家族と紫と食卓を囲んだあの日から、二日が過ぎた。
空気はすっかり秋の匂いを帯び始め、夜になると山から虫の音が絶え間なく聞こえるようになっていた。
そんなある夜、私は思い立ったように母様と雪夢を居間へと呼び寄せた。
火鉢の火がぱちぱちと静かに鳴っている。
その赤い揺らめきが、部屋の影を少しずつ伸ばしていた。
「お母様、雪夢。……明日の朝、旅に戻ることにした」
沈黙が落ちた。
母様は湯呑を置くと、眉一つ動かさずにぽつりと口を開いた。
「ほぅ、いきなりじゃのう」
その声に、少しだけ寂しさがにじんでいた。
「え……それじゃあ、お姉ちゃんとあんなことやこんなことが出来ないじゃない!」
勢いよく叫んだ雪夢の声が、静かな夜に響いた。
「いや、ないから」
私は額を押さえて溜息を吐いた。
……この子は何を言ってるんだ。いや、混乱してるのはわかるけども。
私は二人に、これまでの経緯と、これから向かうべき道について静かに語った。
火鉢の音だけが、説明の合間に部屋の静寂を満たしていた。
「そういうことか。……まぁ、気をつけて行くんじゃぞ。わらわは先に休む」
母様は立ち上がると、背を向けて寝間へと向かっていった。
その背中は、どこか安心と寂しさが入り混じったように見えた。
「お姉ちゃん! 私も連れてってよ!」
雪夢がぐっと身を乗り出して叫ぶ。
その目には、まるで置いていかれることを怖がる子どものような色が宿っていた。
「え……でも、お母さん一人じゃ危ないし」
私が躊躇うと、母様は振り返って、いつものようにニッと笑った。
「わらわは大丈夫じゃよ。そろそろ、雪夢も独り立ちさせようかと思っていたしのぅ」
静かに、けれど確かな意志を込めて言うその声に、私はわずかに驚いた。
「じゃあ、お姉ちゃんと一緒に旅に出てもいいの!?」
「……ああ。行ってくるか」
「やった! じゃあ、私、準備してくるね!」
喜びを抑えきれず、ぱたぱたと廊下を駆け出す雪夢の背を、私は見送った。
「二人とも、はよう寝るんじゃぞ」
母様の声に、私たちは反射的に返事をした。
「「はーい」」
夜が明け、澄んだ朝の光が山の向こうから差し始める頃――。
チュンチュンと山鳥の声が、まだ薄暗い空に響く。
その音とともに、寝室の障子の向こうから足音が近づいてくる。
「お姉ちゃん! 朝だよ!」
扉が開き、雪夢が勢いよく入ってきた。
その顔は希望と期待で輝いていた。
「ん……もう朝か……」
眠気を引きずった声を出しながら、私は体を起こした。
「そうだよ、お母様がご飯作って待ってるよ」
「ふぁあ……じゃあ、行こうか」
私たちは寝間を出て、木の香りが残る廊下を並んで歩いた。
その足音が、朝の静けさに穏やかに溶けていく。
やがて私たちが食堂に入ると、そこには既に白ご飯を食べている天狐――母様の姿があった。
「今日は遅かったのう、ラグナ」
そう言って、母様は湯呑を手に取り、口元へ運ぶ。
「おはよう、お母様」
「お姉ちゃん! 私たちも食べようよ!」
「そうだな。よし、いただきます」
「「いただきます」」
食事を終えて少し経った頃、母様がふと私たちに問いかけた。
「二人はいつ出るのじゃ?」
「お姉さま、いつ出るの? 私はいつでもいいよ」
「……なら、そろそろ出ようか」
「わかった!」
そう言うと、雪夢は椅子を飛び出して部屋を駆け出していった。
その後ろ姿を目で追いながら、私はふっと微笑んだ。
しばらくして、彼女は息を弾ませながら戻ってくる。
「ただいま! お姉ちゃん、準備できたよ!」
「私は何もないけどね。よし、行くか」
「二人とも、気をつけていくのじゃぞ」
「うん! お母さんも病気にならないようにね!」
「行ってきます」
「……ああ、行ってらっしゃい」
母様のその言葉は、今まで何度も聞いてきた「いってらっしゃい」とはどこか違っていた。
それは私の背中を優しく押す、確かな祈りだった。
――つづく。