のらりくらりと旅立ち、気がつけば十四度ほど太陽が沈んでいた。そんな私は今、ひとつの厄介な問題に直面している。それは二日ほど前まで遡る。
いつものように野宿の支度を整え、そろそろ眠ろうかと腰を下ろしたときだった。
ふと視界の端に、一枚の紙が舞い込んできた。それは確かに、さっきまで存在していなかった。突然の出来事に私は反射的に臨戦態勢を取ったが、特に危険が迫る気配はない。
恐る恐る紙を手に取ると、そこには『久方ぶりに帰って来るように』とだけ、簡潔に書かれていた。差出人は不明。最初は巫女さんからだろうかと思ったが、彼女に手紙を瞬間移動させるような術はないし、そもそも旅に出てからまだそれほど日は経っていない。
ならば一体誰なのか──そう頭を悩ませていると、また別の場所に一枚の紙がふわりと現れた。
今度は明確に『手紙 母より』と達筆な文字で書かれている。
差出人が判明してひとまず胸をなで下ろした私は、再び眠りにつこうと寝床に体を沈めた。だがそのとき、ふと疑問が頭をよぎった。
──あれ? そもそも私が生まれ育った山って、どこだったっけ?
その瞬間から、私は二日間この場を動けずにいるのだ。
「さて、どうするか」
小さく呟いたそのとき、不意に背後から声がかかった。
「私が送って差し上げましょうか?」
「なっ⁈ いつの間に!?」
驚いて振り返ると、そこには派手な紫色の衣を纏った少女──いや、年若く見えるが、明らかに只者ではない雰囲気を纏う女性が静かに佇んでいた。
「初めまして、ラグナさん。私──八雲紫(やくもゆかり)と申しますわ。以後、お見知りおきを」
「八雲……か。なぜ私の名を知っている? 答えてもらうぞ」
私は即座に霊力で形作った剣を彼女へと突きつけた。
「あらあら、怖いですわ」
「真面目に答えろ」
この妖怪、怖がった素振りを見せながらも平然としている。妖力は巧妙に隠しているが、おそらく大妖怪クラス。能力次第では勝てないかもしれない。
「貴女のお母さまから頼まれたんですのよ」
「……それは本当なんだな?」
「えぇ、本当ですわよ。それに、嘘をついても意味はありませんもの」
彼女の声音に偽りは感じられない。ならば、あの不可思議な手紙もこの妖怪の仕業か。
──どうやら、私の早とちりだったようだ。
「すまない」
剣を消し去り、八雲に素直に頭を下げた。
「お気になさらず。それより、参りましょうか」
「待て。どうやって行くつもりだ?」
「それは、こうやって」
八雲は右手の扇子を軽く振った。すると、空間にリボンの付いた不気味な穴が開いた。
「これは“スキマ”と呼ばれるもの。私の能力で作り出したものですわ」
「能力……?」
「えぇ。“境界を操る程度の能力”ですわ」
「つまり、このスキマで私の育った山への境界を繋げた、というわけか」
「ご名答。では、参りましょう」
八雲と共にスキマへ足を踏み入れた瞬間、異様な気配が肌を刺す。
空間のあちこちから眼球のようなものがこちらをじっと見つめてきていた。
「……出口はあちらですわ」
あまり居心地の良い空間ではないな──。
だが、何故か昔どこかで似た景色を見た記憶が……ッ。
頭が痛む。
──だが次の瞬間、スキマを抜けると目の前に広がったのは懐かしい風景だった。
〜とある山〜
「……着いたのか?」
隙間を抜けた途端、先ほどまでの頭痛は嘘のように消え去っていた。
「おお、やっと来たか。ラグナ」
目の前には巨大な狐──私の母がいた。
どこかで見たことがあるような、そんな既視感が胸をよぎる。
「お母さま。どうして私の名前を?」
「ホッホッホ。名前くらい、予知できるわ」
「そうでしたか……お母さま。ラグナ、ただいま戻りました」
「うむ。よくぞ無事に成長したな、ラグナ。お主はもう立派な一人前じゃ」
「ありがとうございます。それで……なぜ私を呼び戻したのですか?」
旅を中断してまで呼び戻す理由があるはずだ。
「お前を呼んだのは、お前の妹に会わせるためじゃ」
「妹……?」
拍子抜けする理由だった。大事ではなさそうだ──
そのとき、今まで静かにしていた紫が扇子を軽く振った。
「そろそろお暇(いとま)させていただきますわね。それじゃあ、天狐、ラグナ。またお会いしましょう」
「送ってくれてありがとう」
「紫、助かった。またいつでも来るがよい」
「それでは」
八雲は軽く微笑むと、自身を隙間に滑り込ませて消えた。
さて、話を戻そう。
「それでお母さま。妹とは?」
「うむ、いま呼ぶから待っとれ。──雪夢(ゆきむ)、出ておいで」
母の呼び声とともに、夏とは思えぬ冷気が辺りを包み込む。
やがて静かに雪が降り始め、一面が真っ白になった。
雪が止むと、そこには雪のように白い髪と肌、そして白い尻尾を持った少女が立っていた。
「この子が?」
「そうじゃ。こやつがお前の妹の雪夢じゃ」
見た目は幼いが、彼女の身体からは紫にも匹敵する、あるいはそれ以上の妖力が溢れ出している。
ただ、制御はできていないようで、無駄な妖力が漏れ出していた。
「貴女が……私のお姉さま?」
……やめてほしい。この値踏みするような視線。
月の貴族に品定めされているような、妙な居心地の悪さを感じる。
「ああ。ラグナだ」
「雪夢だよ。ねえ、お姉さまはどんな能力を持っているの? 私は“雪を操る程度の能力”だよ」
随分と自信に満ちた口ぶりだ。
力に自信を持つのは悪くないが、過信は危うい。
「残念だが、私は能力を持っていないんだ」
次の瞬間、彼女の口から出た言葉に、私は思わず耳を疑った。
「えー? お母さまの子なのに? ただの出来損ないじゃん。妖力も全然ないし」
なんだ、このクソガ……いや、落ち着け。
まだ幼い。言葉を知らないだけだ……そうだろう?
「……霊力も神力も使えるぞ?」
「はぁ? バカみたいな嘘つかないでよ。バカに見えるよ、出来損ないのお・姉・さ・ま?」
……ああ、もう無理かもしれない。
「そう思うなら──戦ってみるか?」
私の声は自分でも驚くほど静かに響いた。
空気がわずかに沈み込み、見えない圧力が辺りを押し潰していく。
雪夢はそれでもなお、嘲りを浮かべたままだった。
「ええ、いいわ。
私は右拳をわずかに握りしめた。
掌の奥底から立ち上がる黒紫の妖力が指先にまとわりつき、拳へと染み込んでいく。
地面はその影響で細かく裂け、足元の雪が音もなく
崩れ落ちた。
「妖拳『黒曜穿』」
意識を一点に集中させる。
一歩踏み出した瞬間、私の身体は地を滑るように雪夢へと接近した。距離は瞬きの間に消え失せ、私の拳は迷いなく雪夢の腹部へと突き刺さる。
雪夢の身体が大きく撓み、そのまま後方へと吹き飛んでいく。そして、何度も地面を転がり、雪を深く抉りながら止まった。
その胸元は大きく上下し、吐息が乱れている。
「誰が“出来損ない”だと?」
私はゆっくりと歩み寄る。
雪夢は腹部を押さえながら、悔しそうに顔を歪めた。
「……まだ終わりじゃない……」
彼女は唇を噛みしめながら両手を掲げる。
「氷式『白嵐爆符』」
彼女の頭上に浮かび上がった無数の氷符が雪玉の形を成し、次々と私の頭上へと降り注ぎ始めた。
冷気を纏った弾幕が空を覆い尽くし、視界が一面の白に染められていく。
凍気を帯びた爆発が続き、大地は冷気に浸食され、雪煙が視界を曇らせた。
だが、その中心に立つ私は、まるで動じていなかった。
黒紫の妖気が私を包み、あらゆる衝撃を外へと弾き出していく。
弾幕が消え去る頃には、私は無傷のまま雪夢を見据えていた。
「……効かん」
雪夢の表情から血の気が引いていく。
彼女の瞳は困惑と恐怖に染まり、わずかに膝が揺れた。
「なんで……あれが効かないの……? 私の全力なのに……」
「それはお前が“弱い”からだ。力を過信しすぎている」
私は目を細め、深く息を吐いた。
同時に、背後で黒紫の靄が渦巻き始める。
「解放『九尾顕現』」
黒紫の妖力が黄金に染まる。
私の背後に九本の尾が静かに現れ、その一本一本が重く揺れる。
尾から溢れる妖力が地を這い、大気を圧迫していく。
周囲の温度は一気に低下し、雪原に重苦しい圧力が満ちた。
「……オカシイ……ッ……そんな妖力、今まで感じなかったッ……」
雪夢の足が後退る。
顔面は蒼白になり、息が浅くなる。
「終わりだ」
私は両手を前に翳し、術式を編み上げた。
「奥義『幻想日記』」
黄金の霊弾が空間から溢れ出す──それはまるで、時空を超える記録のように次々と形を変え、雪夢を捕らえ始める。
球形、槍型、刃型──多様な形を持つ弾幕が雪夢へと流れ込むように飛翔した。
その奔流はあまりにも濃密で、彼女の展開した結界は一瞬で砕け散った。
雪夢の身体は霊弾の奔流に呑まれ、紫色の光に包まれて消えた。
彼女の悲鳴がかき消される頃には、辺り一帯に静寂だけが残っていた。
──つづく