ホルン吹きの少女 作:衝角
「それを聞いてどうするのですか?」
優子の問いかけに対する滝の反応は実に淡白なものだった。そもそもが今この問いかけをされた意味自体がわかっていないように思える。
(滝先生らしいといえば、らしいよね……)
朱莉は思わず苦笑いをしてしまう。
まだ数ヶ月ぐらいの付き合いではあるが、ある程度は滝の人となりは掴めていた。
怜悧で熱意があって、弁が立つ。かなり合理に傾いた人間だろうということは。しかし、それは時に理に合わないことを軽く見ることに繋がる。
人を動かす論理は分かってもこの人は多分人の心理や感情を掴むのはあまり得手としてはいないのではないだろうか。
「部内で噂になってるんです! 先生と高坂さんが知り合いでそれがソロの選考に影響したんじゃないかって!」
「憶測で物を語るのはやめていただきたいですね。オーディションは厳正に公平に審査をしました。それに私だけではなく松本先生にも見てもらっています。明確なエラーや贔屓があれば松本先生によるストップがかかっていたはずですが」
美智恵のことを持ち出されれば、滝の独断という線は消える。これには優子も理を感じたのか、押し黙った。
「……じゃあ、先生と高坂さんが知り合いだというのは」
続けてかけられた問いに滝は僅かに言い淀んだ。だが、それは一瞬のことでしかない。
「事実です。私と高坂さんは彼女の父と私の父が知り合いだった関係の延長で中学の頃には彼女を知っていました」
「今まで黙っていた理由はなんですか?」
「言う必要を感じませんでした。それだけです。もとより生徒の背景がなんであれ、私は指導の態度を変えるつもりはありませんでしたから」
滝は淡々と事実を告げる。ただそれでも部員の動揺は収まらない。
今までの滝の態度が態度だ。実力があったからこそ辛辣な指摘や言葉遣いも我慢し、受け入れられてきた。だから、滝に落ち度があるとこうして積もっていた不満が一気に向けられる。
嫌な予感がして、朱莉はトランペットパートの方に目を向けた。
そして案の定、麗奈が鋭い目つきで壇上の滝と優子を睨みつけているのを見つける。
(やり合うなら、パート練になってからにして。今この場でやると絶対洒落にならない)
(ごめん、無理。耐えられない)
祈るように向けた朱莉の視線も意味を為さなかった。かぶりを振った後、麗奈は立ち上がって足取り荒く壇上に詰め寄る。
「吉川先輩、いいかげん先生を侮辱するのをやめてください。なぜアタシが選ばれたか、そんなの分かっているでしょう? ……先輩よりアタシの方が上手いからです!」
言い切ってしまう麗奈を見て、朱莉は頭を抱えた。
麗奈の性格の都合上、自分を曲げることは考えられない。そしてそこは自身が持ってなかった部分で麗奈に憧れを抱いていた理由でもある。
(でもさ、やっぱり時と場所は選んで欲しかったよ。今の麗奈、完璧で究極のヒールだよ? もうなんだかなぁ……)
そして、相手も悪い。
なにせ吹部の中でも指折りに気性が激しい吉川優子だ。優子もまた高坂の方に矛先を変えて言い募る。
「あんたねえ! 自惚れるのも大概にしなさいよ。香織先輩がどれだけあんたに気を遣ってたかわかる!? それを……!」
激発した優子が麗奈に詰め寄る。すぐにでも取っ組み合いが始まりそうな空気感で、流石に小笠原や夏紀が止めにかかる。
しかし、優子は止まらない。
「やめてっ!!」
結局、香織が必死に止めてようやく優子は我に帰るのだが、音楽室内の空気はもう戻らない。
「ケチをつけるならアタシより上手くなってからにして下さい」
流石の麗奈も居心地が悪いのか苛立ち紛れに吐き捨てて逃げるように音楽室を後にするのだった。
その後を久美子が追う。それを見た朱莉はまたも苦笑いを浮かべた。
(いつの間にそんな仲良くなってたんだ。かなり久美子も麗奈に染まってきてるね)
さて、自分はどうするか。
朱莉は考えてみる。練習をしようにももうそんな空気ではないし、麗奈を追うには少しタイミングを逸した感がある。
右を見てみるとらしくなく俯いているララの姿があった。
「……やっぱり気にしてる?」
「……うん、ララが言い出さなければこんなことにはならなかったと思うから」
「大丈夫だよ。麗奈のお父さんがプロだってのはこの辺りで吹部やってる人なら有名だし、滝先生のお父さんが北宇治の顧問だったのも調べようと思えば分かる。だから、ララちゃんが言わなくても誰かが憶測で噂を立てて、結局同じようなことになったと思う」
「ありがとう。……もしかして、朱莉ちゃんは最初から全部知ってたの?」
「うん、知ってた。けど、言えば麗奈の実力に疑問符をつけられそうだから何があっても言わないようにしてただけ。吉川先輩に詰められた時は流石に少し怖かったけど」
あの剣幕は今になっても怖いと思える。
ただ吉川先輩が中学の頃のような陰湿な先輩じゃなくて良かったと朱莉は思う。あそこまで真っ直ぐに立ち向かう姿には好感すら持てた。……もっとも、自分に矛先が向かなければの話だが。
1
案の定とも言うべきか、パート練もやれるような空気ではなかった。それはホルンパートでも同じことで麗奈を支持する沢田と朱莉、香織を支持する加橋と岸部に別れてしまっている。
今回、1年生は比較的中立だった。「麗奈のままでいいんじゃない」という声も散見できるぐらいには。一方で上級生には香織を推す部員が多かった。
(中世古先輩は確かに人気がある先輩だとは思う。実力もあるし。……けれどそれだけじゃここまで推される理由にはならないとは思う)
ふと今回の構図は中学の頃と似ている、と朱莉は思った。
実力は及ばずながらも努力を重ね、後輩への人徳があった白河美弥と中世古香織。
単に実力が抜けていて、部員の目からは突然現れてポジションを奪い取ってしまったように見える穂村朱莉と高坂麗奈。
オーディションかソロかの違いはあるけど重ねて違和感はない。
あの頃、白河を推していた人間の気持ちはぶつけられたから表層をなぞる程度なら朱莉にも分かる。
一緒にいた時間は、重ねた物語は確かに誰かを動かすに足る力があることも知っていた。
1年生が知らない去年の北宇治の物語。
おそらくはその物語の中で香織は何かしらの役回りを担っていたのではないか、朱莉はそう推察する。
(けれど、先輩達はみんな話したがらない。それほどまでに吹部に刻まれた傷なんだなって思う。でも、知らないままでいいのかな……)
ろくに練習が進まないまま、部活が終わり帰り道を歩く。
夕食を作る気にもなれず、ふらりとファミレスに脚を運ぶと少し懐かしい顔を見つけた。
「……葵ちゃん」
「朱莉ちゃんか。吹部辞めたからかなり会うのは久しぶりだよね。まぁ座ってよ。何か奢ってあげるから」
手招きされて席に座ると、テーブルの上にはコーヒーと一緒に参考書や問題集が並べられている。冊子の端は少しくたびれていてそれだけでも葵が長い時間を勉強に費やしていることが見て取れた。
「葵ちゃん、受験の調子はどう?」
「悪くはないかな、でもまだ油断はできない。このペースを維持できないと合格は厳しいかも」
葵はオーディションの直前に自ら退部の意志を滝に申し出て、吹奏楽部を辞めた。彼女にとっては受験の方が大事だったのだ。
その時、朱莉は寂しいとは思っても辞めないで欲しいとまでは思わなかった。むしろ、ちゃんと決めるあたり葵ちゃんらしいとすら思っていた節がある。
「そっちはどう? 結局オーディションはどうなったの?」
「3年生はみんな受かってました。2年生もほとんどが受かってます。わたしや久美子、秀一もAメンバーです」
「そう、ちゃんと決まったんだね。ならよかった。……でも、朱莉ちゃん。だったらなんでさっきあんな浮かない顔をしていたの?」
聞かれたくないことを聞かれて朱莉は思わずもみあげをいじる。それを見て葵はくすりと笑った。
「その癖、変わってないね。久美子ちゃんたちほどじゃないけど、私だってちゃんと朱莉ちゃんを見てきたつもり。隠し通せるだなんて思わないでね」
「わかりました、言います。……そんなにバレやすいですか、わたし?」
「うん、割と。普段から見てる人が見るとすぐに気づけると思う」
まいったなぁと小さく呟いてから朱莉はトランペットソロで起きてる論争について葵に教えた。
部員の予想と異なり、麗奈がソロに選ばれたこと。麗奈と滝の間につながりがあり、それが尾を引いて部員が不信感を抱いたこと。そして、香織をソロに推す空気が部員に流れたこと。
葵はそれを静かに聞いていた。
「だから、わたしとしては中世古先輩が人気あるのは分かるんです。でも麗奈を抑えて選ぶほどかと言われると……。それに、麗奈がずば抜けて上手いことは一番中世古先輩を慕ってる吉川先輩ですら否定はしてなかった。……だからこそ、わからないです。なんで中世古先輩がそこまでソロを吹くことを願われているのかが」
聞き終えた葵はふう、と長い息を吐いた後に言った。
「やっぱり、1年の子には分からなくても無理はないよね。……ねえ、朱莉ちゃん。去年の吹部について何か知ってることはある?」
「いえ、あまり……」
推察できることはあるが、あまり下手に言わないでおこうと判断し、口を噤む。
「そっか、じゃあ教えないといけないよね。去年ね、今の2年生にあたる子達がたくさん辞めたの。朱莉ちゃんみたいに中学の時に悔しい思いをして高校で本気でやりたかったあの子達と、気楽にやりたい私たちの先輩の代が争って、その結果としてあの子達は辞めてった」
その経緯はまさしく朱莉が想像していた通りの内容だった。ならば2年生が少なく、それも高校から始めた人が多いのも納得できる。
「でも、それが中世古先輩に関係あるんですか? 聞いたかぎりはその時の1年生と3年生の争いが中心だったように思うんですけど」
「そうだね。私たち2年生は中心ではなかった。でも、一番とばっちりを受けてたと思う。一応は先輩についていく人が多くて、優しい子は1年生を庇ってた。香織や私、晴香のあたりがそう。あすかは我関せずだったけれどね」
話していくうちにその時のことを思い出したのか、葵の声色が冷えていく。ピリッとした感覚、葵の憤りが少しだけ混ざっているような気がした。
「そうして、あの子達が辞めた後、香織や私や晴香はコンクールのAメンバーを降りたの。いや、ちょっと違うかな、降りろという空気が部員の中に広まってた。多数派を責められないから、あの子達の退部を私たちがカバーできなかったことにしてその責任を押し付けたの」
酷い話だと朱莉は思った。北中の時よりももっと酷い。
「多分ね、今になって香織を押し出してるのはその時の後ろめたさがあるんだと思う。先輩が怖くて従って、香織や1年生の子達を切り捨てた罪悪感。……そんなのを抱くぐらいならあの時、助けてあげればよかったのに。ちゃんと1年生の声に耳を傾けてあげてたらよかったのに。ね」
──ーだから、私はずっと吹部のことがあまり好きじゃなかった。
最後にそっと付け加えられた独白。
それが、葵が吹部を辞めた一番の理由だと朱莉は理解した。
空気がすっかり重苦しくなって、朱莉がなんとか頼んだものをお腹に詰め込む時間になる。
朱莉があらかた食べ終えた頃合いを見計らっていたのだろうか、葵は再び口を開いた。
「ねえ、朱莉ちゃんはどうしたい?」
「どうって……、そうですね。負けてほしくないって思いました」
「誰が?」
葵に問われた朱莉は静かに微笑んだ。
「それはもちろん、麗奈ですよ」
香織については可哀想だと思う気持ちはある。
それでもなお、麗奈には勝ってほしかった。
誰かの横たわる後悔を晴らすより、ただ単に重ねてきた努力が報われる姿を見たいと朱莉は思った。
2
翌日になったとて落ち着いて練習できないため、朱莉は早々にパート練の教室を出て廊下を歩く。
歩きつつ、考える。
噂好きで空気に流されやすい、それが北宇治の吹部の特徴だろう。
だから、滝が全国を目指す空気を作ればすぐに環境が変わって上手くなった。その反面空気が悪くなるとすぐ停滞する。
だからこそ、顧問や幹部がちゃんと取りまとめなくてはならないのだが、滝は人間関係の調整が不得手で小笠原は大権を振りかざすようなタイプの部長ではない。最もカリスマ性があるあすかはこういった揉め事に絡むことをあまり良しとはしない。
そのため、空気が悪くなった時のリカバリーが難しい環境ではある。
(きっと何かしらの形で決着をつけなくちゃならない。でも、一度は麗奈に決まった。これで納得しないならやっぱり……)
あまり考えたくない答えが浮かんできて、それを頭を振って否定する。
それは、あまりにも麗奈を蔑ろにするものだ。仮にそれで吹部が円滑に回るのだとしても、自分だけはそれを否定しなくてはならないと昨日決めた。
階段の近くになると聴き慣れたトランペットの音色が聞こえる。
「やっぱり、ここにいた」
荒れ狂う天馬のように鋭さを感じる音色が朱莉の耳に突き刺さる。
麗奈の怒りが音に溶けていた。
どうしようもない感情は屋上に捨てていく腹づもりなのだろう。それもまた中学の頃と変わらなかった。
「朱莉……」
朱莉の姿に気づいたのか、麗奈はマウスピースから唇を話した。
まだ怒りの余韻が残っているのかやや表情にけんがある。
「お疲れさん、麗奈。昨日、久美子と何話してたの?」
「慰めてもらってた」
麗奈の口調は昨日に比べて穏やかで、柔らかく笑える余裕がある。
流石は久美子といったところか、聞き上手にして吐かせ上手。人見知りの自分には一生できない芸当だと朱莉は思った。
「ねえ、そういえば朱莉ってなんで中1の頃、コンクールメンバーから降りたの?」
「それは……」
麗奈がふと思い出したように朱莉に問う。
あの時のことは久美子にはもちろん、秀一にも話してはいない。知られれば必ず気に病むから。いや、今でさえも何があったか察されていて気を遣われている。
できればあまり触りたくない傷口のようなものだった。
(でも、今話すことで少しでも麗奈の役に立つのなら、悪くないかな。それにわたしもそろそろ過去を振り切らないといけない気がするし)
「……久美子と秀一には言わないでね」
「約束する。アタシ、口が堅い方だと思うから」
「じゃあ言う。……わたしが降りたのは久美子を先輩達のいびりから守るため。わたしが降りる代わりに久美子に手を出させない、そうホルンの先輩達と取引したんだ」
あれを取引と言ってよかったかはわからない。ただ同じようなものだと思う。
朱莉を屈服させたことで彼女たちの溜飲が下がり、約束は果たされた。
「……それって朱莉が犠牲になったってこと」
「そういうこと。後で先輩達の悪事がバレて問題になってオーディション自体がなくなっちゃったけど、コンクール中はうまく回ったから悪くない取引だったとは思うよ」
朱莉がそう告げると麗奈は黙り込んでしまった。
その表情には怒りや悲しみが入り交じっていて、複雑な感情が渦巻いているように見える。
「まあ、わたしのことはもういいんだよ。わたしはあくまで自分の意思で降りた。後悔はしたけど、譲らずに久美子を守れなくても後悔したからどうしようもない。それが分かってるから折り合いがつけられてるの。大事なのは今だから。大変なのは麗奈の方だよ、降りるつもりないんでしょ?」
「当たり前でしょ。あれぐらいの文句を叩き潰せないようじゃ、特別にはなれない」
胸を張って言う麗奈に思わず朱莉は乾いた笑いをしてしまう。
「あはは、だろうと思った。……ねえ、麗奈」
「なに?」
「わたしは……いや梓ちゃんや芽護ちゃんもか。オーディションがなくなってからの北中のみんなを救ってくれてたのは麗奈だよ。目標がなくなって迷子になってたわたしたちにとっては麗奈が道標だった。コンクールの結果はまぁ府大会ダメ金止まりだったけどさ、ソロコンは何人かが関西に行けてる。麗奈が頑張っていてくれたから、上手くなりたくて頑張るのは無駄じゃないって信じれた。……だから今回もちゃんと見せてほしい。努力が報われるって証明してほしい」
「重たいね」
「まあね。でも、それが特別になるってことだと思うから」
ある種身勝手な願いだと言いながら朱莉は思った。
麗奈に勝手に周りの人が何かを託して背負わせているのだから。
でも、そうさせてしまうほどの引力が彼女にはある。そしてそれは香織にも言えることだった。
部内に横たわる後悔と、積年の憧れと願いの押しつけ。ろくでもない対戦カードだと朱莉は苦笑いをしてしまう。
けれど、ここで決着をつけないと北宇治も自分も先に進めないような気がした。