福岡に住む人々の暮らしは、朝のニュースから始まる。
例えばある一軒家。母親と父親それに子供たちが二人。上は中学に入学したばかりの女の子で、下の弟はまだ小学校も低学年の年頃だ。彼女が入部したのは強豪校と名高いとある運動部で、一年生は先輩より先に練習場に行かなくてはならないという暗黙のルールが敷かれている。
眠る自らの体温でまだポカポカと足元も温い布団のなかで微睡む午前五時四十五分。充電コードの伸びるスマホが唸るように震えているのに気が付いて、彼女は重い瞼を開けながら電源ボタンに触れ、ロック画面に表示された現在時刻を目にすると慌てて飛び起きた。
「お母さん、なんで起こしてくれんかったと⁈ 」
「あんたが起きんかったんやろ⁈ 携帯ブーブー鳴とったよ! 」
彼女は慌ただしくパジャマを脱ぎ散らかすと、潰れるように乱れた布団もそのままに洗面所へ駆け込む。昨日はクラスメイトとLINEで会話が弾んでしまったのだ。結局スマホを手にして寝落ち、ミュートは解除していなくて朝のアラームはバイブ音だけ。尻切れトンボに終わったトーク画面の最後は友達からの『寝た?笑』で終わっていて、寝ぼけて適当なキーを触ったらしい返信欄には意味不明な文字列が並んだまま送信されるのを待っていた。
水を撒き散らす勢いで適当に顔を洗ってリビングに駆け込むと、小さめのおにぎりが小皿にちょこんと用意されているのが見えた。学校までは自転車をかっ飛ばして二十分、時刻は現在午前五時五十五分。正直今すぐに玄関から飛び出したいものを、台所から飛んでくる『朝ごはんは食べなさい』『作ったんだから食べなさい』という恐ろしげな念のこともあって、内心わめきたい気持ちになりつつ彼女は食卓の席につくとおにぎりにかぶりついた。母親だってこれから会社に行かなきゃならない事、自分がこうして寝坊したからそれでもサッと食べられる小さなおにぎりを拵えてくれたことを彼女はちゃんと分かっている。
「おはよー。あれ⁈ 今日朝練なんやろ?」
「今から行くと!」
挨拶がてらリビングを覗き洗面所へ向かったのは父だ。彼女の朝練生活が始まって以降、少しだけ遅く起きてくる代わりに、彼女を除く残り三人分の朝食を準備するのが父の朝の役目だった。白ごはん、味噌汁、卵焼きに昨日のおかず。ご飯のお供は納豆、ふりかけ、海苔と三者三様で、それを用意するのも父の仕事だった。
家のことに協力的だと思いはするが、特に助けるつもりもないのに急いでると見てわかる自分にこうして言葉をかける、そういうちょっとした無神経さが年頃の彼女の気に障った。寝坊した自分のことを棚に上げて、そんなこと言うなら学校にでも送ってよと文句の一つも言いたくなってしまうのだ。とはいえ、そんなところ先輩に見られでもしたらおっかないので不満が口をついて出ることはない。
父が作る朝食を待つ間、猛烈に朝が弱い弟を起こしに行くのは母親だ。洗い終わった洗濯物を見に行く合間、何度か弟を呼ぶ声が壁越しに聞こえてはいたものの、本人が起きてくる様子は今だにない。
『それでは本日の天気です。本日は寒空が広がるものの、天気自体は快晴となるでしょう。夜から冷え込むのでコートやマフラーで暖かくしてくださいね。なお、先日から事務所に戻ったホークスですが、今週いっぱいは九州での活動を予定しています』
おにぎりの最後の一口を大きめに頬張って席を立つ。テレビの右端に見えた時刻はちょうど午前六時に切り替わるところだ。
『今日も元気に、いってらっしゃい!』
そう声をかけるキャスターを尻目に、彼女は部活用のエナメルバッグを肩から斜めに下げると、勉強机に放り出していた自転車の鍵を掻っ攫うように廊下を走り抜けた。
「今日はホークスがおるけん大丈夫やと思うけど、気ぃつけるんよ!チャリ飛ばしすぎんようにね!」
はぁいと叫ぶ声を玄関に残して駆け出した彼女は、玄関を出ると飛び乗るように自転車に跨って全速力でペダルを漕ぎ出した。冬の朝は寒い。テレビの中でキャスターも言ってたのにマフラーをするのを忘れてしまった。身震いして首をすくめながら、彼女は冬の朝の町を通り過ぎてゆく。
彼女ら一家が住むのは都市部へのアクセスも良い好立地だ。彼女が赤ん坊の頃に建てられたというマイホームは、当時もなかなか思いきった値段をしたようではあったが、なんと今では倍々にこの付近一帯の土地価格が上昇しているのだ。というのも、全てはニュースで天気と一緒に語られたあのヒーロー、ホークスの登場に起因する。
ホークス。
出身地、出身校ともに非公開。十八歳でヒーロー事務所を立ち上げると、その年にはビルボードチャート十位以内にランクインするという異例の速さで名を上げたヒーローだ。チャート上の順位を更に上げていくにはそこから数年かかって今に至るわけだが、デビュー当時からなんといってもその対応の早さが凄まじいと地元じゃ評判だった。
彼はとにかく速すぎるのだ。
そんな具合なもんだから、早々に地元からの支持率は鰻登り。犯罪発生率は全国でも目を見張るほど急速に低下し、遂にはホークス事務所のカバー範囲に該当する町の土地価格が軒並み上昇。彼女の家はおもわぬ具合にその恩恵を受けた形になるのだった。その加速度合いは神野の事件以降は特に目覚ましい。
平和の象徴を失ったこの個性社会。心からの安全と安心というやつは、誰もが喉から手が出るほど欲しいのだ。この町はそれが叶う数少ない場所だと、彼というヒーローがいる生活のなかで多くの市民たちが日々実感していた。
自転車を飛ばしていた彼女は坂を下りながら、片手でポケットからスマホのロック画面を確認した。時刻は進んで午前六時十五分。早い先輩はコートに来始める。急がないと、と焦って彼女は両手ハンドルのブレーキから指を離す。
まだ夜の気配が残る空は東から徐々に白む気配が近寄り始めたばかりだ。とはいえ風を切り裂いて進む自転車が、まだ太陽の登りきらない冷たい空気を彼女の全身にぶつけ続けていた。空気抵抗の強さに思わず目を細める。そうして坂を降りきった頃、赤に変わったばかりの信号機が彼女の目に入った。
「えー!時間ヤバか!」
悲鳴をあげつつも、ええいと思いきってペダルを漕いで更に加速すると、赤信号の横断歩道に突っ込む。車の姿は見えなかった、はずだった。
横断歩道を走り抜けようとした彼女へ不意に影が差す。右折しながら横っ面を殴るように突っ込んできた自動車が目に入って思考が止まる。フロントガラス越し、血の気を失って急ブレーキを踏んでいる運転手と目があった気がした。けれどそこでぶつからないよう再加速するなんて芸当考えも付かなくて、胸中で叫び声を上げた自分に従うがまま目をぎゅと瞑った。その時だった。
背中を思いきり突き飛ばされるような衝撃を感じて、彼女は正しく自転車から飛んだ。
尻は既にサドルにはなく、まるで走り高跳びでもしたかのように彼女は空中を飛んでいたのだ。視界へ飛び込んできた地面に激突しそうなんてやけに冷静に考えられたのは、何かが自分の体を誘導するかのように突き動かしていたからで。飛び出した時の勢いに反して、彼女の体は羽が落ちるようにふわりと地面に着地した。羽のように。羽?
振り返った時には、横断歩道の真ん中でぺしゃんこのスクラップに変わり果てた彼女の自転車が車体の下敷きになっていた。運転手は信号を無視して突っ込んできた彼女への怒りより安堵が優っているようで、茫然自失といった様子のまま車からはまだ降りてこない。たまらず足から力が抜けて座り込んだ彼女は、その場に赤い羽を数枚見つけた。
空を見上げ、まだ震える手でスマホの通話履歴から母親の名前をタップする。やがて呼び出し音が止まって混乱したままの彼女はなんとか「お母さん、チャリ、轢かれた」とだけ絞り出した。電話の向こうからは血相を変えたような母の声が飛んでくる。自分の身に起こったことをまだ理解出来てはいないまま、彼女はこう言った。
「ホークスが助けてくれた」
見上げた空の上を、赤い翼が数度羽ばたいて去っていく。やがて数分もすれば警察と、テレビで何度か見た顔のホークス事務所サイドキックが駆けつけた。
結局彼女はこの日の朝練に参加することは出来ず、父と母からしこたま怒られたうえで無事で良かったと泣かれるのであるが、次の日から彼女の私室には持ち帰った赤い羽が勉強机の隅に飾られた。
これがこの街の日常。
ある時は迷子の子供が赤い羽を頼りに帰路に着き。またある時は階段で足を踏み外した老人が羽に助けられる。夜には罵り合いの果てに拳を振り上げた市民の間へその羽が割って入り、またある朝には線路に身を投げようとした若者をホームへと連れ戻し、慰めるように頬に触れる。
彼に代わってその羽は助けを求めるどんな人の前にでも現れる。どんなに些細な事でも。たとえそれが、誰にも気付いてもらえないほど小さなSOSであったとしても。他の誰もが『たったそれだけのこと』と見て見ぬ振りをした事でさえ。
赤い羽を形取ったその助けはあまねく全ての人に駆けつけるのだ。そうして人々は空を仰ぎ見てまだ羽ばたいている、あるいは既に去ってしまった、背中に翼を持つ男の姿を眩いばかりの太陽と雲の間に垣間見る。そうして毎日のように目の当たりにする。あらゆる不幸と嘆きが、あらゆる暴力と悪が、その赤い羽によって正しく取り押さえられてゆくところを。
老人が、大人たちが、少年少女が、あるいはこの街でうぶ声をあげたばかりの新しい命たちが、この光景を見ている。毎日のように実感する。それは言葉より雄弁に、この街で生きる人々の胸へある共通の思いを抱かせた。
平和の象徴なきこの社会。頼るべき灯りのない暗闇の真っ只中のような時代にあって、自分たちを守り、助けてくれる存在は確かにいる。それはテレビの向こうにいる架空の存在なんかじゃなく、自分たちと同じ町に生きているのだ。困っていれば、苦しんでいれば、必ず助けに来てくれる。
ヒーローは、実在する。
それがこの街で暮らす人々が共通して抱く実感。
ホークスというヒーローが存在する街に暮らすという事だった。