滝の指導が入り始めて数日。すぐに指導を受けられると思っていたが、先生の都合もあるため各パートで順繰りに回っているようだった。
合奏のときにあれだけ棘をふんだんに練り込んで発言したのだ。どんな指導なのか気になるのは仕方ない。お手洗いに行った時にどっかのパートを横切ることになったのはたまたまなんだ。
「基礎の基礎ですよ。何年も貴重な時間を割いて演奏を続けてきたんですよね」
「……はい」
「それでその演奏しかできないのだったら、それこそ時間がもったいない」
「楽しく吹くのも吹奏楽の楽しさじゃないですか!」
「最初に皆さんに聞きましたよね、目標はどうしますかと。それで全国大会を目指すと」
教室の中から聞こえてくるのは冷静に言葉を返す声に反発する生徒の声、そしてすすり泣く声。滝の言葉に盗み聞きしているこちらまでもが肝が冷えてしまう。全国大会出場、という目標を設定することでこんな風に追い詰めることができるとは。本気で目指すことになっている以上、滝の言葉は正しい。正しいのだが、受け止めるには棘が鋭い。
これはうかうかしていられない。初心者だからといって甘く見積もるタイプではなさそうだ。
「遅くなってすみません」
部活が始まった中頃に滝は低音パートの教室へやってきた。あすかから滝が来ることを聞いていたが割と遅めだ。あれだけじっくりと指導しているなら長くなるの当然なのかもしれない。
「ではまず、楽器をおいてください」
抱えていたチューバを置いて席を立つ。大きいため机上に置くのはそれこそ危険だが、ベルを床につけて置くのは初めて知った時のちょっとした驚きだ。
「皆さんにはチューニングの音を歌ってほしいんです」
「チューニングを?」
「歌う?」
武臣と葉月が不思議そうに首を傾げる。
「もしかしてソルフェージュですか?」
「なんですかそれ?」
練習に心当たりがあったようで、あすかが質問をした。
「ソルフェージュというのは楽譜を読むことを中心とした基礎訓練です。今日は時間がありませんが、これから配布するテキストのなかからいくつか歌ってもらおうと思います。これらの訓練で読譜能力が身につきますし、正しい音程も出せるようになります」
「それではこの音から」
慣れた手つきで教卓に並べられたパソコンにはスピーカーが繋げられている。そこから出てきたのは聞いたことのある音程の電子音。……説明されたのならば歌うしかない。滝の手に合わせて低音パートは揃って声を発する。鳴り響く音と同じ高さの声、とずれた声2つ。
「……竜胆君は歌が得意ではないですか?」
「すみません……」
普通に見抜かれた。
「後藤君もあまり得意ではないようですね」
「すみません……」
後藤の方がオブラートに包まれていた。
武臣にとって歌うことは嫌いではないが、音程を合わせるとなると話が別になってくる。その歌声はかなりの破壊力を持っており、相当な音痴であった。音痴は音痴でも演奏経験のある後藤と比べるとその落差は激しいものである。
「大丈夫ですよ。不慣れな人も慣れていけばどんどん上手になってきいますからね。頑張りましょう」
「はい」
返事をするが思わず顔が下を向いてしまう。幼い頃は合唱がこの世から無くなってほしいと七夕の短冊によく書いたものだ。
「安心しなって、音痴仲間には晴香もいるんだから」
ケラケラ笑いながら打ち明けるあすか。こんなところで小笠原との共通点を知りたくなかった。
「では次に同じ音を楽器で吹いてみましょう」
指示に従って楽器を吹く。後藤は歌が下手でも楽器を持てば音が外れているようには見えない。経験の差、というやつだろう。
「電子音に楽器の音を溶け込ませることを意識してください。楽器をただ吹くのではなく、もとにある音のなかに馴染ませるんです」
音を溶け込ませる。イメージする音は後藤と長瀬の音。ユーフォ、コントラバス、チューバに寄り添うように音を出す。ゆらめいて波打っていた音が束ねられ1つの塊に成っていく。そうして、どこか別の音が聞こえた。
「はい、そこまで。いま、Fの音が聞こえましたか?」
具体的にどの音が武臣には説明できないが、おそらくさっき聞こえた音がFの音というやつなのだろう。
「それが倍音です。音程がそろっていると聞きやすくなります。音程というのは合わせるのがとても面倒ですが、美しい演奏はこの音程を無視してはできあがりません。こうやってひとつひとつの音を完全にそろえていけば美しい演奏になります。わかりましたか」
「はい!」
滝の言葉に武臣たちは返事をする。演奏というほどでもなく、そろって音を出しただけなのにその音は美しかった。突出した技巧ではなく、そろえることで生み出す吹奏楽の一面を知れたような気がする。
「それでは、もう一度」
その後、短い時間ではあったが指導が続いた。一言二言もらっただけだというのにそれだけでずいぶん上達したように感じる。指導者がしっかりした人だとためになるものだ。
「今日はリップスラー?」
「そう、めちゃくちゃ難しいんだよ」
パート練習の教室に遅れてやって来た久美子が葉月に問いかける。ついでに集中力も途切れたようで葉月は足をばたつかせている。チューバを抱えた武臣たちの譜面台には滝から渡された練習メニュー、基礎練習用の楽譜が置かれていた。大量に渡された楽譜にはどれも等間隔で散りばめられたように音符が載ったものばかり。ロングトーン、というやつだ。ひたすらに長く音を出すのは別にいい、別にいいんだが、
「喉と舌を上手く使うってなんだ?」
「それなっ!」
初心者2人が頭を悩ませてもしょうがないので後藤に聞いた。
「喉と舌を上手く使ったらいい、と思う。あとは慣れ」
???
さては感覚型だなこの人。
と言ってもこればっかりは自分で感覚を見つけるしかない。指や腕の動き脚運びのように見て解るものではなく、おそらく口周りの筋肉の使い方なのだろう。それが分かったところで、どうやって鍛えたらいいんだか。
そうやって頭を抱えたのがやや先刻。頭を抱えてばかりもいられないのでひたすら吹いている。
「オイースッ! 二者面談終わりましたー!」
空気を割るような声で乱入して来たのはあすかだった。二者面談があるため途中で抜けたはずなのに早すぎる。前の方で座っていた長瀬も振り返って驚いていた。
「先輩、面談はどうしたんですか」
「そんなもんパパっとやって5分で終わらせちゃった」
「……受験生なのにいいのかこの人は」
後藤のあきれたような言葉で、思わず武臣の音がぶれる。聞き耳をたてながらの演奏する技術はまだ早そうだ。
「おやおや、チューバのひよこ組は苦しそうだねぇ」
「ひよこ組」
卵から孵っているだけましなのだろうか。あの先輩のことだから適当に言っているだけかもしれないが。
「リップスラーが難しいんですよぉ」
お手上げと言わんばかりの葉月の言葉を聞くと、あすかは顎に手を当てじっと見つめた。
「葉月ちゃん、まずマウスピースだけで音が出せる?」
「あ、はい。こんな感じですか?」
チューバからマウスピースを外し、唇をつけて震わせる。その振動で銀色の金属部品からブーと音がでる。ついでに武臣も音を出してみるが綺麗な音ではなかった。うんうん、と満足気にあすかはうなずき、自分のマウスピースに唇を付ける。
「その状態で、音程を変えてみ?」
こんなふうに。とあすかはマウスピースだけで音階を奏でて見せた。1つの音階がはっきりした様は、ただ震わせるだけの機構だというのにまるでそういう楽器のようだった。
「すごい」
「いや、ちょっとそこまでは難しいです」
驚いた武臣は雑な感嘆しか出なかったが、葉月の言葉に大いに賛成だ。レベルが高すぎる。
「なーに言っちゃってんの。やってけばできるようになるって、慣れよ慣れ」
「えー、無理ですよー」
「やるしかないかぁ」
あすかの指導を受けつつ、武臣の視界の片隅では久美子がマウスピースを吹いていた。真剣に聞いていた訳ではないのだが、あすかほど綺麗に音階が分かれていないように思う。後藤でもあすか程ではないらしいし、この人の演奏技術はもしかするとトップクラスなのでは……?