PERFECT BLUE【完結済】   作:yoshiko

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♯12 破 破滅的熱情

 家と言っても自宅じゃない。都心部近くにあるマンションの一室が、ホークスの持つ数あるセーフハウスの一つだった。なかでもこの部屋はベランダから街を見下ろせる。シンプルな柵があるだけのその場所は都会の灯りばかりでなく、目を凝らせば町々の間に人が行き交う姿が見えるのでホークス自身たまの自由時間にふらりと立ち寄ることがあった。

 他にいくらでもある部屋の中からこの場所に彼女を連れてきたのは、たぶん、この景色が好きなんじゃないかと思ったからだった。

 拠点にしていたビジネスホテルの一室に、彼女の荷物は置きっぱなしだ。杖も無く一人で立ち上がれない彼女のことを今日何度目かの横抱きにして、空からベランダに降り立った。

 腕の中から下ろした彼女は街に目を奪われたのか、半ば身を乗り出すようにベランダの手すりにしがみついている。その様子を横目に、俺は彼女が手をついた手すりのすぐ隣に片足を乗り上げると、背中の羽を大きく羽ばたかせて空へ舞い上がった。

 両足が離れた一瞬の間にやってくる重力に従い体が落下する感覚。さっきまで立っていた場所に腹の底が置き去りになったまま落ちていくような浮遊間。飛ぶことを覚え始めたばかりの昔、この感覚には身の竦むような恐怖心が伴っていたことを思い出した。今ではもう、その時の気持ちは上手く思い出すことが出来ない。

 空中からマンションの廊下側に回ると、人目が無いことを確認して玄関前に降り立つ。他と比べまだ使用率が高かったお陰か、キーケースにぶら下がった鍵のどれがこの部屋のものだったか案外すぐに分かった。扉を開け、部屋の電気を点けていく。とはいえ流石に人の住んでいない部屋だ。久しぶりに訪れたこともあって少し埃っぽい気がした。

 カーテンを開ける。ガラス一枚向こうにあの地下と変わらない彼女の背中が見えて窓を開けるた。冬場の夜は空気まで冷たい。吹き込んできた風が、部屋の温度を下げていくのがよく分かった。

「立ちっぱなしは疲れますよ」

 そう言ってベランダに出したのは、リビングに置いていた椅子の一脚だ。ありがとう、と小さく返した彼女が椅子の背に片手をつき慎重に腰を下ろそうとして、結局すんでのところでバランスを崩し、倒れ込むように座った。冷えきった体のせいか、ただでさえ上手く動かない足の不自由さが増しているようだった。

 一人で動けている以上は必要以上に手を貸すべきではないだろう。彼女がひとまず無事に椅子へと腰掛けたのを確認すると一旦部屋に戻った。キッチンの棚から電気ケトルを取り出す。そうして湯を沸かしつつ開け放たれた窓の向こうにいる彼女の背中を見つめていたが、結局、その視線が街から離れる事はただの一度も無かった。

「どうぞ」

 湯気の立ち登るマグカップを目の前に差し出せば、彼女は少し驚いた。

「飲み物なんてあったんだ」

 細い指がカップの持ち手に絡んでいくのを確認して、椅子をもう一脚リビングから持ち出す。そうして彼女の隣に椅子を置くと、自分用のカップを片手にようやく俺も腰を下ろした。

「来客用のがあったんで」

 そう言えば、マグカップに荒れた唇をつけたままの彼女がおかしそうな笑い声を小さくあげて、最後に意地悪く微笑んでみせる。

「住んでもない家に?」

 返事に代えて俺も小さく笑った。どうやら気付かれていたらしいことに、不思議と居心地の悪さは感じなかった。地下研究施設でもこうして夜が耽るまで同じ時間を過ごしていたことはあるはずなのに、二人でいて、今が一番ゆっくりと時間が流れている気がする。

 俺としてもこうなれば彼女の気が済むまで付き合ってやろうという心持ちで、けれど言葉なく淡々と減っていくカップの中身をよそに、彼女の体は冷え続けていくようだったから。様子を伺うように、努めて音を立てないよう背中の羽を背後に広げる。そうして徐々に、夜風から彼女の体を隠すように覆っていった。

 羽の間からベランダの柵が見切れている。その向こうに時折、ライトを光らせて走り去る車や、ここまで聞こえるばか笑いをしながら千鳥足で帰路につく集団の姿が見える。彼女から拒絶はされなかった。

 すっかり空になったカップを彼女の手から柔く奪う。自分のそれと一緒に窓のほど近く、室内の床に置かれた二揃いのカップがコトンと小さく音を立てる。俺の翼の中。息をひそめるような小さな密室で、俺たちは初めての近さで向き合った。

 それはたぶん心情的に、今朝よりもずっと近い距離だった。彼女の枯れ木のような指先と並んでいると俺の手は随分と分厚く見える。その手のひらが生白い彼女の頬の輪郭に触れていた。俺自身どこか他人事のような心地でその光景を眺めていた。

 指先にかかる長い髪の先は傷んでささくれている。よく見れば目の下は隈が濃い。かろうじてまだ濡れている唇を最後に見たが、薄皮が痛々しく裂けているばかりだった。

「酷い顔だって思う?」

 彼女が囁いた。そこに卑下も自己憐憫もない。ただ相手への興味のまま尋ねる、穏やかな微笑みだけがそこにあった。

「いいや」

 俺も答えた。他はどうであれ、これだけは任務に関係ない俺の本心だった。

「こうなるまで何を思って生きてきたのかと、考えます」

 視線は逸らさない。俺は何も言わなかった。彼女もまた何も言わなかった。俺たちは互いを見つめ返していた。その彼女の瞳が段々と薄く張った涙の膜に揺れるのが分かった。

 そうしてしばらくの間、言葉は無かった。ただ身を委ねると言うにはまだ固く、けれど間違いなく、折れそうなほど細い彼女の肩が俺の体にほんの少しだけ寄せられていた。互いに羽の間から覗く隙間を通して、夜の街を臨んでいる。目線はもう交わっていない。だがどちらからともなく、離れることはなかった。

「昼の街並みもいいけど、夜も好きなんです」

 いいね、と彼女は返した。

「色んな音が聞こえる」

 そう続けた彼女に俺も小さく頷き返した。

 時折車道を走り抜ける車の音に気が付いて、誰かの生活というのはこんなにも存在感をもって街に存在していることを実感する。耳をすませば風に乗ってまだ微かに聞こえてくる踏切の音に、最終列車はいつだったかと考えた。その車両に乗り込む人々のことを考える。

 なんとか仕事を切り上げてきたサラリーマン。飲み会帰りの学生たち。運転席の車掌は欠伸しているか。彼らの帰りを待つ家族たちは、この町でどんな風に暮らしているか。そう考えた時、屋上で目を腫らしていた彼女の姿を思い出した。

「あの時………」

 そう切り出せば明確に何のことか伝えずとも、彼女は何の話をされているのか察したようだ。寄りかかった薄い肩が小さく跳ねたのは寒さのせいじゃない。

「あなたは何を思っていたんだろうと。でも考えたところで分からないことだらけだ」

 彼女の指先が、思案するように手の中で弄ばれている。不安、そして迷いのサイン。地下ではついぞ見かけることなどなかった様子に、取り返しのつかない深い所まで踏み込んでいることを感じる。

 当然と言えば当然だった。俺たちはあまりに互いのことを語らなかった。それは互いの属する組織の目的を考えれば順当な行動ではあったが、たぶん、心のどこかで。いつかこうして話をしてみることを待ち望んでいたような気がする。

「あなたの言葉で聞きたい」

 最後にそう伝えれば、不安げに蠢く彼女の手がやっと止まった。そうして風に吹かれる樹木のように、じっと何かを考え込んでいるようだった。

「私は………」

 語り出した彼女の声は、乾いたように掠れていた。良く見れば震えていた手は、これが彼女にとって誰にも見せたことのない胸の内を切開して取り出してみせるような、そんな行為であることを象徴しているようだった。

 果たしてこれは厚生省側の真意に近付くために、本当に必要なことなのか?頭のどこかで既に答えに至っている冷静な自分がいた。その自分を、俺は俺の意思で見て見ぬ振りをした。

「街を見つめる時。私の頭の中は、対立する二つの思考で埋めつくされてしまう」

 語られた言葉に意表を突かれた。地下の研究施設で、この街で、あるいは俺の隣で。これほどまで穏やかに、街を、社会を、そこに生きる人々の生活を愛おしんでいた人の口から飛び出してくるにしては意外に思えたのだ。

「私はこの社会を愛してる。そこに生きる人たちを愛している。彼らがたとえようもなく凄惨な暴力に晒されないよう願う。そのための現実的な手段を確立するために今までやってきた」

 だけど、と続けられた言葉に滲むのは、昏く燃え盛るような怒りだ。

「一方で分かってもいるんだ。彼らを脅かす暴力とは、私たちの中に内在している。どんな人間も暴力性を抱えてる。法や、金や、社会的立場。あるいは理性と言われるもの。それらが私たちの中に暴力を押し留めているだけに過ぎない。それでもなお暴力を行使してしまう異分子を私たちは仮に、敵役(ヴィラン)と呼んで区別してるだけ」

 言葉はなおも淀みなく続けられていく。

「そういう存在からたまたま不条理をもたらされる事が無かった。その幸運の連続が人々にとって普通の生活であり社会だ。みんなその事に無自覚でいられるからこそ、今のこの平穏が保たれているんだと思う」

 聞き届けた時、喉元まで迫った言葉があった。多分それは劇薬だ。理解していながら飲み込むことをしなかった。彼女の心の深い部分へ最初に足を踏み入れたのは俺自身なのだから。

敵役(ヴィラン)犯罪の被害者遺族である、あなたと違って?」

 抑え込む事をやめ、口をついて出た言葉は彼女にとって核心だったのだろう。うっそりと微笑むその視線がゆっくりと俺の視線を射抜く。瞳に燃える憤りが、微かに、しかし確実に、俺自身へと向けられ始めているのが分かった。

「私はね。殺人とは人間に対する究極の客体化だと思う。殺害の瞬間、彼らは目の前にいる相手を人間として認識していないんだよ。奪うべき財産、恐怖の根源、あるいは最大多数に対する危険の元凶のようにしか見えていない。でもね、一番恐ろしいのはそういう客体化の暴力が、敵役(ヴィラン)と呼ばれるほどではない普通の市民たちの中にこそありふれているってこと」

 沸々と彼女は苛立っていた。つい数分前まで互いの体温を際立たせていた夜風は、今や冬の厳しい寒さをもって俺たちの間の空気を張り詰めさせている。そうさせた原因が俺の言葉である事は分かりきってはいたが、明確に感情を露にした先にこそ、何重ものベールに覆われた彼女の複雑な心理のうちの一つが見えるような気がして。こうして踏み込んだのは間違いだったとは、やはりどうしても思えなかった。

「たとえば家の中。夫婦、親子、そういう枠組みの中で、客体化は加害者本人にその意識なく行われる。妻を怒鳴りつける夫に、子を殴って育てる両親といった風に。彼らはきっと思ってる。『それの何が悪い?』って。密室的な関係であればあるほどに事は容易く進んでいく。他者により客観視されることがないから抑えが効かないんだ。あるいは、そう」

 彼女は苛立ちを隠さないながら意趣返しのように俺を挑発していた。そこには捻れた打算と、駆け引きと、何より今目の前にいる相手を手酷く傷つけてやりたいとでも言うような、じっとりとした情念が滲んでいるようだった。

「男女のベッドの中でも同じことが起こる。そこでは悲鳴と嬌声が聞き分けられることはない」

 とうとう俺は隠しもせず嘆息した。眉尻が吊り上がっていくのが自分でも分かる。

「なんとなく分かってきましたよ」

 今日ほど自分の頭の回転が早くなければと思ったことはない。先程の彼女の言葉がピースとなって、脳裏に浮かんだのはひとつの画だった。それは推測する限りの、しかし恐らくは真実にほど近い彼女の過去の足跡だ。

 かつて彼女は病室で、見舞いにやってきた俺との境界線を曖昧にするような振る舞いをした。意識していなければまるで彼女に給餌でもしている錯覚に陥りそうな、ひどく危なげな時間。あの日、その振る舞いを彼女の無自覚によるものだと思った。だがそれが意図して行われてきたもので、そしてその事自体に彼女が嫌悪さえ覚えていたのだとしたら。

「つまりあなたはこれまで、最初からそのつもりで何人かと関係を持ってきたわけだ。以前言っていましたね。人間は同じ人を物のように扱える、そういう暴力性の証明をしてやりたかったと。病室で話をした時だ。あなたがどういう振る舞いでそんなものを証明した気になったのか、それは気分が良くないので俺はこれ以上考えません。だけど意図した通りの結果となるよう、相手から攻撃的な行為をあえて引き出してきたというのなら。俺にはそれこそ随分暴力的な話に聞こえる」

 彼女は否定しなかった。

 回り続ける思考が言葉に反して否応なく想像させる。暗闇のなか、病室での一件のように、相手の指先を手ずから口に含んで奉仕し、求められるままに貪られる彼女を考える。そうしているうちに目の前の男の自分に対する認識が、情を交わす相手ではなく、どんな暴力的行為をも許される対象へと次第に移り変わっていく様を見た彼女の、思った通りに事が進んだはずでいてその実ひどく傷ついた顔で無理に喉を震わせる小さな哄笑を思い浮かべる。

 腹の底で真っ赤な鉛がぐつぐつと煮えるような感覚。先程の言葉の仕返しに、手酷く俺を傷つけてやろうという彼女の目論見に乗せられている自覚はあった。そして俺の中に確かに生まれた不快感の出どころが、彼女に向けるどういう感情によるものなのかも。言葉にこそしないが正しく認識は出来ていた。

 だからこそ今だけは、俺も彼女を思いきり傷つけ返してやりたいと思った。彼女が傷ついてくれるのか。その先で何を語ってくれるのか。それを見てみたかった。

「今朝、あなたはシュレーディンガーの例えを持ち出しましたね。あれと同じだ。本来なら観測するまで結果は分からない。だけどあなたは予め『猫は死んでいる』方を選んだんだ。最初からそのつもりで証明するんだから望んだ通りの結果がついてきた。そうは言えませんか。実際あなたは言ったはずだ、相応の人間が集まってきたと」

 その例えを持ち出したのは、単なる直感だった。

 はじめは地下研究施設で。強化薬をめぐる司法解剖に付き合った日のことだ。もしも強化薬のメリットだけを享受出来る方法があったなら。そう語る彼女になんの気無しに返した言葉は、結果的にではあるが、彼女の脳をシステムに組み込むという例の計画の核心を意図せず突いていた。

 彼女があの時に見せた一瞬の些細な違和感。それと同質の、しかしもっと深刻な何らかのサインを、今朝の空の上でシュレーディンガーのたとえ話を持ち出した際に、彼女が見せたと思ったのだ。

「キミは」

 地の底から震えるような声で彼女は言葉を返しながら、夜風になびく長い髪を苛立ったように掻きあげ首元で押さえつけた。そうして怒りに震える自らを落ち着かせるように何度か瞼を閉じると、数度大きく息を吐き出すのだった。

「前から思ってたけど。人の神経に直接指を入れるような真似がとても上手いよ。そうしてじっと人の反応を見つめてるんだ」

「へえ。詩人ですね」

「茶化さないでくれるかな。何が言いたいの」

 俺たちの感情は今やどろどろに溶けた真っ赤な鉛が混じり合うように煮え滾っていた。厳しい冬の夜風さえ頭を冷やすには足りず、そうして鋭く見つめ合った末、俺はとうとう重い口を開いた。

「俺には、あなたが羨んでいるように聞こえる。常人とは一線を画すほど街や人を愛していながら、どうして自分も彼らのように何も知らないままにはいられなかったのかと、同じくらい胸の内を引き裂かれて、叫んでいるように見える」

 脳裏に浮かぶのは、地下施設のモニタールームで見た後ろ姿だ。月も寝静まった夜の街を監視カメラ越しに見つめる彼女の痩せた背中、その指先に挟まれては芋虫のようになってただ机の上に落ちていく灰色の煙草の吸い殻、画面越しに毎夜見つめられ続ける誰かの変わり映えしない日常。ひどく頼りなく見えたその背中と、聞き届けた彼女の言葉がようやく繋がっていく感覚があった。

 今にも折れそうなあの背中は、ただ俺が感覚的に受け取った印象なんかじゃなかった。彼女は街を愛している。そこに暮らす人々の生活を愛している。そしてそれと同じくらい、なぜ自分にはそれが与えられなかったのかと声なき声で叫んでいる。街を見つめるたびに、たぶん、もうずっと。おそらくは、彼女がその社会から弾かれたであろう事件の日から。

「だから反動でそんな破滅的な生き方をして来きたんですか?人は人を物のように扱えるんだと確認する度、それがあなた自身に向けられる度に、自分を擦り減らしてきたのに」

 彼女の目が自分でも思いも寄らない衝撃に見開かれていくのが分かる。それでも俺は言葉を止めることなど最早出来ず、とうとう取り返しのつかないところまで踏み込んだ。

「あのシステムは、あなたがそこまでして完成させなければならないものなのか?」

 椅子の足がぶつかる音が響く。

 彼女が今にも泣き出しそうに唇を噛んで、フライトジャケットの胸元を衝動的に掴んだ。俺より随分と小さいその体が震えながら項垂れて、頭のてっぺんに長い髪のつむじが見えるのをただ眺めている。その手は片腕に麻痺が残っていることを差し引いても簡単に振り払えてしまえそうに弱々しい。饒舌で、周りくどく、本心をチラつかせているように見えて決して核心には踏み込ませなかった彼女の鎧が、音を立てて崩れ落ちていくような気がした。

「初めて知ったよ。自分でも整理出来ていない気持ちを言葉にされると、こんな気持ちになるなんて………」

 たぶん、その鎧はもう随分と前から駄目になっていたのだ。誰かに強い衝撃を与えられたら自壊してしまう程度には。ただその誰かはついぞ彼女の前に現れず、彼女自身も相手が手を伸ばせるようでいて、しかし決して触らせない距離を保つのが上手すぎた。

「キミの言うことはすべて正しい」

 その声は明確に今にも溢れそうな嗚咽を抑え込みながら震えていた。

「だけどそれがなんだ。どうして私だったのかと苦しみながら、羨ましさに身を捩りながら、それでも自分が失ったものをまだ持ってる人たちを、その日常を愛しているのはそんなにいけないこと?」

 自ら言葉にしていきながら思わぬ形で自覚することになった自身の本心。そこに今なお残る傷の深さが彼女を苛んでいた。

 目の前の俺に向ける感情をなんとか怒りに振り切らせようと懸命に眉を吊り上げるその様がいっそ哀れで、実際にそれは一音一語を発する度に耐えようのない悲しみの前に折れて塗り変わっていくのが分かった。

「私が奪われたものに溢れる社会を壊してやろうだなんて思わない。誰にも理解されなくて良い。あの日誰も私を助けてくれなかったから、それが胸から血を流すほど苦しかったから、だから私がやり遂げる。かつて私がして欲しかったことをする」

 彼女にしてはきっと力の限りの、しかし俺にしてみれば果てしなく弱々しい力でジャケットの胸元が握り締められている。

 俺を睨みつけていた目に厚い涙の幕が張り、それは瞬きと共にとうとう大粒の雫となってぼろぼろこぼれ落ちていった。

「羨ましさに苦しめられているからこそ。不条理はあると思い知らされた者として、まだそれを知らずに済んでいる人たちを守る。もう誰にもこんな思いはさせない。そのために私はあのシステムを完成させてみせるから!」

 泣きながら叫ぶ姿は今まさに彼女の身と心が削られていく様を見ているようだった。実際に彼女は過呼吸気味に涙で掠れる風のような呼吸を浅く繰り返し、細い肩を幾度も上下させている。

 そのすっかり折れてしまった背中に腕を回して、泣きじゃくる子供をあやすように手のひらで支えた。今もなお溢れ落ちていく涙が俺のジャケットとそれを握りしめる彼女の手を濡らし続けていた。

「あなたを試しすぎた」

 心からの言葉だった。

 今や彼女は剥き出しにされた傷そのものだった。自分でも整理のつかなかった気持ちだと彼女は言ったが、これまでずっと整理はつけられなかったのだろう。思い返す度に、つらすぎて身動きが取れなくなってしまうから。だから未だ深く血を流す傷もそのままに生きていくしかなかった。その十数年間抱え込まれたものを、俺が引きずり出してしまった。可哀想なことをしたとは思う。彼女にとって惨い話ではあるのだが、しかし俺は後悔していなかった。

 それは乾いた土壌に水が染み込むように俺の腑に落ちた。彼女がどれほど深刻な問題を抱えていようが、関与した計画がどれほど危険であろうが、そんなものは別の話で。ギリギリと追い詰められ、本心では誰よりも余裕が無いなかで、それでも人の役に立とうと文字通り死に物狂いで生きてきた彼女のことを、好ましく思うなという方が俺には土台無理な話だったのだ。

「キミはひどい。ひどい奴だ」

 彼女が息を詰めながら涙を堪えようとするのを、それでも目の端から溢れてはこぼれていく涙を、俺は手袋を外すと否定しないままに親指の腹で拭った。

 荒れた唇はすっかり涙で湿っていてその口の端から漏れる乱れた呼吸は、夜の街を飛ぶ時に吹き抜けていく風の悲鳴じみた音によく似ていた。いつしか俺は彼女を腕の中に招いていて、ジャケットの合わせ口の間から滴った涙がアンダースーツを濡らし、それが夜の寒さで冷えていくのがよく分かった。彼女をこうして抱きこむのは何度目のことだったか。だがこうして真正面から向き合うのは初めてのことで、俺たちは気が付くと互いの背に腕を回し抱き合っていた。

「こんなひどい気分のまま一人になるなんてごめんだ。だけど私はきっと、キミのことさえ試そうとしてしまう」

 顔を背けるように、ジャケットを掴んでいた手が弱々しく俺の胸を押し返す。その横顔は御簾のように垂れた長い髪で覆い隠されている。けれど夜風に吹かれ時折舞い上がった髪の間からは、はらはらと涙を流し続ける彼女の静かな憂い顔が垣間見えるのだった。

「試したらいい」

「いやだ」

「どうして」

「他の大勢と同じ恐ろしい側面を、キミの中に見つけたくない」

 ほとんど衝動的に彼女の手首を掴んでいた。一瞬力を込めて、しかし俺の手のひらで指が一周してまだ余裕あるその細さに驚くとすぐ緩めた。

「分かってるんだ。自分でも言ったことだ。キミは目的があって私の側にいる。私だってそう。だからキミの中にだって………暴力的で恐ろしい顔が少なからずある。誰だってそういうものだから」

 長い髪の間で涙に濡れる睫毛が光っている。泣き腫らしたあと特有のどこか無垢な様子で、彼女は心の一欠片をぽつぽつと零していくように語った。

「でも今だけはそれを信じたくない。こんなにも穏やかな街を作り上げた人のなかにさえ同じものはあるんだと、確信したくないんだ。だから、お願い」

 震える声で付け足された懇願がどこまでも寂しげで。沈黙して背けられたままの彼女の横顔を覆う長い髪に手を伸ばす。傷んで枝分かれしたそれを何度か指の間で漉き、その間から覗く彼女の期待と諦めがないまぜに渦を巻く瞳を見た。

 真実を告白するなら、彼女がこうまで傷つきながら願った微かな希望は叶わない。彼女自身が本心では理解しているように、この街は決して綺麗ごとだけで成り立っている場所ではなかった。

 殺人犯の息子と生まれつき、その過去を洗われてヒーローになるよう育てられた。その過程で公安に消されたのは、殺人犯の父、その逃亡を幇助した母、そして二人の下で窃盗に身を窶していた子供時代の自分の経歴と関係性だ。

 作り上げられた真っ白な偽の過去に代えて公安が俺に言い渡してきた命令は、決して同じように白いものばかりではない。その過程には当然、暴力的手段に踏み切ったケースもある。そういった仕事の引き換えに得たサポートや資金そして情報もまた、この街を作り上げてきた物の一つだ。

 そういう意味で俺はまさしく彼女の言う通りの人間だった。目的や手段に応じて理性の手綱を握れているだけの、他の多くと同じ暴力を内在する人間。ただ俺は自分が他の大多数と比べて極めて強くその手綱を握れる人間なのだともう知っていたし、今夜彼女と何が起ころうともそれは同じだと断言することは出来た。

「だったら尚のこと、気が済むまでやったらいい」

 俺は折れなかった。彼女の頬に垂れていた髪のひと房を手に、寒さとそれ以外で赤くなった耳にかけてやった。指先は彼女の耳元に触れたまま。露わになった彼女の顔にはこの寒さの中では隠しようもない熱情が浮かんでいた。

「俺はあなたの思う通りにはならない」

 数分にも思える沈黙のあと、彼女がようやく僅かにこちらへ視線を向けて、見つめていなければ見逃してしまうほどに小さく頷いた。俺の指先が離れていく。その間際、耳元をくすぐってやれば、彼女がつま先から頭のてっぺんまで身を震わせて、堪えきれなくなった熱っぽいため息を漏らした。それが合図だった。

 彼女の腕を引いて唇を重ねた。最初は啄むように。湿った唇が小さく開く頃には躊躇いがちに、次第に絡み合うように、深く舌を交わしながら。未だ涙の滲む目の端に、赤く染まりつつある不健康そうな青白いうなじに唇を落としながら、彼女の今も不自由な足のつま先がもどかしげに宙を蹴った頃。俺たちはベランダに放り出した椅子もそのままに寝室へ雪崩れこんだ。そうして冷えきった体を温めあうように身を寄せ合い、鼻先を重ね合わせながら、互いの内側の燃えるような温度を感じた。あらかじめ失われることの決まった彼女のそれは、ほとんど彼女自身の命を象徴しているように思えた。

 そうして彼女が俺との境界を曖昧にしようと何もかもを許す素振りを見せるたび、柔らかくそれを拒んでは繰り返しベッドに沈み込んだ。指先を織り込んで握りしめたまま硬直した、その冷えた指の一本いっぽんをときほぐして開いていくような、そんな夜だった。

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