ホルン吹きの少女 作:衝角
ホルンパートの練習場所は音楽室と同じ階にある教室、3年1組だった。
楽器庫からそれぞれホルンを取り出してから向かう。
「はい、穂村ちゃん。コレ」
「沢田先輩、ありがとうございます」
朱莉もまた昨日吹いたホルンを選んで練習場所に向かった。
北宇治の練習スタイルとしては普段はパート練で本番が近くなると合奏に比重が傾く。
「まずは経験者2人がどれくらい吹けるか見たい。その後はララちゃんのレクチャーかな」
沢田に言われてまずは森本から演奏を始める。曲目はまたも海兵隊。
これは沢田が狙ったチョイスだった。朱莉と森本の実力を測ろうとしていたわけである。
森本の演奏は堅実なものだった。特に裏打ちは外れていない。上手いといえば上手いがどこか硬さが残る演奏だった。
続いて朱莉も吹くことになる。
音のふくらみや響きの美しさは森本と比較すると上か。ただ、よくよく聞いてみたら音が薄く聞こえるところもあるが、3年生を含めた上でも上手い部類に入るだろう。
(正直、一人一人吹くの嫌なんだよなぁ。明らかにパート内での序列が決まってしまうみたいで、今もちょっと森本ちゃんの目が怖いし)
吹き終わって朱莉は周りを見やる。
2.3年生からは拍手を、ララからは尊敬の眼差しを。
森本はどこか観察するような目で見てきている。
「……すごい技術。でも、穂村朱莉なんて名前は中学の時には聞かなかった。北中で何をしてたの?」
「北中でもホルンはやってたよ。でもあそこは年功序列でホルンの先輩が多かったからわたしは3年までコンクールに出れなかったけど」
森本の問いかけに苦笑いを浮かべて答える朱莉。
どうせ2年の間には大会には出られないという諦め。
らしくもなく実力主義で3年生を外して1年生を抜擢したら、抜擢された1年生に対して攻撃を加えるという閉鎖性。これが悪しき前例になっていよいよ北中では抜擢人事は失われた。
具体的な目標や超えるべき壁を失えば、モチベーションも下がる。停滞する。下手になるといった嫌な悪循環が続いていた。そして、それを跳ね返す気概もなかった。
正直、北中の吹奏楽部はろくでもない場所だったと朱莉は振り返る。
それでもやってこられたのは、それでも久美子や秀一が頑張っていたから。彼女達が頑張っているうちはしがみついていたかったのだ。
経験者の新入生に吹かせた後は、二、三回パート内で合奏をしてララの教育に移る。
とはいっても主に教えているのは朱莉と森本で、沢田は気になったことがない限りは自分から出てこずに2.3年生と雑談をして楽しんでいる。
(ララちゃんの育成をわたしたちに任せるのは良いんだけど、もうちょっと練習した方がいいんじゃないのかな? サンフェスだっけか、演奏会まで1か月もないから急いだ方がいいと思うんだけど)
沢田たちの方を横目に見ながら、森本と一緒にララの面倒を見る朱莉。
思うところがあれど、口には出せない。そんな悪癖がとうに身についていた。
1
「最近頑張っているみたいだね、朱莉ちゃん」
京阪宇治駅を出たらすぐ、朱莉は誰かに話しかけられる。
振り返ると黒髪おさげの3年生が立っていた。
朱莉は彼女に見覚えはある。
斎藤葵。しばらく疎遠になっていたが、最近になってまた近しくなった幼馴染だった。
「葵ちゃん、いや先輩」
「葵ちゃんでいいよ、朱莉ちゃん。ホルンパートが最近練習に熱心だってあすかから聞いて」
「練習場所が離れた葵ちゃんがなんで知ってるかと思えば、副部長からですか。確かに低音とウチは教室が近いからわかりますよね。……でもあれ、ホルンパートが熱心なわけじゃないんです。わたしと森本、ララちゃんの1年生3人が吹いてただけで……」
パート練開始からホルンパートの練習風景は変わり映えしなかった。初めに何度かパートで合奏をした後、沢田ら上級生は雑談やゲームに興じて朱莉ら下級生がララの面倒を見つつ森本と朱莉の2人で合奏を重ねるような具合だ。
「……やっぱり樹里ちゃんたちは変わらないね。で、朱莉ちゃん達は上手くなりたいわけだ」
「そうなんですよ。葵ちゃんからも沢田先輩達に何か言ってくれませんか? 正直、今のままだとクオリティがサンフェスに間に合わないんです」
「私からじゃ無理だと思うよ。他の3年生だって無理だと思う。多分ね、朱莉ちゃん。今の3年生で上手くなりたい人なんてあすかか香織しかいないと思うんだ。全国だって空気感で目指してるだけ」
葵は優しく諭すように朱莉に告げる。
思えば、葵ただ1人だけだった。京都大会で充分だと挙手をしたのは。
ただ1人、空気に逆らったのは葵だけだった。
「頑張ってる子に言うのもあれだけど、早く見切りをつけた方がいいと思うよ。3年間なんてあっという間、だからやるべきことはちゃんと選ばなきゃ」
「……そんなことは、とうに分かってます。わたしも中学の頃の3年間をちゃんと全うにやれたなんて口が裂けても言えない。だから、後悔してます。けど、やっても無駄と決めつけてもう一度同じように漫然と過ごしたくないんです。この熱と後悔はどうしたらいいんですか、どうしたら晴らせるんですか」
多分、あの頃の自分は折れていたのだと朱莉は思う。ただ部を辞めてないだけの状況だった。正直、実力が抜けていたのだとしても精神的に久美子や秀一と肩を並べられたか自信はない。むしろ引け目があったからこそ、あの時に満たされなかったのだと思える。
「わたしは今度こそ、秀一や久美子と最後までしっかりと走り抜けたいんです。そうしたら、最後に気持ち良くなれると思うから」
「……思えば、朱莉ちゃんは言っても聞かない子だったね。見ないうちに抑え込むのが上手くなってたけど。私、力にはなれないけど応援してる。どうか、朱莉ちゃんはこのまま頑張り続けてね」
どこか寂しげな笑みを浮かべて葵は自分の帰り道に向かっていった。
終始いやに葵は寂しげで、それでいて何かを含むような言動。
常に自分を守るために予防線を張るような言動をする。約1年の付き合いだったけれど、それが斎藤葵の特徴だと朱莉は知っていた。
(もしかして北宇治にも昔に何かあったのかもしれない。それこそわたしや久美子を襲い、ついにわたしの心を折ったあの事件のようなことが。……思えば、他の学年に対して2年生は少ないし、楽器庫の楽器もかなりの数が余ってた)
気にかかるが、葵はもう素直に答えてはくれないだろう。
それにこそこそ嗅ぎ回ることそのものが災いになりかねず、朱莉が推察するに規模も大きいアンタッチャブルな事件が起きていた可能性が高い。下手に関わるのは得策じゃないような気がした。
「けどまぁ、もう過ぎたことだよね」
そう言い聞かせて忘れたことにしておく。
あくまで大事なのは、過去ではなく今をやり切ることなのだから。
3
初めての合奏は楽譜が配られてからだいたい一週間後ぐらいにやることになった。
今回、事前に滝からは合奏できるクオリティになったら声をかけてくれと言われていた。全体練習となると個々人のミスを拾い上げて修正する余裕などないから理にかなった指示だと思える。
(あれで仕上がったって言っていいのかな。結局のところ、何回か音を合わせただけだし)
あれからもホルンパートの練習風景は変わらない。パート全体の練習は最初に何回か音を合わせるだけ。指摘などはするがそれはあくまで簡素なものに過ぎず、朱莉には形式的にやってるだけにしか見えなかった。
森本と自主的に音合わせをしてきたが、パート全体の練度となると朱莉的には首を傾げるほかない。けれど、沢田はそれでもGOサインを出していた。
チューニングの後、いよいよ合奏に進む。
曲目は『キャント・バイ・ミー・ラヴ』。イギリスの伝説的ロックバンドであるビートルズの曲をジャズ風にアレンジした曲だ。
滝の指揮棒が振り下ろされて、アップテンポなリズムで演奏が進んでいく。
序盤はまぁ上手くいった。けれど、中盤になりパーカッションと木管がずれ始める。次にトロンボーンが沈み、ホルンも崩れた。
(……やっぱり、積み重ねが足りないよね)
岸部と加橋が脱落し、ベルが後ろを向いているため元から聞こえづらいホルンの音の厚さがさらに薄くなる。なまじ朱莉と森本の裏打ちが崩れないために、明らかに音が楽譜から外れていってるのがわかった。
「はい、そこまで」
もう収拾がつかなくなった状況で滝が演奏を無理やり止める。奏者たちは楽器から口を離し、一様に神妙な顔つきになったり俯いたりしてしまう。
(ダメだこりゃ)
朱莉はホルンを膝の上に乗せ、空を仰いでいた。
「なんですか、コレ?」
滝は首を傾げる。表情が笑顔のままなのが、かえって恐ろしい。
「私は事前に皆さんに言いましたね? 『合奏できるクオリティになったら呼んでください』と? その結果がコレですか? だとしたら私は皆さんの難聴を疑ってしまいます。あまりにも、パート毎に欠陥がありすぎる。とても合奏できるクオリティではありません」
明確な罵倒に部内の空気が冷え込んでいく。
「私はこの1週間、練習をしている皆さんの教室を見て回りました。皆さん、実に楽しそうでしたね。雑談の声が廊下にまで漏れ出ていましたよ。おかげで私は見てもいない恋愛ドラマのあらすじまで覚えてしまいました。ああいうのが最近は受けるんですね、実に勉強になりました」
滝の皮肉に加橋とララが顔を赤くして俯いてしまう。
恋愛ドラマはホルンパート内で取り沙汰されていた話題だった。こんなしょうもないことまで耳に入れている辺りよほど念入りに見て回ったのだろう。
(やっぱりホルン以外も練習熱心ではないんだ)と朱莉は再確認していた。
「正味、困るんですよこのクオリティでは。私は特段練習を強いたわけではありませんが、あなた方は全国を目指すことを選択したはずではないのでしょうか? それでこんなものをお出しされては私が指導する以前の問題です。こちらはせっかく休日を割いて皆さんを見に来ているのです。ならば、少しでも実りある時間にしたいと思うのはおかしいことなのでしょうか?」
笑みを絶やさず、しかし声音は冷厳。理屈でもって反論を許さない。
静かに怒る滝の姿は、朱莉たちを圧倒するには充分だった。
「次の水曜日の二時に次の合奏練習を行います。それまでに皆さんはパート毎の課題を解決し、最低限のクオリティを確保してください。わかりましたか?」
こんな状況ですぐに動けるようなメンタルの生徒は吹部にはいない。
もう一度、滝が促して辛うじてちらほら返答できるような状態だった。
滝が楽譜を持って去ってしばらくしても部員たちは動けない。
「なんなん、アイツ! あの言い方は流石にないッ!」
何分かしてようやく沢田がいきり立ったぐらいだった。
それを皮切りに皆が滝への不満を漏らしていく。
部内の空気が澱んでいく。悪感情が音楽室を満たしていく。
その光景がいつかの景色と合致して。
「……ッ!」
自分が攻撃されている訳ではないのに、いつしか朱莉は耳を覆っていた。
ちくちくと心の弱いところが痛む。
あの日、朱莉は吊しあげられて責苦を負った。その傷跡は未だに癒えない。
読んでくださりありがとうございます。
第1話は奮発しましたが、第2話以降は3000〜4000字程度に収まると思います。