「はい。吸ってー。吐いてー。ゆっくりお腹から強くながーく」
柔らかい日差しのもと、1年は並んで腹式呼吸の練習を行っていた。ただひたすらに息を吸って、吐く、吐く、吐く、吐く、
「ぷはぁっ」
「かはっッ」
号令はまだ続いていたが耐えきれず、武臣は息を吸う。横を見やれば、横腹に手を当てた列に葉月の頭がはみ出ていた。
どうやら未経験者は2人だけのようだ。肺活量にはそれなりに自信があったのだが、長く続けることが難しい。隣の塚本はけろりとした様子でいるのが信じられなかった。
「うんうん、最初は難しいけどだんだんできるようになるから」
指導係を務めていた中世古のフォローが心に染みる。あと数回もしたら各パートでそれぞれの練習に移ってしまうのが残念だ。
「腹式呼吸の練習には吹き戻しがいいんだよ。これをずっと伸ばしたままにするように意識してみて」
こういう風に。そう言って中世古は取り出した吹き戻しに口をつけた。
ピィィ──
高い音をたてて巻かれたビニールに息が通って先の先まで伸びている。
久しぶりに見たな吹き戻し。幼いころに遊んでいた以来な気がする。コンビニはおろかスーパーからも姿を消して絶滅したものかと思っていた。そういえば、駄菓子屋を見かけた気がするな。時間がある時によってみようか。
中世古が使っていた吹き戻しは5000円ぐらいの付加価値が付きそうだな。と、くだらないところまで考えたところ校舎からあすかがやって来た。
「おーい。そろそろ低音の1年持ってっていい?」
「物みたいに言わないの」
美人と美人が会話をしている。先輩として指導する中世古の姿も素敵だが、あすか等の3年と接するときの少しくだけた物言いもまた素晴らしい。ちょっとこの場の空気が浄化されたんじゃないか。
「まだ決まっていないのよ、この子たちのお相手がね」
扉の中に入ると、人の出入りが少ない場所の埃っぽい匂いがした。案内されたのは楽器室。
「武器庫みたいだ」
「武器庫?」
三方の棚は色んな大小様々なケースがたくさん詰められており、出入り口近くには身長に並ぶ大きな楽器が立てかけられている。埃がうっすら積もったケースにはどんな楽器が入っているのかを考えるとちょっとワクワクする。先輩たちがいなかったら全部開けて確かめていたかもしれない。
「……チューバのケースはこっち」
おっと注意されてしまった。葉月はもう選んだようでチューバのもう1人の先輩、長瀬梨子から説明を受けている。
まぁ、ここで悩んでもしょうがないのでとりあえず直感で選んで取り出した。
ぬ、重い。手に持ってみると重量はよく感じられるもので、片手で持つにはなかなかキツい。うっかり落とさないように気をつけなくては。
慎重に横に倒して金具を外して中身を見ると、チューバが静かに収められていた。長い間この学校に置かれている楽器は新品ではないのだろう。それでも武臣の目には新品以上に輝いて見えた。
「緑、決めました。この子の名前はジョージくん!」
緑輝が嬉しそうに声を上げた。
名前?
「先輩も名前をつけてるんですか?」
「……俺は付けてない」
残念なことに後藤は付けていないが、人によっては付けているらしい。
葉月は付ける気のようでチュバチュバ言っている。
「そうだ、チュパカブラにしよう」
「なぜUMA」
「なに? それ?」
語感だけで選んだな。しかし、名前か……
黄金、輝く、大きい、強い、
「お前の名前はコンゴウだ」
「うっわ」
「和名?」
「うーん……」
は? チュパカブラなんぞよりもかっこいいんだが?
どうやら俺のセンスは高次元過ぎたようだった。
低音パートの楽器は重いので配慮されており、音楽室から近い教室が割り振られていた。見上げた位置にあるかつては真っ白だったプレートには3年3組と書かれている。
「じゃあ1度皆で鳴らしてみようか」
「……あの、夏紀がいませんけど」
ユーフォニアムの2年、中川夏紀。先程軽く自己紹介をした時にはいたはずなのだがこの教室にその姿はなかった。というか、楽器選びの時からいなかった。
「どうせ帰ったんだろ。5時だし。ていうか楽器室に来ない時点でそのつもりだろ」
「わからないでしょ」
「わかる」
後藤が強気に出るあたり、中川のやる気はかなりのものらしい。やる気に満ち溢れているとは思ってなかったが先に帰ってしまうとは。
「とりあえず1年生もいるんだし、今日は音合わせと基礎練習をやろうか。合奏の練習はとりあえず時間に余裕があったらで」
「今度、合奏をするでしたよね」
「サンフェスの曲は海兵隊に決まったんですか?」
海兵隊。吹奏楽のレベルとしては初級らしく割と簡単な部類である……らしい。
『合奏できるクオリティになったら呼んでください』
『そうですね。海兵隊でどうでしょう』
いわゆる顧問の滝から出された課題とでもいうのだろう。ちなみに初心者は能力的にまだレベルが足りないため見学することになっている。
「うーん、違うと思うけどねぇ」
「違うなら早く決めた方がいいのに」
あっけらかんと答えるあすかに対して長瀬はうつむきがちに呟く。例年通りなら既に練習に取り組んでいる時期なのだろう。
サンライズフェスティバル略してサンフェスとは、京都にある各高校の吹奏楽部が集まり太陽公園でパレードを行う毎年恒例の行事のことだ。武臣がその存在を知ったのはつい最近である。
「それじゃ、音合わせいくよ」
ガコンと低い音が人気のない廊下に響く。部活終わりの時間帯になると残っている人の姿はない。喉が渇いたのでついつい自販機のところまで来てしまった。冷えたジュースはとてもよい。
「武臣じゃん」
「塚本」
後ろから呼びかけたのは塚本だった。彼も帰り際に飲み物を買いに来たのだろう、硬貨を入れている。選んだ楽器はたしか……
「トロンボーンだったよね。そっちのパートってどんな感じだった?」
「どんな感じ……」
ムッとした表情で固まってしまった。思うところでもあるのだろうか。
「悪い人たちではないと思う。……だけどいやな感じだ」
「こっちはそうでもなかったけど」
「そりゃ低音王国は田中先輩の領地だし」
「低音王国?」
「よく知らないけど先輩が言ってた。あそこは田中先輩がいるから荒れないって。真面目にやってるんだろ? いいよなー、うちのパートリーダーと交換してほしい」
時間になったらさっさと帰っちゃったし。そう言って塚本はボタンを押した。落ちたのはミルクたっぷりのカフェオレ。
短い時間でもあすかが人をまとめる素質があるのはわかるが、王国に例えられるほどとは。他の3年生と比べて熱意が本物らしい。他が冷めすぎているようでもあるが。
「部員が大量に抜けたのもよく分かる。あんなんじゃ上手くなる気がしない」
「前は結構いたんだ」
「2年がな。理由は聞いてないけど去年かなり抜けたらしい。けどそういうことだろ」
「……」
まさか辞めた人がいるとは。辞めたくなるほどやる気を出そうとしない環境が存在することが信じられない。奏でるとかのレベルじゃない武臣ですら海兵隊の合奏が上手くいくのか心配になってきた。
「……割と話しづらいことだと思うのによく聞けたな」
「そうか? 別にふつーだよ」
初日で結構仲良くなったとでも言うのだろうか。その姿勢は見習いたいものだ。