楽しかった迷宮協会見学の日から二週間、慌ただしいけれど平和な日々が続いた。
『料理の練習をします!』
『……どうして、包丁を両手で握ってるの?』
『これは、私なりの工夫です』
『工夫』
『この間お肉を切った時、凄く切りづらくて大変だなと感じました』
『うん』
『きっとあれは私の腕力が足りなかったからです。なら両手を使えば力は二倍、二倍切りやすくなるはずです!!』
『……なるほど?』
『た、大変ですイリアスくん! 切ったジャガイモがどこかへ飛んでいきました!!』
『お、押さえてないから、それは当たり前じゃ』
『押さえる、ですか?』
『普通、こうして片手で押さえながら切るもの、だよ?』
『ですがそうすると、両手で切れなくなりますよ?』
『両手で包丁を使うのは、誰かを刺し殺す時だけだと思うけど』
『……本当ですか?』
『え、た、多分。片手よりは、殺しやすいと思う』
『そこでは無いです』
『イリアスくん、大問題です』
『え、ど、どうしたの?』
『このまま包丁を下ろすと、今度は私の指が飛びます』
『どうしてそこに手を置いてるの……?』
『頑張って押さえようと思ったら、自然とこうなってました』
『そ、それだと危ないから、こう、手を握っておくの、猫の手』
『猫の手ですか?』
『うん。これ、握ってると猫の手みたいだから、そう言うの』
『……』
『もしかして猫、分からない?』
『大丈夫です。分かります』
『よかった。じゃあ、ほら、やってみて』
『……』
『?』
『……にゃ、にゃー』
『……???』
『な、なんて、冗談です』
『………………………アリスは、猫になりたいの?』
『う、うぅ、じゅ、純粋な目が痛いです……!』
『……違うんだ。じゃあ、今の何?』
『うぐっ』
『その辺でやめてやれ、イリアス』
『あっオウル』
『これくらいのガキは時々、衝動的にああいうことをしたくなるもんだ』
『へー』
『お前にもいつか分かる。とりあえず、今は黙って見守ってやれ』
『そうする。頑張って、アリス』
『生暖かい目が辛いです……!!』
料理一つ、包丁の取り扱い一つ取っても、こんな感じにあたふた大騒ぎ。他のこともなんだかんだ似たようなものだった。あれ、これ本当に平和だったのかな。疑問は残るけど、過ぎたことだし誰も死んでいないから気にしないことにする。
とにかくそんな日々を過ごしていた僕は、とあることに気がついてしまった。最近、全然迷宮行ってない。
「ねぇねぇオウル」
「おー?」
「今日迷宮行ってもいい?」
「……そういや、アリスが来てから一回も行ってねぇな。いいぞ、仕事も家事も俺がやっとく」
「うん、お願い」
気だるげに裁縫をしていたオウルがそのまま答える。いつものことだから返事も適当でこっちを見向きもしない。毎回そんな反応だから僕も慣れて、雑に手を振る背中へお願いするだけ。
「……は?」
だけど、アリスは違った。突然『竜骸』を目の当たりにした人のような、自分の目と耳を疑うような声を漏らす。
「えっちょ、ちょっと待ってください。イリアスくん、今なんて言いました?」
「な、何って。今日、迷宮行ってもいい?」
「オウルさんは!?」
「いいぞ?」
何かおかしなこと言ったっけ? 心当たりが無くてオウルを見ると、あっちも無さそうだった。お互いの顔を見て同時に首を傾ける。なんでアリス怒ってるの? さあ、俺は知らん。無言のやり取りをしても、結局何もヒントは出て来ない。
僕達が呑気なことをしている間にも、アリスの怒りは大きく燃え上がっていた。かつかつと大きな足音を立ててこっちに歩いてくると、その勢いのまま僕を抱き寄せる。近づいて来て何をするかと思えばこれ。予想外の行動に、僕は目を白黒させてしまう。
「見損ないました、オウルさん!!」
突然見損なわれたオウルも僕と同じく、瞬きを繰り返していた。
「イリアスくんはまだ十一歳です! まだ、迷宮協会の規程年齢にも到達していません!!」
「……おぉ、そういやそうだったな。だがありゃ、有名無実なもんだろ。現にその辺のガキでも潜ってる奴はいるぞ」
「ですがそれは、随行する大人の探索者がいるからです。イリアスくんはきっとソロ、ギルドにもパーティにも所属していませんよね?」
「えっうん」
「やっぱり!」
やっぱりらしい。アリスと出会ってからの、ここ二週間の言動を振り返ってみる。やっぱりだった。僕が深く納得している間も、アリスの追及は止まることを知らなかった。
「オウルさんは一緒に行かれないんですか?」
「あんな面倒な場所行ってたまるか」
「なのに、イリアスくんには行かせるんですか!?」
「別に俺がやらせてる訳じゃ、つーかどっちかと言えば俺は、あぁこれ説明かったりぃな」
頭を掻きながら面倒そうに呟いたオウルは、投げやりな言葉を僕にぶつける。
「おいイリアス、今回は自分で何とかしろ」
「えっ!?」
「これも練習だ練習。いい感じに説得しとけ、俺はちょっと外に出る」
「待ってください、オウルさん! まだ話は」
「おうおう後でな」
ひらひらと適当に手を振って、アリスの怒りなんてものともせずオウルは出かけて行った。アリスに抱き着かれたままの僕はそれを引き留められない。そしてそのアリスの標的は、オウルが逃げたことで僕へと移っていた。
「イリアスくん、探索者でもない私が言っても説得力はありません。でも迷宮はとても危険で、いつ大怪我を、いつ死んでしまってもおかしくない場所です」
「えっとね、今まで何度も行ったけど、別に平気だったよ?」
「今までは無かったとしても、これからもそうだとは限りません。イリアスくん、これは命にかかわる問題なんです。起きてからでは遅いんです。もし死んでしまったら誰にも、神様でもどうにも出来ないんです」
それはその通りだ。神様は会ったことが無いから分からないけれど、僕は当然先生すら死者を甦らせることは出来ない。死んだ人の魂はすぐに世界が回収し、内部に蓄えられた情報を洗浄した後、次の命に再利用するからだと先生は教えてくれた。
「たとえ名の知られた探索者であっても、たった一つの間違いで命を落とすこともあると聞きます。それでもイリアスくんには、何か絶対安全だと言える根拠があるんですか?」
「それは」
根拠根拠。一番早いのは強さを証明することだけど、それはとてもとても難しい。アリスは戦う人に見えない。僕の見立てだと野良猫にも負けそうだ。そんな人に強い弱いの判断がつくだろうか。
そもそも証明出来たとして、じゃあなんでそんなに強いの、なんて聞かれたらもの凄く困る。クラス云々スキル云々は話せないし、魔法や僕の生まれなんてもってのほか。だけど追い詰められた僕はこのことも、『竜骸』のことも全部口を滑らせてしまうかもしれない。
「お願いします、イリアスくん。どうか、考え直してください」
「で、でも、先生のお願いがあるから」
「先生というと、イリアスくんを育てた方ですか?」
「うん。どうしても迷宮の一番奥に用事があるけど、自分は入れないから僕にお願いって」
「なんですか、それ」
どんどん温度を上げていたアリスの声が急激に冷え込む。だけどこれは冷静になった訳じゃない。むしろ沸点を超え、取り返しのつかない場所まで辿り着いたということ。僕でも分かるくらい、かつてないほどアリスは怒り狂い始めていた。
「迷宮の一番奥? そんなもの、人類が諦めてからいったい何百年経っていると。そんなことに、今更何の意味が」
「それは、知らない。教えてもらってない」
「……ありえません、信じられません! イリアスくんに命を懸けさせておいて、理由も教えない? そんなの、意味が分かりません!!」
何が引っかかったのか、アリスのボルテージがますます上がっていく。僕の背中に回していた腕を乱暴に両肩へ乗せ、アリスは正面から僕のことを見つめる。そして先生への怒気に溢れた顔のまま、問い詰めるように口を開いた。
「イリアスくんは、どうしてそんな人の言うことを聞いてるんですか!?」
「せ、先生は小さい頃から僕を育ててくれた人で」
「それは知ってます! イリアスくんはまだ、気づいていないかもしれません。それを、育てたことを恩に着せて、子供の情を利用して何かを強制するのは、人として最低のことなんです! それに気づいた時の裏切られた気持ちを、育てられた側の気持ちなんて、その人は」
「アリス」
絞り出すように、身を切るように、アリスが何か言葉を続けている。だけどそれよりも、見過ごせない言葉があった。
「先生を、悪く言わないで」
「っ」
「言われると悲しくなる。アリスに嫌なこと、思っちゃう」
小さく、アリスが息を呑む音が聞こえる。瞳が、心が揺れるのを感じる。それでもアリスは止まらなかった。
「……いえ、言います! 言わないと、止めないと、イリアスくんが危ない目に合うなら、私は!!」
何を言われても止まらない、僕が迷宮に行くのをやめるまで諦めない。そんな気概すら、今のアリスには感じる。そんなアリスを納得させる言葉を、論理を僕は持っているだろうか。
絶対に持っていない。嘘も説得も下手。仮に力を証明しても、その源は教えられない。どうしようもない。それでも、迷宮には行かなきゃいけない。僕にはやるべきことが、やらなきゃいけないことがある。
「あ、アリス、放して」
「放しません! どうしても行くのなら、私のことくらい引き剥がしてください!!」
「痛い思い、させたくないから。放して?」
「駄目です!!」
どうしよう。どこまでやっていいのか、アリスがどれだけ頑丈なのか分からない。無理矢理力で引き剝がすのは論外だから、出来ればアリスから離して欲しい。口では駄目、力でも駄目。それでも何か、僕ならなんとか出来る方法を持っているはず。
僕が思いつくのと、僕が諦めたとアリスが勘違いしたのはほぼ同時だった。
「イリアスくん、今日も私と一緒にいてください。私まだやったことないことが、やってみたいことが、まだまだたくさんあるんです。だから」
「……ごめんね」
「えっ、きゃっ!?」
肩に弱い静電気を流すと、生理的な反射でアリスは肩から両手を離す。その隙に僕はアリスから離れ、居間の出入口まで移動する。一瞬の出来事に目を丸くするアリスへ、迷いながらも僕は一言声を掛ける。こんな状況でも、これだけは言っておかないと。
「ぼ、僕は大丈夫、絶対大丈夫だからっ。行ってきます!」
「待ってくださいイリアスくん! 待って!」
呼び止めるアリスから逃げるよう、そのまま僕は家を飛び出した。
「もしかしたらって思ってたけど、そんなことは無いか」
夢幻迷宮三層の最奥で僕は今回も失望のため息を吐いた。デルファで一番の僕にダメージを与えた魔法陣は、この前見た時と何一つ変わっていない。再編でちゃっかり違う条件になっていないかなぁ、なんて儚い願いは夢のまま終わった。
『仲良し二人組で使ってね!』
今日も見るだけで気分が重くなる。アリスの記憶もだけど、こっちのこともそろそろ考えないと。そろそろ先生との定時連絡の日が来る。全然まったく、何にも前の日から進んでない。絶対先生は怒りも失望もしないだろうけど、期待に応えられないのが悔しいし苦しい。
と言っても何にも方法が思い浮かばない。また同じところに悩みが戻って来る。仲間や友達はあれだし、奴隷も今になって思うと、とてもとても問題がある気がする。人の命を、人生をお金で買う。やっぱりよくないことだ。こうなったら、オウルを縛って無理矢理連れてくるのが一番現実的かもしれない。他の人ならともかく、オウルなら死なないから大丈夫。絶対怒るだろうけど。
ブチギレオウルを想像しながら立ち上がる。今日も奥、四層へは進めなさそうだ。特に用事も無いから、今日はもう帰ろうかな。そう考えた瞬間アリスの顔を思い出して、僕は再び腰を下ろした。
ちょっと、帰るのが気まずい。引き留める、心配するアリスを、僕は強引に引き剥がした。あの言動がアリスの思いやりだということくらい、いくら僕でもよく考えれば分かる。
だけどアリスだって悪いと思う。誰であっても、僕でも大事な人を否定されたら嫌な気持ちになる。それを僕が死ぬとか死なないとか、そんな余計な気持ちでするなんて。今この世界で僕を殺せるのは先生と、きっとオウルが隠してる何かくらい。だからいらない心配なのに。
ううん、これは駄目だ。僕の強さをアリスは知らないし、隠してるのは僕。今日こうなったのは、僕に大体の原因がある。それに、こんなぐだぐだ言い訳と文句を重ねるのはとても格好悪い。それは分かってる、分かってるのに、このまままっすぐ帰る気分にならない。帰ってもどうせまた、平行線になるだけだから。
どうすればいいのか。あれこれ考えた僕が出せたのは、結局時間稼ぎのアイデアだけだった。
そうだ、迷宮でお土産を探そう。
次回「一層『森』」です。