迷宮協会が新人探索者への新たな殺害予告を立てた翌日、イリアスは自身の部屋で通信用の魔法道具、銀の鏡に向けて今月の出来事を語っていた。無論相手は彼の師、白銀の魔女である。
過去一番に濃い報告を聞き届けた彼女が最初にしたことは、弟子を慮ることだった。
「『聖女』を巡る聖王国との決闘に迷宮の出した新たな課題。そして森を出たエルフとの遭遇や新人探索者への講習会。どうやら慌ただしい一月だったようですね」
「ごめんなさい先生、迷宮の方は全然進みませんでした」
「謝る必要はありません。もとより、あれは長く向き合うべきものです」
頭を下げるイリアスは、彼女の言葉から零れる含みにはまったく気がつかない。師の寛容さに喜び顔を上げ、満面の笑みで礼を返すだけ。家を出る前となんら変わらない振る舞いに魔女は満足していた。
しかし、しばらくの間弟子をまじまじと眺めていた魔女の眉が突然ぴくりと動く。
「それよりもイリアス、何か話したいことがあるようですが」
「やっぱり、分かりますか?」
「当然です」
言葉少ない肯定には彼女らしからぬ自負が透けて見える。イリアスはこれにも気づかない。生来の鈍感さもあるが、今日に関しては気まずさも大きかったからだ。
続きを促す魔女の視線、人によっては射殺されると感じるそれを受けたイリアスは、やがて観念したように口を開く。
「先生が誕生日にくれた、このローブなんですけど」
「ええ」
「調子がその、悪くなっちゃって。自爆とか光線とか、使えなくなっちゃったみたいです」
「見ます。近づけなさい」
おずおずと脱ぎ、差し出されたローブを鏡越しに魔女は観察する。物理的視覚上では新品同様、白銀の輝きはまったく衰えていない。原材料である魂喰み森林原産、白磁蜘蛛の糸は今日もその名に恥じない美しさを見せていた。
彼女は続いて魔法陣を自身の周囲、そして鏡の向こうへと顕現させる。対象の巡った因果を読み解くその魔法は、ローブの辿った歴史を彼女に語りかける。
「……術式に不備が出ていますね。恐らくは先のゴーレムが成したという逆行、時流操作によるものでしょう」
「あっはい。ちょうどその時から、決闘の後から変になってて」
「あの程度の干渉、貴方であれば防げるはずですが」
「えっと、その時はアリスに貸してたから」
魔女の動きが、術式の回転が、空気が止まる。今回はさしものイリアスでさえ、雰囲気の変化を感じ取った。そこそこ見知ったものだから、というのもある。
彼の感覚は告げていた。間違いなくこれは、先生が機嫌を損ねた時のものであると。
「例の元『聖女』ですか。まだその家に?」
魔女の声は基本常に冷たく平坦である。かつて、冬の海のような静けさと例えた友もいた。
だが今放たれた声はそんな生易しいものではない。炎だって凍らせられるかも、などと不可思議な比喩がイリアスの胸中を過ぎるほどだった。
「ならばよい機会です。イリアス、その少女をここへ連れて来なさい。話があります」
「……うーん」
「外出中であれば一度通信を閉じます。戻り次第、再度連絡を」
「います。いますけど」
弟子の珍しい歯切れの悪さに、魔女は常人でも見抜ける程度に眉をひそめた。
「先生、アリスに意地悪しませんか?」
「……何故、そのような疑問を?」
「だってなんだか、そういう時のオウルみたいな雰囲気してたから」
ここまで言われてやっと彼女は自身の虫の居所に、そしてそれを弟子に感づかれていることを察した。
生じた恥も混ぜ、落ち着くよう何度か息を吐く。あまり聞いたことのない重い溜息は、ますますイリアスの心配を加速させた。
そんな彼を安心させるためか、自分の要求を叶えるためか。彼女は意識して口調に熱を、凍らない程度の冷たさを乗せ、渋るイリアスへ説得を試みる。
「私は、無益な行いなどしません」
「本当ですか?」
「私が貴方に嘘を吐いたことがありますか?」
「……たまにあったような。修行の時とか特に。これで終わりですって言ったのに、後から色々追加したり」
「…………あれは方便というものです。とにかく、すぐ呼ぶように」
子供が大人を卑怯と呼ぶ所以がそこにはあった。
一握りの疑念を抱えつつ、結局言われるがままイリアスはアリスを呼びに行った。親しい者の願いはなるべく叶えたい彼にとって、あの程度の不安は足を止めるものにはならなかったようだ。
魔女が待つことおよそ数分、彼女の耳に廊下をぱたぱたと歩く音が二つ響く。その足音に、瞑想で落ち着いたはずの彼女の心は再びざわめき始めた。
一方連れて来られたアリスも、胸中は緊張に沸き立っていた。初めて入るイリアスの部屋、初めて対面するイリアスの師匠。どちらも少女の体を固めるのには十分すぎる代物だ。
そして銀の鏡の前に立った時、それは最高潮となった。
「お初にお目にかかります、魔女様。私はアリスと申します」
それでも動揺を微塵も感じさせないほど優雅に滑らかに、アリスは魔女へ向けて見事に一礼する。
右足を斜め後ろ内側に引き、左足の膝と上体を深く曲げた一礼。大陸全土に古くから伝わる最敬礼であり、素性の分からない相手には最も無難な対応と言える。
しかし懸命に考えた、誠心誠意尽くした挨拶は、残念ながら魔女の心には一切届かなかった。
「何故、貴方はまだこの家にいるのですか?」
代わりに開口一番返されたのは、侮蔑に満ちた質問だった、
「貴方がその家で厄介になっていた理由は、表向きは記憶喪失だから。実際は『聖女』を探す聖王国から身を潜めるため。間違っていますか?」
「……合っています」
「しかし貴方の記憶喪失は真っ赤な嘘であり、先日『聖女』のクラスも投げ捨てた。そして元々、貴方はオウルとイリアスの家族でもなんでもない、ただの赤の他人です。その家に住まう大義名分を当に失っています」
アリスは何も言えない。それは既に自覚していた事実であり、誰かに指摘されることを恐れていた負い目である。
そして当事者の、全てを知ってなお受け入れたイリアスとオウルがまったく気にしていない以上、彼女が抱える必要などなかった悩みである。
やがて自然に消え行くはずだったそれを、部外者の魔女は無遠慮に抉り続けていた。
「また、『癒し手』のクラスを得たとも聞きました。あれは人類社会では引く手あまたのクラス、未熟の身でも職や住居など、簡単に生活の基盤は築けるはずです。生きるため、などという言葉は理由になりません」
「……」
「全てを踏まえてもう一度問いましょう。何故貴方は、図々しくもまだそこにいるのですか?」
「まっ、待って、待ってください、先生!」
事ここに至り、ようやくイリアスが声をあげる。
「先生酷いです! 意地悪しないって言ったのに!」
「これは質問です」
「こんな意地悪のこと質問って言うの、えっと、そう、詭弁、これ詭弁だと思います!」
「……森にいた時よりも、随分と口が回るようになりましたね。オウルの影響でしょうか」
「先生!」
打って変わって柔らかい、仄かな温もりさえ感じる独り言は、誰の救いにもならなかった。
強い意志のもと師を睨むイリアス、心なしか微笑まし気に視線を返す魔女、俯き考え込むアリス。三者三葉の様子に共通しているのは、誰も口を利かないことだけであった。
永遠に続くかと思われた沈黙を破ったのは、魔女の溜息だった。
「貴方の意見は分かりました。イリアス」
「よかった。じゃあ先生」
「話が終わるまで、向こうで遊んでいなさい」
「えっせ」
瞬きの間に現れた二つの魔法陣がイリアスを挟み、白銀の輝きを放つ。眩しさに目を焼かれたアリスが視界を取り戻した時、そこにはもう誰もいなかった。
残るのはイリアスが抱えていた白いローブだけ。そして奇妙なことに、そのローブは宙に浮いていた。
「イリアスくん!?」
「あの子は次元の狭間へ飛ばしました。戻るまで現実時間で一か二秒、引き伸ばした貴方の感覚で言えば数分、そのローブが床に落ちるくらいでしょうか」
「……空間と、時流への干渉。まさか魔女様は、『聖女』の」
「冗談を。私には彼女のような強さも気高さもありません」
魔女が滲ませた憧憬に疑問を感じる余裕など、今のアリスにはない。突如消えた、どこか遠くへ飛ばされたというイリアス。魔女が見せた以前自身に刻まれていたものと同種の、それ以上の力。彼女の疑問はそれだけで手一杯であった。
だが魔女は彼女の動揺など気にも留めない。留める理由も義理も、魔女は持ちえなかった。
「元『聖女』の少女よ、まだ先ほどの答えを聞いていませんが」
「それ、は」
「答えられないのであれば、一旦別の質問に移りましょう。何故貴方は、二人を問い詰めないのですか?」
続く質問も、アリスには心当たりのあるものだった。
「イリアスが『竜骸』として振るう力を、既に何度も目にしているでしょう。何も知らぬ貴方でさえ、あれがクラスやスキルの枠に収まらないものだと察しているはずです」
「……はい」
「またオウルも、どうせあの男のことですから、貴方の前で幾度となく迂闊な発言を繰り返していることでしょう。例えばクラスシステムの仕組みを漏らすなど」
どちらにもアリスは覚えがある。
かつて『聖女』であった彼女には聖王騎士団長や魔帝国の第二王女、『アルメリア』のギルド長など、老若男女問わず世界中の猛者を見かける機会が何度もあった。
戦士としての訓練を受けたことのない彼女に、彼らの正確な実力など分からない。けれども『竜骸』、イリアスの力が彼らを遥かに超えていることくらいは本能的に理解していた。
加えてオウルの妙な知識についても当然アリスは察していた。とりわけ『聖女』のクラスに関する解説は彼女にはとても印象強く残っている。
「叡智の『聖女』などと呼ばれていた貴方にとって、二人の零す秘密はさぞ魅力的だと思いますが」
「……懐かしい呼び名です」
前教皇ビラカンサは自身の目的のため、アリスを完璧な『聖女』に育てる努力を惜しまなかった。そのために彼女のあらゆる活動を制約、人生を消費することも厭わなかった。
物心つく前より雑談や子供らしい遊びなどもってのほか、儀式や式典を除いて『聖女候補』以外との関わりを禁じ、生活の全てを『聖教』に捧げさせていた。
そんな彼女に唯一許されていた自発的行動が読書、勉強である。『聖教』の教義として、学問は尊ばれるものだったからだ。素質があったのか、それとも現実から逃避するためか、彼女は空いた時間を残さず学問に注ぎ続けた。
結果彼女は優れた知性を発揮し、民衆から叡智の『聖女』と称えられ、彼女のための図書館まで建てられることとなる。
なお余談だが、この図書館の蔵書の管理を担当していたのは、現『聖女』のアカシアである。主流派と対立する『聖戦派』所属の彼女に本を選別させることで、『聖女』リリアンの思想を誘導しようという目論みからの人選であった。
そしてアカシアは期待通りその裁量を容赦なく振るった。同時に『聖女』専用の図書館など贅沢が過ぎる、国民にも開放すべきだとビラカンサに直談判し、渋る彼女へ自身の主張を押し通した。
その結果をアカシアは旗に掲げ、『聖戦派』の求める文献を図書館に収めた。さらに国民のためという名目で古文書に論文、はては小説や児童書まで大陸各地のありとあらゆる分野の本も蒐集した。
これらが現在のアリスの知識や考え方、人格までもを支えている。
「魔女様は、私のことにもお詳しいのですね」
「長く生きれば自ずと耳は広くなるものです。おかげで余計な雑音もよく届きます」
とうとうあからさまになった嫌味は、しかし彼女を傷つけない。先ほど魔女の言及した過去の残響が、魔女よりも遥かに直截な挑発をする知人の思い出が、かえってアリスを冷静にさせていた。
更に巡る過去の記憶は、彼女の考えを整理する手助けにもなっている。目を瞑り数回呼吸を重ねたアリスの瞳には、これまでの迷いや悩みなど残照すら宿っていなかった。
「答えは簡単な、単純な話です」
「それは?」
「イリアスくんもオウルさんも、私に何も聞かないでいてくれたからです」
冷酷な魔女の面持ちは変わらない。それをものともせず、アリスは心の底を掬うように語り始めた。
「初めからオウルさんは、私が大きな災いの種だと分かっていらっしゃいました」
世にも珍しい石化の被害に遭っていた、それも仕立ての良い服を身に纏う、着の身着のままの人間。誰がどう考えても怪しさの塊であり、平穏を望むのであれば関わってはならないものだ。
世間知らずのイリアスはともかく世慣れた大人、オウルならばその程度理解していて当然のこと。だが彼は、その当たり前を平然と放り投げた。
「そしてオウルさんは各地の友人へ私のこと、貴種の失踪について相談の手紙を送っていたと聞きました。当然、聖王国にもいらっしゃるでしょう。ですからお世話になって一月経つ頃には、きっと私の素性にもおおよそ察しがついていたと思います。それでもオウルさんは何も聞かず、私をこの家に置いてくれました」
国外には漏れずとも、当時国内では『聖女』の失踪がまことしやかに噂されていた。捜索の指示を受けた聖王騎士団の活動に加え、自ら足繫く各地へ調査に向かう『聖女候補』アカシアの振る舞いがその噂を後押ししていたことを、アリスはライラックから聞いていた。
失踪と石化の時期が同じ、『聖女』リリアンと瓜二つなアリスの外見。それ以外にも情報が集まれば集まるほど、彼女が『聖女』だと察する可能性は高まる。
オウルがどれほど情報を集め、どれほど察しがついていたかなどアリスは知らない。けれども彼女は、彼の態度がずっと変わらなかったことはよく知っていた。
「イリアスくんは私の癖を見抜いても、私が記憶喪失ではないことを知っても、その嘘ごと私を受けいれてくれました」
ゴルゴンの幼体が襲来する直前、アリスは自らも知らない癖をイリアスに、正確には白銀の魔女に見抜かれた。嘘を吐く際、右手首を握り締める癖。
同時に彼女はイリアスの態度から、彼が記憶に関する嘘に気が付いたことも察した。その時彼女が感じたのは焦りでも悲しみでもない、諦観である。
吐いた嘘が、自分が受け入れられる訳がない。夢のような日々を終わりを告げて、現実に帰る時が来たのだと、納得しようと試みていた。
だが嘘を知ったイリアスは、ただアリスに問いかけただけだった。アリスは前毎日が楽しいって言ってたけど今もそう、とだけ。
「私の素性も事情も問わず、私の気持ちだけを尋ね、望みを聞いてくれました。嘘吐きの私に、よければこれからもよろしくね、なんて勿体ないお言葉まで贈ってくれました」
間が悪くゴルゴンの幼体が飛来したため、イリアスは言い切れてはいない。しかしアリスはその言葉を、そこに込められた思いを、確かに感じ取っていた。
「そして全てを諦めて投げ出そうとした、助けすら拒もうとした私の手を、あの日優しく掴んでくれました」
例えこの先何があろうとも、アリスは一生、あの部屋での出来事を忘れはしないだろう。
貰った言葉を、熱を、気持ちを、アリスは今も鮮明に思い出すことが出来る。その全ては彼女の根源に刻まれている。
「だから私は何も聞きません。お二人がそうしてくれたように、私も話してくれるのを待ちます」
「一生教えられない可能性もあります」
「それならば、それで構いません」
「見える秘密は不安や好奇心を生み出します。これからも肥大化するであろうそれに、貴方はいつか押し潰されるでしょう」
「潰れません。そのような気持ちよりも強く、私はお二人のことを信じています」
「それは理想論です、元『聖女』の少女よ。人はそれほど強くあれません。貴方が語る決意など、所詮は世界を知らぬ箱入り娘の」
「お言葉ですが、魔女様」
だからもう、アリスは魔女から目を逸らしていなかった。
「私は、私の名前はアリスです。元『聖女』の少女ではありません」
アリスはもう一度自己紹介を、今度は戦意を込めて魔女へ叩きつけた。
沈黙は重圧を生む。膝に走る震えを強引に押し殺し、暴れる心臓を
長い長い沈黙の末、魔女は視線をずらし虚空を見上げた。
「……よく分かりました。それでは、最初の質問に戻りますが」
「これは私の気持ち、我儘に過ぎません。けれども、私はこれからも」
「考えてみれば、そもそも決めるのは貴方でも私でもありませんでしたね」
「え?」
アリスが疑問に口を開くのと、時が動き出すのはほぼ同時だった。
遠ざかっていた街の喧騒が耳に届き、宙に浮いていたローブが床に落ち、彼女の目の前に、空間に罅が走る。
「決めるのは、イリアスです」
次の瞬間空間は砕け、甲高い音が鳴り響く。不思議なことにアリスには、それが誰かの悲鳴のように聞こえた。
さて、次元の彼方からの脱出のため、未熟なイリアスが取れる手段は少ない。その中で最も早く確実なものが力押し、すなわち『壁』の破壊である。
また形而上の『壁』とはいえ、破壊には相応の勢いが必要となる。馬鹿力の彼に繊細な加減は難しく、言わずもがな彼は適当な見積りのまま力を振るった。
そして短絡的な彼の行動を予測し、破壊先をアリスの眼前に変更することなど、時空を操る魔女には容易なことだった。
「ぁ」
魔女の狙い通り『壁』を破壊し飛び出したイリアスが、その勢いのままアリスへ衝突しようとする。
魔女の仕業かそれとも死を前にした本能か。体の時は戻りつつも、アリスの思考は未だ加速したまま。自身に迫る黒い『爪』も、なんとか軌道をずらそうとするイリアスの必死な顔も、彼女の眼には克明に映っていた。
体を動かせない、仮に動かせたとしても、アリスに出来ることはない。回避も相殺も、受け止めることも不可能だ。どれも足りず間に合わず、試みても彼女が赤く散ることに代わりはない。彼女に許されるのは思うことだけ。迫るイリアスを、死を前に心を動かすことのみ。
だからアリスは心のまま、最後までイリアスの姿を目に焼き付けることにした。
それから彼女の知覚にしておよそ数十秒後、室内にあらゆるものが砕ける轟音が響く。ぱらぱらとベッドや壁の欠片が降り注ぐ中で、イリアスは懸命にアリスへ呼びかけた。
「――アリス、大丈夫!?」
「は、はい、平気です」
「怪我とか、痛いところとか無い!?」
「どこも怪我を、あれ、本当に、どこも痛くありません……?」
辺りを見渡せばベッドが砕け、余波で周囲のガラクタは消し飛び、壁には見事な円形な窪みまで出来ている。しかしどれよりも脆いはずのアリスには傷一つ、汚れ一つ見受けられない。
加えてアリスが確認のため身をよじっても、イリアスがぺたぺたと顔や頭を触っていても、彼女は何の痛みも感じていなかった。
それはそれとして、真剣な眼差しで頬を摩られると別の想いが湧くのは当然だった。
「あ、あの、イリアスくん。本当に、本当に大丈夫ですから」
「……」
「さすがにそろそろ少しだけ、いえ、とても恥ずかしくなってきていて。あっでも、さ、触られるのが嫌という訳ではなくて。イリアスくん、こういうことはちょっと、ちょっとずつ、ですね」
「アリス!」
「あっは、はい!」
「生きてる!」
「きゃ!?」
今までに無いほど無遠慮で乱雑な手つきで、しかも脇の下に手を入れられ抱えられ、混乱中のアリスも咄嗟に声を出す。だが、それすらもイリアスは気に留めていなかった。
彼は徐々に赤くなり始めた彼女の顔を星でも眺めるように仰ぎ見てから、意気揚々と白銀の魔女に話しかける。次元の狭間へ飛ばされたことなど、とっくに彼の頭からは飛んでいた。
「先生、アリス生きてる!」
「そのようですね」
「生きてる! 凄い! 不思議!」
「驚きですね」
イリアスに抱えられたアリスに魔女の顔は見えないが、その恐ろしいほど雑な相槌が彼女の恐怖を煽っていた。
「……やけにうるせぇと思ったら、何やってんだお前ら?」
次元崩壊の気配を感じ、慌てて飛び込んできたオウルがそう思うのも当然の状況である。
戸惑うアリスを高く掲げるイリアス。鏡の向こうでしかめ面を保つ白銀の魔女。彼女の手によって時を逆行し再生していくベッドや壁。まるっきり意味不明だった。
訳が分からんと再度首を傾げる彼にイリアスは駆け寄り、自慢でもするように掲げたアリスを見せつけた。
「オウルオウル!」
「あん?」
「アリス、生きてる!」
「見りゃ分かる。つーかなんだその姿勢」
俗に言う高い高いである。
「んでアリス、何があった?」
「えっ私に聞くんですか!?」
「お前以外に聞くと絶対面倒くさい」
豊かな人生経験の活きた慧眼だった。
それからアリスはイリアスに抱えられたまま、これまでの経緯を簡潔に説明した。結果、オウルはいつも通り重い重い溜息を吐くことになる。
「そういうことか。相変わらず性根がねじ曲がってんな、このアホアホメンヘラバカババア。大人げなさ過ぎてドン引きだわ」
「失礼ですね、いい加減殺しますよ。貴方がすべき確認と選別を代わりにしたまでです」
「いらねぇし、やり方も陰湿だって言ってんだよ。頭キノコか?」
普段であれば即魔弾が飛来する罵倒を、魔女は無言で受け流した。オウルの指摘がもっともだと感じているのか、それとも今手を出せば本当に殺しかねないからか。それは彼女にしか分からない。
しばしの睨み合いの果て、彼女はふっと息を漏らした。見る者が見れば、そこに殺意や敵意が混じっていたことを察しただろう。現にオウルは異常者を見る目を向けていた。
「さて、些事はさておきイリアス、次の報告日ですが」
「……わぁー」
「あ、あの、イリアスくん、魔女様がお呼びですし、お二人とも見ていますし、そろそろ、そろそろ下ろしていただけると」
オウルと魔女が話している間もイリアスの体勢は変わっていない。アリスを掲げたままくるくると回り始めており、むしろ悪化しているとも言えた。魔女の声もアリスのお願いも、彼の耳には未だ届かない。
こうなったイリアスが長いことを魔女は知っている。
「仕方ありません。オウル、後でこの子に伝えてください。次回の報告はいつも通り一か月後、それとそのローブですが、その少女を守るために使うのであれば私は直しません。自分で何とかしなさい」
「器小せぇなぁ。まあ、そのまんま伝えとくけどよ」
了承しながらもオウルは髭を弄り、こめかみに手を当てる。言うべきか言うまいかという迷いは、突き刺さる魔女の、幼い頃より見知った迷い子のような瞳に背を押された。
「あー、いらねぇ世話だとは思うが、一応言っとく」
「なんでしょうか」
「あの頃のお前とあいつで同じこと試しても、多分同じ結果にはなったとは思うぞ」
「……本当に余計な世話ですね。貴方に言われずとも、理解しています」
その言葉を最後に、白銀の魔女は通信を閉じた。
次回「設定の話 魔法編」です。