「ユズリハなんて、いなくなっちゃえばいいのに」
それは十歳にも満たない少年が零す、ある意味では当たり前の言葉だった。
自分に五歳下の妹が出来ると聞いた時彼は、ヘーゼルは無邪気にはしゃいでいた。両親と祖父をこよなく愛する彼からすれば、新たな家族が生まれることは何よりもの喜びだったからだ。
それが裏返ったのは、ユズリハが誕生してすぐのこと。当たり前の話ではあるが、生まれたばかりの赤子は非常に手がかかる。そのため家族はもちろん、今まで彼をちやほやしていた周囲の者もユズリハの世話にかかり切りとなった。
そこで不満を漏らせば、もうお兄ちゃんなんだからね、と笑われ宥められてしまう。里の数少ない子供として思う存分甘やかされていた彼からすると、これは大いに気に食わないことだった。
ただ、いくらか月日が経つにつれ、幼いながらも一応折り合いはつけられた。それでも時折こっそり愚痴を零してしまう程度には、彼もまだまだ子供だった。
もちろん本心からいなくなって欲しいなどとは願っていない。自身にべったり甘える妹のことは周りにとやかく言えないほど可愛く思っていた。ただそれでも、妹が両親からの愛を一身に集めているように見える時があって、胸がどうにもざわめいてしまうこともあった。
だからこれは、子供染みた可愛らしい嫉妬の一種。いずれ恥ずかしさと共に語られる、微笑ましい思い出になるはずのものだった。
しかしそんな穏やかな未来は、ヘーゼルが八歳の誕生日に見た夢により破壊された。
「……これ、夢?」
つい独り言が漏れるほど、それは奇妙な夢だった。
夢特有のぼやけた感覚はなく、何もかも鮮明に映り、熱や感触も覚醒時と相違ない。戸惑いの中で時を過ごすうちにやがて両親や妹、近所の人々と出会い触れる機会も訪れる。そのいずれも、ヘーゼルの知る者達と何も変わらない現実そのものだった。
ここまでくると単純に起きた自覚がないだけ、自分が寝ぼけているだけのようにも思える。にもかかわらず、何故か彼は今自分が夢を見ていると確信していた。
自身の感覚へ首を傾げる彼に夢は告げる。
誕生日の朝、居間に右足から踏み込めば何事もなく、いつも通りに一日が終わる。反対に左足から踏み出せば、紆余曲折の後ユズリハが一人隠れて森へ遊びに行く。それから日が暮れるまで、絶対に帰ってくることはない。
妹が森で一人はしゃぐ光景から目を逸らし、ヘーゼルはいもしない誰かへ言い訳するように呟く。
「誕生日ぐらい、せめて半日くらい、お父様とお母様を独り占めしたい」
それは誕生日の子供が望むものとしては、随分と控えめな我儘だっただろう。
けれども、彼は知らなかった。
森の外には見目麗しいエルフを狙う人狩りの類が存在していること。それらが人でなしであること。たまたま今日は里のすぐ近くまで、子供が歩いて行ける場所まで足を運んでいたこと。幼児が抜け出せるほど、偶然にもその時里の警備は甘くなっていたこと。
そして下賤な人狩りは眠らせた子供を人質に取ることに、命を奪うことに躊躇などないこと。
彼は、何も知らなかった。
だから。
「ああ、どうしてっ」
「二人ともまだあんなに小さい、まだお前達が必要なんだぞ! なのにこんな、馬鹿なことが」
「……人間め」
それがどのような結末をもたらすかなど、彼は想像も出来ていなかった。
二つの空っぽの棺を前にヘーゼルはただ茫然と立ち尽くす。彼の浅慮とも言えない振る舞いがこの結果を招いた。これらの棺は彼の両親のものだ。彼の父と母は彼の行動をきっかけに死んだ。ユズリハを攫った人狩りと戦い殺された。遺体すら残らないほど、完膚なきまでに。
優しい父と母ならいつまでも帰って来ない娘を心配することくらい彼は知っていた。里でも有数の戦士である父と母なら、自ら森へ探しに行くことくらい当たり前だと彼は理解していた。罪悪感に負けずあのまま夢を見ていれば、今日何が起きるかも予知出来たかもしれなかった。
力は出ない。言葉も出ない。ただつらつらとヘーゼル頭の中で、醜い言い訳とそれを打ち砕く冷静な指摘が流れ続ける。同時に視界が滲み、頬が濡れていく。
「泣かないで、にーさま」
ずっと傍で興味深げに棺を観察していた妹に腕を引かれるまで、彼はそれが涙だと気がつきもしなかった。
彼は枯れ木のように固まっていた右腕を懸命に動かし、何度も乱暴に目を拭う。けれど拭っても拭っても、袖が濡れるだけで何一つ変わらなかった。
そんな兄の様子を見かねたユズリハがぐいぐいと彼の左腕を引く。そして力なく膝をついた彼の前に両手をかざし、おもむろに何かを放り投げる素振りをした。
「痛いの痛いの、飛んでけー!」
「……ユズリハ?」
「まだ痛い? もっともっと、飛んでけ飛んでけー!」
「だいじょうぶ、もう、大丈夫だから」
「ほんと? よかった!」
割れたガラスをかき集めるようにして、ヘーゼルは渾身の作り笑いを浮かべた。
わずか三歳のユズリハでは裏に潜む痛々しさにはまったく目が向けられない。彼女は表面上の笑みをそのまま受け止めて心底安心した、太陽のような笑顔を兄へ返す。それから続けて転がるように表情を変えた。とても不思議そうに、少しだけ不安そうに。
「あっそれでにーさま」
それから続く言葉で彼はようやく理解した。自分が何を失ったのか。
「おとーさまとおかーさまって、今日いつ帰って来るの?」
兄が妹から、まだ死も理解出来ない幼い子供から、いったい何を奪ったのかを。
その日以来、ヘーゼルは予知夢を頼りに里のエルフ達を助け続けた。
不幸な事故を先んじて防ぎ、揉め事は気配が生じた瞬間に潰し、突発的な乾期や雨期にすら完璧な対策を組み上げる。それ以外にも多種多様なあらゆる問題を、その奇跡的な力によっていとも容易く解決していった。
その度に里のエルフから感謝は重なり称賛が集う。次期里長は決まりだと、里の未来は明るいと誰もが安心した顔で笑う。
ただ一人、あの葬式の日に全てを打ち明けられたホリーだけは、言葉に出来ない不安を密かに抱いていた。
しかしそんな彼の危惧をよそに、ヘーゼルは理想の仮面を被ったままその使命を全うし続ける。
こうして里のエルフが寄せる信頼はどこまで積み重なり、成人したその日彼は当たり前のように里長として任命された。
堅実に伝統を重んじながら里をまとめ続けたホリーから、革新的な力を持つ奇跡の子ヘーゼルへ。
里の将来を象徴するような就任に里のエルフは大興奮し盛大な、それはもう祭りと見紛うほど大きな宴を開催した。
誰も彼もが大騒ぎし、喜びを露わにしていた。老人も大人も、そしてユズリハも。両親がいなかった寂しさなど微塵も感じさせない様子は、思わずヘーゼルの相好すらをも崩すほどだった。
これならきっと、もう大丈夫だろう。両親を失った孫二人を心配し続けていたホリーの胸すら撫で下ろすほど、彼らの笑顔は晴れ晴れとしていた。
そんな彼の幸福を、またしても予知夢は粉砕する。
「──っ、うっ、おぇ」
宴もとうに終わった夜更け、ヘーゼルは猛烈な吐き気と共に目が覚めた。家を飛び出すまで耐えきれたのは奇跡に近いだろう。それほど強烈で、抑えがたい嫌悪感を彼は抱いていた。
彼はこの日、初めて牧場の夢を見た。
『予言者』の予知夢はその性質上五感を伴う。悍ましい味。肌が粟立つ生暖かさ。鼻を突き刺す臭い。耳障りな嬌声。そして絡み合う肉の光景。どれもまるで現実に体験したかのように、夢から覚めた後も全身に残っている。
今なお誰かの手が背中に回っているような錯覚が容赦なく彼の胃を刺激する。ほどなくして彼はもう一度吐いた。
それを何度か繰り返した頃、静かな足音が彼の耳に届く。無意識に口を拭いながら振り向けば、上機嫌なホリーが千鳥足で歩み寄って来るところだった。
「はっはっは。まったく飲み過ぎか? 確かにあの宴は素晴らしかったが、お前もこれからは里長なのだから節度を」
「大丈夫、です、少し、夢見が悪かっただけで。じっとしていればすぐに」
「……よい、それ以上喋るな、水を持ってくる。お前は呼吸を整え、ここで座って待っていろ」
「ありがとうございます、お祖父様」
それも一瞬にして消え去る。青白い孫の顔を見た瞬間にホリーは目を鋭く光らせ、力強い足で家に向け踵を返した。
その数十年も頼り続けた、かつてよりいくらか小さくなった背中を眺めた後、ヘーゼルの視線は自然に下へと落ちる。それで目に入ってしまった。
「……あぁ、もったいないな。せっかくユズリハが、あんなに頑張って作ってくれたのに」
残骸に混じる妹の手料理を見つめながら、ヘーゼルは笑みにもならない表情でそう零した。
介抱によりある程度持ち直したヘーゼルは、ホリーと共に里の集会所まで移動した。家には宴ではしゃぎ疲れたユズリハが寝ている。間違ってもこの話に巻き込んではならないと、説明するまでも無く二人は同じことを考えていた。
僅かな明かりの中ヘーゼルはぽつぽつと予知夢の内容を、牧場について語る。最初は眉間に皺を寄せるだけだったホリーの顔も、詳細を聞くにつれて青に染まっていった。
「このことは、誰かに話したか」
「いいえ、まだ誰にも」
「ならばよい。このまま誰にも伝えず秘匿せよ。決して実現させようとは思うな」
「……ですがお祖父様、予知夢はいつだって里の未来を」
「ならぬと言っている!」
目を見開き、ホリーは小さな声で叫んだ。
「お前の語る牧場がどれほどの惨状なのか。夢を見ることの出来ぬ儂でもその顔を見ればよく分かる。恐らくエルフの尊厳を踏みにじる地獄のような悪夢なのだろう。故に、たとえ本当にその方法で里が復興出来たとしても我々の望む結果は訪れない。誇りを失った者に、未来などない」
「お祖父様……」
「何よりお前をこうも絶望させる未来など、儂は絶対に認めん!」
続けて叱り飛ばすように理由を語った後、今度は慰めるような口調でヘーゼルに語り掛ける。不器用に固めたその口ぶりには、隠しようもないほどに孫への愛情が満ち溢れていた。
「よいか、ヘーゼル。どのような場所であっても必ず至る道はいくつもある。平坦な道、険しい道、遠回りや近道、見つけにくいものも含め必ずだ。一つしか方法がないなどありえん」
「……本当に、そうでしょうか」
「うむ、儂を信じよ」
しかしそれから五年の間、ホリーの語る別の道は見つからなかった。その間も牧場の夢は、ほぼ毎夜ヘーゼルの精神を蝕み続けた。
夢そのものも確かに恐ろしい。事実見始めてからしばらくの間、彼はその夢を見る度に跳ね起き、その度にユズリハに気取られぬよう嘔吐を繰り返していた。
しかしそれでも人は、エルフであっても慣れるもの。どのような悪夢であれ、何度も何度も毎日見せられればいずれ耐性もつく。数か月も経つ頃には冷めた目で夢を観察出来るようになっていた。
その時彼は気づいた、気づいてしまった。この夢の登場人物は、全員里のエルフだと。
語るまでもない話ではある。彼も初めて見た際、それを視認していたはずだった、だが本当の意味での理解は出来ていなかった。
どのような内容であっても、予知夢は起き得るものだけを見せる。つまりあの夢は現実に起きる可能性がある出来事。里のエルフは皆、あのような冒涜的な営みに臨む可能性があるということ。
「ようユズリハ、今日も精が出るな!」
「ふふっまあな! 兄さんの力になるには、もっと頑張らなきゃだから!」
「いい心がけだなぁ。でも踏み込みが甘い、それじゃあまだまだ一人前には程遠いな」
「むっ。これから強くなるからいいんだよ!」
懸命に木剣を振るうユズリハへ、父親面で助言をするあのエルフも。
「こんにちはー、頼んでたの出来てるかー?」
「あっユズリハちゃん、実はまだなんだ、ごめんね。もうちょっとかかっちゃう、かも」
「そっかー。じゃあ修業終わったらまた来るから、その時よろしく!」
お使いをするユズリハへ、どこか遠慮がちに返事するあのエルフも。
誰も彼もきっかけさえあれば、自分が大義名分さえ与えれば豚となる。普段彼らが日常に謳う、エルフの誇りとやらもいともたやすく投げ捨てる。豚は常に、穢れた欲望を隠し持っている。
「なあ、ユズリハ!」
「ユズリハー!」
「こっち来いよ、ユズリハ!」
吐き気がした。
人には無限の未来がある、と言う者がいる。実際に無限は過言としても、一つの命は善悪問わず無数の可能性を秘めている。繰り返しになるが、そこに善し悪しの区別はない。魔が差すという言葉が示す通り、どれほど善良な者でも時に悪に身を染めてしまうことはある。
そんな慰めはヘーゼルには何の助けにもならない。どれほど小さな可能性でも彼からすれば毎夜見る悪夢である。欲望に身を堕とさない確率よりも豚となり得る方が高く思える。まだ何もしていない里の者達がどうしようもない愚者に、家族に危険を及ぼす敵に見える。
気づきを得たその日から、ヘーゼルにとって夢を見ない昼すらも悪夢に等しくなった。
無論ユズリハをはじめとした近しい幾人かはそうしたヘーゼルの不調を察していた。しかし時期もあり、里長に就任した重圧が原因だと勘違いしていた。
よって彼女達は仕事の手助けや働きの労わりなど、本来の問題とは少しずれた形で寄り添うことになる。残念ながら抜本的な解決にはならなかったが、こうした彼女達の思いやりがなければヘーゼルはより早く深く、取り返しがつかないほど壊れていただろう。
その中で一人、唯一彼の悪夢を知るホリーも日々もがいていた。
愛する孫が日々焦燥していく姿を目の当たりにして、彼は時間とともに冷静さを失っていく。だがどれほど焦り懸命に里の蔵書を漁っても、孫の悪夢を払うような手法は見つからない。そのため人間を嫌悪しながらも彼が里の外に、人間の世界に救いの手を求めるのも無理はなかった。
溺れる者は藁をも掴むという。ならば愛する者が溺れる姿を見た者は、いったいどこまで縋ろうとするのだろうか。
愛情深い者であればそれがどれほど儚く罪深いものであっても、少しでも掴めるものであれば、微かでも希望を感じてしまえば、どのようなものにでも必ず手を伸ばすだろう。
故に彼が人間社会で出会ってしまったそれに目が眩むのも、当然の成り行きだった。
ヘーゼルとホリーの先行きにどれほどの暗雲が生じていようと、時は何のためらいもなく流れ続ける。表面上は平和な日常が過ぎ、やがてユズリハは四十五歳の誕生日を迎え成人となった。
「兄さん兄さん聞いてくれ! 私、シロガネ様にお目見えしちゃった!」
つい先ほど成人の儀式を終えたユズリハの話を聞きながら、ヘーゼルはひっそりと胸を撫で下ろした。
子供っぽい振る舞いこそまだ抜けてはいないが、こうして妹は立派に育った。無事大人になれた。
重い荷物を降ろしたかのような解放感に浸った瞬間ぷつりと、ヘーゼルの頭の中で何かが切れた音がした。それが気力の一種だと彼が思い至るまでに、それほど時間は必要なかった。
「それでシロガネ様がしゅばってやったら魔物がしゅって消えて」
「ごめんユズリハ、擬音ばかりで全然分からない」
「安心してくれ! 私もシロガネ様が魔物に何をされたのか、まったく分からなかったから!」
妹との和やかな会話の裏で、静かに血の冷え切った思考が流れる。
あの凄惨な夢を実現するつもりはない。さりとていい加減、夢に抗い続ける力もなくなってきた。妹もこうして大人になったからには、そろそろ自分の身は自分で守れるだろう。だからもう、自分は休んでもいいのではないか。
折れた心は容易く低きに流れていく。安らぎに、死に惹かれていく。
「という訳で兄さん、私は今日めでたく成人した訳で」
「うん」
「だからこれからはどんどん、遠慮なく頼ってくれてもいいからな!」
「ありがとう。機会があったらそうさせてもらうよ」
「いつでもいいからな、いつでも!」
満面の笑みを浮かべるユズリハを見つめながら、この日ヘーゼルは楽になることを決めた。
ただ、そこで彼の中で問題が生じる。いったい、どのように死ねばよいのか。
生半可な手法では難しいことは予想出来た。ヘーゼル自身から見ても、現在里長に向けられる敬意は信仰にも近いものがある。それを鑑みれば里の中では自殺したところで、死者蘇生すらもなし得る奇跡の薬、エリクシールにより治療させられてしまうかもしれない。
里には大昔に先祖が作ったというエリクシールがいくつか保管されている。まさか楽になるためとはいえ、里の秘宝をわざわざ処分する訳にはいかないだろう。自分の思い付きが将来誰かの命を奪ってしまう可能性もある。そこで踏みとどまられる程度の余力はまだヘーゼルにも残っていた。
ならばどうすればいいのか。
皆にも自慢してくる。そう言ってにこやかに駆け出して行った妹を送り出してからも、ヘーゼルは一人死の思考に耽る。その最中、唐突にとある思い出が脳裏に過ぎった。
『エルフは森で生まれ、森に還る命なんだよ』
既に里への愛着もエルフの誇りも失いつつあるヘーゼルが思い出したのは、かつて父の語ったおとぎ話の一説。
生者と異なり死者は裏切らない、変わらない。記憶の中の父は穢れない誇り高い姿のままだったからか、その言葉はヘーゼルの胸に、すとんと綺麗に収まってしまった。
「じゃあ、魂喰み森林にするか」
思いつきで口にした場所もこれまた彼を納得させてしまう。そこはどのようなことがあっても確実に死に至ると確信させる地だった。
魂喰み森林はエルフにとっても禁則地である。普段は誰も近づかず、また中に入ろうと考える者もいない。まして里長が姿を消したとしても、そこに向かったと予想する者は誰一人いない。
こうして行き先を決めた彼は、善は急げとばかりに早速魂喰み森林へ向かう。家を出た時、里を抜け出した時にそれぞれ一度振り向いたくらいで、その足取りに迷いはなかった。
森の中へ入ってからはとにかく歩いて歩いて、一切の躊躇なく足を進めて。奥へ進む度に視界が霞んでいく。呼吸を重ねる度に肺が重くなっていく。手足の先が痺れ、全身に激痛が走り始めていく。
魂喰み森林は千年前『神』が降臨した人類抹殺の最前線だった場所。異界の勇者により『神』そのものが別の場所に封印された今でも人類を蝕む多種多様な悪意、呪いは森中に蔓延ったままである。只人では存在することすら許されない。
時間にして数時間、あるいは数十分、もしくは数分。脳の働きが弱まった彼ではもう正確な時間など分からない。ただ、里のエルフに見つからないよう出来れば数時間だと助かるな、などと鈍い思考で大雑把な祈りを捧げていた。
全身から感覚を、苦痛すら失ってもヘーゼルは歩き続ける。毒の霧の中を進み、木の根に躓いて転んでも歩き続ける。やがて立ち上がれなくなった後も、今度は芋虫のように地を這って森の奥を目指し続ける。まるで、エルフの里から逃げるかのように。
驚異的な精神力により進み続ける彼だったが、当然すぐに限界は訪れた。魂を抑制するクラスシステムの恩恵を受けている彼に、己の意思のみで世界を変える邪法は許されていない。
指先すら動かせなくなる直前、彼は最後の力を振り絞り仰向けとなった。最期に見る光景が枯れた草花と血の滲んだ自分の手というのは、いささか寂しいものがあると思ったからだ。
さりとて魂喰み森林は呪詛蔓延る鬱蒼とした森。見上げてもそこに空はない。毒と呪いに満ちた黒々とした木々から伸びる枝と葉のみが、彼の視界を埋め尽くしていた。
揺れる葉を無心で眺めている内にやがて異変が訪れる。生ぬるい風に揺らされていたはずの葉が大きく動き出す。葉だけではない。同時に枝も木も、地面すらも振動し始める。森の木々を薙ぎ倒す音が響き始める。
明らかな異常を前にしてもヘーゼルの様子は変わらない。むしろ変える力もない、という表現の方が正しい。死の淵にいる彼にはもう、森の魔物に顔を覗き込まれても悲鳴をあげることすら出来なかった。
形容しがたい禍々しい魔物だった。蜘蛛と猿と蝶を無作為に混ぜ込んだような、到底生物とは思えない悍ましい姿をしている。
それの口のような箇所から粘液が垂れ、彼の顔の横に落ちる。粘液は積み重なった枯葉を腐らせ、周囲には死体のような腐乱臭が撒き散らされた。もっとも、既に嗅覚を失ったヘーゼルにその臭いは届かないが。
最期の景色がこれか。まあ、夢はよりはマシだな。
そう自分に言い聞かせ、半ば光を失った目を閉じ彼は終わりの時を待つ。弱弱しい心臓の鼓動がやけに響くのを彼は感じていた。
けれども、待てども待てども一向にその時は来ない。痛みも喪失も訪れない。終わりをもたらさない魔物に業を煮やし、いったい何をやっているのかとヘーゼルは懸命に瞳を開く。
黒鋼の魔人が立っていた。
視界の隅、歩けば数歩の距離。そこにそれはいた。周囲に魔物の影など欠片もなく、残るのは謎の微かな火の粉のみ。不思議と風は吹き止み、木の葉すらも動きを止めている。まるで世界がそれを畏れているように、それの目に留まらぬよう隠れているように彼は感じた。
そしてそのヘーゼルは逃げも隠れも出来はしない。もう指一本動かせない彼は、音もなく歩み寄るそれをただ眺めるしかなかった。
不意に、彼は薄れた感覚が動くのを感じた。歯がかたかたと振動している。最期に残った貴重な力を、彼の身体は本能的に使ってしまっていた。魂から生じる恐怖を無意識の内に露わにしていた。
だがその揺れも、それが彼の横に着いた時には収まっていた。彼の身体はもうその程度の動きすら、瞳を閉じることも出来ない。彼に許されることは、それがもたらす最後の審判を受け入れるのみ。少なくともヘーゼルはそう思っていた。
その黒鋼の魔人は彼の顔を先の魔物のように覗き込み、あろうことか言語を口にする。
「お昼寝するなら、もっとお日様当たるところの方が気持ちいいよ?」
意識外から襲い掛かる、舌っ足らずで明るい甘い声。その強大過ぎる衝撃が原因かは不明だが、間もなくヘーゼルの意識は闇に落ちた。