「『聖女』とは聖王国メイシスが掲げる聖教、『トラゴエディア』の頂点に立つクラスです。その瞳には偽りを暴く神の光が、その手にはあらゆる傷病を癒す神の奇跡が、そしてその言葉には世界を導く神の祝福が宿る。聖教の経典にはそう書かれております」
「久しぶり、アリス」
「…………………………既に、全て御存じでしょう。『私』は『聖女』リリアンです」
「知ってる。でもこっちのが、僕にはしっくりくるから」
「……そう、ですか。構いません、どうぞ好きにお呼びください」
僕に許可を与えながら音もなく立ち上がり、緩やかに優雅にアリスは振り向いた。そのままフードの中からじろじろ、僕の全身をくまなく観察する。視線を追おうとしたらすぐに逃げられ、その上断ち切るように質問を投げられた。
「それよりも、どうして、どうやってここに。見張りの者はどうしましたか?」
「アリスと話したかったから来た。見張りの人は、えっと、簀巻きにしました」
「簀巻き?」
「うん。こう、バキッとしてから、ぐるぐるーと回して」
「……まあ、いいでしょう。話とはなんでしょうか」
素直に話を聞いてくれるらしい。意外だ。このすんとした話し方からして、ひと悶着ありそうだと踏んでいたのに。疑問が態度に出ていたのか、アリスは僕よりも早く口を開いた。
「あの二人を簀巻きに出来る方への抵抗など無意味です。『私』では、声をあげることすら出来ないでしょう」
「アリスにそんなことしないよ?」
「可能性の話をしています。イリ、貴方の人格は関係ありません。『私』の意思を気にする時間があるのなら、早く話を進めてください」
「そっか、じゃあ遠慮なく。まずは怒るね」
「っ」
催促までされたから、まずは一つ目。どうしても最初に言いたかったことを、思い切り叩きつけた。
「挨拶も無しにいきなり出ていくの、ちょっとどうかと思う!」
「それは」
「まだ僕が怒ってる途中! 言いたいことは僕の後にして!」
「……」
アリスに口を挟まれるとせっかく頑張って怒っているのに、ついつい萎んでしまいそうになる。だからぴしゃりと相槌を叩き落として、ついでとばかりに腰に手を当て思い切り指をさす。まさに怒ってるって感じの姿勢を保ちながら文句を続ける。
「一か月も一緒に生活してたんだよ? 自分のお家に帰るにしても、どこかにお引越しするにしても、お世話になりましたー、ありがとうーとか、そういうのちゃんと言いに来ないの、よくないと思う!」
「ですが」
「まだ僕の話終わってない! 普通お別れするにしても、パーティとかそういうのやるんでしょ!? それにお家の場所も聞いてないから、これじゃ手紙だって送れない!」
「ですが『私』は『聖女』、百七人目のリリアンです。別れの言葉は、あの日ダアト様へ伝言を頼みました」
「『聖女』がどうとかなんて話してない、関係ない! 人としての礼儀の話! というか、『竜骸』が伝言なんてする訳ないでしょ!」
「関係は、あります」
「どういう?」
「……」
「話せないなら、それはそれでいいよ。一言僕が言いたかっただけだから」
説明もごめんなさいも今はいらない。言いたいことをただ受けてもらいたいだけ。一つ目をとりあえず言い切れたことに満足し、そのまま畳みかけるように二つ目も突き付けた。
「次、そのローブのこと! しれっと持ってちゃってたよね!?」
「大変申し訳ございません。ゴルゴンのこともあり、あの日は着たまま」
「というか、なんか途中から当然のように着てたけど、それ僕の、先生からの誕生日プレゼントなんだからね!」
「……本当にごめんなさい。それは、それにはまったく、気がついていませんでした」
僅かに揺れる平坦な声で謝りつつ、アリスは丁寧にフードを下ろした。金色の髪がはらりと乱れる。それも気にせず、アリスは震える手でボタンを外そうと四苦八苦していた。
「お返し、いたします」
「今はいい。それより、もっと怒ることが出来たから」
「ぇ」
「アリス、ちゃんと寝てる? ご飯も多分食べてないよね」
俯いて顔を合わせてくれないからはっきりとは見えない。それでも分かるくらい、アリスの顔色はよくなかった。まるで石から戻った時のような、ううん、その時よりもずっと酷く青白い。もしかしたら下手な病人の方が、まだ血色がいいかもしれない。
「貴方には関係の、心配する必要の無いことです」
「それは僕が決めること。教えてくれたのはアリスでしょ」
「……」
「まだ着てて。このローブ、体力回復の効果あるから」
返答代わりにアリスはボタンから手を離した。このローブを着てるのにあれって、どれだけ体調悪いんだろう。もしかして重い病気だったりするのかな。まだ色々言うことがあったはずなのに、どれも心配に塗り潰されて消えていく。それで言葉を止めた僕を見て、アリスは抑揚なく囁いた。
「話は、これで終わりですか?」
「怒るのは終わりでいいや。次は質問」
「……巡回が来る前に、早く終わらせてください」
「じゃあ単刀直入に聞くね。なんで家から急に出て行ったの?」
「『聖女』としての役割を果たすためです」
はっきりと言い切られたものの、全然ぴんと来ない。そもそも『聖女』のことなんて知らないし、リンドウさんの授業も聖教の歴史だけで終わった。それが理由になるかどうかもまったく分からない。またしても当然のように、アリスは僕の疑問を読み取った。
「御存じないと思いますが、『聖女』の仕事は多岐に渡ります。聖都を守る古代結界の補修、各種儀式に関する指示や承認。他にも例を挙げれば切りがありません」
「ならそういうの、凄く溜まっちゃってるの?」
「いいえ。今は『聖女候補』の子たちが力を合わせ、手分けして処理してくれているでしょう」
「だったら、そんなに急いで帰る必要ないんじゃ」
「……ではもう一つ、理由があります」
そこで言葉を切って、アリスは二度三度、深く深く深呼吸をする。何故かその様子はいつか見た、自殺代わりに『竜骸』へ挑む探索者の姿を思い浮かばせた。今感じるはずのない不思議な雰囲気に首を捻りつつ、アリスが言うもう一つの理由をじっと待つ。
「一刻も早く、『聖女』としての生活を取り戻したかったからです」
「……? でも、アリスは今の暮らしを続けたいって」
「そんなことも言っていましたね。ですが」
またしてもそこで言葉を切る。さっき違うのは、そこに何か小ばかにするような、ふぅというため息がついていたことだった。
「飽きました」
「え?」
「言葉通りの意味です。確かに最初は、暮らし始めた当時は何もかもが新鮮で、全てを楽しめていました。けれど、それも一瞬のこと。何も変わらない毎日に、私は飽き飽きし始めていました。何しろ『私』は『聖女』、特別な存在です。このような街で一人の少女として生きるなど、とても相応しいとは言えません」
「ずっとここで暮らしたいって、あれは嘘だったの?」
「そうなりますね。恥ずかしながら、物珍しさに目が眩んでいました。言ってしまえば、ただの気の迷いでした。まさか信じていたのですか?」
僕を嘲るように問いかけてから、アリスは数歩後ろに下がった。そして僕に見せつけるように緩く両手を広げ、質問を重ねてくる。
「どうでしょう。今の私が嘘を吐いているように見えますか?」
「……ちょっと待って」
「ええ、いくらでも。好きなだけ観察してください」
その体勢のまま神秘的な微笑みを浮かべ、瞳を閉じながら鷹揚に答えるアリスの姿は、まるで一種の宗教画のよう。いつものように綺麗ではある、けれど。何も言わずにそれを見つめていると、ヒントでも出すかのようにアリスは口を開いた。
「私たちは一か月もの間、寝食を共にしました。鈍感な貴方でも、癖の一つや二つくらいとうに知っているはずです」
癖。嘘を吐く時の動作。僕が気づいた訳じゃないけれど、確かに一つ知っている。
「っ!?」
「痛かったら言ってね」
「……これでは、顔以外見えませんよ?」
「いいよ。見る必要なんて無い」
でもあんなの、もうどうでもいい。広げていた両手をなるべく柔らかく掴み取り、僕の胸元まで引き寄せる。自然とアリスも近づいて、文字通り目と鼻の先にお互いの顔がある。これではアリスの言う通り顔しか見えない。癖なんて探しようもない。だけどこれでいい。これで十分だ。
「さっき言ってた通り、アリスが嘘を吐く時の癖、僕知ってるよ」
「……へぇ、どのようなものでしょう」
「知ってるというより、教えてもらったんだけどね。そういう時、アリスは手首握るんだって」
「初めて知りました。しかしこれでは、その気づきも意味がありませんが」
「無くていいから」
「それは、どういう意味ですか?」
「これ教えてもらった時にね、個である限り想定外は起こり得る、誰でも間違いはするってことも聞いたんだ」
「だからその癖も、勘違いだと?」
「分からない。ううん、分からなくていい。分からなくても、僕はもう答えを決めてる」
先生がアリスの癖を教えてくれたのは、きっと僕を思っての優しさ。でも正直な話、最初からそんなことは聞かなくてよかった。知らなくてよかった。僕が僕の答えを決めるのに、アリスの癖がどうこうなんて何一つ関係ない、必要なかった。
「アリスは、嘘を吐いてる」
「……その根拠は?」
「僕がそう思いたいから」
「なにを、言って」
「楽しかったから」
理由なんて、これだけでいい。
「アリスが毎日とても楽しいって、ずっと楽しいって言ってたの、僕も同じだったから」
「……そんなこと、私だって知っています。ですが、『私』を信じる理由になんて」
「なる。僕はする。それくらい楽しかった。一緒に暮らすのも、一緒に何かをするのも、一緒にどこかへ遊びに行くのも、全部全部楽しかった。初めて友達が出来て、凄く凄く嬉しかった」
「友、達?」
「家族じゃなくても、一緒にいて楽しい嬉しい人。そういう人を、友達って言うらしいよ」
家族と呼ぶにはまだ遠いけれど、他人なんて言われてしまうと、とてもとても寂しくなってしまう。だから僕とアリスの関係を言葉にするなら、きっとこれが一番正解に近い。そして大切な友達を信じたいと思うのは、信じるのは当たり前のことだ。
「この一か月を嘘にしたくない。嘘になって欲しくない。だから、さっきの言葉は嘘だよ」
「駄目です。それは、いけません。全て、全て貴方の感情でしかありません。感情だけで判断して騙される方を、破滅する方を、『私』は幾人も見てきました。人は、人を騙す生き物です」
「かもしれないね。でも、今日は大丈夫」
「どうして」
「だってアリス相手だから。アリスのこと、僕は信じてるから」
その言葉に反応したのか、反射的にアリスが僕の方を向いた。
「やっと目が合った」
「ぁ」
「やっぱり、ちゃんと見えた方が安心するね」
クマが出来ていても、ちょっと頬がやつれていても、瞳の色は変わっていない。今日もアリスの目は青空みたいに澄み切った色のまま。雲一つない晴れ渡る空のように、それ以上に美しいままだった。これを見られただけで、今日会えてよかったな、という満足感と安心感が湧いて来る。
真面目な話の途中なのに、ついつい頬が緩んでしまった。そんな僕とは対照的に、アリスはどこまでも真剣な瞳で、縋るような必死な視線で、僕の目をじっと見つめている。
「……もう一度」
「?」
「もう一度だけ、このまま、私を信じると言ってくれますか?」
「何回だって言うよ。僕はアリスのことを信じる」
アリスが望むなら何回だって、何十回だって。そんな気概の元で言葉にした途端、アリスの目が潤んでいく。えっ、まさか、これは、この街に来てから何度も見た、させてきた光景。なんで、どうして。困惑と混乱が生じる中、やがてアリスの目元からそれが、涙がはらはらと零れ始めた。
「あっ、ご、ごめん、痛かった? 強く握り過ぎてた?」
「いいえ、いいえ、違いますっ。私がもう、耐え切れなかっただけです……っ」
「た、耐え? えっ何が?」
「イリアスくんは、イリアスくんなんだとっ、私を、『私』のことを知っても、イリアスくんにとっては何も変わらないのだと、本当に思っているのが分かって……!」
「それ前も言ったよ。何があっても僕は僕だし、アリスはずっとアリスのままでしょ?」
初めて一緒に配達した時にも言ったこと、当然のことを当然のように伝えただけ。それなのに、アリスの涙は止まるどころか増えていく。どうしよう、今まで泣いてる人は放置か追撃してきた。だから泣き止ませる方法なんて、まして女の子相手にどうすればいいかなんて全然知らない。とりあえず涙は拭ってあげた方がいいのかな。
慌ててハンカチか何かを取り出そうと手を離した瞬間、それを拒むように今度はアリスが手を伸ばす。そしてバランスを崩して、僕の方に倒れ込んで来た。ハンカチ片手に抱き止めると、そのまま両腕を背中に回された。右肩が温かく濡れていく。
「あ、アリス、大丈夫?」
「……ぁ……っ、ご、めんな、さい、少し、もう少し、だけ」
「……うん、好きなだけどうぞ」
アリスの細腕に力が入る。それでなんとなく思い出した。ずっと昔小さい頃、何かで僕が泣いた時、先生は僕を抱き締めてくれた。その時は確か、こう。おぼろげな記憶を頼りに手を動かす。片手を背中に、もう片方は頭に。どっちも優しく優しく。労わるように摩る。
「えっと、大丈夫、大丈夫だから。僕はここにいるから、ね?」
慰めるためにやっているはずなのに、アリスの震えは、涙は止まる気配はこれでも無い。やっちゃ駄目なことだったかな、と手を止めると、催促するみたいに嫌々と首を横に振られる。だから僕はアリスが泣き止むまで、頭と背中を恐々と撫で続けた。
次回「秘密の交換」です。