アリスと無事仲直り出来てから一週間ちょっと、今日は春らしい爽やかな陽気。そんな日に僕は銀の鏡の、先生の前で滅茶苦茶正座していた。
月一の定時報告中、奴隷という言葉が出た途端先生の眉が動いたからだ。これはもの凄く不愉快な時の反応。そう判断した僕の動きは速かった。音は当然として雷も超えた。その内きっと、光も追い越せるはず。
『奴隷商を利用しかけた、ですか』
「反省してます。人をお金で扱うって、凄くいけないことなのに」
『手段を選ぶなと貴方に告げたのは私です』
「でも実際悪いことを選んだ、しようとしたのは僕です」
『……ふむ』
けれど先生はなんだか考える素振りをしても、全然怒ってる感じはない。お説教への不安が疑問に移り変わる。それを視線に乗せていると、先生から不思議な質問が飛んで来た。
『では、何故悪事はしてはならないのでしょうか』
「……傷つく人がいるから?」
『それは情によるものです。他に思い浮かぶ理由はありますか?』
「えっと、真面目な人が、頑張っている人が、そのせいで大変になるから、です」
『それも貴方の優しさです。他の理由を、私からは実利の話をしましょう』
お説教じゃなくて授業の時間だ。正座はそのまま、背筋を伸ばして先生の言葉を待つ。
『まずは根本的な話を。悪とは、すなわち弱さです』
「………………つまり逆に考えると、僕は世界で一番正しい?」
『力の強さではありません。心の問題です。加えて、悪の反対は正しさではありません』
「そうなんですか?」
『こちらはより複雑な話になります。今は覚えておくだけで構いません』
世界で一番正しいのは自分だなんて考えたこともなかったから、あっさり冗談を否定されて安心する。
『自身の欲望に負けて法を、他者を、己を踏みにじる行いを選ぶ。それは悪しき行いであり、紛れもない弱者の在り方です』
「自分のことも」
『悪が、弱者が裏切っているのは、誰よりも過去と未来の自分です』
よく分からない。けれど先生は特別解説を付け加えたりしないみたいだから、これも今は覚えておくだけでいいんだろう。返事と頷きを繰り返し、頑張って授業の続きを聞く。
『人間には同類と群れる習性があります。弱さも、悪も同様です。悪は悪を呼びます』
「悪いことをすると、悪い人を寄って来る?」
『その理解で問題ありません。そして悪事を働く度、その悪人との関係は深まるでしょう。そうした繫がりはより強大な悪意を招き、その螺旋はやがて取り返しのつかない結末をも導きます。故に悪から身を離すことは、ある種最高の自衛と言えます。これが実利の一つです』
実利が自衛、自衛。身を守るためと言われてもぴんと来ない。例えどんな悪い人に襲われたとしても、僕ならその場で返り討ちにすればいいだけ。僕のそんな浅い考えなんて、先生は当然お見通しだった。
『確かに、クラスとスキルに支配されたこの世界で貴方を殺める、傷つけられる人間は存在しません』
そこで言葉を止めた先生は、じっと鏡越しに僕を見つめる。
『しかし、心は別です。貴方はまだ幼く、今もなお純粋なまま。人の弱さは必ず、容易く貴方を傷つけ、大きく歪めます。貴方は貴方の心を守るため、人の闇から距離を置かなければいけません』
正直言って、先生が言いたいことの半分の半分も理解出来ていないと思う。それでも一つだけ、僕にも分かることはある。先生は僕のことを心配して、こんなにもたくさんお話してくれている。駄目とかやめなさいとか一言で切り捨てないで、色々な言葉を考えてくれている。
そう思うと、自然ともう一度頭が下がっていた。
「……ごめんなさい、先生。よく考えないで、楽がしたくて、勢いだけで変なところに行きました」
『いいえ、私も少し感情的になりました。先ほども言った通り、手段を選ばないよう指示したのは私です。何よりも、まずはこちらを告げるべきでした。よくやりましたイリアス。貴方の施しを誇りに思います』
「ありがとうございます!」
褒められて嬉しくなって、謝っていた途中なのについうっかり顔を上げてしまう。落ち着きが無いって叱られちゃうかな。そんな予想は先生の深く考えこむ様子に裏切られた。
『…………ところでイリアス、話は変わりますが』
「はい! なんでも話してください!」
『貴方が助けたという少女、どのような子ですか?』
「……アリスがどんな子、どんな子」
『簡単に、単語程度でも構いません』
「それなら、物知りで優しくて、凄く綺麗な人?」
『ほう』
感情を無意識に漏らす、息のような声。先生がこんな声出すのは珍しい。しかも多分これ好奇心だ。先生はいつもいつでも何でも知ってますって雰囲気だから、珍しいどころか初めてかも。
「先生、アリスに興味あるんですか?」
『そうですね。ちょうど今、個人的なものも生じました』
「じゃあここに呼んで、あっでもこの鏡は秘密のだから」
『その必要はありません』
向こう側の先生が指を振ると、一瞬にして鏡が小さく、手鏡のような形になる。
『これなら隠し持てるでしょう』
「小さくなった、凄いです! この鏡、こんな機能あったんですね!」
『その他にも、蓄えた魔力を利用した熱光線や録音録画再生、自爆機能などがついています』
「盛りだくさん。でもこれって、連絡用の道具ですよね。そんな機能いるんですか?」
『必要ない可能性の方が高いでしょう。しかし個である限り想定外は起こり得ます。故に、想定内には全て対応策を用意する。それが魔女です』
難しくてよく分からないけれど、なんだか格好いいことを言ってる気がする。格好いい先生がそんなことを話すから、二重で更に格好いい。自分で言うことじゃないけど、語彙力が全く無い。
先生を映した鏡を抱えながら一階に降りる。途中、先生がひっそりと聞いて来た
『……確認が遅れましたが、奴隷商などというものをどこで知りましたか?』
「オウルからです。金も縁も駄目なら奴隷なんてどうだーって」
『やはりそうでしたか。話があるから一人で来いと、後であの男に必ず伝えてください』
「僕も一緒にお話したいです。だめですか?」
『………………いけません。貴方には刺激が強いでしょう』
駄目らしい。なんだろ、大人の話かな。
僕が自分の部屋に行く前と変わらず、一階の居間でアリスはオウルと並んで座り、ちくちくと何かを縫っていた。
「オウルさん、これはどうでしょう」
「俺は化物を作れとは言ってない」
「そんな化物なんて。よく見てください、猫ちゃんですよ?」
「化け猫にもなれてねぇ」
「酷いです!」
どうやら刺繍をしているらしい。廊下から手鏡片手に覗き込んで、先生にアリスを紹介する。
「あの女の子がアリスです」
『イリアスが褒めるだけのことはあります、が』
含むようにそう言ってから、先生は一瞬何か考え込んでいた。
『あの少女には記憶が無い。それは確かですか?』
「今も全然って、この間言ってました。そういえば先生、先生なら記憶喪失も治せますか?」
『無論です。しかし、その前に確認すべきことが出来ました。イリアス、このまま近づいて普段通りに接しなさい』
「分かりました! ……よーし、普段通り、普段通りに」
『……言葉を変えましょう。何も考えずに行きなさい』
「はーい」
先生の言う通り頭空っぽにして部屋に入る。お腹空いたなぁ。お昼何にしようかなぁ。アリスも慣れて来たし、ちょっと難しいやつ挑戦しようかなぁ。怪我とかしないよう、ちゃんと見ておかないとなぁ。
言われた通り何も考えずに居間に足を踏み入れると、アリスがすぐに気づいて顔を上げる。今日もぴかぴか笑顔が眩しい。
「あっイリアスくん、お部屋のお掃除は終わりましたか?」
「……終わったよ?」
「終わってねぇな、これ」
先生への報告の名目として伝えたこと。いつも先生に叱られないよう、連絡前にしているから嘘ではない。掃除は苦手だからあんまり丁寧とは言えないけれども。胸を張って綺麗とは言えないけれども。
オウルの鋭いツッコミに合わせ、先生の声が僕の頭にだけ響く。
『あえて伝えていませんでしたが、この鏡からは全方位を見ることも出来ます。よい機会なので言いましょう。イリアス、あれは掃除ではなく移動です』
元々バレてた。手鏡からプレッシャーを感じる。このままだと今度こそ授業じゃなくてお説教になってしまう。大慌てで話を切り替えようと周りを見て、アリスの手元に注目した。何あれ。
「そ、そんなことより、アリスはどういう魔物作ってたの?」
「猫ちゃんですよ?」
「まあ、言うのは自由だよな」
覗き込むと化物がそこにいた。
「……何猫?」
「子猫です」
「………………世界って、広いんだね」
「どういう意味ですか!?」
こんな子猫が世界には存在するなんて。流石アリスは物知りだ。僕はこんな不可思議生命体は見たことも聞いたことも無い。感心してまじまじと刺繍を見ていると、アリスに隠されてしまった。しかも難しい顔をして至近距離で見直しているから、これ以上手は出せない。残念。
『この隙に、鏡をオウルへ』
音の出ない声、鏡を通じた念話で先生から指示が届く。アリスがこっちを向いてないことを確認してから、オウルの手中へ手鏡を滑らせた。それを見た瞬間オウルの顔がものすごく歪む。
「げっ。お前、なんつーもん持って来て」
『その少女について急ぎ確認することがあります。今から言うものを全て、速やかに刺繍してください』
「はあ? 急に何言って」
『従うのであれば、特別に、特例で、今回だけは。あの子に余計なことを教えた罪は不問にしましょう』
「……………………ちっ、しゃあねぇな」
忌々しそうに強烈な舌打ちをしたオウルが、目にも止まらない速度で針を動かし始める。鬼気迫るその表情は、まるで死神から逃げる亡者のよう。邪魔しない方がいいな。そう判断した僕はアリスの隣に座る。
僕が近づいたのに気付いたアリスは顔を上げ、恨めしそうに僕を見つめた。
「そういうイリアスくんは猫ちゃん作れるんですか?」
「針仕事はあんまりだから、全然」
「なら一緒に練習しましょう!」
差し出された針と糸を受け取り、机に積み上がる布片を一枚手に取る。あくまでも練習用だから、そんなしっかりしたものでもない。引きちぎらないよう気を付けながら、僕も布に針を通し始めた。
それからしばらくして、なんとかかんとかやっと一つ完成した。横のアリスは僕より遅く始めたのにもっと早く終わっていて、途中から僕のおぼつかない手つきをにこにこ眺めていた。見てるの楽しいのかな。僕もオウルの作業見るの好きだから、似たようなものかな。
疑問に仮の答えを出して、アリスに完成品を見せつける。
「見て見てアリス。これなんだと思う?」
「ちょっと待ってください。……これはずばり、ダイコン、ですね」
「ウサギだよ。アリスは何にしたの?」
「今回は自信作です。どうでしょう」
「分かった、タマネギ!」
「ウサギです」
「……惜しい?」
「惜しいということにしましょう」
お互いに的外れな答えと作品をフォローし合っていると、頭に大きな手が乗せられる。見上げればオウルが馬鹿を見る目そのものを、僕達二人に向けていた。
「お前らな、ウサギは植物じゃなくて動物だぞ」
「いいんです! お揃いのモチーフで私は満足しました!」
「志が低い。いいか、ウサギってのはこういうのだ」
自慢げに出されたものを見て、僕とアリスは同時に感嘆の声を上げた。
「オウルはやっぱり器用だね」
「本当ですねー。ところで、どうして鎌を咥えているんでしょうか。オウルさんの鍛冶屋アピールですか?」
「違ぇ。こいつが首狩りウサギだからだ」
返事を聞いてアリスが眉をひそめる。あまりに物騒な名前だからか、それとも聞いたことが無いからか。どっちか分からないから、横から口を出してオウルの説明に付け加えた。
「迷宮の一層に出てくる魔物だよ。三匹で首を狙って跳ねて来るやつ」
「……イリアスくんも、遭遇したことがあるんですか?」
「うん。お肉が美味しいし、三匹出てくるから量もあってお得なんだ」
「だいぶ想像と違う答えが返ってきました」
眉間の皺が薄れ、ほっとしたようにアリスの肩から力が抜ける。代わりに何とも言えない苦笑いと微笑みの中間を浮かべていた。どういう表情?
不思議なそれを僕が観察していると、オウルがどこかわざとらしい口調でアリスに問いかける。
「アリスはどうだ?」
「えっ?」
「あーあれだ、仮に記憶を失くす前探索者だったなら、こいつを見たことくらいあるはずだ。何かこう、頭に引っ掛かりは無いか?」
オウルの不自然な態度に首を傾げながらも、アリスはオウルの刺繍をじぃっと見る。やがて目を閉じ一度頷くと、質問に答えた。
「……無いですね」
「そりゃそうか。んじゃ次だ」
「次って、他にも作ったの?」
「おう。お陰様で肩と目が痛ぇ」
眉間を揉み込みながら誰かに、多分先生に当てつけるようオウルが零す。やっぱり先生のお願いでこんなに作ったらしい。先生も先生で、なんでだろう。さっきオウルが言ったように、アリスの記憶を取り戻す手伝いのためかな。
二人の行動についての考えは、オウルが出した次の刺繍でどこかへ消え去った。
「……これは」
「うわトカゲじゃん。なんでこんなの作ったの?」
「トカゲ嫌いなんですか?」
「嫌いというか、存在してる意味が分からない。なんでこの世にいるんだろうね」
「い、イリアスくんから聞きたくない言葉が出てきました……」
劣等種。模造品。恥さらし。バジリスクの刺繡を見て思い浮かぶ言葉に蓋をする。一呼吸置くとちょっと過激な言葉な気もする。ならアリスは多分、こっちはもっと聞きたくないだろう。
「お前に見せてる訳じゃねぇよ。アリスはどうだ?」
「……いえ、ありません」
どこか寒々しく右手首を摩りながら、アリスは首を横に振った。アリスを石にしていたのはこのトカゲだ。頭の記憶には無くても、体か魂がその時の恐怖を覚えているのかもしれない。
僕もアリスも、こんなものを見ていても不快になるだけだ。早く別の物を出してもらおう。
「そんなのじゃなくてもっと綺麗なのがいい」
「だからお前に見せるためじゃねぇ。これならどうだ」
「でも聞くんですね」
「こいつうるせぇからな」
それからオウルは次々と刺繍を取り出した。
「四角い」
「四角い、ですね。オウルさんこれは?」
「その反応だと知らねぇか。そいつは魔帝国の最終兵器だ」
「……これが?」
「おう。なんでも真の力を発揮する時は変形するらしい」
「変形……変形……?」
「……」
「女の子。この子誰? オウルの子供?」
「聖王国の初代『聖女』だ。お前も絵画か何かで見たことはあるだろ」
「うん。でもあれ、なんか雰囲気違うっていうか、なんだか小さいような」
「あぁ、ありゃ相当美化されてるからな。実際はこんくらいちんちくりんだ」
「へー」
「しかも相当暴力的でな。祈るためより殴るために拳を握る方が多かった」
「……『聖女』?」
「なんでそんな名前になったんだろうなぁ……」
「イノシシ、でしょうか」
「その割に牙大きいね。じゃあ魔物?」
「当たらずとも遠からず、だな。連合国に伝わるカリュドンって化物だ。刺繍じゃ伝わらねぇが、歩くだけで地震を起こすような巨体だったらしい」
「名前には覚えがあります。ですが、確かそれは巨牛の名では」
「こういうのは文献によって描写の偏りがあるからな。特に古いもんだと著者による解釈が」
「ねぇねぇオウル」
「あん?」
「味は分かんないの?」
「は?」
「そんな大きいイノシシなら、倒した後絶対焼肉パーティーとかしたはずだよね。感想とか残ってないの?」
「……あのな」
「固くて筋張っていて臭くて、とても食べられたものではなかったそうです」
「いやあんのかよ」
こうしていくつも刺繍を出して質問してを繰り返し、結構な時間が経った。たくさんオウルの作品を見れて満足していると、疲労困憊って感じのオウルが僕を睨んだ。
「そろそろ時間か。イリアス、お前はもう掃除に戻れ」
「えー」
「えーじゃねぇ。さっさと終わらせて来い。おら、この鏡も持ってけ」
「わっ。投げないでよ」
「いいだろ別に。どうせ中身と同じでカチカチだから割れねぇよ」
もの凄く雑に放り投げられた手鏡をキャッチする。文句を言ってもオウルにはまったく響いて無くて、投げられた先生の方も全然気にして無さそうだった。
『このまま部屋に戻りなさい。鏡の魔力が尽きる前に、伝えるべきことがあります』
ただどこか、声が固くなっているような気がした。
言われるがまま部屋に戻り、話を聞く体勢を取る。またまた正座だ。まさかお説教なはずはないけれど、先生の雰囲気がなんだかおかしくて、ついついしてしまった。
「先生、お話しなきゃいけないことって」
『……イリアス』
「はい?」
『詳細を話す時間はありません。端的に告げますが、冷静に、心して聞きなさい』
「は、はい」
先生の言う通り鏡の魔力が切れてきた。鏡に映る先生の姿が薄れ、声にノイズが混じり始める。補充したくても僕がやると家が消し飛ぶ。それを分かっている先生は無駄な指示を出さず、淡々と語り出す。
『あの少女の癖を一つ確認しました。彼女は嘘を吐く、または誤魔化す際、無意識に手首を握り締めるようです』
「全然気づきませんでした、凄いです! それがお話したかったことですか?」
『いいえ、これは前置きです。本題は、あの少女が今も貴方たちに吐いている嘘のことです』
「えっ?」
間抜けな僕の相槌に一瞬視線を合わせてから、先生は嘘みたいなことを最後に口にした。
『あの少女は、記憶喪失ではありません』
次回「急襲」です。書き貯めが尽きたので来週更新です。
十五万字前後で一旦完結を目指しているので、あと6~8話くらい頑張ります。