さよなら、べるanother 〜Seasons of Love〜 作:Rain_KCF
12月24日。フランス、パリ。
花の都に、雪が舞い落ちていた。
10年に1度の大寒波がもたらした夢のホワイト・クリスマスに、街は浮き足立っていた。
華やかにライト・アップされた美しい石造りの街並みを背に、恋人たちは愛を語らい、若者たちは騒ぎ、敬虔な大人たちは神に祈りを捧げる。
パレ・ド・ラ・シテの時計塔が時を紡ぐ夜空の下、祝祭の狂騒はより深く、激しさを増して渦巻いていた。
しかし、麗しのシャンゼリゼ、煌めくサン・ジェルマン、そのような繁華街から遠く離れた街外れの一角、暗く寂れた路地にも、等しく聖夜はやってくるのだ。
貧しい地区だった。道端は職を持たぬ路上生活者で溢れ、薬物が蔓延し、犯罪が横行している。
ひび割れた石畳は修繕されずに放置され、まばらな街灯は寿命を迎えて不規則に明滅していた。
絢爛な光の都に出来た、影のような街。
それでも、だからこそ、そこに住む人々は懸命に、1年に1度の素晴らしい夜を祝おうとしていた。
決して豪華ではないが、街角にはモミの木が飾り付けられている。余裕のある者は酒や料理を持ち寄って、浮浪者達に分け与えていた。
そして路地の一番奥に佇む、いまにも崩れ落ちそうな古びた教会では、聖歌隊のゴスペルが響いていた。
聖職者、シスター、売れない音楽家、ならず者、身寄りのない子供、酔って乱入してきた男たち。
それぞれの苦楽を、魂を、人生を乗せた歌声は混じり合い、響き合う。聖夜のコーラスは路地の外にも漏れ出し、雪降りしきる街角のささやかな祝宴を、優しく温かく包み込んで揺らめいていた。
教会の屋根裏に、小さな部屋があった。部屋というよりは、物置といったほうが正しい。長らく使われていなかったであろうその場所は埃に塗れていた。
天井は低く、女の身長ほどしかない。備え付けの照明はなく、床に置かれた古いランタンの灯が、部屋を薄暗く照らしている。
揺らぐ光に映し出された狭いスペースの大半を、木の板を繋ぎ合わせて作られた簡素なベッドが占め、その周囲だけ、埃が雑に拭き取られていた。
ベッドの上。階下から溢れ出す聖歌を聴きながら、蓮城寺べるはただひたすらに震えていた。
寒い。とにかく寒い。例年であれば12月のパリで雪が降るほどの寒さとなることは珍しいが、今年は大寒波が欧州大陸を襲っているという。
ここには暖炉も空調も、何もない。寒さを凌げるのは1枚の薄汚れた毛布だけだ。
全く、とんでもない日に家を飛び出してきてしまったものだ。
痛いほどにかじかんだ手で毛布を頭から被りながら、べるは自分の運命を呪った。
コンコン、と、床をノックする音がした。はっと我に返り、身体を起こす。
どうぞ、と声を掛けると、ベッドの側の床板がずれ、階下へと続く梯子があらわになった。響いていた歌声が途端に大きさを増す。
梯子から顔を出したのは、くたびれた祭服に身を包んだ初老の神父だった。
「すまない、マドモアゼル。心配で様子を見に来てしまったよ」
「心配なさらないで。私なら大丈夫です」
べるは努めて気丈に振る舞おうとした。
「そうかね、君は強い女性のようだが、強すぎるのも考え物だよ。せめて私たちの歌が、少しでも君の安らぎと癒しになれば良いのだがね」
「ええ…聞こえています」
「次が最後の曲なんだがね。私たちは毎年この歌でお開きさ。どうかね?君も一緒に」
「いえ、そのような気分ではありませんし、それに私は神を信じていません。聖歌を歌うのは皆さんに失礼かと」
「構わないさ。神ではなく、愛の歌だ」
「愛…」
ずきり、と、べるの胸の奥で何かが痛んだ。
「そこは寒いだろう。毛布しか用意できず、すまないね。下なら暖炉もある。暖かいよ」
「結構です」
べるはぴしゃりと言い放った。
「私を助けて頂いたことは、とても感謝しています。でも、寒さが和らげばすぐにここを離れます。あまり私に構わないで」
神父は物悲しい顔で
「そうかね…君の人生に愛のあらんことを。メリークリスマス」
とだけ言い残し、床下へと消えていった。
神父が去って暫くすると、最後の曲が始まった。べるは少しでも身体を温めようと、膝を抱えてベッドに座り込んでいた。
美しいピアノのオスティナートに乗せて、また歌声が響き始めた。音の振動に合わせて、ランタンの灯が揺らめいた。
『Five hundred twenty five thousand six hundred minutes
Five hundred twenty five thousand moments so dear』
どこかで聴いたことがある曲だった。有名なミュージカルの劇中歌だっただろうか。
確かにこれは愛の歌だ。愛の強さ、偉大さ、尊さを、真っ直ぐに、高らかに歌っている。メロディを聴いて、すぐにそう思った。
『Five hundred twenty five thousand six hundred minutes
How do you measure, measure a year?』
この街は貧しく、人々には夢も、希望もない。
見下していたはずの、人生の敗北者。劣悪な環境から抜け出すための努力もせず、惰性で日々を過ごし、何の取り柄も、誇りも持たぬ、敗北者。
それでも、こんなにも真摯に愛を歌うことができる。
彼らは、愛を信じている。
辛く苦しい生活の中でも、誰かを愛すること、誰かから愛されること。それを心の糧にできる。
だからこそ、枯れた声で、潰れた喉で、こんなにも曇りのない歌を歌える。
『In daylights, in sunsets
In midnights, in cups of coffee
In inches, in miles, in laughter, in strife』
自分には?
自分には無理だ、と、べるは思う。
誰からも愛されない。誰も愛することができない。
愛を信じることもできはしない。愛の歌が歌えるわけがない。
『In five hundred twenty five thousand six hundred minutes
How do you measure a year in the life?』
べるの心からは、愛というものがすっぽりと抜け落ちていた。
4年前、プリズムショーを失った、あの日から。プリズムの煌めきと共に、微かにそこにあった愛を失った、あの日から。
『How about love?』
寒さと孤独に震えながら、べるは目を閉じる。
4年間ずっと思い出さないようにしていた、重苦しく辛い、挫折と失意の記憶。
その光景と、かつての仲間の顔、そして、ついさっき今生の別れを告げたはずの母の顔が、入れ替わり立ち替わり瞼の裏に浮かび、べるは髪を掻きむしった。
耳を塞ぎたかったが、美しい旋律と心の奥底に焼き付くような歌声を、何故か聴かずにはいられなかった。今この胸を貫く情動を押し殺したら、いよいよ自分が何も感じないブリキの人形になりそうな気がして、怖かった。
『How about love?』
駄目だ。初日からこんなことでどうする。自分以外、何者も信じず、1人で生きていくと決めたではないか。
たとえ萎れかけの花だとしても、あるいはもう枯れた花だとしても、私は蓮城寺べる。かつて気高く美しく咲き誇った、一輪の薔薇。その誇りだけは忘れてはならない。
そう、思っていたのに。
なぜ、こんなにも悲しいのだろう。
みぞおちの奥を、両手で絞られるような痛みが走るのだろう。
答えは明白だった。
『How about love?』
こんなになってもまだ、誰かに愛されたいからだ。
自ら望んで1人になったのに。仲間も、家族も、自ら手放したのに。
求め続けていた温もりはもう、手に入ることはないのに。どうすることも出来ないのに。
『Measure in love』
愛を信じられないにも関わらず、べるの渇ききった心の底は愛を求めている。愛に飢えている。
それはまるで、砂漠の逃げ水を追う遭難者のように。
決して辿り着けない虹の彼方を目指す、哀れな子供のように。
『Seasons of love』
いつの間にか、べるは涙を流していた。
18歳の、孤独な少女の喉から、声にならない悲痛な叫びが漏れた。
毛布を口に押し当て、嗚咽を押し殺す。
どす黒い絶望に身体が飲み込まれていく。
涙はあとからあとから溢れ出す。
『Seasons of love』
雪はいよいよ掃き溜めの街に降り積もり、汚れた石畳を覆い隠していく。
愛の歌は白い景色に溶け出し、辺り一面を魔法のように美しく染め上げる。
少女を世界から遠ざけるように。
少女の悲しみを包み込むように。
『Five hundred twenty five thousand sixhundred minutes
Five hundred twenty five thousand journeys to plan』
ーー息を吸う。凍てつく空気の中に、懐かしい薔薇の香りが混じっていた気がした。
積もり始めた雪を踏み締め、小鳥遊おとはは遠くから響く歌声に向かって路地を歩いていた。
誰よりも優しく奥ゆかしいその目の奥は、願いに濡れ、決意に燃えていた。
『Five hundred twenty five thousand six hundred minutes
How do you measure the life of a woman or a man?』
ここであって欲しい。ここでありますように。
ずっとずっと、探し続けてきた。一縷の希望に懸けて、何も知らぬ異国へとやってきた。
それでも中々見つからなかった。心が折れそうになったこともあった。
『In truths that she learned
Or in times that he cried
In bridges he burned
Or the way that she died』
けれども、この夜は違った。相棒のフェミニが、何かに反応するように此処に向かって飛び始めた。こんなことは今までに無かったのだ。
祈りを込めて、おとはは歩む。
かつて救えなかった大切な人を、今度こそ救うため。
想いを伝えるため。
目一杯の愛がこもった、美味しい紅茶を淹れるため。
ぎゅ、と、雪を踏み固めるその音は、泣きじゃくる子供を優しく強く、抱き締めているようだった。
『It's time now to sing out
Though the story never ends
Let's celebrate
Remember a year in the life of friends』
ーー静かに降り注ぐ雪の中を、一瞬、強い風が吹き抜けた。
歌声を、風が運んできた。緑色の長髪が、街灯の光になびいた。
森園わかなは、風上にある暗がりの街に向けて、ゆっくりと歩き始めた。
『Remember the love
Oh you got to, you got to remember the love』
怖かった。危険だから絶対に近付くな、と、巷で言われていた地区だった。
もし仮に、本当に、彼女がそんな所にいるのだとしたら。
どんな姿になって、何をしているのだろうか。また泣いてはいないだろうか。独りぼっちになっていないだろうか。
『Remember the love
You know that love is a gift from up above』
会いたくなかった。いや、合わせる顔がなかった。自分の心を守り抜くのに必死で、傷ついた親友に真正面から向き合えなかった、あの日からずっと。
自分に彼女を救う資格はない。だからせめて、何も考えなくて済むよう、平凡な日常に埋没した。
この国に来てからも、大都会で偶然出会える確率などゼロに等しいのだから、と、自分を納得させていた。
『Remember the love
Share love, give love, spread love』
けれども今日、エスニが久々に目を覚まし、此の方角へ飛び立ったのを見て、もしやと思ってしまった。次の瞬間には、かつて別れた友が心配で心配でたまらなくなった。
遠くからでも良い。気付かれなくても良い。せめて、無事な姿を一目見たかった。
身勝手だとは分かっていた。それでも、彼女を愛していた。
上着のポケットから取り出した石で、吉凶を占う。わかなの掌の上で、今にも壊れそうな真紅のストーンが、無音の悲鳴を上げていた。
『Measure in love
Measure, measure your life in love』
ーー教会の尖塔に、卵が乗っていた。
不思議な卵だった。鶏卵よりもずいぶん大きく、ハートのような紋様が、うっすらと刻まれている。
どうしてこんな所に卵が在るのか、何の卵なのか、誰にも解らなかった。
長い年月を、雨風に晒されたのだろうか。半分ひび割れた殻の色はくすみ、刻まれた紋様も滲んでぼやけている。
しかし、それは未だ固い殻を脱ぐ時を待つかのように妖しく熱を持ち、時折ひとりでに転がっていた。
『Seasons of love』
ノートルダムの鐘が鳴る。日付が変わる。シャンゼリゼで群衆が歓声を上げる。
花の都のまばゆい光は、その影を置き去りにして、夜が明けるまで絶えることなく煌めき続ける。
次のクリスマスに向けて、また新たな1年が始まる。時計塔は新たな1年を刻み始める。
影の街へと足を踏み入れた薔薇の乙女達の、止まっていた時間もまた、動き始めた。
運命の歯車が再び廻りだす音は、普通の人間には聞こえなかった。
しかし、遥か夜空の彼方、青髪の少女の姿をした使者が、それを聞いていた。
彼女は人知れず涙を流した。そして人知れず祈った。
愛が悲しみを乗り越えますように。
愛が運命を乗り越えますように。
『Seasons of love』