♯1 厚生省公安課
枯れ木のような
白衣に覆い隠された痩せっぽっちな体。袖口から伸びる細い手足。デスクの灰皿に積み上がった煙草の吸い殻と、カップの中で揺れる珈琲の黒いさざなみ。窓もない研究室で彼女が口にしたものは、あまりにも理想論の社会だった。だからこそ興味を惹かれた。
これは俺と彼女の物語。俺たちを繋ぐ関係が、おぞましく、醜悪で、しかし何者にも代え難い唯一無二に成り果てるまでの物語だ。
*
東京は今日も晴天。
ヒーローたちは街を駆け回り、小さな諍いこそあれど大事件は無い。敵役ヴィラン連合の活動は現在の所なりを潜め、しかし神野区の悪夢以来オールマイトという平和の象徴を失ったこの社会では、市民の間に漫然と正体のない不安が伝播しつつある。
公安委員会本部上層階の会議室にホークスが招集されたのは、そんなある日のことだった。
「脳無の共同研究ですか」
「そう。我々ヒーロー公安委員会と厚生省公安課の二組織間でね」
厚生省公安課と言えば、ヒーローという民間職を統括する立場にある公安委員会とは目的が異なる組織だ。両組織にはどこか派閥じみたものがあって、ホークス自身これまで関わりを持つことはなかった。組織としての規模は明らかに公安委員会の方が上であったことも手伝って、積極的に首を突っ込むうまみを感じなかったというのが正直なところだ。
委員長に促され会議室を後にする。前を歩くこの女傑はいわゆる直属の上司にあたる人物だ。かつては戸籍も持たない殺人犯の息子でしかなかった子供の才能を見出し、ヒーローになるべく必要な教育と技能のすべてを叩き込んだ。ただしそれはあくまで公安にとって都合の良い人材を一から育てるという目的あってのことだ。
ヒーローから汚れ仕事まで。彼らが俺に求めたのはそういう事であって、その上層部のトップがこうして直々に足を運ぶ以上、今回の件にも裏があると思ってまず間違いはないというのが、ひとまずのところ大人しく後ろを着いて行く俺の見立てだった。
「知っての通り、かつての警察庁警備局警備企画課を前身とする組織がヒーロー公安委員会。対する厚生省公安課は、厚生大臣によって近年強引に新設された一部局に過ぎない」
「今や教科書にも載ってる話です。随分仲が悪いらしいじゃないですか」
上層階のエレベーターに乗り込みながら「仲ね」委員長が眉を顰める。後を追って乗り込むと正面に設置された鏡越しに、その手が不自然なパターンで各階のボタンを押していくのを確認した。
「耳聡いあなたでも知らなかったようね。厚生大臣は旧警備企画課の出身よ。個性社会の拡大に対応するため行われた大規模組織再編に伴い、公安委員会へ転属となった。そこで彼の抱いたある構想の危険性を指摘され、公安を追われた」
二人の人間を乗せて動き出すエレベーターのモーター音が響き出す。現在地を示す階層ランプを横目に見るに、下層へ向かって動いているようだ。
「つまり厚生大臣は袂を分けた元同胞だと」
「そう。そして厚生省公安課は実態として、大臣の私設組織だと言っていい」
話が見えてきた。つまるところ公安が警戒しているのは、その大臣の行動というわけだ。
「構想というのは?」
「近未来のSF小説じみた新しい社会システムの創造。公安追放後も何らかの形で計画を押し進めていたようね。一度は凍結を確認したそれが今になって動き出した」
委員長はこちらを振り返らない。階層ランプは一階をとっくに過ぎて、なお減速する気配はなく降下を続けている。
「脳無の存在が確認されてからのことよ」
言葉に、知らず眉根に皺が寄っていくのが自分でも分かる。
脳と臓器を接合して複数の個性を持つよう改造された元人間というのが現時点で判明している脳無の情報だ。元人間
その脳無がどういった形で関わっているのか現時点では判断出来ない。会長の歯切れが悪いのも、厚生省側の画策する計画とやらの実態を掴み損ねているせいだろう。だからこそ俺を九州くんだりから呼びつけたのだ。
「あなたへの指令は三つ。一つ、現在東京で報告されている真偽不明の脳無目撃談を調査すること。二つ、大臣の私設組織である厚生省公安課において計画の主導者と見られる研究者を監視すること。そして三つ目は、彼らが正式に危険分子であると判断された場合の
ほら来た、と腹の底でため息を吐く。委員長がこういう言い回しをする時は対象の抹殺が前提だ。何度命令されても暗澹たる気持ちになることには変わりない。だが事の重大さ理解出来た。大なり小なり脳無なんて存在が一枚噛んでる疑いがある以上、確かに簡単に捨て置ける話ではない。
「その判断ってのは俺に任されるんですか?」
「組織上はあくまで彼らも役人に過ぎず、敵役ヴィランとは異なる。最終的な決定は上が下します。あなたには現場でその先陣を切ってもらうことになるでしょうね」
つまるところ最後は血生臭い話になるということだ。とっくに慣れた話だが、何度やっても気持ちが良いものではない。
「ところで、いい加減教えて欲しいんですけど。どこに向かってるんですかね」
「地下の研究施設よ。脳無という存在を世間に秘匿する必要もあってこの場所を使ってる。あなたの監視対象である厚生省の研究者も、既にここへ出入りしているわ」
苦々しげな言葉はいかにも不本意であると言いたげだ。確かに、厚生省の企みに脳無の存在が一枚噛んでいるというのなら、むざむざその存在に彼らを近付けさせるのは悪手のように思えた。そして委員長であれば本来こんな隙を見せるはずも無いだろうとも。
「政府に何か圧力でもかけられました?」
「早急に脳無の脅威を解決しろとね。広がり続ける社会不安を問題視してる。厚生省は危険な相手だけど、一方であそこの研究者たちが優秀なのも確か。だけどそれだけなら彼らと協力しようだなんて思わなかった」
「それだけなら?」
委員長の指が天井をついと指す。つられて視線を上へ向けたが、そこには何の変哲もない鉄の天井があるだけだった。
「もっと上からよ」
ピシリと体が固まるのを感じる。内心で事の重大さを大幅に上方修正していると、徐々にモーターの音が鈍くなりようやくエレベーターが減速に入ったのが分かった。やがて小さな音を立てて開いた扉の先に広がっていたのは、打ちっぱなしのコンクリート壁が目立つ狭い廊下だ。ヒールを鳴らして躊躇いなく進み出した委員長の後をついていきながら、たまらずぼやきが口から溢れたのは仕方のないことだった。
「やんごとなきお方のご要望であれば、仕方ないでしょうね………」
オールマイトという平和の象徴を喪失した影響は、かのお方の目にそれほど深刻に映っているということだった。
窓もない地下だ。
必然低くなる天井に一面のコンクリート壁が目につけば、誰だって嫌でも息苦しい心地になる。そんな長い廊下を歩いていく道すがらに薬品の陳列された部屋や、はたまたコンピューターがずらりと並んだ部屋を横目に見送っていく。
その果てに辿り着いたのは、会議用なのか長机がずらりと並んだ一室。中に待っていたのはひと組の男女だ。一人は上質そうな仕立てのスーツに身を包む高齢の男。年齢は確か六十も後半と記憶していたが、服越しにも分かるほど鍛え上げられた肉体は彼をいささか若く見せていた。
隣に立つのは妙齢の女性だ。俺よりやや年上だろうか。皺の目立つ白衣があからさまに研究者であることを主張している。袖口から伸びる手足は枯れ木のようなぞっとするほどの細さで、よく見れば手指の骨張った関節が目立つ。肩と背中に伸びる髪は伸ばしっぱなしといった風で青白い肌も相まっていかにも不健康そうに見えた。
「まさか自分の古巣と協力することになるとは。私の公安課が力になれるといいが」
「脳無の脅威を排除するまで、短い間ですが」
端的な挨拶と共に互いの上司が握手を交わす様を白けた気持ちで見つめる。公安課が大臣自身のための組織であることをこうも隠さないということは、厚生省側も自分達が怪しまれていることを承知しているのだろう。
おまけに相手は敵役ヴィランではなく、同じ政府側組織の人間。軽々に身柄を拘束することも出来ない。下手をすれば組織間で不要な諍いを増やすことにも繋がる。つまりは、彼らの思惑が危険なものである決定的な証拠を掴んでからでないと動けないということだ。いつも以上に慎重に行動する必要がある。
思っていたより大変な仕事になるなと腹を括っている間に、互いの上司の間では話が纏まりつつあった。曰く、俺は現在全国各地で広まる脳無の目撃談を文字通り飛び回って調査を行う。彼女を筆頭とする厚生省公安課の研究チームがそれをバックアップし、データを分析する。委員長が告げた第一の指令とも重なる。調査を兼ねて厚生省側に接触しろと暗に言いたかったのだろう。となれば、第二の目的である監視対象が誰なのかも明らかになってくる。
「では我々の研究チームを彼にも紹介しよう。案内を」
女研究者は大臣の言葉に会釈すると、着いてくるようにとでも言うように俺と一瞬視線を合わせると会議室を出ていった。委員長もまた俺へ無言で頷いたのを確認すると、後を追って部屋を出る。廊下で待っていた彼女に追いつくと、隣に並び立つまで分からなかった濃い煙草の匂いが鼻についた。
「仲の悪い上司を持つと苦労するね。息が詰まりそうだった。ああいうのは本当苦手」
意外にも気安い語り口に驚きつつ「同感」と短く返して歩みを進める。やがて入るよう促されたのはわずか数人分のデスクが並ぶ部屋だ。
「ようこそ。厚生省個性医政局公安課、社会分析室へ」
紹介があったところを見るに、ここが彼女たちのオフィスにあたるのだろう。部屋には他の人影は見当たらないが、がらんとした室内を見るに少数精鋭の部局なのかもしれない。
「ホークスです。これから暫くの間よろしく」
差し出した右手は一向に握り返されることはない。目の前の彼女はといえば、口元に笑みをたたえたまま何事かを言いたげにじっと黙って宙に浮いた俺の手を見つめていた。
「何か?」
「一緒にやっていくのなら、本当の名前が知りたいなって」
小首さえ傾げながらこちらを見つめ返す彼女に警戒心の芽が生える。剣呑な光を瞳の奥に秘めた女性は俺の心情の変化に気付いたのか。こちらの出方を伺うように数秒黙ると、俺が仕掛けてこないと踏んで自ら口火を切り始めた。
「恐らくはキミが今後同じことをするように、私たちもキミのことを調べた。事実上の厚生大臣直轄チームである私たちの結論は、何も分からない、だったよ。逆説的に言えば、私たちには探れないどこか別の組織にキミが一枚噛んでるってことなんじゃないかというのが、現時点での仮説なんだけど」
沈黙は肯定と同義だ。公安委員会のトップが俺を連れて来た時点で否定する材料もない。わざわざこんな質問を飛ばしてくるという事は、直接裏を取りたかったのだろう。何とも念入りなことだ。
「人に名前を聞く時はまず自分からって、よく言いません?」
宙に浮いたままの右手を敢えてずいと更に差し出してみせる。彼女の目が面白そうに細まった。
やはり厚生省側は疑いと監視の目が向けられることを承知している。その上で共同研究を引き受けたのは、これが彼女たちにとってリスクを上回るほど有益であるからだ。何をしようとしているのかはまだ分からない。だがよりにもよってその研究対象が脳無である以上、ろくなものじゃない予感だけは強かった。
彼女は思案するように少し目線を泳がせた。明らかに本名を教えるつもりはないようだ。その視線はしばらく宙を彷徨って、やがて俺の背中の赤い翼に目をつけると「じゃあジーナで」と今しがた思いついた様子を隠そうともせず微笑んだ。
「改めて、チームアップよろしく」
意地の悪いその笑みに嫌な引っ掛かりを覚えた。
その日は互いに簡単な顔合わせだけで済んだこともあり、あの息苦しい地下から解放されると直ぐに手元のスマートフォンで検索をかけてみた。名乗られた名前にそれらしいワードを検索窓に複数並列して叩き込む。結果はすぐに見つかった。
1900年代に制作された古いアニメーション映画。真っ赤な飛行機を駆る飛行機乗りが主題のストーリーに同じ名前の女性がいた。随分と妖艶な美女といった役柄で彼女が自分をそうアピールする意図がないことは明白だ。とすれば、この情報へ行き着かせたかった理由は他にある。
しばらく調べてみると答えは案外すぐに分かった。主人公の飛行機乗りは魔法で自らの姿を変えてしまった男。曰く、飛べない何は、何とやら。
「やな
おもわず口をついて出たそれが彼女への第一印象。
俺たちを待ち受ける因縁の何もかもをまだ知らない、初対面の日の出来事だった。
参考資料
■各章・各話タイトルとして
テッド・チャン「予期される未来」