千葉県警捜査一課所属の刑事、今村聡(いまむらさとる)は、ライトバンから下りると、助手席でいそいそと準備している、後輩の岸永謙一(きしながけんいち)に向かって、
「おい、早くしろ」
と急かした。岸永はマイペースな性格で、手帳などの必要な荷物をまとめるのが苦手らしく、いつもここで手間取っている。その割には、直前まで準備しようとしないタイプだ。何度注意しても直らないのでほぼ諦めかけているが、こういう場面になる度、ああもっと注意しておけばよかった、と後悔する。
「すいません」
ようやく荷物をまとめ終えた岸永は、慌ててライトバンから下りた。
目の前に人集りが出来ている。
「これが白砂荘か…」
今村が言った。
「結構古いアパートですね。周囲とやけに対照的だ」
「こんなところで殺しがあったとありゃあ、このアパートの人気もガタ落ちだろうな。どうせ家賃の安さだけが売りのアパートだろう」
「随分と酷評しますね」
「見りゃ分かるだろ。壁の塗装が八割くらい剥がれ落ちてる。窓もよく見ればオープン式だ。今時の窓はスライド式だってのによ」
「僕の家はオープン式ですよ」
「知ったこっちゃねえよ、そんなこと」
話しながら今村達は人々を掻き分け、「KEEP OUT」と書かれたテープをくぐった。近くにいた警官が、今村達を野次馬と勘違いして近寄ってきた。今村は黙って手帳を見せた。すると彼は立ち止まり、目礼した。
今村は、その警官に話し掛けた。
「現場はどこだ」
「一階の奥、一○八号室です」
「そうか」
今村は白砂荘の正面玄関へ大股で歩いていった。岸永は黙ってついて来た。正面玄関から入って右手に、管理人室と思われる部屋があった。しかし、今は誰もいない。そこを通り過ぎ、あの警官の言った通り今村は奥へ進んだ。
一○八号室には、何人かの鑑識と、同僚の藤谷智己(ふじたにともき)がいた。藤谷は今村の姿に気付くと、肩を竦めた。
「とうとうあんたもお呼ばれか」
藤谷が言った。
「どういうことだ」
「どうもこうもねえよ。殺しが立件されて、まず呼ばれるのが決まってアンタだ。つまり、面倒な事態になった、ってわけだ」
「一課の連中が呼ばれた時点で殺しの可能性有りだろうが。お前だって一課だろ」
「そうじゃなくて、面倒事に派遣されるのが、毎回アンタだってことだよ。アンタ、見かけに寄らずお人好しだからなあ。係長に良いように使われてる」
「だから、俺が来たら面倒事だってか。そんな噂誰が広めた、ぶん殴ってやろうか」
「熱くなるな、血圧が上がるぞ。それに実際、今回は結構厄介っぽいからな」
藤谷はそう言って、部屋の奥を顎で差した。その先は、洗面台だった。そのすぐ手前に、テープが人の形に貼られている。その周りを鑑識が忙しなく動き回っている。
「死因は?」
今村は藤谷に尋ねた。
「失血死だ」
「通報したのは誰だ」
「黒川っていう学生だ。同じテニス部のサークルメンバーだとさ」
「そいつは今、何をしてる」
「事情聴取だよ。ただ…」
「ただ?」
「少し厄介なタイプの*完黙だってよ。事情聴取してた奴が嘆いてたぜ。話にならないって」
「話にならないってどういうことだ」
「黒川は、*マルガイの恋人だったんだってよ。で、お陀仏なさったものだから、相当なショック状態で、何を言っても真面な質疑応答が出来ないらしい」
「恋人か…そりゃあショックだわな」
「もう一人、発見時にその場にいた人間がいる。上島っていう女子大生だ。同じく、テニス部のサークルメンバーだったらしい。そいつはまだ真面に喋れるが、大した情報は持っていないらしい」
「他にはいないのか?その時に現場に居合わせた人間は」
「いない」
藤谷は即答した。
発見者の一人は、大きなショック状態で真面に口が利けない。もう一人は、真面に口が利けるものの大した情報は持っていない。
確かに、面倒だ。
「ただ、一つだけおかしな点がある」
おもむろに藤谷が口を開いた。
「その上島っていう女子大生は、『ドアのロックが錆びてて、部屋の入口の扉が全然開かなかった』と言っていた。だが、ドアのロックは全く錆びていないんだ。むしろツルツルだ」
「ふーん…」
「だが、ドアのロック部分に、透明の液体が付着していることが分かった。今、鑑識がその正体を調べている」
「ロックの錆びねえ…」
「あと、もう一つ」
藤谷が言った。
「なんだ」
岸永が隣で藤谷の話を黙々と手帳にメモしているのを横目に、今村は聞いた。
「マルガイの首には、策条痕があった」
岸永の手の動きが、一瞬止まった。
「策条痕…ワイヤーか。吉川線は?」
「確認されていない」
「そうか」
今村は黙り込んだ。
失血死、ロックの錆び、策条痕…
彼の頭には何も浮かんでこなかった。これらの三つのワードには、何の共通点もない。
藤谷の気持ちも分からないことはない、と今村は思った。
「近況を報告致します」
不意に、警官がやってきて言った。どうやら話がひと段落付くのを待っていたらしい。
「被害者は、大西第三大学の山崎尚美19歳。市原市の白砂荘、自室にて死体が昨日の午後2時10分頃に発見される。発見者は、同じく大西第三大学の黒川啓司19歳。また、同じ大学の上島紀香19歳も現場にいた。
山崎尚美の死因は、失血死。自室の洗面台で、頭部から血を流し倒れていたとのこと。原因は不明。
彼らは、テニス部のサークルメンバー。黒川啓司と上島紀香は、先週行われたテニスの地方大会で山崎尚美が優勝し、全国大会進出をみんなで祝うため、彼女のもとを訪れたとのこと。他にもサークルメンバーは数名来る予定だったらしく、それらのメンバーは現在事情聴取中。
以上です」
「分かった、ありがとう」
今村が言った。
警官が去っていくと、藤谷は眉間にシワを寄せ、口を一の字にした。何かを考えている時の顔だ。今村も同じく、あることを考えていた。________この名前、どこかで______
*完黙…完全黙秘。取り調べに対して、何も喋らないこと。
マルガイ…被害者。
8月2日午後3時
白砂荘から十分ほど歩いたところにある、数年前に建てられたばかりのアパート「四ツ葉荘」には、去年から紀香が一人暮らししている。紀香が住んでいるのは、二階の二○三号室だ。
そこへ、今村という刑事が訪ねてきた。体躯ががっしりとした男だった。
「どうぞ」
紀香が部屋へ入るよう促すと、今村は少し躊躇し、お邪魔します、と言って入ってきた。
彼は、死体を発見したときのことを教えてほしいと言った。
「私、昨日に全て話しました。それ以上のことは何も知りません」
紀香はそう言った。早く帰ってもらいたかった。昨日は何時間もぶっ通しで事情聴取され、すっかり憔悴しきっていた。心を落ち着かせる時間も欲しい。
だが、今村は表情を変えずにこう言った。
「なら、昨日と同じことでもいい。とにかく、発見したときのことを喋ってくれないか。すぐに終わらせるから」
語調は強くないが、彼の声は言いようの無い迫力を帯びていた。仕方なく、紀香は昨日のことを話し始めた。
あの時、黒川の叫び声を聞いて部屋に飛び込んだのはいいものの、目の前に尚美の死体があったのだから、紀香は少しパニックに陥った。なぜか、目の前の死体が尚美だと、あっさり受け止めている自分がいたのだ。少しして紀香は平常心を取り戻したが、黒川は放心状態だった。当然である。目の前で、恋人が死んでいたのだから。とりあえず、紀香はスマホで警察を呼んだ。焦ってしまい、なかなか番号が浮かんでこなかったことは覚えている。
そのことを今村に話した。昨日、他の刑事に話したことと全く同じだ。今村は、表情一つ変えず、
「そうか」
と言いながら、手帳に何か書き込んでいる。
「山崎尚美さんは、誰かに恨まれていたりはしてなかったかい?」
今村が尋ねてきた。
「…心当たりはありません」
紀香は、ありのままに答えた。
だが、次の瞬間紀香はハッとして言った。
「尚美は誰かに殺されたんですか⁉」
「さあ、それは何とも言えない。情報も不十分だからね。だから、君達から情報をもらわなければいけない。情報の出し惜しみは無しだ」
今村は少し表情を緩めた。
「私、隠し事なんかしてません」
紀香は咄嗟に答えた。
「そうか、それなら結構。
なら、山崎さんの様子が変だったとか、怪しげな人間と話していたとか、そういうのはないかい?」
「普通でした。何も不自然な様子なんてありませんでしたし、知らない人間と話しているのも見ませんでした」
「そうか」
依然として、今村は黙って手帳に何かを書き込んでいる。
「俺は、回りくどいのは嫌なんでね」
唐突に、今村が話し始めた。
「基本、人と話をするときには、本題に単刀直入に入るタイプだ」
「はあ…」
「だから、率直に言う。
…君は、山崎尚美さんを恨んでいたり、あるいは以前に恨んでいたことがあったかい」
紀香は、思わず目の前の刑事の顔を見返した。今村の涼しげな顔を凝視していると、頭がクラクラしてきた。今村の目。この世の憎悪、嫉妬、そういった負の感情を知り尽くした目だった。
「ありません。
…私を疑ってるんでしょうけど、それは大間違いですよ。私には、彼女を殺す動機も何もありませんし、アリバイもあります。大学の講義は昼で早退して、1時頃にアパートに帰ってきました。それから50分頃までずっと、ここにいました。ここの管理人聞けば分かります」
「へえー、今の人間は、『アリバイ』なんて言葉を知ってるんだなあ。最近、推理小説とかでよく見る言葉だもんな、『アリバイ』」
「聞いてるんですか?」
気が立っていたのか、紀香は思わず口調が強くなった。
「悪い悪い、聞いてる。ここの管理人には、また話を聞かせてもらう。そんなに焦らなくてもいい」
今村は宥めるような口調で言った。
「まあいい。とりあえず今日はこれで失礼させてもらうよ」
今村は、先程の言葉通り早々と終わらせようとした。
「待ってください」
今村が部屋を出ようとした時、紀香は後ろから声を掛けた。
「なんだ」
今村は振り返らずに言った。
「……私、何も、やってないです」
言葉が途切れ途切れになった。何もしていないのに、尚美を殺した、と疑われるのは嫌だった。言ったところで何も変わりはしない、と心では分かっていても、言わずにはいられなかった。
今村は、それには答えず、黙って靴を履くと、入口のドアを開けた。そして、部屋を出る間際に、
「そうか」
と、今村は小さく言った。
そして今村は、黙ってドアを閉めた。今村の足音が遠ざかっていく。
紀香はドアにロックを掛けると、寝室へ行き、ベッドに潜り込んだ。
本文に出てきた「大西第三大学」というのは、筆者が適当に考えた大学名です。万一、同じ名前の大学が実在したとしても、その大学とは何の関係もありません。