まだ空も白みきっていない頃。
シーツの中で先に目覚めた俺は、彼女を起こさないようにベッドから抜け出した。時刻はまだ午前四時を過ぎたあたりといったところか。東京での出会い以来、この時間には起き出すのがすっかり癖になっていた。
隣でまだ小さく寝息を立てている彼女を見る。ここで彼女と互いの素肌に沈み、いちばん深いところで熱を分け合ったのは、まだたった数時間前のことだった。行為ですっかり乱れたベッドシーツと冬用の厚めな布団の間に痩せっぽっちな体を滑り込ませるようにして彼女は眠っていた。
自身にのしかかる重さが心地良いのか、未だ目を覚ます気配は無い。細い首から下をすっぽり覆う布団が呼吸に合わせてゆっくりと小さく上下するのを見て、生きている、と当たり前のことを思った。
昨夜のベランダで、半ばこじ開けるように暴いた彼女の本心を、その顔を、言葉を、ぼろぼろと溢れ落ちていく涙を思い出す。未だ生々しい傷から流れる血が言葉となって俺に向けられていたようなあの時間。
人間が同じ人を物のように扱う。殺人という形で自身がその暴力の恐怖に晒されたことを、だからこそ破滅的な生き方を自身に課してきたことを彼女は否定しなかった。だからこそ思う。
客体化の暴力とその証明。他人を使ってはそんなことを繰り返して、そうして自分も擦り減らしてきたのに。彼女は分かっているのだろうか?脳を摘出してシステムの機関部分として運用するという例の計画は、彼女の人間性を手ずから殺す行為だ。それは暴力によって人生を変えられてしまった彼女にとって、究極的な自己の殺人にさえ思えた。苦難の人生のその果てで、彼女は自分自身を物のように扱い、終わろうとしている。
昨夜あれほど踏み込んだ言葉を投げかけたのはそのためだった。だが言葉から血の滲むようなのあの叫びを、かつて自分だった人々が持つ幸福を守ろうと死に物狂いなあの生き方を知ってしまっては、これ以上を彼女に突きつけることは出来なかった。
シーツに広がる彼女の髪のひと房を手に取って指先で梳いていく。まだ彼女の本心をなにも知らなかった昨日の朝。空の上で、俺は彼女を助けたいと思った。何から助けたいのかも分からないままに。それが今では理解出来る。
俺は彼女を、彼女自身から助けたいのだ。どうにかして守ってやりたいのだ。自分が奪われたものへの羨ましさで毎夜のように声なき声で叫び、苦しみ、それでもまだある幸福を守ろうとする彼女だからこそ。そんな人が息の根を止めるまで、その人自身を追い詰めてしまうことを容認したくはなかったのだ。
床に落とされた二人分の服が、俺たちの越えた境界線を生々しく語っている。それを横目に、サイドチェストに隠した秘匿通信デバイスを取り出した。
彼女の青白い肌が赤く染まっていた数時間前。
もう幾度目か、彼女が体を震わせながら息を詰めると倒れ込むように意識を飛ばし、そのまま眠ってしまった時のことだ。俺もまた冷静さを手繰り寄せるように腹の底から深く息を吐くと、彼女に目を覚ます気配が無いことを確認してデバイスを手に取った。公安に送った暗号の内容は今夜知った彼女の核心について。すなわち
あのベランダで目にした彼女の本心については何も触れなかった。十数年に渡る葛藤と苦しみは、計画を探るうえでは無用の情報に過ぎない。だからこれは俺の中だけにしまっておくことにした。たとえ直接的に彼女を止める手段にはならずとも、彼女を理解するために必要なことだ。
昨夜から今この瞬間まで、頭の中で疑問を呈しながら走る思考の冷静な部分を、俺はそのように結論して納得させた。この計画を止めることで彼女を彼女自身から助け出したかった。デバイスを確認する。公安からの応答はまだ来ない。
*
結局俺は頭からシャワーを被ると、適当な服を引っ張り出して簡単な朝食を買い出しにベランダから飛び立った。一晩ベランダに放り出されていた椅子をリビングに戻しつつ出掛けに家の中をひっくり返してはみたのだが、あくまでセーフハウスとしてのみ機能してきたこの家には気の利いたものなど勿論なく、救急セットやレーションの類、公安とのホットラインなどが充実しているばかりだった。
帰宅した頃には時間を逆算して準備していた風呂がそろそろ湧く頃で、ついでに一緒に回してきた二人分の服と下着を放り込んだドラム式洗濯乾燥機は未だごうごうと音を立てている真っ最中だ。リビングの時計は午前六時を指すところ。季節が違えばとっくに太陽が昇っている時間だが冬の夜は長く寒い。
俺は卵と食パン、コンビニで買った出来合いのサラダが入った袋を机の上に置くと、再び寝室に顔を出す。いつからか彼女は目を覚ましていたようで、布団に包まりながらも何やら恨めしげにこちらをじっと見つめ返していた。
「風呂、沸いてますよ。熱いうちに入りません?」
ベッドに腰掛けながらそう言えば、スプリングが二人分の重みを受け止めて小さく悲鳴を上げた。
「それはいいね」
鳥の巣みたいな髪の間からのぞく瞳がよく見えるよう、横髪のひと房を俺が手に取っていく様を目で追いながら彼女は言った。
「お風呂場まで連れってもらわないと」
そこまで聞いてようやく合点がいった。どうやら彼女はただ惰眠を貪っていたというわけではないらしい。
「動けない?」
「体の節々がとびきり痛むよ。ここまでいくと甘やかな夜の名残なんか通り越して、猛烈な筋肉痛」
熱の名残も吹っ飛ぶような言葉に口元を緩めていると、彼女がヘッドボードを頼りに唸りをあげてなんとか上半身を起こしていく。そうして物言いたげにこちらへ両腕を伸ばすので俺もその手を首に回すよう示し、布団をめくると細く伸びた足の膝裏へと腕を回して、昨日と同じように彼女を横抱きにするのだった。
「ねえ」
風呂場へ向かう途中、彼女はじっと俺を見上げると囁いた。冬場ということもあって首元と両手の平しか肌の見えない服装の俺に対し、骨と血の流れさえ透けて見えそうな薄い肌を全身露わにした腕の中の彼女は、傍目には何か倒錯したコントラストのように思った。
「一緒に入るんじゃないの?」
「………またそうやって人を試す」
俺はなかなか苦虫を噛み潰した顔をしていたと思うが、彼女はといえば悪戯っ子のように喉奥で小さな笑い声を立てるだけだった。それがほんのひと時、たかだか男女の些細なじゃれあいの範疇であろうとも、今この時だけは彼女が安心出来ているらしいことに満足はしていた。昨夜はどうにかしてそれを伝えたいばかりの夜だった。
「キミならそう言ってくれるって分かって言ったんだ。ごめんね?」
風呂場のドアを開け、彼女を湯船の縁に座らせながら俺は隠しもせず嘆息した。
床に置かれた浴室用の椅子引き寄せれば、彼女も麻痺の残る手足と重たげな体を引き摺るようにしてなんとかそこに座り込む。漂う湯気で瞬く間に曇って隠されていく鏡像の彼女の裸体は、人の目の補正を通さない分、ぞっとするような頼りなさを克明に映し出している。
くっきりと落ち窪んで影を落とす鎖骨、骨の節々が浮き上がる背中に、うっすらと見えるあばら骨。意図せずも性的な光景だとは思うが、腹の底から湧き上がってくるのは欲情ではなく労わりだ。考えるのはこんな体に変わっていくまでのこれまでの彼女の半生だ。
ベッドの上だと言うならまだしも、この場所で、こんな時に、彼女に無体を強いようとはとても思えなかった。問題らしいものがただ一つあるとすれば、昨夜の一件で俺がそのように考えていると知った彼女が、こうしていじましい悪戯を仕掛けてくる事だけだった。
「やな
ため息混じりに湯気に溶けた言葉。その響きに仕方のない人だと言いたげな甘やかさが滲んでいる事には気付いていた。そうして一度は浴室の扉を閉める。だけどなんだか俺だけこうして悶々とするのが少しばかり癪になり、ひとこと言ってやろうとまた戸を開けた。
「これ、あなたと初めて会った時も思ったんですよ」
至って正直につけ加えれば、シャワーに手を伸ばしかけていた彼女と真正面からばったり目が合う。そうして彼女はこの日初めて声をあげて破顔した。
*
浴室からシャワーの音が聞こえている間、俺が用意したものといえばごく簡単な朝食だ。コンビニの出来合いのサラダを器に取り分け、インスタントスープの袋を取り出すと電気ケトルのスイッチを入れる。これまでの彼女の食事量を思い返し、トースターに放り込んだ食パンは一枚だけだった。代わりにフライパンへ落とした卵は二つ。
やがてトースターから小気味良い音が響き、蓋を落としたフライパンから目玉焼きを平皿へ落とす直前。風呂から上がってきた彼女は食卓に揃いつつある朝食を目にすると「最後の晩餐とか?」なんて至って真剣に尋ねるのだった。
「さすがに言い過ぎでしょ」
「私にとってはそれくらい豪勢。こんな朝食、いつ振りだろう」
風呂上がりの彼女は上下ともに黒いスウェットを着ているが、サイズが合わずに難儀しているようだった。荷物はホテルに置きっぱなしだろうからと、適当に見繕って用意しておいた俺の服だ。
改めて見てみると体格差というものは如実なもので、裾を何度か折り曲げたパンツは歩くごとにずり落ちていたし、上に着たスウェットの袖は随分と余っていて度々腕まくりしなければならなかった。
だけど一番の急務は髪だ。濡れっぱなしの髪先から滴る雫が、肩と背中側の布地を刻一刻と濃く変色させてゆく。それを確認すると、食卓についた彼女もおかまいなしに洗面所へ向かった。
「どこいくの?」
「ドライヤー取ってきます。髪乾かさないと」
「えーっ。冷めちゃう」
「温め直したらいいんですよ、そんなの」
背後で不服そうな声が聞こえるが、俺に言わせればただでさえ弱った体を抱えた人が何をしてるんだかと呆れたいくらいだった。幸い電気ケトルのお湯が沸いただけでスープはまだ入れてない。トーストは多少焦げてもいいし、目玉焼きは硬めの焼き上がりになると断っておけばいいだけの話だ。
ドライヤーとブラシを片手に戻ったリビングでは、どうにかして引きずったのか、壁側のコンセント付近へと移動させた椅子に彼女がちょこんと座っていた。すまし顔で背筋を伸ばしてみせるあたり自分で乾かす気はさらさら無いらしい。最初からそのつもりだったとはいえ、分かりきったような顔をされるとなんだか少し癪な気持ちもしないではない。コンセントに電源を差し込んでスイッチを入れれば、唸る機械音と共に彼女の長い髪が舞い上がった。
「熱くないですかー」
「なあにそれ。美容師の真似?」
「言うでしょ?」
「言うけど」
おかしそうに笑いながら、彼女の体が椅子の背にゆったりともたれていく。預けられた頭のてっぺん、小さなつむじを見下ろして、俺はその長い髪に指を通しながらドライヤーの熱を当てていった。
「これって伸ばしてるんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど。優先順位が低くなっちゃって、気付いたらこう」
だと思った、と返した言葉はドライヤーの轟音に紛れて消えていく。
やがて髪の指通りが良くなってきた頃、彼女の頭がうつらうつらと揺れているのに気が付いた。ドライヤーを止めて彼女の顔を覗き込んでみる。斜め下に少し頭を下げて、重い目蓋を落としていた。
昨日から何度見ても思う事だが、地下にいた時は彼女がこんな風に眠るなんて考えられないことだった。今この瞬間も、彼女にとって奥深い場所に踏み込んでいるのだと感じる。いつか終わることだと分かっていながら、互いにどうしようもない居心地の良さに浸っていた。せめて今この部屋だけには、俺たちを取り囲むあらゆる思惑の手が伸びないよう願うしかなかった。
起こしてしまうのも忍びなく、髪も大体は乾いたらしいと当たりをつけた俺は、大人しくドライヤーとブラシを洗面所に戻すことにした。そうして部屋に戻ってくると、気が早いながら食後のコーヒーの準備をしつつ、船を漕ぐ彼女の姿を見つめる。
カクンと頭が落ちる度に長い髪が揺れている。その隙間からのぞく眠たげな瞳は何度か目を覚まそうと懸命に努力されたが、一度目蓋が閉じられてしまうと呼吸をする間にも再び睡魔に襲われてしまうようだ。こんな有様で、あの地下では一体いつ体を休めていたのだろう。休めていなかったからこうなのか。
頭の中で何度か疑問を逡巡させる最中、とうとう椅子から崩れ落ちる勢いで体が傾いたの目にして背中の剛翼から飛ばした羽で彼女支える。羽から伝わってくるこの人の体は彼女自身が自分をそう扱うように、やはり信じ難いほど軽かった。
「………寝てた?」
「昼までもうひと眠りします?」
俺は尋ねたが、彼女は小さく首を横に振った。
「キミの朝ごはん、食べたい」
声は眠たげだったが、子供みたいに両手で目を擦ってなんとか目を覚まそうとしている。
そうして未だ睡魔と戦う彼女を横目に食卓に並べたのは、溶けたマーガリンに少し黒くなったパン屑が混じるトースト、半熟ではなくなった目玉焼きに、ドレッシングが垂らされて久しい出来合いのサラダ。強いて出来立てのものといえばカップの中に注がれたインスタントスープくらいで、しかしそれくらいが丁度良いと思った。
彼女は支度を手伝おうと一度は立ち上がりかけたが、それを止めたのは俺だった。昨夜の疲労を差し引いても、杖がない彼女には一人では立ち上がることすら未だ重労働だった。やがてどちらからともなく「いただきます」と声をかけて、俺たちはテレビも点けない二人きりの部屋で食事を始めた。
「そういえば、キミは前に言われてたよね」
彼女がまだ熱いカップの中身を、ちいさなスプーンをくるくる回しながら呟いた。
「私の食事がそんなに心配ならキミが用意してあげなよって」
ああ、と俺もトーストにかぶりつきながら思い出したように声を上げた。しゃく、とパンの表面が噛みつかれて割れる音が響く。
「ありましたね、そんなこと」
確か彼女と出会った翌日のことだ。指摘したのは副室長の男だった。デスクの灰皿にこんもり膨らんだ煙草の灰と、騙し騙し細い体の胃に流し込まれる何杯ものコーヒー。それがあんまり目について、まだほとんど初対面にも関わらず怪訝な顔を隠しもせず彼女を見たのだった。
「あなたからも言われましたよ。ご馳走してよって」
「本当?よく覚えてるね。図らずも現実になるなんて」
「今日はいいんですか?」
煙草、と続ければ、彼女は少し思案してからマグカップを両手で包み込んだ。指先の暖を取っているらしい。
「いいよ。本当は余計なことを考えるのが怖かっただけなんだ。だから気を紛らわすためにね。そしたら習慣になっちゃった。でも今日はなんだかそんな気にならない」
カップに口をつけながら微笑む彼女を見つめ返す。やがて湯気を立てるスープの表面が彼女の唇に触れた時、小さな肩が猫のように飛び上がった。「猫舌?」俺はテーブルの端にあった塩とソースの瓶を二人の間に並べながら言った。
「卵は?塩かソースか」
「塩。ソースは重くって」
「じゃあやっぱりトーストは厳しかったか」
塩のボトルを手渡しながらそう言えば、彼女は少し考え込んで「一回だけ………」俺の平皿の四隅の一辺が欠けたトーストを見つめながら言った。
「一口だけチャレンジしても?」
ほとんど苦渋の決断といった面持ちだったが、俺はと言えば内心で小さく喝采を挙げた。あれほど口喧しくせっついてやっとファミリーレストランのサラダに手をつけはじめたような人だ。これまでのことを思えば大躍進だが現実はそうも甘くない。
「いや無理でしょ。流石にいきなりトーストは」
「できる。ひとくちならいける」
「目玉焼きにソースも厳しい人が何を言ってんですか」
とはいえ、ようやくまともな生活へ興味を示し始めた相手の出鼻を挫く趣味もない。
本当に大丈夫かと訝しみながら、食べかけのトーストが鎮座する平皿を無言でずいと彼女の前に差し出す。妙な緊張感が漂った。黄金色にとろけるマーガリンが光るその姿に、実際のところ彼女自身も期待半分恐ろしさ半分といったところで。
たっぷり数十秒は手に取ったまま悩むと、意を決したように俺がかぶりついたのとは反対側のパンの耳に齧りついた。「おお」という間抜けな俺の歓声とパンの表面が割れる音。パッと一瞬輝いた彼女の顔は咀嚼と共に曇ってゆき、飲み込む頃には悲痛な表情に変わって俺の目の前へと平皿を押し戻した。
「久しぶりに食べるトーストってこんな味がするんだと思ったよ。だけど絶対に胃が追いつかないって分かる………」
彼女の小さな冒険の失敗に、俺はとうとう噴き出した。
そんな風にして昨夜が嘘のような穏やかさで俺たちの朝は過ぎていった。互いにどんな一計を案じていようとも、今この部屋にだけは、誰のどんな思惑も手が届かないような。気を緩めればそんな馬鹿げたことを考えてしまうくらい、平穏な朝だった。
「キミと暮らしていると健康になってしまいそう」
たっぷり一時間はかけて彼女がスープとサラダをなんとか飲み込んだ、その後の事だ。二人分の食器をシンクに置いて空の器に水を注いでいく俺の背後から、そう声をかけた彼女だった。
「そう?」
俺は二揃いのマグカップだけ脇にどけると、スポンジに洗剤を含ませながら返事をした。食後のコーヒーを淹れるカップとソーサーなんて気の利いたものは、このセーフハウスには存在しない。
「なら一緒に暮らします?」
手早くカップを洗っていく合間にそう言えば、背後の彼女が怪訝そうに押し黙った。蛇口を捻って水を止める。振り返れば、椅子の背にしなだれかかった彼女がおかしそうに俺を見ていた。
「本気で言ってる?」
「本気。あなたが脳みそになるのを諦めるなら」
「じゃあ無理な相談だ」
互いにうそぶきながらも、どこか穏やかに笑いあっていた。生来の気質か、もしもの話は本来さほど好きじゃない。ありもしない出来事に思いを馳せるより、今目の前にある現実にどう太刀打ちすればいいか考えを巡らせることの方が俺にはずっと重要だった。彼女も似たり寄ったりだろう。それでもこんな風に話し合えることが我ながら不思議だったし、それでいて居心地が良いとも感じていた。
電気ケトルのスイッチを再び入れて棚から個包装の小さなビニールを二つ取り出す。「それは?」と彼女が聞くので「ちょっと良いドリップコーヒー」答えながら手の中のそれを手渡した。
「驚いた。私でも知ってるよ」
彼女は包装の裏側を確認しながら言った。印字された生産国はパナマ。この地域の豆が有名である事は俺さえよく耳にするところだった。大容量大特価だけが売りの決して美味くはないコーヒーばかり飲んでいる人でも分かるのかと考えていると、彼女がじとりと抗議したげに俺を見た。どうやら顔に出ていたらしい。
ぶくぶくと湯が沸騰する音だけが部屋に落ち、やがてケトルのスイッチが切れた。俺は彼女の手の中から緩やかに包みを奪い返すとパッケージを破って中身を取り出し、まだ少し水の滴るカップの縁に取り付けた。二人分の湯が入ったケトルは少し重い。専用の物と違って注ぎ口が細くないのが難点だ。可能な限りが細く落ちていくよう湯を注げば、パックの中の小さく挽かれた豆たちが膨らんでいくのが目に見えた。
「どうぞ」
沸騰したての湯で淹れたコーヒーは随分と熱そうで、冬の室内ではカップの中で波打つ黒い湖面から立ち昇る湯気さえはっきりと見えた。取っ手側を差し出せば、白い蔓が伸びて巻きつくようにして彼女の指がカップを受け取る。
「いい香り」
猫舌ゆえかまだ口にはしないながらも、カップに唇を寄せた彼女が言った。
「でもキミの趣味じゃないね」
意地悪く微笑みながら続けるので、俺もしらを切るように目線を横に逃す。ここにある飲み物の類はすべて公安がセーフハウスを準備するときにまとめて放り込んでいたものだ。誰が用意したのか知らないが、手配したのは高級志向の職員らしい。
「こういうのって本当はどうやって淹れるのが正しいんだろうね」
「さあ。考えたことも無い」
「キミはいつも缶コーヒーだもんね。ミルクは?砂糖は入れないの」
どう答えるべきか逡巡した。ほんの些細なことではあったが、それは嘘のない俺の姿のひとつだ。目的を違えている以上、ばか正直に答える必要はない。本来なら。
「ブラックが好きなんで」
分かっていながらそう答えた。彼女にとってはカップの中身が適度に冷えるまでの片手間だ。戯れるように交わしたなんて事ないただの会話の一場面だろう。それでいいと思った。
カップに口をつけたまま俺たちは向かい合う。椅子に座った彼女とシンクに背を預けた俺は、心地よい沈黙がしんと部屋に広がったタイミングで、まだ熱いコーヒーを慎重に口に含んだ。
「美味しい………」
おもわずといった風に濡れた唇から言葉を溢したのは彼女だったが、小さく目を見開いたのは二人同時だった。ミルクも砂糖も落とされていない真っ黒なカップの中身は、口に含めば不思議なほど苦味なく喉を通り過ぎていった。舌の上に残るのは綺麗だとさえいって良いほど澄んだ後味だ。
指先を温めるように両手でカップを包んだ彼女から、ほぅとうっとりしたため息が漏れる。その気持ちは充分理解出来るものだった。彼女にとってばかりか俺にとっても、この体験は些かならず魅力的なものだった。
そうして俺たちが味わうようにゆっくりとコーヒーを数度口へ運んだ末。不意に沈黙を破ったのは、どこか重たげな顔の彼女がカップを机上に置いた音だった。
「こんな味を知ってしまったら、もう、戻れなくなりそう」
重々しく絞り出された言葉こそ幾重ものベールに包んで暗示された彼女の本心だと気がつけたのは、あの夜を超えたお陰なのか。「だったら」声をかけた瞬間。苦しげに伏せられたままの彼女の瞳、前髪から垣間見える顰められた眉根に確信を得た。
「戻らなければいい」
そう続けた俺に、彼女は机の上に落とした視線をあげることは無かった。代わりにその唇は沈黙と共に思い悩んだ果てに重々しく言葉を溢した。
「出来るのかな。私に」
その言葉は明らかに、彼女が何らかの葛藤の間で苦悩し始めたことを示していた。
俺はカップをシンクの淵に置くと、彼女の向かい、先程まで食事を取っていた椅子へ腰掛ける。カップを置いた彼女の手は、まるで落ち着かない自身を宥めているかのように動かないもう片方の手に重ねられていた。
麻痺の残る手では不安を感じることも出来ないのか、よく見れば動く方の手だけが小さく震えている。テーブル越しに腕を伸ばす。彼女の両手は覆うように俺の手を重ね合わせた。
「もし本当に何かをやり直したいと思っているなら。俺も手伝う」
彼女が弾かれたように顔を上げる。ようやく交わった視線の先で、彼女はほとんど泣き出しそうに顔を歪めながら俺を見つめ返していた。
「あなたが何に葛藤しているのか今は聞かない。ただ分かるのはあなたが今、本気で悩んでるってことだけだ。だから」
俺は椅子から立ち上がると、その背に引っ掛けてあった冬用のジャケットを手に取った。背中に剛翼を通せるよう専用の縫製が施されたものだ。今朝方買い出しに出た時に着ていたものだった。仕事用のコスチュームとは異なるが、それでもさすがセーフハウスに常備している衣服なだけあってこれでも戦闘や飛行に差し障りはない。おもむろに上着に袖を通すと、彼女は信じられないものを見たかのように息を詰めていた。
「一時間。それ以上はひとりにはさせられません」
驚いたように俺を凝視する彼女の唇から、今度こそ動揺に任せて小さく息が吐き出される。「なにを………」
そう続けた彼女の瞳は混乱したように揺れていたが、やがて未だ信じられないように恐るおそる口を開いた。
「本気で言ってるの?キミは自分がどれだけ非合理的な事を言ってるか分かってる?」
「もちろん」
皆まで語る事はない。だけどこの局面で立たされる大きな岐路があるとすれば、それは計画に関わる事だとは言葉にせずとも互いに分かっていた。
彼女たち厚生省の提唱したシステムが真にどれほど危険のか、その全貌はまだ分からない。真相を明らかにすること自体、彼らは妨害してくるだろう。そしてそのシステムとは、彼女の脳を摘出すること無しには完成しないのだ。だったらここで有無を言わさず彼女を拘束なり何なりしてしまえばいい。
そうしないのは彼らが
「あなたが重大な決断を下そうとしている事は分かる。だからよく考えてください」
玄関へと向かっていく俺の背を、彼女が半ば縋るような目で見つめている。分かっていて、視線を振り切るようにブーツに足を突っ込むと外へ出た。
実際のところ彼女が何を、どこまで考えてるか正確なところは分からない。悩んだ所で結論は変わらないかもしれない。そうなれば地下の研究施設に戻る頃、俺と彼女は所属する組織ごと決定的に対立する他はないだろう。その時彼女たちの追手として先陣を切ることになるのは俺だ。元々そういう話だった。
だけどそうはならないかもしれない。ほんの少しでも何かが変わるのかもしれない。可能性がほんのわずかでもあるなら、俺はそれを信じてみたい。たった一時間で彼女に決断を迫るのは酷だろうがやるしかなかった。上着のジャケット、その内ポケットに忍ばせておいた秘匿通信デバイスが公安からの連絡を知らせていた。
玄関を出る直前。廊下の奥、リビングの向こうに垣間見える彼女の姿を振り返る。音を立てて閉まっていく玄関扉と共に見えなくなる彼女は、思い悩むように両手で顔を覆っていた。たった一枚の重い扉が今や俺たちを隔てている。その隙間へ、こんな時でも剛翼の羽の一枚を仕込んでおく事を忘れない自分に今回ばかりはうんざりした。
一時間後、この場所へ戻る。その時には俺の方が、最早彼女の心変わりを許すことは出来ない状況に置かれているかもしれないと、そんなことを考えながら。
*
公安から指定された座標は付近の公園で、俺はマンションの手すりに片足を乗り上げるといっきにジャンプするようにして空中に躍り出た。落下する中で折り畳んでいた翼を広げ、数度羽ばたくと眼下の街が小さくなるまで上昇する。そうして街を見下ろした時、異変にはすぐ気が付いた。
付近に不自然なほど市民が見当たらない。代わりにぽつぽつと見かける人影は巧妙に偽装こそしてはいたが公安の職員だと察しがついた。その人影が連絡にあった座標を中心として放射線状に広がっていることが、上空から観察するとよく分かる。明らかに人払いをしていた。
事態は予想より進行しているようだと当たりをつけて、滑空するように公園のベンチに降り立つ。くたびれた様子で項垂れるように座っていたのは、幼少の時分より随分見慣れた顔だった。
「目良さん」
声に反応した男は、水中から体を出す時のような重たげな挙動で片手を上げた。
俺が学校ではなく公安の施設内で一般的な中高生と同等もしくはそれ以上のカリキュラムをこなしていた頃、お目付役を命じられたのが彼だった。当時は入庁してまだ年数も浅い職員で、公安の中では比較的若く俺と歳が近いことから配属されたものの、何かと苦労している様子だった。
その原因の一端が俺自身であることはよく理解していたが、後の彼に言わせれば、あまりにも手が掛からない子供だった事が逆に恐ろしかったらしく、そう言われてしまえば立つ瀬がない。半分は俺の性格によるものだったが、もう半分は俺自身が意図した公安内部での立ち回りを警戒されての事だったからだ。この組織に来た初めから思っていたことではあるが、俺はただ公安の思惑通りにだけ動く気はさらさら無かった。
とはいえそんな彼も今やヒーロー仮免許試験の責任者を任されるほどの人物だ。単に肩書きがついたというだけではなく、なまじ優秀なだけに他のあらゆる業務も背負い込んで忙殺気味だと小耳に挟んだ。その彼が福岡くんだりまで来ている以上、事はただの調査結果報告では終わらない。
思索を巡らせながら自然と目が細まっていた矢先。目良は無言で座るよう俺を手招くと、ジャケットの内ポケットに隠した秘匿通信デバイスを指差した。どうやら応答しろということらしい。
『ホークス』
応答した小型デバイスから響くのは聴き慣れた会長の声だ。目良の隣に座って返事をすると通信先の向こう側にも問題なく俺の声が届いたのか、澱みなく話し始めた。
『調査ご苦労でした。彼女に関するあなたの報告、そして東京での塚内警部たちを中心とした副室長に対する捜査のお陰で、事態は想定以上の進展を迎えることが出来た』
隣の目良は両手の指を落ち着かない様子で何度も組み直している。それほど何かがあったのだということなのだろう。
『まず明らかになったのは、厚生省が提唱するシステムの基幹部分、その真の正体について。彼らの説明によれば、それは摘出された二人の研究者の脳を使うものだった。薬剤によって強化増幅した個性を脳単体で発動させ、それを全国に広めた監視網と有機的に接続する。これによって全市民の思考と個性を常時モニターし、その情報を元にスーパーコンピューターが彼らの社会的脅威を判定する。この国の全市民に対する常時監視システム。しかしその運用には毎秒ごと計り知れない数の演算処理が必要になる。私たちが最も疑問だったのは本当にそんな事が可能なのかという点だった』
ホークスにもその疑問は妥当に思えた。現在のこの国の総人口は、およそ一億二千五百万人。海外からの密入国者、あるいは幼少のホークスのような無戸籍児童を含めれば、その数は更に増えていく。
スーパーコンピューターを使用するとはいえ、それだけの人口に対して毎日毎秒のように緻密な演算処理をこなす必要があるのだ。それは門外漢のホークスにとってさえ突拍子もない話に思えた。判定すべき市民の数は膨大であり、更に言えばその思考は刻一刻と変化していく。
『結論から言います。スーパーコンピューターで演算可能な処理とは、あくまで表層的なものに過ぎない。そこから更に発展させ、モニターした全市民の社会に対する脅威度を判定するために、彼らはタルタロスを筆頭とする全国の刑務所および拘置所に収容された
背筋が凍りつく。事実ならあまりにも悪魔的な発想と言わざるを得ない。だがその前にいくつか疑問が頭を過ったのも事実だった。
「彼女と副室長の脳がシステムに組み込まれるのは、最低限の生命維持活動すら超えて強化増幅した二人の個性が必要だからいう理由だったはず。更に
『いいえ。他に個性は必要ない。
つまりは
「まさか捕らえた
『そうね。
「法務大臣が許したっていうんですか?人道の問題から一番このシステムに反対してたって言うのに」
知らず捲し立てるように言葉を続け、そこでようやく自分でも思い至る。会議の日、法務大臣は確かに厚生省による人体実験へ拒否的な反応を示した。システムの事を告発すると息巻いたくらいだ。だがそれは、厚生省から接触を受けて後、不自然なほどの沈黙を今も続けているのではなかったか。
『法務省が計画に加担したのは、むしろシステムの正体あってことよ。
「だからってこんな事、許されていいはずがない」
堪りかねて口から飛び出した言葉は、批難する声音を隠せなくなっていた。
「法務省は例のシステムを、刑務所内で増え続ける
デバイスの向こうで沈黙が落ちる。隣に座る目良も押し黙ったまま。彼らは俺よりも先にこのおぞましい真実を知り、戦慄しながらも、今日まで行動してきたのだろう。腹の底の空気をすべて絞り出すように大きく息を吐く。感情の昂りと共に頭に回っていた血が少しずつ引いていく。
「システムにCPUとして組み込めるのなら誰でも良いんですか。だから
自分で話しながら最悪の気分になる。だが会長から返ってきたのは予想に反する答えだった。
『彼らが
それはつまり、システムのCPUとして機能出来る脳には条件があるという意味だ。。
「適合する脳しかシステムのCPUにはなれない。それが
長い嘆息がデバイスの向こうから聞こえてくる。『その通りよ』と応答した会長の声は苦々しげで、先の反応は自らの冷静さ保とうとしての事だと受け取れた。
『
かつて監視用のモニター室で彼女が語った事を思い出す。東京で先行導入された監視システム。それはタルタロス並みの精度に迫るべく指示を受けて開発されたものであり、実際に彼女は何度も現地へ足を運ぶ羽目になったと話していた。
もし。彼女たち厚生省が頻繁にタルタロスへ出入りしていた理由が開発のためだけではなく、条件に適合する
「システムに適合し、取り込まれることになる
市民たちの思考の常時モニター。個性の識別。これらを複合した時に算出される社会的脅威の判定。
そんなものが数十人程度の脳ではとても賄えるはずがないと、頭の中で巡る思考が強烈に訴えかけていた。
『タルタロスを含む全国すべての刑務所および拘置所に収監された
すべての人間は生きている限り人間らしく扱われるべきだ。
ホークスが時として手を汚しながら守ってきた社会とはそういうものであったし、これからもそうあるべきだと思っている。重くなった頭が自然と項垂れていくのが自分でも分かった。
駄目だ。これだけは認められない。
たとえ彼女が苦しみの果てに至った結論なのだとしても。自らも脳を摘出され、個性を発揮し続けるだけの道具に成り果てるのだとしても。誰かの役に立とうと文字通り必死で生きてきた彼女を好ましく思う気持ちが消えたわけではなかった。それでもその気持ちを上回ってなお許せない。
殺人よりも醜悪な人間性の蹂躙。暴力によって人生を変えられてしまった彼女が自身の手でそれを成すなんてことを許せるはずがなく、そんなものがこの社会に蔓延ることもまた、俺には絶対に認められない。
事ここに至り、公安の目的と俺の意思は遂に一致した。俺は、俺の意思で、彼女の計画が結実するのを容認しない。たとえそれが昨夜垣間見た生々しく血を流し続ける彼女の心を踏み荒らすに等しい行為であろうとも。
セーフハウスを後にする直前、彼女が事の真相を巡ってどこまで葛藤していたのかは分からない。だがシステムが大量の犠牲者の上に成立するものである以上、あの部屋に戻った時、俺が彼女を見逃せる道は一つだ。
計画の完全な放棄。それ以外を選択するのであれば、俺は確実に、彼女が命懸けで進めてきたこれまでの全てを踏み躙らなければならない。
『システムが拡大を続けると言うことは、収監された
法務大臣も、彼女も、厚生大臣ですら、暴力に晒されることがなければ、こんな大それた計画には踏み切らなかったのかもしれない。だが現実にこの計画へ関与したあまりにも多くの人間が道を踏み外してきた。
厄介なのは彼らが本心からこの社会と市民のため行動していることであり、今まさに事態を極めて冷静に進めていることだった。
『現在法務省内部では、秘密裏に改正刑法草案の作成が進められている。目的は死刑とも懲役刑とも異なる、新たな刑罰の制定。これが何を意味するか、もう想像が出来るわね』
会議の日。公安委員会にとって法務大臣の参加は予期せぬ事態だった。だが厚生省にとっては最初から既定路線だったとすれば。
「適正を示した
すべては最初から仕組まれていた。法務省を引き入れることは、システムの運用を見据えればむしろ必要条件の一つでさえあった。
『そうよ。
会長の言葉は無慈悲なまでに冷え冷えとしている。今日この瞬間まで積み重ねてきた時間がなければ、俺だって迷いなく同じ反応を示しただろう。
脳裏に浮かんだのは昨夜のベランダでの彼女だ。羨ましさに苦しめられているからこそ、まだ平穏に暮らす事が出来ている人たちとその社会を守る、と。だからそのためにシステムを完成させると涙を流した、血が滲むようなあの言葉を思い出す。いつの日か地下の研究施設でモニター越しに街を眺めていた時にはこうも言っていた。進むべき道ならもうとっくに見出してしまったのだと。だから止まれないのだと。
これまで隠されてきたその本当の意味が遂に白日の元へ晒される。そしてどうしようもなく痛感する。こんなものは公安としてはおろか、俺個人としても到底許せるものではなかった。
『不幸中の幸いだったのは、この真相が
ここへ来る道すがら、上空から確認した公安職員の多さがようやく腑に落ちた。令状が出るまで間も無くといったところなのだろう。その瞬間をもって公安は迅速に彼女を拘束しておきたいらしい。
個性社会における改正治安維持法はこの手の無茶を通すため時には悪法と揶揄されるほどの強権を持つものだったし、一方で俺のような自らの手を汚す任務に就く公安職員らを守るための法律でもあった。
『しかしその前に、あなたには伝えておかなければならないことがあります』
何かを取り出す音が間近に聞こえて隣を見た。声を殺すように押し黙っていた目良が、物言いたげに俺へ視線を寄越していた。その手に差し出されたのは何かの書類が入っているらしい封筒だ。ほとんど反射的に手を伸ばした時、思いもよらない強さで目良がその封筒を掴んでいるのが分かった。
「僕は勧めない」
可能な限り声を潜め、言葉を選ぶようにそう伝えた目良の様子を訝しむ。
ほとんど毎日を忙殺されて過ごしているせいか、彼は面倒事には極力首を突っ込まないタチだ。公安内外の事情にも可能な限り耳をそば立て上手く立ち回ろうとする俺とは真逆のスタンスだ。つまりは必要に応じて、適度に無知であることを選んでいる。
公安なんて組織にいれば都合の悪い情報はざらに転がってくるものだ。必要な場面で必要なだけ無知でいる。この男にはそういう選択が出来る賢しさが備わっていた。
要するに、本来の彼はこの局面でわざわざ口を挟む人間ではないということだ。普段の彼なら無知を選んでいるであろう場面。その行動こそが、この封筒の中身が俺にとって何か致命的なものであると説得力をもって訴えかけていた。
『それも一つの選択でしょうね。だけど遠からずあなたが知ることになるであろう情報よ』
機械音に掠れる言葉を聞き届けると、俺は差し出された封筒を握る指に再び力を込めて軽く引いた。しばらくすると彼は観念したように大きく息を吐くと、ようやく封筒から緩やかに指を離した。その顔は苦々しげに歪められ、ただでさえ乱れた髪を片手が掻き乱していた。
封筒から出てきたのは数枚の写真と事件の調書らしい書類の写しだ。写真に映っているのは数人の子供たちで、その場所が何らかの園であることが見て取れた。手元で写真をめくっていきながらも眉根を寄せずにはいられない。共通して写っていたのは一人の子供だ。小枝のように痩せ細って妙に長く見える手足を抱え、落ち窪んだ眼窩が痛ましいぎょろりとした目で憔悴したようにレンズの向こう側を見つめていた。
『これは今から二十数年前、厚生大臣の妻が出資していた
嫌な予感に心臓が跳ねて心拍数が上がり出す。彼女と共に空を飛んだ途上に感じたあの悪寒が現実のものとなり、俺の足首にいよいよ指をかけた気がしてならない。
自然と目が引き寄せられたのは調書の写しだ。見ていいものなのか。頭の中の冷静な部分が、この状況、タイミング、会長の語る言葉のひとつひとつを繋ぎ合わせて最悪の想定へとひた走っている。まさかと思う一方で、指先だけは震えることさえなく調書を捲っていく。心臓が鼓動する毎に俺の中の何かが「止めろ」と叫ぶかのように、体の内側を叩いているような気がした。
『彼女はこの地で生まれ、五歳の時に殺人事件の被害者遺族となった。近隣の地方ヒーローが自宅の押し入れに隠された彼女を発見した時、両親は死後二日以上が経過して遺体は腐敗が始まっていた。震えて押し入れから出られなくなっていた彼女を発見出来たのは、その異臭による通報が直接の切っ掛けだった。犯人は逃走。その後複数の強盗致傷事件を繰り返して行方を眩ませた』
息が上がる。頭の中で血液が逆流しているんじゃないかとさえ思う。耳元で鳴り響く心臓の音が五月蝿くてたまらない。
『後に九州地区強盗殺人事件と呼称され、エンデヴァーの手によって捕まったその
言葉と共に俺もまた手の中にある調書の最後の一文字にまで目を通し終えた。
調書に記された彼女の本当の名前。ここまで大それた計画に踏み切らせるほど彼女を苦しめてきた殺人という暴力の形をした不条理。その正確な経緯さえ遂に知ることになった。
『逃走した鷹見はどうやって暮らして来たのか。それはあなたが一番よく知るところよ』
頭の中で彼女と過ごした日々が逆回しになっていく。ベランダでの叫び。空の上の告白。新幹線の中でみせた素顔。あの日の会議。そして初めて彼女の本心に触れた病室。手足に麻痺を負うような破滅へとひた走りながら、彼女は何と言ったのだったか。
「昔、とてもショックなことがあって、毎日をぼんやりと過ごしてた。だけどある朝気がついたんだ。この社会には人が同じ人間を物のように扱える暴力性が存在していて、今普通に暮らしている人々はまだその暴力に晒されていないだけなんだって」
苦笑するように笑って、そして。
「キミの考えている通りだよ。私は
あの夜に繋がる血の滲むような苦しみを胸の奥へとひた隠して、どこまでも穏やかにそう言ったのではなかったか。
ED:EGOIST 『Fallen』