マサミは遠い記憶を見ていた。
醍醐マサミという名前は本名ではない。醍醐マサミは自分のほんとうの名前を知らない。
年齢や誕生日なども、わからない。
記憶がないのだった。
学籍データに登録されている情報は便宜上設定した、偽造されたものだ。
十年ほど前のことだった。
ブラックマーケット付近にあるビルの一室、そこにある檻の中にいた。
いつからいるのかはわからず、それ以前の記憶は無い。
名前さえも思い出せない。記憶がぼやけていた。記憶喪失だった。逆行性健忘にかかっていた。
手枷と足枷をつけられていた。
檻の中には他にも何人か子供がいた。七から十歳くらいの年頃の子供たちだった。
様々な人種がいた。頭に角を持つ子もいれば、羽が生えている子もいた。
皆一様に瞳に濁りを湛えていた。
そこは人売組織の所有する、小児性愛者向けの売春窟であった。
性交用奴隷として組織によってかどわかされた子供たちだった。
生活環境は劣悪なものだった。飼育といって差し支えない扱いだった。
一日に一回、決まった時間に食事が与えられた。
食パンが一枚と牛乳のみである。
まともな世話はされず十分に食事をとることもできない。
そんな日々の中、時々現れる大人に商品として連れていかれた。
その時だけは風呂に入れられて身体をきれいにすることを命じられる。
汚れていると客が怒るからだ。罰が与えられる。
見張りをする大人に気まぐれに玩具にされ弄ばれることもあった。
命令を聞かなければスタンガンが押し当てられる。子供の力では抵抗できなかった。
大人に囲まれ苦痛の叫びを上げる子供の声と日々の飢え、理不尽な暴力に怯える毎日があった。
希望を見出せない暮らしに、ひたすらに自分を殺していた。
そうしているうちに双眸は濁り、意識は茫としていった。水の中にいるような感じだった。
なにか膜に包まれたような感覚に陥り、だんだんと反応を返すことが少なくなっていた。
自発的な行動がなくなり、命じられなければ食事もとろうとしない。
鬱病になりかけていた。
目から光が無くなった。
やがて自分がなにものかわからなくなってゆく。
命への執着が、すこしずつ削られていった。
子供が新しく連れてこられた。薄桃色の髪色をした子だった。檻の中に無造作に投げ込まれた。
薬でも使われたのか意識は無かった。しばらくして目を醒ますと周囲の見覚えのない光景にひどく怯えた。
やがて自身の置かれた状況を理解し始めると帰りたいと言って泣き始めた。
感情の無い瞳でそんな様子を見ていた。
何日か経ってその子供が檻から引きずり出された。
自身に何が起こるか理解した薄桃色の子供は泣き叫んだ。やめてと哀願するが聞き入れられることは無かった。
息を荒げた大人たちに押さえつけられた。衣服を剥ぎとられた。
素裸に剥かれたその子供は力づくで組み敷かれ、そしてつらぬかれた。
囲まれて凌辱が行われていた。
檻の中からその光景を見ていた。
囲んだ大人たちの間から白い足が揺れているのが見えた。嗚咽と下卑た笑い声がコンクリートの部屋に谺していた。
いつものことだと思っていたその光景に自身の中にざわめきが起こるのを感じた。
その子供の悲鳴は自身のなにかを刺激した。
そのことがあってから、その子供のことを気にするようになった。そばにいるようになった。
子供の名前はカヤといった。たどたどしい口調で教えてくれた。
カヤは名前を聞いてきたが何も覚えていないことを伝えると悲しそうに俯いた。
しばらくしてなにかを見つけ、壁にかかっている紙を指さした。紙には漢詩が書かれている。
指された一行には、正美と書かれていた。
マサミという名前にしようとカヤが言った。
「ま、さ、み……。」
確かめるように呟いた。いつか感じたざわめきが、鼓動となって胸を搏った。体に熱が走った。
意識の膜が破られ視界が開けた。
マサミの目に光が宿った。
なにかを、思い出しかけていた。
隣にいるカヤを見た。顔を覗き込んでいる。
手を伸ばした。無意識だった。不思議そうに見るカヤの頬をゆっくりと撫でた。
この時からマサミはカヤを守るべきものとして認識した。
生きる意味が、生まれた。
決意を刻んだ双眸には力強い光が爛爛としていた。
ある日檻の施錠がなされていないことに気づいた子供がいた。見回りをする大人がし忘れたのだった。
その夜何人かの子供が逃亡を図った。
マサミはその様子を見ていた。
隣にいたカヤを見ると目が合った。縋るようにマサミを見ていた。
自由への期待と、危険への不安が瞳に渦巻いていた。
少しの逡巡の後、マサミはカヤの小さな手を引き檻を出た。
カヤの手は震えていたが握り返してきたのがわかった。
部屋の扉近くの壁には手枷足枷を外す鍵がぶら下げてある。鍵を取り、枷を外した。
脱走はうまくいくとも限らない。見つかればどんな目にあわされるかわからない。
いつ牙をむくかわからない危険が目の前に横たわっていた。
それでもいま動かなければ決定的になにかが終わる。そんな気がした。感覚的な判断だった。
建物の外に出た。
外は明かりが無かった。暗がりがどこまでも続いている。足がすくんだ。
直感を信じて闇の中に踏み出した。握った手から伝わるはかない温度が勇気を与えてくれている気がした。
二人は近くのスラムに逃げ込んだ。
空き家と思しき廃屋を見つけ、そこで暮らし始めた。
逃げることはできたが状況が良くなることは無かった。生きていれば試練は容赦なく鞭打ってくる。
治安の悪い地域だった。
束縛からは解放されたが、ようやく掴んだ自由は苛烈な代償を二人に強いた。
食料は手に入らず、子供だけでは身を守るすべも無い。今まで以上の暴力が、飢えがあった。
ろくに食事をとれず座り込んでいる時だった。動けないマサミの目の前を鼠が通った。
手を伸ばし捕まえた。半ば無意識だった。鼠が手の中で暴れていた。噛みつかれる前に頭を潰した。
鼠を二人は分け合った。
空腹感の前に逡巡は無かった。皮を剥ぎかぶりついた。生臭い苦味と鉄の臭いが口の中に満ちた。無理矢理に飲み込んだ。
カヤは耐え切れず吐き出してしまったが、マサミはカヤが吐いたものも食べた。
生きることへの強烈な執着がそうさせた。そういうことを繰り返して命をつないだ。
逃げた他の子供たちがどうなったのかはわからなかった。
カヤとマサミの二人は生き残った。その事実だけがあった。
生きるため二人は互いに助け合った。得たものは分け合い、何かするときは協力しあった。
そうしなければ生き残れなかった。泥をすすって喉を潤し、ゴミを漁り糧を得た。
二人は互いを頼り、精神的なよりどころとした。
共に艱難辛苦を受けてきた経験が互いの強固な絆となった。
マサミは極力カヤを外には出さなかった。危ないからだ。
一人で食糧を求め出て行くマサミを、カヤはいつも不安そうに見つめていた。
ついてこようとするカヤを押しとどめ、マサミは一人外へ踏み出していった。
しばらくしてからのことだった。
その日は珍しく収穫があった。盗みに入った場所で罐詰を多く手に入れることができた。
三日間は食いつなげるはずである。
両手いっぱいに罐詰を抱えカヤが待っている家に走った。
帰ってくると中にカヤ以外の気配を感じた。嫌な予感がしながら、中に入った。
家の中にはカヤと、一人の浮浪者がいた。
カヤは四つん這いのかっこうで、泣きながら犯されていた。
目に映った光景を理解することができず一瞬、思考が停止した。
遅れて状況を飲み込みながらもマサミは動くことができなかった。
縫いつけられたかのように足が動かない。
奴隷であった時の恐怖がよみがえっていた。
そんな中、押さえつけられているカヤと目があった。
泪を流す目には恐怖と絶望が浮かんでいた。
その表情に気を取り直した。
カヤを、助けなければならない。守らなければならない。
まとわりつく怯懦に叱咤を入れ、踏み出した。走って近づき無我夢中で浮浪者を突き飛ばした。
浮浪者は転がって壁にぶつかった。
すばやくカヤを背にかばった。落ちてあった煉瓦を拾った。
浮浪者は頭を打ったのかよろめいている。おそるおそる近づき煉瓦を振り上げた。
頭を狙った。
振り下ろそうとして、腹に灼けるような熱さを感じ視線を下ろした。
浮浪者が腕を突き出していた。
その先で、腹に刃物が刺さっていた。
無造作に引き抜かれた。
腹を押さえ、脱力感に膝をついた。
指の間から血があふれ出ている。力が入らない。
死が近づいているのを、感じた。
浮浪者はマサミに唾を吐き、カヤに近づいた。
ふたたび、犯しはじめた。
倒れたままの恰好で視線だけを向け、その光景を見ていた。
降って湧いた理不尽に、恨み骨髄に徹する思いだった。
どうにもできない。動けなくなる己を呪った。認められないと、思った。
聞こえる音が遠くなる。視界が赤く染まった。
そのとき、頭の中でなにかが切れた音がした。
カヤは頽れて動かなくなったマサミを目にしてどうにもならないことを朧気に理解した。
マサミは死に、自身も凌辱が済めば殺されるのだ。
呆気ない最期だった。
全てを諦めたカヤが、ふと無感情にマサミに目を向けた。
すると、信じられないものが目に映った。
マサミが、立ちあがっていた。幽鬼のごとくこちらを見ていた。
マサミは立ち上がり、姿勢低く構えた。
弾丸のごとく飛び出し、浮浪者の頭を掴んで勢いそのままに床に叩きつけた。
倒れた浮浪者の頭を何度も殴りつけた。やがて浮浪者は動かなくなった。
頭は潰れ、床に沈んでいた。完全に息絶えていた。
殴るのを止めて、カヤの顔を見た。
そうして電池が切れたように、意識を失った。
その後三日間、マサミは目を覚まさなかった。
意識を失ってじつに七十六時間後に、目を覚ました。
怪我が治り体力が戻ると、マサミは身体能力が上昇しているのがわかった。
五感は研ぎ澄まされ、膂力は大人を投げ飛ばせるほどになっていた。
それからはマサミは生きるために、またカヤを守るためになんでもやった。
カヤを死なせてはならない。そのためには己が死んではならない。
害をなす存在はすぐに殺した。リスクは冒さず、やられる前にやる。先制攻撃を徹底した。
食料を得るために襲撃と略奪を繰り返した。
そういう生活が数年続いた。
そのうちカヤは、偽造された身分を手に入れ公に暮らすことを考え始めた。
こんな生活はいつまでも続かない。いずれ限界が来る。
過去を抹消し、人生を新しくやり直す必要があった。
二人でいれば不可能は無い。できるはずだ。ブラックマーケットに無いものは無い。
時が経ち二人は偽造したIDを手に入れスラムから脱け出した。
そうして手に入れたのが醍醐マサミという名前だった。
カヤは自分の名前を憶えていたが、不知火カヤという同名の人物としてIDを新しく用意した。
二人は自治区に潜り込むことに成功した。学校へも通った。
マサミはヴァルキューレ警察学校へ入学した。
学校に通いだしたマサミは必死に勉強をした。周りについてゆけないからだ。
マサミはまともな教育を受けていない。記憶も無い。中等部での成績は最低だった。
ゼロから学び始めた。初等部の内容から学習を続けた。
やがて同級生の成績に追いつき、そして高等部になる頃には追い越した。
一般的なヴァルキューレの生徒に比べれば優秀といえるまでになった。
またマサミは戦闘技術を磨いた。カヤを守るためだ。
もとより身体能力は高かった。戦闘においての感覚も優れていた。
高い身体能力に技術が加わった。
生き死にの戦いをしていた経験がその能力を押し上げた。
銃の扱いも学んだ。あらゆる兵装を人並み以上に習熟した。
経験を積み、技術を培いマサミは力をつけていった。
カヤは頭が良かった。戦闘能力とは別に秀でた成績を残し評価されていった。
成長し、やがてカヤは連邦生徒会所属となった。
防衛室に所属し活動していく中でカヤは自由に使える戦力を求め、マサミがそれを引き受けた。
防衛室長になりしばらくしてからヴァルキューレ警備局内にてきとうな部署をつくり、マサミをそこに置いた。
表向きには目立たないようにして、決まった仕事はさせず自由に動けるようにした。
防衛室長を後ろ盾に、ある程度の自由裁量を認めた。
マサミは融通がきく私兵となった。名前の無い一人だけの作戦部隊である。
カヤの邪魔となる存在を、消していった。そうしてカヤの立場を強くしていった。
そうして現在の状況に至る。
秘匿すべきマサミの過去であり、また知られてはならないカヤの過去だった。
男の酒は、ウイスキーだ。
肝臓と胃には、これからも頑張ってもらわねばならない。
耐えろ。
アルコールと妄想で生きているんだ。
それでやっと、まともでいられる。