──大黒猫は、人生で一度きりの“後悔”をしていた。
それも無理はない。慢心がすべてだった。
己の力を過信し、相手との“本当の”力量差を、致命的に見誤ったのだ。
(ナ、ナンナンダ……!? 奴の雰囲気ガ……急ニ変ワッタ……ッ!?)
(ドウイウコトダ……ま、マサカ……)
(いや、アリエナイッ!)
だが目の前の“人間”は、狂気じみた笑みを浮かべ──霊力で形成された剣を軽々と振り回していた。
「ホラ、逃げなきゃアたるワよ? アハハハッ♪」
ラグナの手にあるのは、霊力の光で編まれた剣──“霊剣”。
振るたびに空気が引き裂かれ、風が鋭く悲鳴を上げる。
その切っ先を、誰も視認できない。
「ギャオッ!」
だが、大黒猫も名のある妖怪だ。
霊剣の軌道を見切り、かろうじて身をかわす。
そして反撃。
自らの胸を裂いて血を噴き出させ、それを刃に変えて──ラグナの首へと叩き込んだ。
まさしく致命の一撃。
「お姉さまっ!?」
「五月蝿い。下がってなさい」
──だが。
ラグナの首は、飛ばない。血も流れていない。
それどころか、首から頬にかけて、淡く光る“文様”が浮かび上がっていた。
「……は、はいっ」
「オマエ……ニンゲンジャナイナ?」
「さぁねぇ?」
ラグナは余裕の笑みを浮かべ、剣を構え直す。
剣戟が何度も交わり、火花が舞った。
地すらも息をひそめるような、静かな緊張が空間を満たす。
「ツギノイチゲキデ──オワラセテヤルッ!!」
大黒猫は吠えた。
全身を妖力の炎で包み、獣のごとき突進。
怒り、恐怖、絶望──すべてを込めた、捨て身の一撃。
「……突進? それが切り札か。笑わせるなよ」
ラグナの声は、冷たく響く。
その両手が空へと掲げられる。
「──霊双《五封剣》」
出現したのは、歪んだ形の双剣。
霊力で編まれた禁忌の武器。
それに斬られた者は──感覚・言語・妖力・肉体・記憶──五つの“何か”を封じられる。
「ナァ!? ソレハ……レイリョクヲアヤツルヨウカイガ……ウンダブキノ……!」
「ほう……知ってるのね。じゃあ……」
ラグナの口元が吊り上がる。
冷笑とも、愉悦ともとれる表情で囁いた。
「これを抜いた時点で、アンタの運命は決まったのよ。
──この世から消えたほうがマシな痛み、味わわせてあげる」
言葉とともに、双剣を投擲。
次々と霊剣が構築され、怒涛のごとく放たれる。
回避不能の連撃。
霊力の暴風が、大黒猫を襲い続けた。
「ガッ……アァ……ァァ……!」
耐えきれず、大黒猫が地に膝をつく。
全身は傷だらけ。血を流し、呻き声を漏らす。
「……ふん、呆気ない。さて──そろそろ消える覚悟はできたかしら?」
「ヤ、ヤメロ……! ワタシヲ……コロシタラ……ドウナルカ……ワカッテイルノカ……ッ!?」
「うーん、どうかしら? なら、全部奪って──地底にでも沈めてあげる」
ラグナの瞳が細められる。
美しいその顔に、残酷な笑みが浮かぶ。
「雪夢!」
「は、はいっ! なんでしょう!」
木陰から現れたのは、妹・雪夢。
小柄な体に満ちた霊力が、地を揺らす。
「例の術、準備できてる?」
「えっと……あれですね? 対妖怪用の巫術!」
「説明はいいから、早く」
「は、はいっ!」
雪夢は術棒を取り出し、素早く地面へと円陣を描く。
その形は一見すると単純な円だが、内部は幾何学的な図形が複雑に絡み合っている。
見ているだけで、精神が削られるような感覚すらあった。
「ふむ……線がちょっと甘いけど、まあ合格点ね」
ラグナは円陣の前に立ち、掌をかざす。
「──お待たせ。じゃあ、始めましょうか」
「ヤ、ヤメロ……! 地底ニイクグライナラ……シンダホウガ……ガアアアアア!!」
「──黙れ」
術式が起動。
ラグナの霊力が図形に注ぎ込まれ、空間が歪む。
重力が狂ったかのように、周囲の空気が沈み込んでいく。
「巫術《五封の印》。
今回は──“その身の封印”と、“妖力の半減”よ」
「ギィィィィィアアアアアアア……ッ!!」
大黒猫の体が黒い渦に呑まれていく。
断末魔を残し、存在ごと──“地底”へと封じ込められた。
その場には、風すら吹かない静寂だけが残る。
「……まあ、歯ごたえのある敵だったわね。帰るわよ、雪夢」
「はいっ! お姉ちゃん!」
「じゃ、行きましょうか」
森を後にする二人の背が、緩やかに遠ざかる。
その途中──雪夢が、ふと木陰に戻り、頬を赤らめて呟いた。
「お姉様に……あんな風に命令されるなんて……も、もう……興奮しちゃった……♡」
──つづく。