ついこの間人間の社会に飛び込んだ、デルファを訪れたばかりのユズリハでも、『竜骸』のことはあちこちで耳にしている。
迷宮協会長との面会や街を出歩いた時の噂、そして名実ともに『竜骸』担当となってしまったエリーとの雑談など。特に最後からは、悲喜こもごも満ちた話をよく聞いていた。
『あえて一言に押し込むのであれば、『竜骸』様は炎のようなお方です』
『全部焼き尽くすってことか? もし里に来たら、火事でエルフ絶滅するな……』
『あくまでも比喩なので恐らく、きっと、ほぼ無いと思われます、多分』
『断言してくれ。それにしてもお前、よくそんなの相手に仕事出来るな』
『こちらも私の想像に過ぎませんが、あの方に悪意はありませんから。ただ、あまりにも強く激しく、人が触れるには過ぎた方です。ユズリハ様もなるべく近寄らないようにしてください』
『ふーん。でも近くにいるお前は、案外結構平気そうじゃないか』
『……実は私、耐熱性でもあるのでしょうか』
『無いだろ、猫舌だし』
いつか交わした就寝前の会話が、急遽ユズリハの脳裏を駆け抜ける。彼女は気づいていないが生命の危機への防衛本能、俗に言う走馬灯であった。
彼女に、新人達に立つだけで死の恐怖を与えた『竜骸』は、ソドランに紹介されても微動だにしない。その異様な外観もあってまるで悪魔か魔神の石像のようだった。
硬直した空気を破壊するためソドランが適当に手を叩く。その音にびくりと震えた新人達は、『竜骸』も同時に動き出したことで更に慄いた。
「よし。じゃあ今日の流れについて説明する。つっても簡単な話、パーティ組んでる奴らはそれで、そうじゃないのは一人で『竜骸』の旦那と模擬戦をするだけだ」
「なっ」
「きょ、教官、正気ですか!?」
「言っただろ、危機的状況への対処だって。一番迷宮内でありえる命の危機は自分より強い敵に出くわすことだ。歯が立たないって言葉の意味を教えてもらえ」
そんなことを笑って言ってから十分後、ソドランは頬を引き攣らせながら『竜骸』へ声をかけた。
「……なあ、『竜骸』の旦那」
「どうした」
「背中押したのは俺で、そもそもあんたに依頼を出したのは会長だ。だがこいつは」
彼の瞳に映るのは死屍累々の光景だった。『竜骸』が入場するまでの希望に満ちた雰囲気はいずこや、今では荒れた墓場よりもよほど暗く重く寂れた空間と化している。
その一端を担う探索者の死体、もとい苦痛に呻く少年の下へソドランは身を屈めた。遺体の損害状況、ではなく負傷の具合を確かめるためだ。この場の責任者である彼には残念ながらその義務があった。
「おーい、生きてるかー?」
「ぉぉぉ」
「駄目だなこりゃ」
意味のある言葉を発さない少年の様子にソドランは心から肩を竦めた。両手も挙げたくなったので心のままに挙げた。お手上げだった。
意味不明な姿勢に冷ややかな視線を向けられるのを感じながら、彼はこの少年の末路を思い出す。『竜骸』との模擬戦に一番槍で飛び込んだ少年は誰よりも勇敢で、誰よりも愚かだった。
『は、はっ! 何が『竜骸』だ、ありえねぇ大げさな噂流しやがって! そんなこけおどし、俺が今日ぶち壊してやる!!』
十秒後ぶち壊されたのは彼の自信と装備だった。真っ二つに折られた剣をソドランは拾い上げ、せめてものと彼の傍らにお供えした。
続けてすぐ近くに倒れる二人の少女、二番目の犠牲者達へ彼は歩み寄る。
今では薄汚れてしまったお揃いのローブに刻まれた刻印が、この二人がどこか同じ組織の出身であることを示していた。そして先ほど耳にした遺言が、彼女達が先輩後輩の関係だったこともソドランに教えていた。
『せ、先輩、駄目です、逃げましょう! あんなの、人間じゃ』
『大丈夫、大丈夫だ! 君のことは、必ず私が守ってみせる!』
『先輩……!』
彼女はその言葉も、後輩のことも守れなかった。その無念を想い、ソドランは慰めにもならないと理解しながらも、白目をむく彼女達をそっと寄り添うように動かした。
それからも『竜骸』の暴挙は続き、今では一人を除いて全員が倒れ伏している。ただし、命と激痛を等価交換する『絶対死にたくなる魔法』により、今のところ肉体的な死傷者は出ていない。精神的にどうかは、彼らが目を覚ますまで断言することは出来ないが。
こうして一人ずつ丁寧に状態を確かめたソドランは、あまりの惨劇につい深い溜息を吐く。
「どいつこいつも酷ぇ顔だ。多分これじゃ全員、起きた後全部記憶飛んじまってる」
「それがどうした」
「いやなんつーか、その。何も覚えられねぇなら、この訓練何の意味も無くないか?」
「……道理だ」
自身も地面に横たわる覚悟をした忠告が素直に受け入れられ、ソドランは驚きに身を固まらせる。その上限りなく気のせい、勘違いだと確信しながらも、彼は『竜骸』の所作にどこか気まずさを覚えた。
まさかまさかと心は震えつつ、死地を生き抜き続けた思考は冷静に回転する。一つの可能性に行きついた彼の頭脳は、『竜骸』へささやかな提案を取り出した。
「だから出来れば、出来ればでいいんだけどよ、もうちょい加減してもらえりゃ」
「分かった。善処しよう」
「おぉ、おお! 助かる、頼むぜ旦那ッ!」
予想外に快い肯定を得た彼のテンションはうなぎ登りだ。その高揚を携え、彼は最後の犠牲者へ意気揚々と声をかける。
「待たせちまったな。そんじゃとうとうエルフの嬢ちゃんの番だ。頑張りな!」
「いや出来るかアホ!!」
「口悪」
エルフは高貴で神秘的な存在である。幼い頃に読み聞かされた幻想が砕かれ、ソドランは密かにちょっとだけ傷ついた。そして上がり切っていた気持ちもすっかり沈んでしまった。
もちろん一流の元探索者、現傭兵である彼はそんな感情などまったく表情には出さない。何よりも続く言葉があまりにも真っ当な意見だったおかげで、彼は理解ある素振りすらすることが出来た。
「この流れで挑む馬鹿がどこにいる! 私は殴られに来た訳じゃない!」
「そりゃそうだ」
「……ならば攻撃はしない」
口を挟む『竜骸』に二人の視線が集まる。
「攻撃はせず、回避と防御に徹する。それでいいか」
「旦那はこう言ってるが、どうする?」
「む」
『竜骸』の提案にユズリハは思わず考え込んでしまった。攻撃されない、命と正気の保証がされているのであれば『竜骸』との、類まれな強者との模擬戦は彼女の琴線に触れるものだったからだ。
腕を組み、むむむと唸るユズリハ。誰がどう見ても大いなる葛藤の最中にあった。そしてその悩みはしばらく終わらない。これも一目見れば分かることだった。
だからこそソドランは、目を泳がしながらも『竜骸』へ話しかける。彼にとっての矜持を守るために。
「あー『竜骸』の旦那、こいつは講習とはまったく関係ない話なんだが」
「どうした」
「あれだ、この間、ゴルゴンの時は助かった。旦那のおかげで街にも仲間にも被害が出なかった」
「……」
「やっぱ覚えてねぇか。実はあん時、俺も『門』のところで傭兵として戦ってたんだ。だからいつか礼を言わなきゃならねぇと思ってたんだが」
「受けた依頼を果たしたに過ぎない。それに」
「?」
「………………加勢を、決闘の際に援護を受けたのは、こちらも同じだ」
ソドランが目を見開くのと、ユズリハが大声を張り上げるのはほぼ同時だった。
「……よし!」
「うわびっくりした。なんだ、決まったのか?」
「ああ! そこまで譲歩されて逃げては、エルフの誇りに傷がつく。『竜骸』ダアト殿、一手指南願おう!」
ユズリハの決意に、ソドランは内心弔いの祈りを捧げた。
十数歩離れた場所から改めて『竜骸』と対峙し、ユズリハは思わず固唾を飲んだ。
エルフの里の象徴である千年樹、世界樹とも呼ばれる大樹、古来よりエルフが崇める白銀の女神シロガネ。これまで目にした大いなる存在と同等、もしくはそれ以上の圧力が彼女の全身を打っていたからだ。
たった一人の人間からこれほどまでの重圧を感じることにユズリハは戦慄を隠せない。固めたはずの決意に罅が入る。存在しないはずの重力により彼女は動くことが、しばらく構えることすら出来なかった。
「来ないのか」
「……気を整えていただけだ」
『竜骸』の無神経な問いかけに答え、続けて深呼吸を重ねる。その程度では心臓の鼓動は戻らない。首筋を走る戦慄は止まらない。背中に流れる冷汗は収まらない。けれども、心に新鮮な空気を取り込むことは出来た。
(シロガネ様、クロガネ様、どうか私にご加護を)
深呼吸と祈りによって取り戻した戦意を胸に、彼女は腰から剣を抜き上手に構える。その刃の異様に、離れて見学しようとしていたソドランが眉をひそめた。
「あれは、木剣か?」
訓練という名目に従えば、確かにその選択は正しい。だが『竜骸』へ向けるにはあまりにも頼りなく見えた。今からでも遅くは無い。何か別の剣を貸すべきか。
そんなソドランの逡巡を置き去りに、ユズリハは剣に魔力を集める。迸る鮮やかな緑が彼女の木剣を走り、やがて刀身へと収束していく。
輝きが最高潮に達したのを魂で感じた彼女は、その力を解き放った。
「『空破・連』ッ!」
斬撃を飛ばす剣士の代表的スキル、『空破』。彼女が放ったのはその発展形だ。威力を落とす代わりに速射、連射性を向上させた連撃が容赦なく『竜骸』へ襲い掛かる。
そしてその斬撃を追うようにユズリハは踏み込んだ。あくまでも今のスキルは牽制。音に聞く、つい先ほど目の当たりにした『竜骸』の力ならあの程度の刃など掠りもしない。安全圏からの攻撃など何の意味も持たないだろう。
「シッ!」
であれば目指すは懐、全力の一撃を直撃させることのみ。
羽虫でも払うように『空破』を弾く『竜骸』に向け、彼女は更に踏み込み加速する。牽制とはいえ、自らの斬撃をあれほど容易くかき消す相手に怯えを感じるのは当然だ。
それでも彼女が前に進めるのは、積み重ねてきた鍛錬とその身に流れる誇り高き血筋、そして攻撃をしないという口約束があるから。
それは剣士として、戦士として恥じるべきものだ。彼女はその恥と恐怖を奥歯で噛み殺し、力へと咀嚼する。
魔力とは魂から生じる衝動。かつてないほどに沸き立つ彼女の心は、生涯最高の出力を発揮した。先の一撃を遥かに超えた輝きがユズリハの木剣に宿る。
「『風牙、一閃』ッ!」
緑光に後押しされた疾風の横薙ぎを、「竜骸」へと振るった。
これがユズリハの持つ最大の一撃、大木すらも容易に両断する風の刃を剣と共に振るうスキル。
たとえあの『竜骸』でもこの距離ならば避けることは、防ぐことは難しい。そして当たりさえすれば、『竜骸』であっても無傷では済まないだろう。鎧に傷を、もしかしたらこちらが命を奪ってしまうかもしれない。
彼女にとってはそれほど完璧で、それほど自身の持てる技だった。
しかし、そんな彼女の高揚は一瞬で刈り取られる。
「な……」
ユズリハの剣は指で摘ままれていた。
まるで石か豆でも取るような、無造作な手つき。その指先には彼女が期待した傷など無く、悪魔染みた黒き輝きは変わっていない。彼女が繰り出した渾身の技は、『竜骸』に何一つ変化を及ぼしていなかった。
やがて正気に返った彼女が剣を取り戻そうと力を込めてもびくともしない。文字通り絶望的な力の差がそこにはあった。
結局剣が自由を手にしたのは、『竜骸』が指を放してからだった。唐突に行き場を失った力に惑わされ、ユズリハは無残にも後方へ転げ落ちる。それでも彼女は反射的に受け身を取り、敵から目を逸らさない。長年の訓練により染みついた動きだった。
だから見てしまう、気づいてしまう。窺えないはずの瞳が、『竜骸』の冷え切った眼光が、ユズリハの一挙一動を眺めていることに。そこに、何の期待も関心も込められていないことに。
「っ」
悲鳴を飲み込ませたのは、彼女のなけなしの誇りだった。
「これで終わりか」
「……まさか、そんな訳ないだろう」
「ならばどうする」
「まだまだ、私に付き合ってもらおうッ!」
そう叫び、彼女は再び立ち上がった。
だけどこれ、攻撃されるよりもよほど心折れるものでは。
ユズリハがそう思い至ったのはそれから二十分後のこと。自身の持つ全ての技を完全に防がれ、自信をぼろぼろの極みにされてからだった。
「こんな感じにね、ちゃんと無事に訓練出来たよ!」
「……アリス、次があればお前もついてけ」
「分かりました。イリアスくん、今度は微力ながらお手伝いしますので、一緒に頑張りましょうね」
「うん、よろしくね! ……あれ?」
次回「お見舞いと推察」です。