雪夢と旅に出て、早くも五年が経った。
季節は幾度も巡り、私たちは今、都で陰陽師として暮らしている。
表向きは人間の陰陽師としての務めを果たしながら、裏ではとある依頼を進めていた。
陰陽師になった理由は、ひとつは雪夢に霊力の才があると分かったこと。そしてもうひとつは、紫からの密かな依頼があったからだ。
「しかし、本当にびっくりしたわね。まさか雪夢、あなたが霊力を使えるなんて」
部屋に差し込む朝日を受けながら、私は何気なく呟いた。
「お姉ちゃん! すごいでしょ! 褒めてっ!」
「ええ、よしよし」
「ふにゃあ……」
柔らかく頬を擦り寄せてくる雪夢の姿に、私は微笑む。
最近この子が、なんだか犬に見えて仕方がない。──いや、可愛いけれども。
さて、紫の依頼についてだが、内容はこうだ。
『安倍晴明という男について内々に探ってほしい』というもので、ついでに都で噂のかぐや姫にも会えたら良いな、と思ってのことだった。
正直目的がどちらなのか、言うまでもない。
柔らかい日差しが障子の隙間から射し込み、室内の空気をふんわりと暖めている。
茶を淹れる香ばしい香りが立ちのぼり、私は部屋で雪夢と静かに朝の時間を過ごしていた。
そんな折、唐突に障子の外から声が響く。
「おう、ラグナ! 任務が入ったぜ!」
声の主は、案の定だった。
「……また縁側から入ってきたのね、清明。せめて玄関から挨拶してくれないかしら」
障子を開けると、そこにはにやりと笑みを浮かべた男──安倍晴明の姿があった。
陽に焼けた肌と逞しい腕、鋭い目元に不釣り合いなほど白い歯が、彼の暑苦しさを一層際立たせている。
「すまねえ、つい癖でな。……ってか、なんだよその目。俺だって一応、陰陽寮の筆頭だぜ?」
「ええ、そうだったわね」
私はため息をつきながらも、彼に座布団を勧めた。
「まあ、座りなさい。で、任務って?」
「ま、その前に……雪夢ちゃん、おはようさん」
「お茶です。どうぞ」
さっきまで私に甘えていた雪夢が、きりっとした顔で湯飲みを差し出す。
その姿は、陰陽師としての顔そのものだった。
「おう、気が利くなあ。ありがとよ」
「……」
ぴくり、と雪夢の眉が動いたかと思えば、手が止まる。
「私の頭を撫でていいのは、お姉様だけです」
ぴしゃりとした声音に、部屋の空気が一瞬凍る。
「おっと……悪かった。すまんすまん」
「雪夢、落ち着いて」
「はい……っ」
彼女の体から、ほんのりと妖力の揺らぎが立ち上っていたのを私は見逃さなかった。
清明もそれを察したのか、背中に冷や汗を浮かべながら笑っている。
「まったく……うちの子を脅かさないでよね」
「いやぁ、ほんと、すまんかった。……さて、気を取り直して本題だ」
清明は姿勢を正し、少し声を低めて語り始めた。
「今回の任務は『大黒猫』の再封印だ。……覚えてるか?」
「ええ。忘れたくても忘れられないわ。あれは、私が初めて単独で封印した妖怪だったから」
「そうだな。……だが、封印が破られた」
その言葉に、私の指先が止まる。
「……どうして?」
「力を求めたバカがいてな。封印を解かせて、あの化け物を復活させちまった。んで、その馬鹿は喰われた。……で、指示を出した上の奴は俺が処分したんだけどな」
静かに告げる彼の声は、いつになく冷たかった。
「あなたが動いたのね」
「まぁな。だからこそ、二度と同じことが起きねぇように、確実に再封印してほしいんだ。……頼めるか?」
私は少し考えた末に、頷いた。
「引き受けるわ。……でも、殺してしまえば解決するんじゃないの?」
「そいつがな、死ぬとその土地一帯が死ぬんだ。空気も水も、人も妖も、全部腐る。まるで大地そのものが呪われる」
「……なるほど。だから、殺すなと」
「そういうこった」
隣で黙って話を聞いていた雪夢が、ふっと手を挙げた。
「晴明さん、大黒猫って……どんな妖怪なんですか?」
「ん。あいつはな、生きた人間でも死体でも構わず喰らう妖だ。とある村の死体をすべて持ち去ったうえ、最後は村人全員を喰らったって話もある。そういう手合いだ」
「……えげつないわね」
「だろ? だからこそ、放っとけねぇ」
「……わかった。準備して、今夜向かう」
「お姉様、私もお供します」
「ええ。もちろん」
「助かるぜ。……そんじゃ、俺はそろそろ戻るわ」
清明は腰を上げ、また縁側へと向かう。
「……だから玄関からって言ってるのに」
「悪ぃ悪ぃ。……あ、そうだラグナ。念押ししとくが、封印だけだぞ。殺すな。マジで、あいつが死ぬと一帯が全部ダメになる」
「ええ、分かってるわ。地下に深く沈めて、封じる。それでいいでしょう」
「十分だ。……ありがとな。んじゃ、また来るぜ」
縁側からぴょいと飛び降りるように去っていく清明の背中を見送りながら、私はぽつりと呟いた。
「……さて、準備しないとね」
「はい、お姉様!」
静かな昼の空気に、雪夢の明るい声が重なった。
──そして、夜がやってきた。
月が昇り、森は深い静寂に包まれていた。
濃密な闇が木々の隙間を這い、夜気は凍るような冷たさを含んでいる。
ただ、そこに響くのは──二つの足音。
私と雪夢は、かつて私が封じた妖怪──大黒猫が封印を破り逃げ出したという森へと、静かに足を踏み入れた。
「さて……ここが奴の潜んでいる森、ね」
「お姉ちゃん、本当にこんな所に?」
「ええ。結界の残滓が残ってる……すぐに動けるようにしておいて」
「はい」
風が木の枝を揺らし、ざわざわと囁くような音を立てる。
その合間に、低く濁った唸り声が夜の空気を裂いた。
「……噂をすれば、なんとやら、か」
「来ます!」
言葉と同時に、黒い塊が闇の中から飛び出してきた。
その異形は、四足の獣のようでありながら、どこか人に近い異様な輪郭をしていた。
だが、雪夢は一瞬の迷いもなく、手を払うと同時に氷の結界を展開。
鋭い風と共に凍てつく壁が生まれ、突進を正面から受け止めた。
霧のような瘴気が周囲に広がり、その中からぬらりと現れたのは──
猫の姿を模しながらも、その体躯は人より大きく、毛並みは墨のように黒い。
赤い瞳が二つ、夜の闇を裂くように光っていた。
「グルル……ナニシニキタ」
濁った喉で搾り出すように、奴は問う。
「喋れるのね。目的は単純、お前を封印しに来た」
私の言葉に、大黒猫は呻くように笑った。
「ワタシハ……フウインモ……コロサレモ……シナイ……」
その声音は、まるで自らの不滅を宣言するような重さを持っていた。
「ギャクニ、オマエタチヲ……コロシテヤル!」
牙を剥き、地面を抉るように踏み込みながら吠えるその様は、
獣というより“呪いの塊”だった。
森の空気が一気に重くなり、草木すら沈黙する。
その殺意を真正面から受けて、私は──笑った。
「殺す……ね?」
肩をひとつ揺らし、口元に微笑を浮かべる。
月光が白く、私の目元を照らしていた。
「それは面白い冗談だわ。ふふ……ふふふっ」
指先に集めた霊力が、空気を震わせる。
私の足元から風が立ち上り、木々の葉をざわめかせる。
「──さあ、始めましょうか。静かな夜には似合わぬ、一方的な殺戮を」
その瞬間、私は霊符を一枚、宙に放った。
術式が煌めき、周囲の気配が一変する。
重力が歪んだような空間に、妖気と霊力が交錯し──
戦いが、幕を開けた。