖いことしてるよね、わたしたち。いくら練習してきても、たった1回の失敗で終わる。そんなことに3年間を賭けようとしてるんだよね……。ねえ、久美子も怖くないの?」

 

「そりゃあ、怖いよ。でも、なんかそういうものだって慣れてきちゃったから思ったより平気」

 

「久美子って思ったより大物だよね。今回もしっかりAメンバーに選ばれてるし」

 

 久美子のマイペースさは素直に羨ましい。けれど、そんなのんびり構えていられるほど今回のAメンバーには余裕があるのだろうか。

 森本の失敗で押し出されたように選ばれた岸部に、部員のほとんどがソロを吹くであろうと予想されていた香織が1年の麗奈にその座を奪われた。

 朱莉が知るだけで2つも不安要素がある。

 

「ねえ、久美子。麗奈がソロを吹くことについてどう思う?」

 

「実力なら麗奈だよ。……でも、中世古先輩には人望があった。願われてるのは先輩だった」

 

「うん」

 

「それでも、滝先生が麗奈にソロを吹かせることを決めたのは全国に行くためだよね。でもそれで部が割れるのは怖い。まるであの時のようで……」 

 

 久美子は中学の頃の騒動を思い出していた。

 朱莉と自身が3年生を差し置いて選ばれて、部内が揉め、結果的に朱莉が降りざるを得なかったことを。

 麗奈も朱莉の二の舞になってしまうのではないか、その手の危惧をしていた。

 

「大丈夫だよ。麗奈は何があっても降りたりはしない。そりゃあ少しは傷つくんだろうけどさ、その時はわたしたちで慰めたげよう。いつのまにか下の名前で呼ぶようになってたけど、まだ麗奈を掴めてないね」

 

「なにその上から目線」

 

「まぁ中学の頃から付き合いがあるからね。なんとなくわかるよ。麗奈的にはなんで部員の気に障ってるのか分かってない気がする」

 

「あーなんかわかる。あ、そうそう色々言ったけど私は麗奈の味方をするって決めてるから」

 

「へー、いいんじゃないの。麗奈も嬉しいと思う」

 

 朱莉が微笑むと久美子も笑った。

 もし、あの時自分の背を押してくれる存在がいたのなら。

 今頃、何かが変わっていたのだろうか。

 不意に朱莉はそんなことを思った。

 

 2

 

 ぎこちなくもA編成の合奏練習に慣れ始めたある日のこと。

 音楽室でホルンパートの皆で話していると、ララがふと思い出したかのように呟いた。

 

「そういえばなんですけど、確か滝先生と高坂さんって家族同士で知り合いだったらしいんですよ。ララ、少し気になるんですよね……」

 

 ララにとっては些細な呟きなんだろうが、朱莉としては少し恐ろしい。

 麗奈が滝を知っていたことを朱莉は今まで話さずにいた。なんというかそれで麗奈の実力に色眼鏡をかけられることを嫌ってのことだった。だが、それでもララはどこからかその情報を仕入れてしまっている。

 

「……気になるって何を。まさかとは思うけど、ララちゃんは滝先生を疑ってる?」

 

 ララの呟きはホルンパートの耳を惹いたようで、口々に滝への疑念を募らせ始める。森本は加わらなかったが、心情的に香織に寄ってる加橋と岸部が食いついた。

 

「あたしは普通に高坂さんが上手いからだと思うけどねー」

 

 反対に沢田は滝への疑念に対して否定的だった。

 なまじ真実を知ってる分、朱莉は何も口出しできない。自分がボロを出したが最後、いよいよ滝への疑念が決定的なものになってしまう。

 せめて、この噂がホルンパート内だけで済むように。そう祈る他なかった。

 しかし。

 朱莉の願いは最も非情な形で裏切られる。

 

「アンタたち、何話してるの?」

 

 少し甲高い声は、あまり彼女と交流のない朱莉でもすぐに聞き分けできた。黄色い大きなリボンがトレードマークの彼女は吹部でもよく目立つ。まるで人形のような可愛らしい容姿に朱莉は見覚えがあった。

 

「吉川先輩……」

 

 吉川優子。

 トランペットパートの2年生にして、中世古香織に半ば心酔していることでも有名。朱莉が一番滝と麗奈についての関係性を聞いて欲しくなかった人物でもあった。

 

「別に吉川先輩にして面白い話ではないですよー」

 

 ララも聞かせたらまずかった相手なのがわかっているのか追求を逃れようとする。しかし、優子はそれくらいでは止まらなかった。

 

「あれだけ大きな声で話してたら嫌でも聞こえてくるわよ。高坂と先生が知り合いだったって話は本当なの?」

 

「やー、ララも直接話してたのを聞いてた訳じゃなくてですね。保護者会でお母さんが聞いたってだけなんですよー」

 

「ふーん。じゃあアンタは? 金髪のアンタは確か高坂と仲良かったでしょ? 何か知ってるんじゃないの?」

 

 ララに聞いても埒が明かないと思ったのか、矛先が朱莉に切り替わる。朱莉にとっては非常にまずい展開であった。

 朱莉は真実を知っている。それこそ、滝がいるから麗奈が北宇治を選んだということまで。

 ただ、それを話してしまえば疑惑が完全に一人歩きしてしまうし、何より噂が流れて事が大きくなることで麗奈の実力が低く見られることに我慢ならなかった。

 

「麗奈はあまり自分のことを話してはくれないので。わたしもララちゃんに聞いて初めて知りました。ただ、あの滝先生がそんな忖度をするような人ではないと思います。それに、吉川先輩もトランペットパートなら分かりませんか? 麗奈がとびきり上手いって」

 

「それは、そうだけどっ!」

 

 奏者である以上、自分の耳ばかりは裏切れない。

 そう思って放った朱莉の一言に優子はたじろぐ。ただそれでも瞳には感情が渦巻いていた。

 

「さて、そろそろ休憩も終わりにしようか。パート練の教室に帰るよ」

 

 互いに見つめ合う優子と朱莉を割るように、沢田が号令をかける。

 それは朱莉にとってはありがたい助け船だった。

 

(けれど、吉川先輩には噂があることを知られてしまった。……何事もないといいんだけど……)

 

 吐いた言葉は取り消せない。

 滝と麗奈の関係性の疑念はしばし部内を駆け巡ることになるだろう。内容的にはタイムリーに過ぎたし、ゴシップ的な面白みもある。

 部員の間で瞬く間に広がるだろう。

 朱莉はララを少しだけ恨みたい気持ちだった。

 

 

 それは翌日のことだった。

 合奏練習の直前、今日もいつも通りの練習が始まると思った矢先だった。

 

「先生、1つ質問があるんですけどいいですか?」

 

 ぴんと伸ばされた腕。

 視線は真っ直ぐ滝に向けられていて。それでいて離さない。

 滝相手にも怯まないその所作は朱莉にも息を呑ませた。

 強い先輩だと素直にそう思える。優子にはある種のカリスマ性というべきものが備わっているらしい。一瞬で部の空気を持っていってしまった。

 

「滝先生が高坂麗奈さんと以前からは知り合いだったって本当ですか?」

 

 そんな空気感で滝に投げかけられた言葉はまるで水面に石を投げたかのように波紋が広がっていく。部員にもどよめきが走った。

 この吉川優子が投じた一石は大きい。

 曲がりなりにも実力で部員達の不満を抑え込んでいた滝の基盤さえも揺らしかねない。

 優子の問いかけに滝はどう答えるのか。

 誰かが固唾を飲んだ音が朱莉には聞こえた気がした。

 

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