『愛とは互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである』
サン=テグジュペリ
新幹線から降りると駅から町へ繰り出す。久しぶりの帰郷、なおかつ個性の関係上、地上を普通に出歩いていたことが余程珍しかったのか。午前中の早い時間なら見つからないだろうと高を括っていた俺の目論見はまんまと外れ、あっという間に通りがかった市民たちに取り囲まれてしまったのだった。
サインに記念撮影、地元を長く離れた事への愛ある説教から、足を伝ってよじ登る子供を翼の上へ乗っけてやるまで。ふかふかの大きな翼は子供たちにとって夢の遊具らしい。顔や手が次々埋まっていく感触がこそばゆくも、
そういえば俺をモデルにした大きな赤い鳥の羽にもぐって眠る、という内容の絵本が発売されたと以前事務所で小耳に挟んだ。保育園や幼稚園なんかの読み聞かせで使われているんだろうか。今や剛翼は集まった子供たちで埋まりきってしまった。
さすがにまずいと感じたのか、咄嗟に距離を取って遠巻きに事態を見守ることにしたらしい彼女はといえば、市民たちのあまりの勢いを前にして鳩が豆鉄砲でも食らったような面持ちだ。彼女には悪いが、普段からは考えられないような間の抜けたその表情に、ファンだという青年へサインをしながらちょっと笑った。
こうなっては白昼堂々女性を連れ歩くことも出来ず、俺たちはスマートフォンで集合場所を決めると、各々その地点へ向かうことにした。市民たちから離れてしまえば後は楽だ。空から一気に目標地点へ向かえば良い。
だが飛べない彼女はそうもいかない。体が不自由なのだからタクシーでも捕まえればいいものを、決してそうはしなかった。時折道を間違えながらも歩く姿を上空から見据える。
最初の内、度々立ち止まるのは道に迷っているからだと思った。次に、その場所に何かあるのかと疑った。だけどよく注視していくと、そのどれでもない事が徐々に分かってきた。大通りや街中といった多くの市民が行き交う場所で、彼女はその市民たちのことをじっと観察しているようだった。
「すいません、この時間なら身動き取れないって事にはならないと踏んでたんですけど」
集合場所は人目を避けて路地裏にした。ここなら市民に取り囲まれることもない。
「随分時間がかかりましたね。物珍しいものでもありました?」
合流した彼女は満足に動かない片手足を引きずりながら歩いた事も手伝って、満身創痍と言わんばかりのぐったりした様子だ。ただでさえ引きこもり気味の研究者が歩き倒せばそうもなるだろうとは思ったが、彼女の表情は体力の消耗っぷりに反してどこか明るいものだった。
「ううん」
両側をビルに挟まれた薄暗い路地の間。その奥で遠く光差す町の景色へ視線を向けると、彼女は微笑みさえ浮かべながらこう言った。
「ただ、嬉しかったんだ」
一見して要領を得ないその言葉の意味を解するには、この街の調査も終わりに近付くまで待たねばならなかった。
今朝のようなファンサービスではなく職務として、いい加減市民の前へ顔を出さないわけにもいかないだろう。そう考え、ヒーローとして本来の務めを果たしながらの調査になると伝えたところ、一も二もなく快諾した。それどころか彼女は「私は歩いて街を調査するから、キミはキミで空から調査してよ」と進言した。正直彼女から目を離す事に抵抗はあったが、真白く細い手を差し出して剛翼の羽のひと欠片を自ら強請られてしまっては断り文句も無く。
結局、俺たちの調査は互いにインカムをつけること、彼女には剛翼を常に離さずにいてもらうこと、更には東京にいた頃同様、夜間は合流して互いの情報を精査検討するという方針で決着した。それは俺たちにとってすっかり慣れたものだからという理由でもあったし、空を飛ぶ俺が離れすぎない限りは、地上にいる彼女の位置や動向を常時把握しておけるという理由でもあった。後者に関しては、久しぶりの慣れない土地で彼女の身の安全を保障するというヒーローらしい理由に、公安として彼女を監視するという意図を潜ませたものではあったが。
自ら剛翼の羽を手に取った彼女は、そんな建前など最初から承知していたはずだ。「ちゃんと手放さないよ」と相変わらず意地悪く目を細められては、俺がこれ以上強く出るのも不自然で「頼みます」と肩を竦める他はなかった。
調査は基本的に、思い思いに地上を歩く彼女のはるか頭上を俺が飛ぶという形で進められた。もちろん
昼食時には決まってチェーンのファミリーレストランに入っているらしい。最初は意外に思ったものの、毎夜映像越しに街を眺めていた彼女の細い背中を思い出してどこか納得もした。
子連れ客や商談中の営業マン。昼休憩にやって来た現場仕事の仲間同士に、学校が休みなのかサボりなのか制服ではしゃぎ合う学生たち。そういったこの街で生きる人々が騒がしく語り合う空間に身を置くことを、彼女は楽しんでいるようだ。
席に通されるまでの待ち時間。料理が運ばれるまで手慰みにメニューを眺める時でさえ、店内の騒々しさに耳を傾けて、彼女はいつも上機嫌にしていた。羽から伝わってくるため息には穏やかな気配さえ感じられて、これまで見てきたどの彼女より幸福そうだった。
そうしてドリンクバーから取ってきたコーヒーと本日のスープで粗食ながら昼食を済ませてしまうと、決まって伝票を手に向かったレジで子供向け玩具の棚をチェックする。棚に陳列されたヒーローグッズコーナーに俺のぬいぐるみがある事を確認するとインカム越しに、「今日も見つけたよ」と満足げに囁いてくるのだ。
どう答えるにしろ付き纏う小さな照れ臭さを見て見ぬ振りして「で、今日は野菜くらい食べたんですか?」と返すのがここしばらくの俺たちのお決まりになっていった。飲み干せるもので食事を済ませてしまう癖は相変わらずで、けれど懲りずに毎日確認を入れてやった甲斐あってか、次第に彼女の方から「今日はサラダバーも頼んだよ」と報告が上がるようになっていった。
夜になると公安が手配したビジネスホテルの一室に集合して、互いの調査結果を話し合う。そこで気付いたことだが、彼女は日中の調査と休憩の合間、煙草は控えているらしい。夜の時間になってようやく存分に煙草を吸うことを自分に許しているらしく、俺と話している間に備え付けの灰皿にはあっという間に灰の山が出来上がっていくのだった。
「喫煙席に行けばいいのに」
検討を進めていたある日、俺は率直にそう言った。
「本当は日中も吸いたいんでしょ?」
剛翼から伝わってくる様子を伺う限り、彼女は昼食の際、好んで禁煙席を選んでいるようだった。
「この街の人たちを見ていたいんだ」
彼女は穏やかにそう語った。
「監視カメラのモニター越しより、やっぱり直接ここで暮らしている人たちの顔や声を聞いておきたくて」
意外に思えるが、やはりこの人は本質的に人好きなようだった。
数日の調査検討の結果、俺たちは互いに、やはり市中戦は避けるべきとの結論に達した。いくらここが俺の管轄下とはいえ、
最悪でも死者だけは出さずに戦うという条件にのみ絞れば、街中での戦闘も可能そうではあったのだが。守るべき市民と社会への被害を見過ごすのは有り得ないというのが、俺たちの思考の大前提にあった。そういう意味で、一時的なものとはいえ彼女と目的を同じくして行動する事には非常にやりやすかったという事は事実で。俺たちは互いにどこか居心地の良さのようなものを感じていたと思う。
結論に達したその翌日、午前四時。
東京で共に調査を進めていた頃より更に早い時間帯に、俺たちは海沿いの工場地帯に向けて移動する事にした。一番被害を抑え込めるとすればそこだろうとの意見で深夜のうちに合意したからだ。そうなれば実際の現場は見ておく必要があったし、危険性の高い薬品なんかを扱う工場が付近にあろうものなら話は些か変わってくる。下見は必須だったが、ホテルから移動するにはなかなかの距離がある。始発電車もまだ動いてないし、ここまで調査が進めば二人一緒に見にいった方が早いだろうということで、まだ月も明るいうちから俺が彼女を抱えて飛んでしまうという話で落ち着いていた。
身ひとつで冬場の空を飛ぶんだから暖かくして来てくださいよとは伝えていたものの、研究施設に篭りきりで毎日を過ごしてきた彼女には、季節ごとに衣服を揃えておくという習慣がそもほとんど無かったようで。地下でよく見た白衣に代わって引っ掛けてきたのは、随分使用感の無い真新しいチェスターコート一枚だった。
「マフラーも耳当ても無いんですか?」
「キミと違って普段から空を飛ぶ前提で防寒なんてしてないよ。私はもうずっと厚生省にこもりきりだったし」
ホテル前で合流した彼女がきまり悪そうに言いながらポケットから出してみせたのは、数個の使い捨てカイロだ。空を飛んでの移動となる事を考慮してか、すっかり無くてはならなくなった手元の杖は見当たらず、ホテルの壁に寄りかかる形で俺を待っていた。
心許ないなあと素直に伝えれば「キミがゆっくり飛んだら良い」なんてことを言うので「それあなたが長時間吹きさらしになりますよ」なんてぼやきが口から飛び出しもする。実際、調査の様子を市民に見られるのは避けたいところでもあり事を急ぐという問題もあった。なるべくなら早朝勤務の市民たちが来る前に工場地帯を後にしたい事情もあり、どうぞと示すように両腕を差し出した彼女の膝裏に腕を回して抱え込んでしまうと、その細腕は俺の首に回すよう指示をする。
コートに包まれていつもよりも少し着膨れして見える彼女だが、こうして抱き抱えるよう密着してしまうとぞっとするほど頼りなく痩せ細っているのが分かる。
まるで中身の詰まっていない骨のような、一見して自分の足で立っているように見えて、その実いつ折れてもおかしくない危うさを抱えているような。ある意味で彼女という人の内面そのものを象徴しているような体だと妙な感慨を覚えた。
「どうかしたの」
俺の首筋に頬を寄せるようにして見上げた彼女と目が合う。世間で言う恋人と見紛うような近さで、俺たちは言葉なく見つめ合う。
遠くで新聞配達のアルバイトがスクーターを走らせるエンジン音が聞こえてきた。恋人たちが視線を交わすにはどこか間抜けなその空気。だけどここにいる二人は互いのことなんかじゃなく、そういう街の退屈な日常が毎日続いていく事をこそ愛しているのだと。その一念こそが奇妙なことに、俺たちの間の距離を近くしているのだと気付いている。
「いいや。何でもないです」
言葉を返しながら、たぶん、互いの頭のどこかで無意識に奔った予感から目を逸らすように。俺は額の上に押し上げていた橙のバイザーを目元に下ろす。
「そろそろ飛びますよ。しっかり掴まって」
背中の翼を数度大きく羽ばたかせて、まずは垂直に空へ舞い上がる。ややあって地面から浮いた足はみるみるホテルの屋上を追い越していく。まだ黒いばかりの夜のベールに覆われる街を遠く足元に見つめると、やがて俺たちは工場地帯に向けて雲を裂き、風を切って移動しはじめた。
「信じられない!」
体の輪郭をなぞりながら通り過ぎていく風の轟音に紛れて、精一杯張り上げたらしい彼女の声が耳元に響いた。
「何が⁈」
声を張ってそう返せば、彼女は骨の感触も伝わりそうな細い体で俺にしがみつきながら叫んだ。
「信じられないくらい寒いよ!キミって飛んでる時いつもこうなの?過酷すぎ!」
「だからそう言ったでしょ!日の出もまだなんですから我慢してください!」
批難するような悲鳴がフライトジャケット型ヒーロースーツの胸元に吸い込まれていく。なるべく雲の下を飛んでいるとはいえここは上空。それも冬の早朝ともなれば彼女のような痩身には厳しかろうということは想像できた。
個性の性質上、俺のヒーロースーツは通気性を確保しつつ通常の何倍も耐寒に優れた特殊生地で作られている。物心ついた時には背にあった翼だが、そう言われてみると、イカれた父と母の元では自由に羽ばたくことを許されはしなかったし。かと言って一人で飛べるようになった頃には公安の庇護と教育が待っていたから、彼女のような普通の衣服で飛ぶことは少なかったなと思い至った。
そうして考える。こう言ってはなんだが、寒さに震える彼女を通して、俺が当たり前に飛んでいた世界というのはそこまで苛烈な場所だったのかと初めて実感したのだ。不意にそれを伝えてみたいと思った。だけど腕の中で震え続けている彼女にとって、ここは当たり前なんかじゃない、耐え難いほどの極寒の世界だ。言葉は声にならず腹の底へ落ちていった・
目的地へと剛翼を羽ばたかせる。時刻はじき午前四時二十分。東の空に暗闇をつんざくような鮮烈に赤い光は、まだ現れる気配がない。
*
やがて眼下に迷路のように入り組んだ鈍色に光る工場地帯と海岸が見えて、ホークスは上空で止まるとゆっくり降下して地面に降り立った。抱えたままの彼女の足をそっと地面に下ろしながら大丈夫かと目線で語りかけたものの、その細足はやはりまだ自分の力だけで立つことは叶わないらしい。動く方の片足はなんとか自立したものの、もう片方の足はだらりと弛緩したまま力が入らずよろけたので、倒れかけた彼女を自分の元へと引き寄せた。
「立てます?」
「足はいつものことなんだ。だけど指先がね。冷えきっちゃって感覚が戻りそうにないよ」
「だから暖かい格好でって言ったのに」
そう語った俺の顔を、彼女がじいと不服そうに見つめ返す。
「大丈夫ですか」
そう言い切るか言い切らないかの手前。こちらに伸ばされた彼女の枯れ枝のような手がヒーロースーツの襟元をするりと抜け、体の内側から熱を持つ俺の首筋に差し込まれた。
「冷たぁ⁈」
「ほらね。このあたり一帯の地図も用意してきてたのにそれどころじゃないよ。手元を温めるからちょっと待って」
生身に突然氷を流されたような冷たさにこちらまで悲鳴をあげていれば、彼女は出発前ポケットに仕舞い込んでいたカイロを手に中で懸命に握り締める事にしたようだった。その光景を数秒眺めると、俺も両腕のグローブを指先からずるりと抜いてズボンのポケットに押し込む。そうしてカイロごと彼女の指を俺の両手のひらですっかり包んでしまった。
「こうした方が早いでしょ」
手の中の彼女の指先はすっかり冷え切っていて、握り込んだ氷をゆっくりと溶かしている感覚に近い。徐々に俺の手のひらにも移ってくる冷たさが、この行為が確かに彼女へ熱を分け与えていると伝えてくる。
「あったかい。意外に体温高いんだね」
「あなたが冷えすぎてるんです」
されるがままに何度も握り込まれる彼女の指先を見ている。その俺を、彼女がじっと見つめているの事には気付いていた。
かつて見舞いに行った病室で、一瞬溶け合った俺と彼女の境界線のことを思う。俺たちは互いの体を、在り方を保ちながら、けれど今この指先だけは再び緩やかにその境界を無くしている気がした。
「ありがとう」
小さく彼女の言葉が俺たちの間に落ちる。
「いいえ」
当たり障りない言葉を返しながら、俺たちは互いにいつ調査へと仕切り直そうか、そのタイミングを計りかねているような時間のなかにいた。
やがて氷の指先が溶けるのを待って、俺たちは彼女の広げた地図を見ながら工場地帯を文字通り飛び回った。地図には特に戦闘を避けるべきと事前に目星をつけていた場所がいくつか記されており、まずはそのポイントを潰すように確認を進めていく。懸念していた工場については、最悪の場合被害が出たとしてもそれが周辺に伝播することは無さそうだった。
午前五時が近付いた頃には全ての調査を終え、脳無のポテンシャルを加味してもこの場所での戦闘なら問題なく可能だろうと俺たちは互いに判断した。それは長くも短かった福岡の地での旅の終わりが目前に近づいていることを意味していた。
「キミはさ。実際のところどうなの」
復路の空。
首に回された細腕にぐっと引き寄せられ、ほとんど頬がくっつくほどの距離で彼女は語った。この時間にもなれば、さすがに交代制勤務の市民たちが工場に姿を現しはじめる。彼らの視線を避けるように再び空中へ飛び上がった俺たちは、来た道を戻るように再び上空を飛んでいた。
翼の羽ばたきに合わせ、腕の中に抱き込んだ彼女と俺の体が時折揺れる。そのたび触れては離れていく俺たちの頬は、まるで互いの体の輪郭を克明にするかのように、ぶつかっては去っていく向かい風にすっかり冷やされていた。
「私たちのシステムのこと、どう思ってるの」
バイザー越しに見つめ返した瞳は真っ直ぐにこちらを見つめている。言葉なく風の音だけがごうごうとそこにある時間がいくらか続き、けれども彼女の瞳は決して逸らされることはない。そのブレなさに観念して、俺もまた少しばかり話に応じることにした。
「本音を言うと、蓋を開けてみるまで分からないと思ってます。社会にとって吉と出るか凶と出るか」
「観測しないことには限定出来ないというわけだね」
「そういうことです。シュレーディンガーの何とやらですよ」
そう軽口を返した時、腕の中の彼女の肩が小さく跳ねたのが分かった。
目線は逸らされない。変化を気取られたのに気付いたらしい彼女の体が、動揺しているのか一瞬強張った。頬に、腕に、体に触れ合っていたからこそ気付けた些細なサイン。その変化はあの日を思わせた。
地下研究施設で強化薬について言葉を交わした日。意図せず彼女の語るシステムの本質を突いていた、あの時に。
「でもそれは二人の人間の人間性が失われることを容認するなら。何よりもあのシステムが本当に、あなたたちの言う通りのものならばの話です。だけど俺はそうじゃないと考えてる」
その一瞬の隙を見逃すほど甘くもない。立て続けに問い詰めれば、はっとした彼女の顔に、平静さを取り繕おうとするかのような焦燥感が浮かび上がる。彼女には珍しい明確な感情の発露。それはほとんど答えと言ってしまっていいものだった。
「まだ隠してることがありますよね。それが何なのか認識するまで、俺個人としてはあのシステムを評価出来ない」
駄目押しで続けてみせれば、彼女はとうとう観念したらしい。
露わになった焦燥感を引っ込めるのをあっさり諦め、眉尻を下げて嘆息してみせる。その穏やかな潔さにも見覚えがあった。凪いだ海と向き合い語らっていたようにさえ思えた、病室でのひと時。あのどこまでも穏やかな姿こそが、本来の彼女に近いのではないか。そして彼女は本心を語るとき、きっとまたあの姿を見せる。
その予感は果たして正しく、彼女はぎゅっと抱きつくように俺の肩口に頬を寄せて微笑むと歌でも口ずさみそうな軽やかさで語り出した。
「キミが協力してくれたなら、私の脳はもっと早くに取り出されていたのにな」
「それ、俺が協力すると思います?」
「思わないよ。キミはこれでけっこう理想論者なんだなって、この街に来て思ったから。犠牲ありきの計画なんて本当はまっぴらごめんなんじゃない?公安委員会の提案に真っ向逆らうみたいに、死傷者が出ない方針で戦場探ししたもんね」
「俺に言わせればあなたも同じですよ。だから手袋も持ってないのに、冬の寒空を飛ぶ羽目になってる」
「そうだね。きっとだから好ましいんだよ。キミと、キミの作ったこの街が」
瞬間、吹き荒ぶ風の音だけがあたりを包んだ。ゴーグル越しに薄らと橙に染まった視界で見つめ合う。「驚いたな」表情を動かさないままそう伝えても、彼女はうっそりと微笑んだままだ。
「あなたって俺のこと好きなんですか?」
「よく言うよ!おおよそ勘づいてた癖にさ」
途端に吹き出して笑った彼女は、さっきまでの影の形も見えないほど破顔している。そうして俺の胸元に顔を埋めたままくつくつ喉を鳴らすと、ようやく可笑しさの波が引いてきたのか。やがていつになく穏やかな調子で語り始めた。
「この街は言葉より雄弁にキミのことを語ってくれた。この街に住み、日々を営み、暮らしていく人々のため、キミがどれほど心を砕いているかということを」
「よく分かりますね」
「分かるよ。街を行く人たちの顔をよく見ていてさえすればね」
それはどこか夢見心地な様子ですらあった。この世のどこともつかない安住の地で、安心しきって微睡むような顔つき。だけどその一方で、これが刹那の夢だと気付いている憂いと悲しみもまた滲んでいるように思える。
「この街に住む人たちの顔にはね。不安がないんだ」
眼下に町が過ぎ去っていく。二人分の体の輪郭を通り過ぎていく風の轟音に紛れて紡がれたその言葉たちは、過たず俺の耳に届いた。
「平和の象徴はこの社会を去ってしまった。あれ以来、市民たちの心の片隅にはいつだってどこか最悪のイメージがべったりと張り付いてる。それが彼らの表情に、その一挙一動に、あるいは生活習慣に、不安のサインを表出させる。だけどこの街の人たちにはそれが無かった。少なくともホークス、キミの羽が届く範囲には」
首に回された細腕。コート越しに感じるその存在感はどこまでも頼りない。大切な何かを抱きしめるように込められたわずかな、だが彼女にとって精一杯であろう力で、植物の蔓のように痩せ細った体が俺に絡みつく。重なっていた二人の視線が柔らかく解けて、肩口に彼女の額が埋まっていく。
俺たち二人のどこか核心的な部分。あの日の病室のほど性急なものではなく、けれど蝋が溶けていくように輪郭を失い、混ざり合っていくような不可逆の何かが今まさに進行している。そんな予感があった。
「ここはキミが作り上げた小さな理想社会だ。そしてそれを永遠のものにしようとしている。たぶん、この街だけに留まらず」
どこか甘やかな響きさえ伴った声だった。肯定も否定も返しはしない。ただ、彼女の背を支えていたはずの腕が不意に力んだのが、自分でも不思議だった。
「それで。何が言いたいんですか」
突き放すように震えたはずの喉から飛び出した声が、言葉に反して随分と穏やかだったことに我ながら少し驚いた。
「ここは私にとっても理想に近い社会だ。同じ理想を求め、遂にはその一端を実現した。そういう他者が確かに存在する。わたしとは違う人間として、ここに生きている。この世に自分と同じものを見ている人間がいるんだと初めて知ったと言い換えてもいい。その実感に一体どれほど救われる思いがしたか。嬉しいんだよ」
キミと私ではやり方が違ってしまうのだろうけど。
押し殺すように零された言葉は俺のジャケットの肩口に吸い込まれて消えていく。やがてほとんど抱き合っていた俺たちの体が、再び視線の重なる程度に離れていった。
「感謝してる。脳を摘出された後の自己を失った私には、到底見れるはずもない景色だったから」
それに、と続いた言葉と共に、彼女の瞳がついと眼下の街を映したのが分かった。足元に広がる九州の街並みは遠く海を離れ、市街地へと戻ってきている。潮の気配は既に遠く、登りゆく太陽の気配が薄青いベールとなって街を覆い始めている。暗夜を行った往路ではあれだけ目立った街頭の灯りが、今では白んできた空と明るさを同じくしつつあった。
その街並みの中心。彼女の瞳に映ったのは、広大な敷地の中央に聳える巨大な建物だった。
「生まれ故郷に帰属意識は持てなかった。ここで暮らしたのは十年にも満たない間のことだったし、とても辛いことが起こった場所だったから。だけど久しぶりに帰った故郷は、そんなことを思い出させる場所ではなくなってた。きっと今なら心の底から、こう思える」
腕の中の彼女がこちらを見上げている。コートに隠された細い肩越しに、眼下の建物を見つめた。ホークスにとっても思い出深いその場所は、セントラルに受け渡すべく空から患者の移送を行ったあの病院だった。
「ここは私の生まれた街なんだ。だから、ありがとう」
たとえるならそれは、萎れきった植物を愛おしむような感覚だった。あの日の病室を思わせる穏やかさの向こうに見えたのは、傷つき、くたびれ、それでも前に進もうとした
モニタールームで見た彼女の背中を思い返す。骨の浮かぶような薄い背中。皺だらけの白衣の背中に垂れた傷んだ髪。枯れ木のように細い指の間に挟まって、芋虫のように長くなってはデスクの上へと崩れ落ちていく煙草の灰。それらすべてに気が付かないかのように、モニターに映し出された街の日常を見つめていた彼女。その姿が遂に目の前の彼女と重なって見えた。
この人を助けたい。
胸の内で静かに生まれたのは、その思いだった。だが一体何から?傷を抱えたまま生きようとする目の前の彼女と、公安の地下施設で目にした危険人物としての彼女を思う。一見してひどくかけ離れているように見える姿。それがどちらも同じ『彼女』の素顔であることを思い知った。
彼女を知りたい。理由は挙げようと思えばいくらでも思いつく。だがそのどれも、今は考えたくないと思う。俺と彼女のどこか深い部分での輪郭が溶け合って、滲み、その境界が不鮮明になっていく。今はただ心のまま、この感情に身を委ねたいと思う。
だというのに、こんな姿を目の当たりにしてさえ、頭は冷静に回り続けている。彼女という人の核心を突くためのキーワード。一つ、
*
やがて街の中心部に戻ってきた俺たちは、彼女たっての希望でビルの屋上に降り立った。俺はこの後パトロールに出る事を伝えたが、彼女は夢うつつな様子で曖昧な返事をするばかりだ。屋上の縁に座り込んで柵に身を預けたその様子が、この街に来た当初と同じ様子であることに気付いたので俺も口をつぐんだ。
この街からは近い内に離れることになるだろう。そうして東京に戻れば、彼女はいよいよ一人の人間としての自己を失う。脳を摘出され、ただ増幅された個性を機能させるだけのシステムになる。これが彼女にとって最期の光景なのだと思えば、無理に連れ戻そうという気にもなれなかった。
空へ飛び上がる間際、振り返った彼女のコートが朝日に照らされて朱色を帯びた金色に光っている。今度は地下施設のモニター越しでなく、風を、空気を、その香りを確かめるように。彼女はじっと朝の日の出と共に動き出した街を見つめていた。
ヒーローとしての仕事を終えて事務所に顔を出した後、再びそのビルの屋上を訪れたのは夜も更けた午後二十三時のこと。彼女が朝方と同じ場所で未だ街を見つめていた事には、もう驚かなかった。多分心のどこかで、俺は彼女がこうするだろうことを分かっていた。
なるべく音を立てないよう、静かに屋上へ降り立つ。背後に立った俺に、彼女が気付いていないとは思わなかった。伺うように隣に座ると彼女の横顔を見つめる。かさついた唇。寒さ以外の理由で震える吐息と、頬杖をついた指の先にある少し充血して腫れぼったくなった瞳。それらに何も触れないまま、片手のグローブの指先を噛むと腕を引き抜いた。
外気に晒された指の間を夜風が吹き抜けていく。その手を、屋上のコンクリートに投げ出されたまま動かない彼女の手に重ねる。握り込んだ指先は、俺の手のひらにすっかり収まってしまうほど細く頼りない。その指先が今朝よりずっと冷たく凍えているような気がした。
「冷たい」
言ったものの、彼女が反応を返さないであろうことは分かっていた。その瞳はまっすぐ、街明かりを見つめてやまなかった。
「こんなとこにいたら、風邪ひきますよ」
「うん」
だから言葉を返されたことが意外だった。それが、暖かい布団のなかで微睡む子供のように純朴なものだったから。尋ねてみたいと思った。
「飽きませんか?」
彼女の顔は見なかった。互いに視線が交わることはない。ビルの間から吹き上げる風が俺たちの頬からひたすらに体温を奪っていくのが分かる。体が冷えきっていけばいくほど、重なった手、その皮膚の下に流れる命の温度とでも言うべきものが強く感じられる気がした。
「飽きないよ」
いかにも重たげに屋上の柵へ寄せられた彼女の頭。風に巻き上げられた長い髪が表情を隠している。零された言葉が緩慢に俺たちの間に転がった。
「飽きるわけがない。ずっと見ていたい」
自分には叶わないと分かって零されたのだろう言葉に、そうですねと俺も返した。本心だった。特筆するべきことは何も起きない一日だ。それはこの場所から街を眺めていた彼女にとっても同じことだろう。
事故も事件もない、何の変わり映えもしない退屈な日常。面白みなんて何もない。ただ、俺たちが心底見ていたいと願うものは、まさしくその光景に他ならない。それだけは痛いほどによく理解できた。
「………ここから先に俺の家があります。吹きさらしの屋上よりマシでしょう」
誘いは俺からだった。彼女は重たい頭をもたげるようにして、ようやく隣の俺を見つめ返す。その顔に驚きと隠しきれない喜色が滲んでいた。
「いいの?」
返事の代わりに手を引いた。この夜になって初めて、俺たちの視線が交わされた瞬間だった。