③疲れてる時には甘い物が良い
街には活気が溢れ、行き交う魔物達はそれぞれの仕事や日常に勤しんでいる。子供達の笑い声が響き、商人達の威勢の良い呼び声が飛び交うその光景は、かつて魔物達が弱肉強食の掟に縛られ、怯えながら暮らしていた世界とは思えないほど穏やかなものだった。
そんな評判を耳にしたのか、近頃は他種族の魔物達が毎日のように移住を希望してやって来ている。
弱肉強食こそが絶対の理とされるこの世界において、力を持たぬ者達の立場はあまりにも弱い。弱いというだけで住処を追われ、搾取され、時には命さえ奪われる。それが当たり前として受け入れられている現実があった。
だからこそ彼らは、そんな理不尽な運命から逃れるために命懸けで旅をし、この国へと辿り着くのである。
最初は小さなゴブリンの集落に過ぎなかった場所も、今では数多の種族が集う巨大な魔物国家へと成長した。
ゴブリン、牙狼族、鬼人族、蜥蜴人族、ドワーフ、さらには他国から訪れた者達まで、その種族は実に多岐に渡る。
そんな国の盟主となったリムルは、日々忙しさに追われながらも充実した毎日を送っていた。かつて会社員として働いていた前世と比べても、今の生活は刺激に満ちており、責任こそ重いものの不思議と苦ではない。
しかし、それとこれとは話が別である。
執務室でリグルド達から提出される大量の報告書に目を通し続ける生活には、さすがのリムルも少々うんざりし始めていた。
「あ~、今日はいつもより仕事量が多い気がする」
机の上には、綺麗に積み上げられた報告書の山が幾つも並んでいた。
もちろん全てを一言一句確認する訳ではない。重要な部分を中心に目を通し、必要であれば判断を下すだけだ。
しかし、それでも量というものには限度がある。次から次へと運び込まれる書類を前に、リムルは思わず机へ突っ伏したくなっていた。
「ちゃんと目は通しておいてくれよ。今日中に片付けておきたいんだから」
そう冷静に指摘したのは、盟主リムルの補佐を務める青年――司波隆誠だった。
本来ならば、こうした雑務の一部は秘書が請け負うべき仕事だ。
だが、その役職に就いている鬼人族のシオンは料理以外の仕事についても色々と問題が多く、正直なところ頼りになるとは言い難い。結果として、こうした書類整理や事務作業の大半は隆誠が担当することになっていた。
「分かってるって。でもこんなに多いと頭の中がパンクしそうだよ」
リムルは心底疲れたように肩を落とした。
スライムへと転生した現在は、前世の人間時代とは比較にならないほど高性能な思考能力を持っている。
それでもなお、目の前の仕事量には辟易してしまうのだ。むしろ前世で会社勤めをしていた頃の記憶があるからこそ、この終わりの見えない書類作業に既視感を覚えていた。
とあるスキルのお陰で事務処理そのものは大幅に効率化されている。それでも、次から次へと舞い込んでくる報告書を確認し続ける作業は精神的に疲れるものだった。
「ふむ……ならば、脳を活性化する為にチョコレートでも食べるか?」
隆誠は積み上げられた書類へ視線を向けながら提案する。
「チョコだと!? 是非とも頂こうではないか、リューセー君!」
その言葉を聞いた瞬間、リムルの表情は見る見るうちに明るくなった。まるで疲労など最初から存在しなかったかのような食い付きぶりである。
前世の記憶を引き継いでいるリムルにとって、日本で親しんでいた食べ物や菓子は特別な存在だった。
だからこそ、異世界では本来入手困難なそれらを口に出来る機会を決して逃そうとはしない。
「ミルク、ビター、ブラック、ホワイト等々あるが、どれがいい?」
「う~ん、そうだなぁ……。じゃあ今日は甘いミルクチョコを頼む」
「了解」
隆誠は即座に収納用異空間へ手を伸ばし、一枚の板チョコを取り出した。
慣れた手付きで包装を剥がし、リムルへ手渡す。
受け取ったリムルは嬉々として一欠片を口へ放り込み――
「ん~~♪ やっぱり前の世界のお菓子は美味いな~♪」
甘い風味が口いっぱいに広がる。
懐かしさと幸福感が同時に押し寄せ、思わず頬が緩んでいた。
「そうかい」
そんな様子を見ていた隆誠は少々呆れたように肩を竦める。
だが、自分も同じように板チョコを一欠片口へ運びながら、小さく笑みを浮かべた。
束の間ではあるが、忙しい執務の時間を忘れられる穏やかな休憩時間だった。
チョコレートによる束の間の休憩を終えたリムルは、見事にやる気を取り戻していた。
先程まで書類の山を前に弱音を吐いていたのが嘘のように、次々と報告書へ目を通していく。
甘い物による糖分補給は実に偉大である。そんな事を密かに実感しながら、リムルが報告書と睨めっこを続けていた最中だった。
コンコン、と執務室の扉が叩かれる。
「失礼します、リムル様」
「おう、ベニマルか。何か用か?」
入室してきた幹部――ベニマルに、リムルは手にしていた報告書から視線を向けた。
彼は『侍大将』の役職を与えられており、
そのため、各地の警備状況や軍務に関する報告を持って執務室へ訪れる事は日常茶飯事だった。
「パトロールの報告をしようと……ん?」
何事も無い様子で口を開いたベニマルだったが、不意に言葉を止めた。
同時に眉を僅かに顰め、何かを探るように周囲へ視線を巡らせる。まるで違和感の正体を探しているかのような挙動だった。
「どうした?」
突然の奇妙な行動に、リムルは首を傾げる。
するとベニマルは鼻を微かに動かした後、何かを確信したように口を開いた。
「リムル様、つかぬ事をお聞きしますが……何か甘い物を召し上がりませんでしたか?」
「ッ! な、何の事かな~?」
思わず体を跳ねさせるリムル。
露骨に動揺してしまったが、それでも何とか誤魔化そうとする。
しかし、その反応こそが答えだった。ベニマルは苦笑を浮かべながら肩を竦める。
「惚けても無駄ですよ。リムル様が喋る度に、口から甘い香りがしておりますので」
「あ……」
言われて初めて気付いたのか、リムルは思わず口元を押さえた。
チョコレートを食べてからそれほど時間が経っていない。しかも先程はかなりご満悦な様子で食べていたのだ。証拠隠滅など、端から不可能だった。
「……あ、えっと、さっきリューセーから甘いお菓子を貰ってな……」
「ほう……」
その瞬間、ベニマルの目が僅かに鋭くなった。
リムルは思い出していた。目の前の侍大将もまた、かなりの甘党だった事を。
そして、異世界では貴重な甘味に目がない事も。
案の定、ベニマルはゆっくりと首を動かし、執務室の隅にいた隆誠へ視線を向けた。
すると――
「おい隆誠。何処へ行く?」
「それじゃリムル、俺はこれで失礼する!」
いつの間にか執務室の出口付近まで移動していた隆誠が、爽やかな笑顔と共に逃走を開始した。
恐ろしいほど自然な動作だった。あと数秒気付くのが遅れていれば、そのまま逃げ切れていたかもしれない。
「おい待て隆誠!」
ベニマルの鋭い声が飛ぶ。
「リムル様と一緒に何を食べたのか教えろ!」
「企業秘密だ!」
「秘密にするな!」
言うが早いか、隆誠は脱兎の如く廊下へ飛び出して行った。それを追うベニマルもまた凄まじい速度で駆け出す。
もはや軍務報告どころではない。重要案件は完全に甘味の情報へと切り替わっていた。
遠ざかっていく足音と怒声を聞きながら、執務室には静寂が戻る。
取り残されたリムルは、ぽかんとした表情で扉を見つめていた。
「……嵐みたいに行っちゃったな」
そう呟くと、ふと机の引き出しへ視線を向ける。
そこには先程、隆誠からこっそり渡されていたもう一枚の板チョコが隠されていた。
ホワイトチョコレートである。もし今ベニマルに見つかれば、間違いなく半分は要求されるだろう。いや、全部持って行かれる可能性すらある。
「……今の内に食べておいた方が良いかもな」
リムルは素早くチョコレートを取り出した。
そして誰もいないのを確認すると、一欠片口へ放り込む。濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。
「うん、美味い」
満足そうに頷きながら、リムルは再び報告書へ視線を戻す。
やる気の源を補給した彼の仕事速度は、先程よりもさらに上がっていたのだった。
感想お待ちしています。