PERFECT BLUE【完結済】   作:yoshiko

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 ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。

 フランツ・カフカ『変身』 引用


第三章 楽園のこちら側
♯14 " 原点(オリジン)"


 

※今話には殺人事件の描写、性行為上の暴力を示唆する描写を含みます。閲覧にはご注意ください。

 

※なお、作品情報欄に記載の通り、本作品の内容はすべて創作であり、実際の事件・人物・団体・法律とは一切関係ございません。

 

 

 

 

 ある朝『私』が声も上げられない恐ろしい現実から目が覚めると、公園から聞こえる親子の声も、街角を通り過ぎていく車の音も、昇っては沈んでいく太陽さえなにも変わらない日常の中で、全てがいかにも恐ろしく感じるようになっていた。そうして叫び声すら出ない恐怖のなかで思い知ったのは、変わったのは周囲ではなく私だということ。人々は幸運にも不条理に晒されることはなく、今日も同じ毎日を繰り返していく。

 そんな日常のただなかに身を置いてようやく、私は自分がこの平穏な社会に紛れた、一匹の巨大な毒虫に変わってしまったことに気がついたのだ。

 *

 福岡のある病院で、私は生まれた。やがて未来で『彼』が拠点を置いた街。そのなかのいっとう大きな病院で、私は両親に見守られながらうぶ声をあげた。見舞いに来る他の親族はいなかった。父と母は反対する周囲を振りきって駆け落ちしていた。

 両親の生まれはここからもっと遠い東の地方なんだという。母は比較的裕福な家の出身で古典文学を読むのが好きだったらしい。慎ましく暮らしていた我が家の本棚には私のための絵本や図鑑、そして母が実家から持ち出したという数冊の文学作品が名を連ねていた。

 ドストエフスキー。

 マルセル・プルースト。

 そしてカフカ。

 買い与えられた図鑑に目を輝かせて夢中になる私を眺めながら、母は熱い紅茶にマドレーヌを浸すと思い思いの作品を手に取る。そうして物語のなかを生きる人物たちに想いを寄せては時に涙する、そんな人だった。まだ興味が絵本と図鑑から離れなかった当時。私は母が泣く理由が分からなくて、わけもわからず彼女の目元にタオルを差し出す子どもだった。

 母がなぜ父と一緒になり、家族を捨て、ふるさとからも遠い九州の地に腰を落ち着けたのか。それは二人にしか分からない。ただ私にも分かるのは、若かりし頃の父は悪い友人たちと交友があり、母との出会いが彼に自分の人生を生き直す選択をさせたということだけだった。

 誰にも理解されなかった自己を発見してくれる存在がある日突然目の前に現れる。そんな出会いはおよそほとんどの人には与えられない。誰かに理解されたいとのたうち回り、苦しんでいることを押し隠している人が、一体この世にどれだけいることだろう?

 彼らのほとんどは生まれてから死ぬまで、自分を真の意味で理解してくれる人に出会うことなんて無い。日々変容を続ける個性社会において人々は自分のことで手いっぱいだ。ヒーローの出現は幸か不幸か、そこに生きる人々のこういった性質も増長させた。誰かがきっと何とかしてくれるから、みんな自分のことで忙しい。そこに見ず知らずの他人が抱えた苦悩に歩み寄ろうなどという余裕はあるはずもなかった。

 誰に知られることもなく、内面に苦悩を抱え続けた男。彼に手を差し伸べてあまつさえ愛するだなんて、御伽噺ならともかく現実に生きる女たちの大半はそんなお役目まっぴらごめんだ。だけど父はその御伽噺を手にした数少ない人物だったし、母はお役目だなんて露とも思わず父のそういう繊細さをこそ愛した人だった。そうして母は私を愛しているのなら正しく生き直せるはずだと彼に突きつけ、父はやり遂げたのだった。

 思うに、父が母と出会って知ったのは恥だ。親でも教師でもなく、最も真摯に自分を知ろうと歩み寄ってくれた個人。敬愛する人を得て、その人のために父は遂に恥を知った。この人に顔向けが出来る生き方を。その一念が彼を正しく生き直そうと行動させた。

 しかし、過去は父を追ってきた。一体なんの巡り合わせか、働き詰めて貯めた金で一家が足を伸ばし旅行に出かけたある年のことだった。そこで父を見つけたのが、かつて黒い交友のあった年上の男たちの一人。父が逃げるように母と九州へやってきた事をどこからか聞きつけると、男はこの街まで追ってきて故郷の家族に居場所を知らせると脅しては金を無心するようになった。

 男の名は、鷹見といった。

 

 今となっては信じられないことに、幼少の私は鷹見に懐いていた。子供の好奇心とは残酷なもので、当時の私にとっての鷹見は、時折家を訪ねては遊んでくれる気のいい中年男性という認識だったのだ。彼が父に金をせびりに来ていたとは知らず、また当初のうちは父自身も過去への負い目から言われるがまま金を渡していた事から、鷹見は完全に私たち家族を都合良く利用するようになっていった。

 鷹見は経歴を問われない危険な作業現場を転々としながら仕事をしていたらしく、肌は浅黒く焼けていて、父よりひと回りは体が大きかった。腕の外側には細胞分裂が途中で止まってしまったかのような不恰好な翼がくっついていて、それが彼の個性だった。『解析』で見る限り特別空を飛ぶこともできない見せかけの個性だと分かってはいたが、私は鷹見の腕の翼を触るのが好きだった。羽の感触が物珍しく面白かったのだ。

 鷹見は私がしきりに差し出す絵本や図鑑には見向きもせず、むしろそれに苛立っているようだった。代わりに彼は私を抱き上げたり、肩に乗せたりして遊ばせた。狭いが本に溢れるこの家において、鷹見のそういう構い方は当時の私にとって目新しく新鮮で、しかし父と母にとっては心臓の休まらない場面だったであろうことは想像に難くない。なまじ私が懐いてしまっただけに父はよりいっそう鷹見を無下に出来なくなり、彼はそれに乗じてこの家から金を巻き上げ続けた。

 今にして思えば、鷹見はそれも計算づくで私に近付いたのだろう。最初から私は、彼に体のいい道具としか扱われていなかったのである。

 やがて巻き上げる金が枯渇し始めると、鷹見は途端に態度を豹変させた。私を使った遠回しな要求を止め、土足で家に踏み込んでは部屋を荒らし回り、私たち家族を脅迫するようになった。

 当初いつものように鷹見が遊びに来てくれたと勘違いする私の手を取って、母は父に逃がされるようにして寝室に閉じこもった。そうして震える母の腕に抱き締められてわずかに開いた襖の隙間から私が見たのは、言葉として聞き取れないような恐ろしい咆哮を上げながら、本棚を倒し、食卓に並んでいた温かい食事を床にぶちまけていく鷹見の姿だった。その姿は大きな体と相まってぎらついた目で私たちの家を侵略しに来た真っ黒な怪物のように思えた。それが私が生まれて初めて目にした、暴力の姿だった。

 私はすっかり鷹見を怖がるようになり、父と母はある種ほっとしたようだった。

 最初のうち、両親は故郷の家族に助けを求めることも考えたが、駆け落ち同然に行方を眩ませた二人が戻ったところで聞く耳を持たないだろうと自分たちだけで事態を解決する気でいた。私という子供がいたことも気がかりだったようで、事が最悪の方向に進めば、親族に私を奪われてしまう可能性も考えていたらしい。

 だがこの家の金が尽きたことを契機に強硬な態度に転じた鷹見を見て、二人は自分たちの命さえ危ないと危機を感じ取った。

 とはいえ、二人が元いた場所は閉鎖的な田舎町だ。金銭的な援助を求めて逃げ帰ったところで、家族からは厄介を持ち込んだと迷惑がられるだろうし、近隣住民からも冷たい目で見られるだろうとは分かっていた。

 父は苦渋の決断として今住んでいる家を夜逃げ同然に引き払い、九州圏内の別の街に身を潜める選択をした。この引越しで鷹見が私たち家族を見失えば御の字。しかし粘着質な彼の性格を考えれば、簡単に諦めてくれるだろうと考えるのは楽観的と言わざるを得ない。どこか彼の手の届かぬところへ、ひたすら逃げ続けること。家族としては命がけの逃避行の始まりだった。

 ある日の真夜中。両親は眠っていた私を揺すり起こすと、事態を飲み込めないまま二人になぜなのかと問い続ける私を抱き上げて、生まれて五年間を過ごした家を飛び出した。そこには私と母が愛していた絵本も、図鑑も、あるいはカフカとドストエフスキーさえも置き去りにされたままだった。

 私たちは着の身着のまま、手に持ったのはほとんど通帳と印鑑だけといった風体で、懇意にしてくれた父の同僚から借りた車に体を押し込むと見ず知らずの町へ向かい走っていった。車は途中で乗り捨て、そこから先はバスと電車に揺られた。車は持ち主の同僚が翌朝取りに来る手筈になっていて、後の私たちの足取りはその人にも伝えられていなかった。鷹見は父の職場も交友関係さえ知っていた。だから彼を撒くために、父は慣れ親しんだ職も町も全てを手放さざるを得なかったのである。

 こうして私たちは誰の頼りもない町に転がり込んだ。本当なら九州からも離れたいというのが両親共通の思いだったが、二人の手元にはもうそのための金は残っていなかった。しかしこれは逆に鷹見の怒りを買い、彼はなんとしてでも私たちを見つけ出してやろうと躍起になった。移り住んだ町の中で鷹見の姿を遠目に認めた時、母は卒倒しそうになったものだ。

 父はそんな母と私を連れ出すと、保証人も要らず即日入居が可能だという怪しげな物件に急ぎ移り身を隠すことでなんとか鷹見から逃れようとしたが、これこそが彼の狙いだった。鷹見は焦った私たちがそのようにして自分から逃げるのを期待して、あえて自らの姿を見せつけるように町中を練り歩いていたのだ。

 その物件の持ち主は、鷹見と個人的繋がりを持つ、黒い友人の一人だった。

 

 その日は出歩くと鼻の頭が真っ赤になってしまうような、凍える冬の時期だった。地面を割るような大きな足音が聞こえてきて、私たち家族三人は体を強張らせた。大柄な体格のうえ性格も影響してか、鷹見の足音はひどく乱暴で特徴的だったから、彼がこの家を見つけたのだとすぐに分かった。

 最初に動いたのは父だった。次に冷静さを取り戻したのは母。いつになく乱暴に地面を足裏で叩くような歩き方を聞いて二人は何か覚悟を決めた様子で、いつもは私を抱いて部屋の奥に隠れる母も、この日ばかりはそうしなかった。代わりに古びた和室にある押し入れの中に隠れるよう私に言った。

「大丈夫と声をかけるまで、絶対に出てはだめよ」

 言いながら押し入れ下段の奥まった場所へと私を押し込むと、有無を言わさず襖をぴしゃりと閉めた。初めて目にする母の剣幕に、幼心にも何かとんでもないことが起こっていることだけは理解して、言われるがままま光の一切が遮られた暗い押し入れの中で息を潜めることにした。

 順応というものは残酷なもので、こんな思いをしてなお瞳は暗闇に慣れていき、塗り潰された黒でしかなかった視界には押し入れを形作る木の枠組みや、頭上で空間を上下二段に分ける木製の中板が朧げながら見えるようになっていた。

 そのうちに鉄板を殴りつけるような猛烈な打撃音と、壁に遮られたようなくぐもった男の怒号が聞こえてきた。鷹見の声だと理解すると、知らず自分の体が小さく震え出してきたことに気がついた。

 あの浅黒い肌をした大男がこの小さな震えさえ見つけ出すような気がしてならず、私は両足を体の前で抱え込むと懸命に震えを我慢しようとした。頭の中、脳みそが詰まっている位置が焦燥感でぐにゃりと歪んでいくかのように気持ち悪い。今にもここから逃げ出そうとしているのか、身体中がむず痒くて落ち着かなかった。私は肩口のあたりを何度も撫で擦ると、自分自身を宥めようとした。けれど何をしたところで全ては意味をなさなかった。

 父と母が何事か言葉を二、三交わし、玄関の鍵を開けた音がするのとほぼ同時。隔てるものを失った鷹見の罵声がはっきりと耳に届いた時、私は恐怖から喉のあたりで空気の塊が詰まってしまったかのように上手く呼吸が出来なくなった。

 最初に聞こえたのは鷹見が父を殴りつけた打撃音。吹っ飛ばされた父の背がどこかに打ちつけられた大きな物音と、泣きじゃくる母の細い悲鳴。真っ暗な押し入れのなかで、私は生まれて初めて自分の想像力を呪った。

 当時の私は幼いながら早々に『解析』の個性を身に宿していた。町へ出て道行く人々を見ていると、その人がどんな個性を持っているのか次々と頭の中に飛び込んできた。最初は漠然としたイメージでしか無かったそれは、文字を読み、知識をつける度、実感として鮮明に理解出来るようになっていった。目に入るすべてが可能性に輝いているように思えた。

 だから私が物語や図鑑へ夢中になったのは必然だったんだろう。ページを捲るごと、その先の展開や可能性にあれこれと思いを巡らせては、目を輝かせて自分の想像を母や父に語り聞かせてきた。想像は私にとって、目の前の本の内容をただの文字情報として理解するのではなく、それが現実にどう作用するかという事まで発展して考えるための知恵だった。

 しかしその想像力は、今や狭く暗い押し入れに閉じ込められた私自身に牙を剥いていた。何も見えずとも外で何が起こっているのか、私には現実味を持って感じ取れていた。そうして鷹見という暴力が隠されたこの暗闇を暴いた時、私がどういう末路を辿る事になるのかも明確に理解することが出来たのだった。

 襖一枚向こうからは獣じみた唸り声が何度も聞こえてくる。何かを突き刺すような鈍い音と共に、何度も、何度も、何度も何度も何度も。やがて父と母の声が徐々に聞こえなくなっていったことにも私は気付いていた。

 部屋の中に落ちるのは鷹見の荒い息遣いだけになった。私が押し入れから一歩も動けないでいる間に、襖の向こうからは何かを物色する衣擦れと鷹見の舌打ち、それから悪態が聞こえてきた。「これっぽっちか」と吐き捨てた鷹見にとって父が所持していたのは端金だったのだろう。しんと静まり返った部屋の中で声も上げない父と母がどんな扱いを受けているのか否応なく想像されて、私は必死に自分の頭を両足の間に埋めると声を殺し続けた。

「あの餓鬼はどこいった」

 興奮したように息を荒げたまま、鷹見の口からその言葉が滑り落ちたのを聞いた時。私はいよいよ唇を噛み締めて反射的に両目をつぶった。そうするうちに恐怖が過ぎ去ていく事だけをただただ願っていた。

 鷹見は、どこだ、どこだと、うわ言のように繰り返しながら窓を開け、外も確認したが、周囲に私が見当たらないことに気付いたのか、今度は家中のあらゆる場所をひっくり返し始めたようだった。恐ろしげな足音がだんだんと押し入れに近付く。遂に目も眩むような光が差して襖が開け放たれると、私は喉の奥に息を詰まらせて現実ごとすべてを拒絶するように体を小さく丸めこんだ。

 けれど思っていた恐怖はなかなか襲ってくることはなく、不思議に思ってそろりと顔をあげた時。私は見てしまったのだ。突然取り戻した光に慣れずチカチカと光る視界のなかで巨木のように伸びた鷹見の太い足。その足の外側、体の横にだらりと垂れる右手に握られていた凶器を。視線は逸らせなかった。刃物の側面は人の脂と混じって奇妙な紋様を描きながら真っ赤に染まっていて、先端からは断続的に血が滴り落ちていた。

 鷹見はまず押し入れの上段を調べているようだった。大柄な身を乗り出すように襖を引いたその奥側も確認しているようで、頭上の中板があげる悲鳴と、鷹見の荒い息が同時に響いていた。幸いに襖を引いても未だ暗がりが残る押し入れ下段の左奥に私は隠れていた。遅生まれで外遊びもさほど好まなかったために、小さな体はその暗がりにすっぽり隠れたままだった。しかし次に膝を折って押し入れの下段を調べたならば、鷹見はすぐに私を見つけてしまうだろう。殺される。そう思った。

 ここから引き摺り出されて、それで彼は私をどうするだろう。泣き喚いて抵抗しようものならすぐさま殺してしまうだろう。あの凶器を私の体に突き立てるのだろうか。どうすればいい。とにかく彼に謝るしかない。何に謝るのかは分からない。それでもひたすらに彼に謝ってどうか殺さないでくださいとお願いするしか私に選択肢はなかった。

 頭上の中板が軋むのをやめて、視界に入る二本足が屈むように曲がっていくのが分かった。私が恐怖から再び目を瞑った、その時だ。遠く微かにパトカーのサイレンの音が聞こえた。鷹見は折りかけていた膝を止めると息を呑んで乱暴に襖を閉め、押し入れには再び暗闇が戻った。慌ただしげな足音がだんだんと遠ざかっていく。やがて窓が開く音がするとそこから勢いづいて飛び降りたのか、ややあって派手な着地音がアパート全体を揺らした。それきりあの恐ろしい男の気配は戻っては来なかった。

 私はその場から動けなかった。呼吸さえ戻らなかった。当時の私には本当に鷹見が戻ってこないか確信が持てなかった。すべてが疑わしく思えた。パトカーがやって来るのを信じて襖を開けたら、そこには不気味に笑う鷹見の顔があるんじゃないのか?浅黒い肌にくっついた唇の端を吊り上げるように嗤っていて、私は押し入れから引きずりだされる。泣いて暴れてもあの大男に敵うはずもない。せっかく母が逃がしてくれたのに、私は殺されてしまう。あの男に殺されてしまう。もう大丈夫と声をかけるまで絶対に出てきてはいけないと言われていたのに。

 そう考えて、はたと思いついた。そうだ。鷹見が本当にもう私たちを脅かすことがないのであれば、両親が呼びに来てくれるのだ。大丈夫だよと声をかけて襖を開けてくれる。そうして泣きじゃくる私をここから連れ出して、怖かったねと抱きしめて、あやすように背中を何度も撫でてくれる。そこでは私が好きな絵本や図鑑だって用意されているのだ。怖いこと、恐ろしいことを遠ざけて、私が好きなものに囲まれていられるよう心を砕いてくれる二人がいるからきっと安心することが出来る。またいつものように暮らすことが出来る。温かい食事を囲んでみんなで集まるんだ。きっとそうだ。そうに違いない。変わらない日常に戻るのだ。だから私はここから出てはいけない。二人が声をかけに来るまでここにいないといけない。

 追い詰められた子供の防衛本能だったのか。

 当時の私は、私の心を守るためにそう思い込もうと自分を追い詰めた。他の何も考えられなくなるように必死で自分の頭を殴りつけた。五歳の冬。こんなことが無ければ来年には父と母に手を引かれながら小学校に入学しているはずだった。それくらいの年の子供で、ましてや同年代より想像力に富んでいたとなれば、二人が一向に声をかけに来ないということが何を意味するか、分からないはずもなかった。

 だけど私はその可能性を排除する事に残ったわずかな気力と感情の全てを費やした。この暗闇を出た時。私を気にかけ、愛してくれる人たちがどこにもいない社会が待ち受けているだなんて、幼い私には理解したくもないことだったのだ。

 シュレーディンガーの有名な実験がある。

 思うに、当時の私がしようとした事はあれと同じだ。その実験では箱を開けて中身を観測するまで猫が生きているか死んでいるか分からなかった。観測しないことには、猫の生死は限定出来ないからだ。

 だから私も同じことをした。押し入れの外を猫が閉じ込められた箱と同じにしようとした。この真っ暗な閉鎖空間の外へ出て無惨に転がった遺体を目にしない限り、父と母の生死はまだ分からないと思い込もうとしたのだ。そうまでしてでも、二人が生きていることを信じていたかった。自分が信じていたいことを、信じようとしたのだ。

 ()は私へ言った。私のこれまでの生き方は『猫は死んでいた』という結果を予め選んだ上で、そのための証明をしてきたようなものだと。否定は出来なかった。その通りだとさえ思った。だけど私が選択ありきの行動をしたのは、彼に追求されたように男たちと破滅的な関係を構築していった時が最初じゃない。

 私は五歳のこの時、既に選んでいた。押し入れの外で父と母はもう息をしていない。それが私のせいでなかったにせよ、二人を殺したのは鷹見だったにせよ、私は無意識的にその結果を選んだのだ。だから押し入れから出ようとしなかった。狭くて暗い暗闇の中で震えていることしかしなかった。耐えようのない恐怖に晒されていたとはいえ、それは逆説的に言えば、二人は既に死んでいると決めつけていなくては選択し得ない行動だったと私は思う。

 あの時の自分の選択に私は何度も苦しめられた。

 どうしてあの時すぐさま押し入れの外に出ていかなかったのだろう。父と母はまだ生きていたかもしれない。血溜まりのなかで、声すら上げられないままに苦しんでいたのかもしれない。あの時私がすぐに駆け出して誰かに助けを呼べていれば。二人は死なずに済んだかもしれない。もし本当に手遅れだったのだとしても、お別れを言うくらいの時間は、あったのかもしれない………。

 だけど現実の私は二人が殺されたと信じ込み、死後二日も経って通報を受けたヒーローと警察が駆けつけるまで、頑なに押し入れから出ようとはしなかった。だから二人の死の瞬間が本当はいつだったのか私が知る機会は、永遠に失われてしまったのだった。あの日、私がすべてを拒絶して閉じこもる選択をしてしまったから。

 私の選択こそが、父と母を死なせる最後の一手になってしまったのかもしれない。こんなことは恐ろしすぎて誰にも打ち明けられなかった。保護された後、周囲の大人たちは私を必死で慰めた。あなたは悪くないと繰り返し続けた。司法解剖の結果も、鷹見の凶行に襲われた時点で二人は間違いなく絶命していたことを示していた。その資料は大人になってから自分でも精査し直した。結果は何も変わらなかった。それでも堂々巡りに回る後悔が私の頭の隅にこびりついて離れない。

 あの時もし、私が押し入れを飛び出して、二人を助けるために行動出来ていたのなら。だって私は殺害の瞬間その場にいたのだ。出来ることがあったはずなのだ。

 考えても仕方のない、もしもの話。現実はそうはならなかったのだから、思考を巡らせたところで意味はない。けれど考えずにはいられなかった。

 

 後から知ったことだが、事件の日、遠くに聞いたパトカーのサイレンは付近で起こった別の事件に急行している車両のものだった。私たちの事件は二日間誰からの通報も受けなかったが、それは物件の持ち主が「この日はどんな騒ぎがあっても知らない振りをしろ」と周囲に言い含めていたのが理由だった。持ち主は鷹見から、自分を馬鹿にした奴に相応の礼をしに行くと事前に連絡を受けていたのだ。

 元より保証人も無しに住めるような破格に安い物件だ。他の部屋に住んでいるのも大なり小なり探られては困る背景を持つ人間ばかりで、結局、変わり果てた父と母の遺体から異様な匂いが漂ってくるまで、この部屋には誰も立ち入ることはなかった。付近を管轄とする地元ヒーローも気付かなかった。この物件は元から怪しげな所だったし、それより毎日のように街中で起こる事件や事故の対応に追われていたから。こうして私たちは、この社会から取り零された。

 異臭騒ぎをきっかけにヒーローが踏み込んだ時、彼らは押し入れに隠れた私を見つけて悲鳴をあげそうになったらしい。殺人現場に居合わせ、自らも殺されそうになった体験。二日間に渡る閉所での生活はすっかり私の精神をおかしくしていて、強烈なストレスから押し入れには自ら抜いた髪の毛や爪が散らばり、痩せてやつれた顔は頭蓋骨の形を強調させているようで、暗所の中では二つの目玉だけがぎょろりと浮いているようにさえ見えたらしかった。

 異様さに慄きながら、それでもなんとか私を助け出そうとした当時の大人たちは大変だったことだろう。私は現実を受け入れたくないがあまり、押し入れから出ることをひどく嫌がり暴れていた。けれど引き摺り出されたその先でブルーシートに覆われた二人分の何かを見つけると、必死に拒絶してきた可能性が現実のものであるとようやく理解して、声もなく悲鳴をあげるとそのまま昏倒したのだった。

 *

 保護されてからは、病院、警察、それから養護施設をたらい回しにされるように順繰りに点々としていたように思う。医者やカウンセラーが変わるがわるに私に接し、しきりに何かを話しかけていたが、その頃のことはよく覚えていない。彼らは懸命に私の口へ飲み物や食べ物を運んだが、どれも事件現場の床にこびりついた腐った血と同じ匂いがする気がして全てもどしてしまった。ただでさえ小さかった私の体から伸びる手足は、日増しに枯れ木のように細くなっていった。こればかりは成長した今も健全といえる体つきに戻ることはない。

 事件以来、私はあらゆる物事に怯えるようになった。公園から聞こえる親子の声、街角を通り過ぎていく車の音、昇っては沈んでいく太陽さえなにも変わらない日常の中で、この世のすべてが私を追い詰め、脅かす脅威であるかのように感じられた。けれどあれ以来、私の身に不条理が降りかかることは一向になく、起きて、食べ、暮らし、また眠りにつく生活はいっそ奇妙なほど同じように続いていく。施設にいる間、他の皆がそうして同じように暮らしていた。変わった事といえば私を愛してくれるたった二人の人たちが、この世のどこにもいないということだけだった。

 そうして私は未だぼんやりとする頭で考えた。変わったのは社会ではなく私。この世にはおぞましい暴力が存在すると知ったから、他のすべてが恐ろしく感じられている。だけどこの社会を構成するほとんどの人はそうじゃない。彼らはたとえば本の中に書かれている文字情報を認識するのと同程度にしか、暴力の存在を真の意味では理解していない。その脅威の恐ろしさを本質的には知らずに済んでいる。だからいつもと同じ毎日を送ることが出来る。明日もまた同じ一日が来るのだと根拠もなく信じて、温かいベッドで眠りにつくことが出来る。そう理解した時、私は、自分が平穏な社会に紛れる一匹の巨大な毒虫になってしまったことに、ようやく気が付いたのだった。

 それからの私の状態は、およそ悪化の一途を辿ったと言うに相応しい。

 医者やカウンセラーたちは一体何が原因なのかさっぱり分からなかったことだろう。この頃の私は何に対してもひどく怯えるので、施設の外に出ることなど一度もなかったし、職員による接触には細心の注意が払われていた。彼らが私の内面で至った結論になど気付くはずもない。錯乱する私にとうとう音をあげたのか、施設はある場所へ私を移すことにした。それが厚生大臣の亡き妻が運営していた孤児院だった。

 そこは敵役(ヴィラン)被害者遺族の保護を掲げる全国でも珍しい施設で、亡くなった妻に代わり大臣が裏で運営を引き継いでからというもの、些か様相が異なっていた。後の厚生省個性医政局公安課社会分析室、その副室長を務めることになる男と大臣は、ある事件を契機としてこの時既に繋がっていたのだ。以来この孤児院は、彼らが将来本格始動させる計画に必要な個性と能力を備えた子供を選定・育成するための機関としての性格を併せ持つようになっていた。

 私の情報はただちに大臣へと伝えられ『解析』の個性が知られる否や、彼らは私を回復に導くために全力を尽くし始めた。幸か不幸かその成果は徐々に現れ始め、雑音としてしか聞き取れなかった人の話し声を、脳が言葉として処理するようになっていった。

 

 ある日のことだ。大臣肝入りの医師とカウンセラーたちによる慎重な判断の下、一度私を街へ連れ出すことが決定した。回復傾向にあったとはいえ、衣食住以外ほとんどの意思を示すことがなかった当時の私が拒否することもなく、私は子供用の車椅子に乗せられると実に数年ぶりに街へ出た。

 そこにはとんでもない音と光の奔流が私を待ち受けていた。太陽の光を浴びて輝くビル群に、通り過ぎていく車の音。青信号と共に音が鳴る信号機と、私の横を颯爽と駆け抜けていく自転車が切り裂いた小さなつむじ風。事件以来ほとんど病室と施設の敷地内を往復するだけの生活をしていた私には目が回るほどの刺激の大波。頭さえくらくらしてきたその最中に、私は見た。

 それは些細な一場面だった。

 そこにいたのは、両親に連れられて街を行く子供たちの姿だった。ある子供は先走る姿を後ろから見守られ、またある子供は両親に片方ずつ手を握られて、繋いだ両手を時折遊ぶように振りながら歩いていた。それを目にした時、長く石のように硬直したままだった私の胸に、猛烈な喪失感と愛おしさが込み上げてくるのを感じた。喉が詰まる。息さえ出来ない。知らず、私の両目からはぼたぼたと大粒の涙が溢れていった。

 かつて私は、この子だった。平穏なこの社会の一員だった。だけど暴力という不条理を思い知らされて、私は社会のなかで異質なものに変わってしまった。人間社会に一匹紛れた毒虫のように。そうしてこの社会から弾き出された。自分がもう戻れない社会に生きる人々を恨もうだなんてことは、とても思えなかった。この平穏な社会を愛している。私だってずっとそこに居たかったと思うくらい、愛しているのだ。だけどその社会の中で生きているこの子供たちは、いつか私になるかもしれない。

 限界まで膨れ上がった喪失感と愛おしさが、分水嶺を超えて怒りへと裏返る。この世の不条理に対する途方もない怒りが、私の全身を貫いた。そんなものは絶対におかしい。決して容認しない。もうこんな思いを、誰にもして欲しくなんかない。暴力によって奪われることに苦しむ人間は、この世で私が最後にしたい。そのためなら、誰にも理解されなくたって構わない!

 異変に気が付いたのか、職員はこの日、慌てて私を施設に連れ戻した。けれどこれまでが嘘のように活力を取り戻した私にとって、無為に過ごすしかなかった時間を取り戻す事が何よりも優先された。一分一秒も惜しかった。職員を捕まえて質問責めにし、ニュースや新聞に片っ端から目を通し始めた私を見て、その日の夜には厚生大臣が飛んできた。大臣は私がこうなる日を待ち望んでいたようだった。

「君にとても大切な話があるんだ」

 その言葉に私も頷き返した。事件からずっとかかっていた霞は、もう頭の中に残ってはいなかった。

 

 人の脳をシステムの基幹部に据えるという発想こそまだ無かったものの、当時の大臣は既に計画の前身となる新たな国民監視システムを提唱して公安委員会を追われた後だった。

 厚生省に移ってもなお公安にマークされていたことに気付いていた大臣は、私の経歴を洗うことを思いついた。つまりは公安委員会とはまったくの別口、厚生省公安課の人間として私を世間から隠そうとした。それは書類上、私と亡くなった両親、そして鷹見の被害との関係性の一切を放棄するという意味でもあった。

 もちろん、事はそれだけでは済まないことも重々承知していた。大臣は正常な思考を取り戻したばかりの私にも努めて分かりやすく事の次第を説明した。

 同じ年頃の子供たちと同じように学校に通える余地は無くなること。彼らと同じかそれ以上のカリキュラムを厚生省公安課の施設でこなしていかなくてはならないこと。今後私が人並みに恋をして、家庭を持ち、子供をもうけたいと思っても、そのすべてに厚生省公安課からの監視が一生涯つくということ。そして何より、私はこれまでの名前にさよならを告げなければならないということ。

「今日から君にはここで、特別な技術者として計画に携わるための専用プログラムをこなしてもらう。あらゆる分野の学問と知識、そしてなにより技術が必要だ。厳しい課程になると思うが、大丈夫かい?」

 厚生省公安課の施設に連れてこられた日、大臣は最後通告のようにそう尋ねた。答えならとっくに選んではいたが、あえて尋ねられるのであれば、私自身も彼らに確認しておきたいことがあった。

「協力すれば。あの日私がそうして欲しかったみたく、苦しんでる誰かを見つけられるようになりますか」

 私より随分高い位置にある大臣の顔を見上げる。迷うことなく真っ直ぐに視線を向けた。

「つらい思いをする人が誰もいなくなるくらい、みんなの事を守れるようになりますか」

 私の言葉を聞き届けると、大臣は膝を折って目線を合わせた。大きな手のひらが私の両肩に添えられる。

「この計画に賛同する者のほとんどは、みんな君と同じ敵役(ヴィラン)被害者遺族だ。ここに同じ思いを抱かない者などいない。必ずやり遂げよう。私たちで」

 しかしその手は亡き両親たちのように、私を抱き寄せることは決してなかった。それで良かった。

 私の胸の内にはもう、原点が宿っている。それはたとえようもない悲しみを伴った殺人という暴力の記憶だ。記憶に苦しめられるほどに、この社会に蔓延るすべての不条理への怒りが湧いてくる。自分が弾き出されるしかなかった社会に帰りたいと願うほど、だったらまだそこにいる人たちを守ろうと奮い立つことが出来る。今ならどんな困難にも立ち向かえる気がした。

 この時、事件から三年。私は八歳になろうとしていた。不可解なことに、鷹見の足取りはその後誰も捕えることが出来ていなかった。

 *

 厚生省公安課の所属になって最初の目標は、私の知識水準を同年代同等に到達させることだった。今日までの数年をほとんど寝たきりに近い状態で過ごしていた私は、小学校に通っている通常の児童より周回遅れのスタートになった。

 一日のほとんどを窓もない施設の部屋で過ごし、猛烈な勢いで最初の難関を突破すると、施設の人間たちは早々に課程を繰り上げていった。十歳になる頃にはカリキュラムの内容は高等教育に片足を突っ込み始め、ゆくゆくは技術系統だけでなく、法医学や解剖学といった医学的知識も習得するだろうと目されていたところで、思わぬ一報が飛んできた。鷹見が捕まったのだ。

 事件の後、五年間に渡って九州に潜伏していたが、盗んだ車で逃走している最中パトロール中のヒーローに逮捕されたらしい。捕まえたのはフレイムヒーロー・エンデヴァー。ヒーローに対してはこの社会の治安維持に日々尽力していることへの感謝こそあれど、殊更に強い憧れがあったわけじゃない。むしろ事件の日になぜもっと早く駆けつけてくれなかったのかと、行き場のない暗い感情さえ心のどこかに抱えていた。それでもこの日ばかりはエンデヴァーというヒーローに一目会ってみたいとさえ思った。

 思ったところで過去も名前も洗浄された私には、満足に礼を言うことさえままならない。結局私がエンデヴァーに会いに行くことはついぞ無かった。そして鷹見がどういう手段で五年もの間、逃げおおせることが出来たのか。それもまた分からないままだった。

 以降も厚生省でカリキュラムをこなしていく合間、私は大臣の伝手を使って鷹見の処遇に目を光らせてきた。数年が経ち、鷹見には無期懲役の刑が下った。判決で読み上げられたのは二名の殺人、逃走後複数の強盗致傷、更にはいくつかの窃盗について。殺された二名の実子、つまり私については特段触れられることも無く、世間的にはあれから行方不明ということにされていた。

 これで私の人生には一定の決着がついたことになる。鷹見は刑務所に送られて二度と外に出てくることはない。けれど私の頭のなかで事件が終わることはなかった。あの日に端を発するすべての出来事は、既に私の原点へと姿を変えていた。それは逆に言えば、私の中で事件の恐怖が癒える日は決して来ないということだった。心のどこかに不安定さが染み付いてしまったのか。いつしか煙草が手放せなくなっていった。

 そうしている内にも、私は厚生省から要求されたカリキュラムをすべてパスして、本格的に計画に関与するようになっていった。他者からの評価はめざましいものだったと思う。大臣が私の個性を買っていたこともあって、いつしか厚生省公安課分析室長の肩書きが付き纏うようにもなっていた。

 

 最初のうち、計画は順調だった。

 全市民の常時監視による新しい国民管理システム。大臣の構想をより現実に近付けるため、私は自分と副室長の個性である『解析』そして『読心』をシステム上で再現する方針を取った。そのために新たに協力を取り付けたのが、外務省の男だった。

 彼は現在世界一位のスーパーコンピューター開発会社と深い関係性を築いていて、機材を秘密裏に借り受けてのシステム開発も行われた。システム上での個性の再現はかなり精度が高いところまで実現することが出来た。問題はモニターした市民の社会的脅威の判定だった。

 難点は二つ。一つは、人間の思考は刻一刻と移りゆき、同時に二つ三つのことを考えることもざらにあるということ。そんな人間の思考を常時正確に読み取ろうと思えば、尋常ではないスピードで膨大な演算処理が要求し続けられる。それは世界一位の機材を持ってしても耐え得るものではなかったし、副室長自身の『読心』能力の範疇を優に超えていた。

 二つ目は、たとえ移ろい続ける思考の読み取りが正常に行えたところで、モニターした市民の個性能力まで加味しての社会的脅威を算出しようとするならば、そのシステムにはとんでもなく柔軟な判断力が求められるということだった。

 これら問題を解決すべく私は日夜開発に勤しんだが、どう足掻いたところで結論は同じだった。つまり要求される柔軟な判断の水準を達成できるのは、システムではなく人間の思考力でしかあり得ないということだった。しかし国内にいる全市民の思考モニターと脅威判定を人海戦術で賄うなんてことは当然現実的ではない。私たちはなんとかこれらの問題を突破しようと試行錯誤を繰り返したが、計画は暗礁に乗り上げたとしか言えない状態だった。

 時を同じくして公安委員会も、かつて大臣ごと切り捨てたSFじみた社会システムの計画が秘密裏に再始動していることに気が付いた。公安委員会の会長はかねてより私たちの計画を特に強く警戒していた人物だ。一連の動きを重く見た大臣は計画の一時凍結を私たちに言い渡した。対立勢力に握り潰される事を避け、今は雌伏の時だとしたのだ。

 

 当時、私は荒れに荒れた。

 この時はまだ敵役(ヴィラン)連合や死穢八斎會の活動は表立ったものではなく、現在のシステムに至る解決の糸口がなにも見当たらない状態だった。日々をほとんど無為に過ごしながら、私はもがくように片っ端からあらゆる分野の学問や研究をひっくり返し始めた。ただでさえ作業的な食事はますます億劫に感じられ、幽鬼のように痩せ始めていたように思う。朝か夜かも分からないまま無茶苦茶な生活を繰り返し、デスクの灰皿には吸い殻が溢れていた。そんな時だ。

 性質の悪いことに、この世には弱っている人間に目をつけるのが異常に上手い人種というものが存在する。彼等は相手の顔に張り付いた皮膚の動き、瞳に宿った活力の有無、あるいはその人の立ち居振る舞いといったものをよく注視していて、弱っている人間を的確に見つけ出す。そういう人間にこそ交渉を仕掛けるのだ。私はそれを、彼等が比較的コントロールし易い他人を探しているうちに磨いた審美眼だと考える。

 何が言いたいかと言えば、この時期、私に近付いてきた男がいたのだ。私が事件直後のように憔悴しきった様子なら、彼もあまりの姿に慄いて距離を取ったことだろう。だが当時の私は幾ばくか追い詰められていたとはいえ、あくまで上手く進まない計画に参ってる範疇のことだったし、このままシステムを完成出来ない未来を想像して自暴自棄になっていた時期でもあった。

 言ってみれば私にとっても誰でも良かったのだ。彼に特別な思い入れはなかった。それはお互い様だろう。都合の良い男女がたまさか出会って関係を持った、それだけの話だ。そしてそれが私に暴力を思い知らせた二人目の相手になる。男は私の初めての相手だった。

 行為の後、私は驚いていた。それは事件以来初めて味わう、自分の意思のことごとくが黙殺される時間だった。男には私の嬌声と悲鳴が聞き分けられないようだった。()()はそういうものだと男は言ったが、その言葉を信じるなら、行為とは小さな暴力の交歓によって成り立っているものとしか私には考えられなかった。夜の間、私は一人の人間ではなく、他者の意のままに内臓を弄くり回される一個の物体としてシーツに横たわっていた。

 

 思考する同じ人間を物のように扱う客体化の暴力。私にとってそれは殺人という究極的な形で脳裏に強く刻まれていたから、あまつさえこれを性愛だと捉える一般的な市民こそが、程度こそ異なれ、同じ種類の暴力を行使していたことが衝撃だったのである。

 頭では分かったつもりになっていた事実を、私はようやく実感を伴って理解した。敵役(ヴィラン)でなくとも暴力は振るうことが出来る。客体化を暴力とするのなら、それはこの社会に暮らす人々の中にありふれているのだ。夫婦。親子。そして恋人関係のなかにさえ。ただ自らの持つ暴力性を発露する場面と相手を選んでいるだけで。

 私は頭のどこかで、暴力を行使するのは自分たちと異なる人間だと思っていたのかもしれない。公安委員会にせよ、厚生省にせよ、公安なんて組織にいれば国家に対するテロリズムを企てる敵役(ヴィラン)たちの暗殺なんて仕事、日常茶飯事だというのに。私たちはみんな暴力を内在している。

 思考を巡らせていると、重くのしかかっていた事件の記憶がほんの少しだけ軽くなった気がした。誰もが潜在的に暴力性を抱えているのなら、あの日の事も社会全体から見れば何も特別なことでは無かったのかもしれないという考えが脳裏を過ったからだ。現に国家の手による殺人は会議室で決定される。厚生省公安課の一人として、私が助言を求められることさえあるのだ。長く苦しめられた記憶がわずかでも揺らいだことは救いではあったが、次第に私が感じたのはそれを上回るほどの恐怖感だった。

 暴力の存在にまだ無自覚でいられる人々によって成り立つ社会。その平穏を脅かす不条理に途方もない怒りを燃やしてここまで来た。私の原点であるその怒りが一瞬でも風化しかけたということ。暴力が自分の手と思考に馴染んでいると気付いた瞬間のおぞましさ。

 なにより敵役(ヴィラン)でもないごく普通の市民たちも暴力を内在しているのであれば、私が弾き出された平穏な社会というのはとんでもなく脆い砂上の城で。そんなものを守ろうという自分が、一度でも暴力を許容しかけた事がたまらなく恐ろしかった。

 自分が奪われるしかなかった光景を目にして溢れた、あの悲しみと愛おしさを思い出せ。相反する二つの感情が川の支流のように寄せ集まって濁流となり、やがて分水領を超えながら不条理への途方もない怒りに裏返っていったあの瞬間。

 もう一度、あの激情を取り戻さなくては。

 そう思い詰める内に、最初の相手に似た振る舞いをする男たちと次々に関係を持つようになっていった。

 男たちの内から引き摺り出した暴力的欲求の前に生身の体を晒していると、脳裏には自然と連鎖して、事件の日の出来事がまざまざと浮かぶようだった。人間が持つ暴力。自分の身を蹂躙されながらも、その存在を証明する時、私は不条理への怒りを取り戻せた気がした。皮肉なことに、彼らの内に潜む暴力性を引き出すのは私にとって容易いことだった。かつて究極的な不条理に晒された経験は、どうすれば彼らがエスカレートしていくか否応なく私に理解させていた。

 即ち、目の前にいるのは何をしてもいい存在なのだと認識させること。たとえば押し入れの中で震えていることしか出来ないような、ちょっとした暴力の行使で簡単に息絶えてしまうような年端もいかない子供のように。決して自分には敵わない支配可能な存在。

 自分のどんな欲望もぶつけて良い他者なのだと私のことを目してから、彼らの目の色が変わるのは早かった。そういう夜に私がどんな顔をしていたのかは私自身にも分からなかった。『彼』に真正面から抉られるまで、この破滅的な行為に耽る理由が、私の胸の奥底で渦巻く整理のつかない感情の中にあるということさえ満足に分からないままだったのだ。

 

 月日が経った。

 破滅的な衝動は徐々に落ち着きを取り戻し、私は厚生省公安課として通常の職務に励みながら、計画の打開策を探る日々を送っていた。一年。二年。やがて三度目の春がやってきた頃。私は二十七歳。その知らせは前触れもなくある日突然やって来た。

 

 国立雄英高校を突如襲った敵役(ヴィラン)。その一群の中にいた、頭部に剥き出しの脳を備えた異様な姿の怪物。後に脳無と呼称された改造人間の個性は、警察庁からの協力要請の下、厚生省で即刻検索にかけられた。個性届も四歳児検診の記録も見つかった。あの怪物は生きた人間とその個性を材料に作られている。

 その事実に辿り着いた瞬間、人の倫理を踏み越える発想に至ったのは、私だけではなかった。少なくともこの時点で副室長は大臣への接触を試みている。この時はまだ、私たちは前向きに可能性を模索していた。仮に脳無の製造技術を何らかの形で技術転用出来た時、ベースとなる生きた人間は私と副室長の二人だけを想定していたからだ。

 大臣と副室長の間にある確執のことは入省の際に耳にしていた。彼らも私も、過去によって人生を変えられてしまった人間だ。今の社会を守るためなら、私たちにとって自分自身というものは最も安いコストだった。他の誰もが理解出来ずとも、私たちはそうならざるを得ない体験を抱えた者同士だったのだ。

 

 雄英高校の襲撃。保須市の事件。脳無の登場に伴い、厚生省公安課の社会分析室には人が戻るようになっていった。この部署の実態は大臣に集められた研究チームだ。私たちは警察庁の要請の元、改造人間の調査という形で捜査に協力していったが、全員が共通して頭の中では別の夢を見ていた。閉塞した状況を打破する可能性が、そのための未知の技術が、このおぞましい改造人間の中に眠っているかもしれない。そんな夢を。

 少なくとも脳無の中で眠る技術に手を出した時、実際に運用するかしないかに関わらず、私たちはあるべき社会と人間の倫理を踏み越えてしまうだろう。予感はあの頃の全員が抱いていた。だけど私たちはもう止まれなかった。皆そうなるに足る体験を過去に抱えていて、この社会をより良くするための技術がそこにあるのなら、それは完成させなくてはならないという思いに取り憑かれていた。火ならもうついてしまった。

 この社会を更に向こうへ。その思いは平和の象徴が社会を去ったことで、決定的なものとなる。

 

 神野区の悪夢。

 宿敵AFO(オールフォーワン)との決着を迎えたこの事件は、一方で社会にとっては痛み分け以上の戦果だったと言わざるを得ない。オールマイトの登場は、現代社会の根幹を成すヒーローへの信頼を相当に強化していた。それはほとんど絶対的な平穏をもたらし、敵役ヴィランたちへの抑止力として機能したと言える。逆に言えば、無力なことに、この社会の平穏はオールマイトただ一人の双肩にかかっていたのだ。

 しかし今その支柱が折れた。平和の象徴がいない明日が遂にやってくるのだ。人々の無意識を支えていた安心と安全は最早どこにも無い。早急にこの社会を立て直さなければならなかった。平和の象徴に代わる秩序が必要だった。当初よりオールマイトの実情を知っていた塚内たちごく一部の人間を除き、神野区の悪夢を報道で目にした多くの政府機関関係者が共通の危機感と焦燥を抱いた。それは公安委員会だけでなく、私たち厚生省公安課も同じだったのだ。

 

 この頃、私たちは既に脳無という存在からいくつかの技術の実在を確認していた。個性の複製と付与。複数の人間の臓器を繋ぎ合わせる外科的処置。生きたまま脳を摘出する方法。摘出した脳のユニット化。AFO(オールフォーワン)逮捕に伴い彼の『個性を奪い与える』能力が判明したことで、このうち個性の複製技術については、理論段階で恐らくは実現不可能だろうと目されていた。

 脳無の存在そのものが個性複製技術の実在を仄かしていたことは、私たちにとっても大いに魅力的に写っていた事は事実だ。この技術が現実的に運用出来るなら、計画のみならずこの社会と国家、果ては外交にさえ影響をもたらす可能性があった。世界のあらゆる研究者が日夜研究を重ねても、未だ個性の複製技術に到達出来た者は存在しない。

 しかしこの技術がまず間違いなくAFO(オールフォーワン)の個性ありきで成り立っていることが推測されると、私たちは脳無が示唆する他の技術を発見・理論化させることに心血を注ぐようになった。たとえこの社会に大きな変革をもたらす可能性があろうとも、史上最悪の敵役ヴィランの手を借りることにはどうしても抵抗があったのだ。それは私たち研究チームのほとんど全員が敵役ヴィラン被害者遺族であることに端を発する心理的嫌悪感を抱えていた事が理由でもあったし、AFO(オールフォーワン)ほどの敵役(ヴィラン)の意思を残したまま協力なんてさせようものなら、いつ何時事態が最悪の方向に転ぶための種を撒かれてしまうか分からないという危機感が理由でもあった。

 そう結論づけた時、私たちの前にいま一度、ある倫理的境界線が立ち現れるのは避けられないことだった。

 即ち、『敵役(ヴィラン)の意思を残したまま彼らの手を借りる事は危険なのであれば、彼らの意思を奪ったうえで何らかのシステムに組み込むことは出来ないのか』ということだ。そのための理論は出来上がっていた。この時、私たちは個性複製技術を除いて、脳無製造において用いられたと推測されるほとんどの技術を理論化することに成功していた。

 これらの技術を計画に組み込むべく行動を起こさなかったのは、私たち自身の強靭な理性が勝っていたというよりは、単純に必要なピースが足りなかったからだ。私たちの意思はそこまで切迫していた。最後のピースとなったのは死穢八斎會事件で使用されたある弾丸。治崎廻がとある子供の血肉を使って製造した個性消失弾。弾丸がもたらしたのは、ある特定個人の個性を物質に付与するという発想と技術だ。それが私たちに境界線を踏み越えさせる決定打となった。

 

 だからそのシステムが生まれたのは、魔が差したという他にない。

 平和の象徴の不在。活性化する敵役(ヴィラン)。脳無の存在とそこに用いられた技術。高速化する敵役(ヴィラン)退治。進まない刑の決定とそれに伴う拘置所の圧迫。このままでは遠からず必ずやって来る社会が秩序を失う日への予感。

 こんな状況で無ければ。社会を支える絶対的なヒーローがいてくれたなら。あるいは私たちの誰もが敵役(ヴィラン)の被害者遺族なんてものでなければ、その選択はされなかったのかもしれない。だけど現実に必要な要素は最悪なタイミングですべて揃ってしまったのだ。目の前には一つだけピースの欠けたパズルがある。そこにはひどく魅力的で苦しいほどに焦が続けた平穏な社会が見えているのだ。足りないのは絵を完成させる最後のピースだけ。そしてそれはあなたの手の中にある。

 そんな状況でピースを嵌めずにいられるだろうか。たとえ取り返しのつかない所まで社会が進んでしまうと分かっていても、今ある暴力と不条理を根絶し得る選択肢が目の前にあって、一体誰がその未来を選ばずにいられるだろう。私たちには出来なかった。だからこのシステムは生まれた。

 誰からともなく、摘出した敵役(ヴィラン)の脳をシステムの運用に使えないかと言い出した。それは私だったかもしれないし、副室長だったかもしれない。他の誰かだったかもしれない。分かっているのは、最早誰が最初に境界線を踏み越えたのかも分からないくらい、私たちが考えていることは同じだったということだ。人と社会のあるべき倫理観を踏み越えるのは、始まってしまえば簡単なことだった。何も感じないのが却って恐ろしいほどに。

 私と副室長を含めた複数の人間の脳を有機的にシステムへ接続することが決定した。そこから先は崖に向かって転がり落ちるようなものだ。法務省矯正局の取り込み。システムを運用する脳を長期的に獲得・拡大していくための、新しい刑罰の創造という発想。計画は再始動した。

 しかし同じ頃、公安委員会は私たちが再び動き出したことに勘付いた。委員会と厚生省の緊張感は急速に高まり、再始動のきっかけが脳無の調査であることに当たりをつけた委員会の工作により、私たちの元へ脳無の検体が降りなくなった。厚生省公安課は大臣がねじ込むように作った歪な組織だ。脳無の研究のため使っていた施設からも締め出され、計画は難航した。

 惨たらしい姿の改造人間へと変わり果てた脳無に詰まっているものは、誰にも見つけてもらえずに犠牲となった幾人もの人間の悲劇と、すべての研究者たちが到達出来なかった技術の粋だ。ただその技術を手にしたのが、真っ当に努力を重ねてきた研究者たちではなく、倫理と人道を踏み躙って享楽に耽る最悪の科学者であろうことは、逆風に立たされ始めた私たちの胸に、昏く燃え盛るような火を点けた。

 敵役(ヴィラン)連合が身勝手にも無辜の人々を材料にして踏み躙るなら、我々も敵役(ヴィラン)たちを()()()()()利用する。その権利があるはずだと思い上がるには充分な敵役(ヴィラン)嫌悪とでも言うべき感情が、研究チームの中で潜在的に存在した事は否定出来ない。私たち個々人が過去に抱える体験とはそれほど強烈なものだった。

 私と副室長という最初からそのつもりの個人の命と道徳が、二人分蹂躙される事に違和感はなかった。ただ、計画が実現した時、最も嫌悪するはずの敵役(ヴィラン)の脳が私と副室長の個性を支配・運用することに対して思うところが無いわけでもなかった。けれどシステムが運用された時、私の脳は個性を発揮し続ける機能として存在はしていても、そこに私個人としての自己と意識は存在しない。

 だったら余計な葛藤は不要なものだと思ったのだ。敵役(ヴィラン)の脳が社会を管理していくことについても同じ考えだった。新しい罪と罰の形として、彼らが自己を剥奪されたうえでこの社会に貢献していくのであれば、そこに私個人の生理的な嫌悪は意外なほど無かったのである。

 問題は死刑とも懲役刑とも異なる、脳の摘出による無期限社会奉仕という刑罰の制定だ。然るべき議論がされるべきだと考える頭のどこかで、いくら話し合った所でこんな倫理に阿る行いが許されるわけがないと思う自分がいる。同様に考えた厚生省と法務省は、表に明かすのはあくまでも私と副室長の脳を摘出するという事実だけに絞り、敵役(ヴィラン)の脳を取り込むことでシステムの完成と拘置所の圧迫問題を同時に解決することは徹底的に隠す方針を取った。

 本当にこれで良いのか。

 計画に関与したすべての人間の奥底に共通して、その思いは存在した。けれど実際に疑問や戸惑いを口にする者は誰もいなかった。私たちみんな同じ葛藤を抱え、それでもこの道を選ぶしかなかったのだ。

 こうしてシステムは大臣と副室長、そして私だけの夢想では済まない規模へと変貌を遂げていった。計画は最早私ひとりの手に負えるものではなくなっていたのだ。このまま荒波へ攫われるように計画を進める他はない。そう思っていた矢先、公安委員会と厚生省公安課による脳無の共同研究が決まった。そこに現れたのが『彼』だった。

 赤い翼を背負った彼が、公安委員会に所属するヒーローであることはすぐに分かった。彼が私たちの動向を探っていることも。状況次第で彼は迷わず私たちを拘束しにかかるだろう。それが出来るだけの実力と冷静な思考を併せ持つ人物だと思った。

 だから身勝手にも彼に任せてみようと思ったのだ。彼が真相に気付くのか。知ったうえで、私たちの計画をどう判断するのか。その結果を粛々と受け止めようと思った。大体にして彼が私たちの思惑を許さないと決断した時、逃げ道が残されているとは到底思えなかったのだ。

 会議の日、宮内庁からの招かれざる客の姿を確認した時にその思いは確信に変わった。大臣を中心とした厚生省のメンバーは最悪の場合でも第三国の手を借りて逃げ延びる算段をつけ始めてはいたが、上手くいくとは思えなかった。公安委員会が計画の意図を掴みかねている間、私たちは見かけ以上に思い詰められていた。

 厚生省との切り離しを目的とした福岡行きが指示された日には、こうなっては久しぶりの帰郷だと思ってやろうと割り切った。故郷にろくな思い出は無かった。あるのは思い出したくもない殺人という暴力の記憶だけだ。だけどその町は今や彼の管轄下にあるというから、つい気になったのだ。彼の町を見てみたかった。結果としてその行動が、私の心を大きく動かすことになる。

 

 その町は私が目指した理想の一端を叶えた社会を形成していた。敵役(ヴィラン)がいないわけじゃない。だけどそこに暮らす人々の誰もが、何があっても必ず助けがやってくると無意識下で信じて安心している。それはオールマイトという平和の象徴が去って以来、あの監視モニターからでさえ久しく見ていない人々の顔つきだった。

 調査の合間、私は笛吹き男の後をついて行くようにふらふらと町を歩いていった。同じ理想を見ている自分とは異なる他者が存在する。その人がこの町を作っている。なんの不安もなく、変わらない明日はやって来るのだと信じて暮らす人々が通り過ぎる町の中に身を置いていると、涙が出るほど幸せだった。そこに私が味わうしか無かった不条理の影はもう無かった。

 故郷と呼ぶべき町に酷い思い出が付きまとっていたことは、自分の身の置き所を想像以上に無くしていたのだと思い知った。ここが私の故郷。そしてこの場所に怯えなくてはいけない暴力の手が及ぶことはもう無いのだ。そう実感した時、胸の内に滲んだ途方もない悲しみが、深い安堵感と恋しさのようなものに変わっていくのを感じた。不条理に怯えずに済む社会。帰りたいと思っても帰れなかった場所が目の前にある。この場所を作ってくれた人がいる。手段は違っていたとしても同じ方向にある理想を見ている。体の芯からそれを理解した時、彼へ向ける思いは私の中から溢れるようになっていた。

 

 同じ空を飛び、同じ夜を過ごした。

 彼は容赦ないほど真正面から相手と向き合う人物だった。そのために自分でも向き合うことから無意識に逃げていた本心を引きずり出されもしたが、彼が思った通りになど到底動かない人物だと実感することは、却って私を安心させた。今まで一番、穏やかな心地で迎えた朝だったと思う。少なくとも今、彼のセーフハウスの一つであるマンションの一室は、私にとって心から安心できる場所になっていた。

 だからこそ迷う。システムがなくとも、この町は理想社会にほど近かっただけに。もちろんそれは彼というヒーローがいてこその話だ。一人のヒーローに頼りきる社会はオールマイト時代の再演でしかない。そこにある平穏な社会は時限式だ。彼と、彼が作り上げた町は私の心を動かしたが、同じ手段で理想を叶える気にはなれなかった。

 代わりに胸の内へと去来したのは別の可能性だ。流されるがまま置き去りになっていた私の葛藤。即ち、正当な議論無しに制定される新しい罰。彼の町は、そんなものが無くとも理想社会を作り上げることは出来る可能性を私に示唆していた。

 これは本当に、身を任せるがまま看過して良いものなのか?穏やかな時間のなかで、疑念は遂に抑えが効かないほど膨れ上がっていく。しかしこれだけは彼に告白することは出来なかった。警護を兼ねているとはいえ、私にはたった今も厚生省からの監視がついている。システムを実行に移した際、大臣は私が人間的な死を迎えることの恐怖から、衝動的に逃げ出す可能性を捨ててはいなかった。それは副室長も同じだ。公安の人間になった瞬間から、組織の一員からでさえ私には一生監視の目が向けられることは最初から分かっていたことだった。

 

 彼が私に与えた猶予は一時間。

 その間に答えを出さなくてはならなかった。

 今からでも計画の再考と一時凍結を進言するか?そんなことは大臣以前に、他の研究員が許しはしないだろう。こうしている今も公安委員会は計画について探りを入れている筈だ。そのために私を東京から遠ざけた。

 では公安委員会にすべてを打ち明けるのか?それもまた現実的な話では無かった。そも厚生省公安課は、大臣が計画の前身となった構想を公安委員会に糾弾され、追われた先で立ち上げた組織だ。敵役(ヴィラン)の脳をシステムに組み込む以外の道を探したところで、公安委員会の会長が計画の破棄以外を選択することはないだろう。

 時計の針だけが容赦無く進んでいき、体の内で焦燥感が暴れ出しそうになる。その時だ。どこか遠くから、くぐもったデバイスの呼び出し音が聞こえてきた。項垂れるように見つめていたテーブルから顔を上げる。

 音は寝室のクローゼットから聞こえていた。セーフハウスだけあって中身はほとんど空っぽで、予備らしい彼のヒーローコスチューム一式と、昨日着ていた私の上着だけがぽつんと並んでぶら下がっている。その上着の内側には、本来の縫製に無理矢理取ってつけたようなポケットがある。音は布地に阻まれながらもそこから鈍い音で鳴り続けていて、私は事態が大きく動いたことを半ば直感した。彼という公安委員会からの監視が最も近くに張り付いている以上、厚生省が不用意に私へ緊急回線を開くことはこれまで一度も無かったからだ。それだけに、私の預かり知らないどこかで事態は切迫していることが伺えた。

 デバイスを取り出すと、事前に決められた暗号が画面に表示されていた。至急現在地の座標を報告しろという意味を示すこのメッセージは、協力関係にある外務省の男が動いていることの証左だ。テレポートの個性は便利だったが、使用者本人に行き先の正確な座標と移動ルートの認識が必須であり、何より一度の個性発動で長距離の移動は出来ないという性質も抱えていた。

 私は再び自分のコートをまさぐって外ポケットからスマートフォンも取り出すと、麻痺の残る片手と片足を引きずりながら壁伝いにリビングへ戻った。

 テレポートは設計図を把握している建物に限っての屋内間移動、そして屋内から屋外への移動は可能だがその逆は不可能だ。昨夜彼と語らったベランダの窓を開けると地図アプリの座標を確認してデバイスから報告する。数分も経たないうち、不意に目の前の景色が揺れたと思うと男は一瞬で姿を現した。その表情があまりにも緊迫していたので、私は彼がせっかく作ってくれた時間を、結果的に無為にしてしまったことを悟ったのだった。

「公安委員会に嗅ぎつかれた。『上』の反応が激烈で、改正治安維持法を根拠に警察庁が令状を出すべく動いてる。厚生大臣が例の件を使っての妨害工作には踏み切ったが、グズグズしている暇はない」

「妨害工作って……まさか本当に?警察庁とオールマイトの繋がりをマスコミへリークしたって?」

「時間を稼ぐために必要な判断だった」

 衝動的に黒いスーツに身を包んだ男の胸ぐらに掴みかかったが、私の貧弱な力ではその体は嫌味なくらいびくともしなかった。会議の後、状況が不利に傾くことを予想した厚生省はいくつかの妨害工作を準備していた。その最大のものが、塚内警部を中心とする警察上層部が、かねてよりオールマイト弱体化を知っていながら世間には公表しなかったという事実を報道各社にリークするということだった。この事実を知らされていなかったのは、公安委員会にマークされていた私たち厚生省公安課も例外ではない。それが今回の脳無共同研究を切っ掛けに警察庁とも密なやり取りが増えたことで、私たちに事の次第が察知されることになったのだ。真実が伏せられていたのは、他ならぬオールマイトの意思だったという事も含めて。

「なんてことを。こんな真似したって得られるのは、たった数時間の猶予だけじゃないか」

 喉から絞り出されるように溢れた言葉は、自然、詰るような響きを滲ませることになった。

「私たちの目的と手段はいつから入れ替わったんだ。こんな行い醜悪だよ。平和の象徴に代わるシステムを作ろうとする私たちが、よりもよって社会を支えてきた人々を身勝手に利用して、貶めるっていうの?自分の身を置く組織がこんなにも恥知らずだなんて、思いたくはなかった」

「あんただけがそう思ってるんじゃない。俺たち世代はオールマイトの背中を見て育ったんだ。俺自身が助けられることこそ無かったが、それでもみんな彼の背中に守られて大人になった。その彼を裏切ってでも、あんたたちの研究に賭けてるって言ってるんだ。ついてきてもらいますよ、室長」

 焦燥からぎらぎらと光る男の瞳を見て、どんな拒絶の言葉を尽くしたところで現実は覆らないことを痛感する。

「リーク先は大手新聞社のみです。警察庁も公安委員会も全力で握り潰しにかかることが前提の妨害だ。あれほどに社会に貢献してきたオールマイトを更に追い詰め、その名誉を傷つける事態にはならない」

 あまりのことに、知らず男の胸元へと項垂れる姿が憐れに映ったのか男はそう言ったが、私には本心から信じることは出来なかった。

 新聞各社が万が一にも報道に成功するようなことがあれば、この社会への信頼は更に大きく揺らぐことになる。オールマイト弱体化が分かっていたならば、なぜそのための準備を整えてこなかったのかと市民は政府と警察を糾弾するだろう。

 不信感を抱いた市民が自衛に走るような事になれば、時代はヒーロー社会以前の自警団(ヴィジランテ)統治期へと逆行することになる。福岡行きの直前から監視カメラに写っていた謎の武器も気掛かりだ。誰かが武器をばら撒いている。

 あんなものが自衛の手段として市民の手に渡ってしまえば、暴徒と何も変わらない。そうなれば私たちが自分自身のみならず、他人にまで犠牲を強いて完成させようとしたシステムが機能しなくなってしまう。この妨害工作が愚かである理由はそこにあった。

 計画されたシステムは、市民の個性と思考をモニターすることで、彼らの社会に対する脅威度を常時判定する。これによって健全な社会の中に紛れた異物を見つけ出し、隔離することが目的だ。異物とはつまりは敵役(ヴィラン)、危険思想の持ち主、犯罪を起こす前の潜在的敵役(ヴィラン)とでも言うべき存在、あるいはリスクの高い個性を秘めた人物など。彼らの隔離が有益なのは、他の市民集団が社会に対する脅威ではないからに他ならない。

 だが万が一、市民という集団そのものが社会に対する脅威と化してしまったなら。ヒーローや政府機関への不信によってその大多数が暴徒と化してしまった時、システムは機能のままに、モニターされた全ての市民を脅威だと判定し続ける。社会を構成しているのは市民たちにほかならない。その市民全てを脅威と排除してしまっては、この社会自体が成り立たないのだ。

 つまりこのシステムは、社会において秩序が保たれている事を大前提として運用される。最初から無秩序状態を是正するためのものではないのだ。

 厚生省の妨害工作が問題なのは、オールマイトという功労者への最大の侮辱であることに加えて、この点にある。大臣も副室長も、かねてより指摘されていたこの危険性には理解を示していた。それを押してでも妨害に踏み切ったということは、事態にはもう一刻の猶予もないということだ。

「あんたが九州に来ることは当初の予定に無かった事だ。ここでは外務省ルートの根回しが間に合わない。いったん東京に戻って逃亡の手筈を整えます。副室長と合流し、我々へ令状が出される前にこの国を後にする」

 厚生省の用意した逃亡の最終手段。それはシステムを完成させる場所をこの国・この社会には限定しないということだった。

 苦渋の決断だった。私たちはみんな、この社会の不条理に晒されてきた。それを克服するために今までやってきたのだ。だがこの国がシステムの誕生を許さないのであれば、それを受け入れるどこか別の国へ逃げのびる他はない。状況の悪化を悟った大臣はそう考えていた。

「だったら私たちの研究成果もなんとかしないとね」

「必要ない。厚生省からの研究成果の持ち出しなら、東京に残った構成員で対処している」

「でも地下の研究施設は?直接計画に繋がるものでなくとも、その糸口となる痕跡を私たちは充分に残している」

 男が苦虫を噛み潰したように眉を顰める。

「これを隠したまま交渉できるほど、第三国は甘くないと思うけど」

 なおも私は続けた。

「交渉相手の不興を買っては、今度こそ私たちは逃げ場を失う」

 つい普段のように煙草の箱を探し求め、無意識にリビングの方へ戻ると片手でテーブルの上をまさぐってしまう。男もまた土足で私の方へと歩み寄るので、私はそこでやっと、ここへ煙草を持ち込んでいなかったことを思い出した。

 神野の事件でオールマイトは事実上の引退へと追い込まれた。それ以来、私たちは平和の象徴なき明日を生きている。だがそれは、この国以外のほとんどの国にとって普通のことなのだ。彼らには平和の象徴なんてもの、最初から存在さえしていない。

 各々の国にヒーローはいる。だが生きた人間が社会を支えるには限界がある。そう考える為政者たちは海の向こうに大勢いた。そういう相手が私たちの交渉相手だった。

 彼らはシステムのすべてを要求するだろう。この世界的なヒーロー社会で、ヒーローに頼らない治安と秩序の維持を実現することは、外交面でも他国に対する大きなアドバンテージとなる。その優位性を担保するためには、システムの開発権を交渉相手である第三国に独占させるしかない。私と副室長という二人の人間の脳がシステムの成立に必須である限り、一見この問題は解消されるように思える。だが懸念は残った。

 地下の研究施設には、私たちが公安委員会と共に行った脳無の研究データが残っているのだ。共同研究という建前上、その成果は厚生省と公安委員会の双方に帰属すると取り決めが交わされ、施設内でしかデータの保管が出来ないようになっている。

 研究データ単体ではシステムそのものを再現することは出来ない。だが根気強く必要なデータを組み合わせ、研究を発展させることが出来たなら真には迫る。

 第三国はシステムに関して、他国に対する優位性が担保されているのか、確証出来ない事には交渉に乗ってこないだろう。なぜなら私たちの逃亡を幇助することは、当の第三国にとってもリスクを伴うことだからだ。故国から追われる立場となった私たちを受け入れるとなれば、その行為は政治的な意味を持つことになる。つまりは、多かれ少なかれこの国と対立することを迫られる。

 追い詰められた私たちが、この局面で研究施設に戻るのは相当に危険だということは分かりきっていた。妨害工作で稼げる時間なんてたかだか知れている。公安委員会はこちらの動きを察知次第、全力で私たちの身柄を拘束しに来るだろう。

 追手が放たれる危険性を鑑みれば、このまま逃げるのも本来は合理的だ。だが第三国との交渉に失敗した時、私たちには逃亡の手段が残されていないことも事実。だったらリスクを取ってでも懸念事項を解消しておくというのは、少なくとも表向きの筋が通る。 

「そこまで言うからには考えがあるんだろうな」

 焦燥と迷いからうっすらと額に汗を滲ませた男が、私を睨む。その反応に手応えを得て、私も口を開いた。

「地下のデータ全ては数が多すぎて無理。けど計画に流用した研究成果に絞ってウイルスを仕込むだけなら、私であれば20分でなんとか出来る」

 男が渋面のまま目を閉じる。

「公安の本拠地だぞ。あまりにもリスクが高い」

 やがて数秒押し黙ると、男は声を絞り出すように言葉を続けた。

「10分だ。それ以上はあんたが拘束される危険がある」

 言外の承諾に私も頷き返す。要求は実際のところかなり厳しいが、やり遂げる以外の選択肢は存在しない。それは計画のためでもあったし、私自身のためでもあった。

 気付かれなくても良い。どこか逃亡する道の途上で、彼への言葉を残しておきたかった。私たちが追い詰められている現状を理解するほどに、果たされることの無かった一時間の約束が、彼にとってもどれほど重いものだったのか痛感する。その彼の行いに、ほんの少しだけでも最後に報いたかったのだ。

 それはたぶん、過去の後悔から出た行動なのだと自分でも分かっていた。かつて押し入れを飛び出して、さよならを言うチャンスさえ掴もうとしなかったから、だから今度こそ別れの言葉を伝えるのだと、胸の奥底であの日の子供が叫んでいる。その心が、こんなにも非合理的な行動へと私を突き動かしていた。

 

「だがその前に、あんたには告げておかなきゃならない。俺たちも可能な限り状況を掻き回すが、公安委員会は研究施設に戻ったあんたを逃そうとはしないだろう。その先陣に立つのは間違いなくホークスだ」

 意外なところから飛び出た名前に意識が引き戻される。

「随分はっきりと断言するね」

 訝しげな声音を込めて応えたが、男の剣幕は険しくなるばかりだ。自分の立ち位置を過小評価しているわけじゃない。システムの完成に私と副室長の脳が不可欠である以上、そのどちらかを拘束するために公安委員会最高戦力である彼が行動に移るだろう事は想像に難くなかった。元より互いにそれを承知で今日まで隣にいた。

 だが彼は個性の特性上、閉所または狭所では実力を十全に発揮出来ない。空を飛ぶ男の本領はやはり空の上でしかないということだ。そのあたりも織り込み済みで地下へ戻る提案をした。

 むしろ私の確保に動くのは、塚内警部たち警察庁の実働部隊である可能性の方が高いとばかり考えていたのだ。もちろん彼が来る可能性もまったく無いとは思わない。だがこうも断言するには、そのための材料があまりにも足りないように感じられた。

「公安委員会の動きを探るなかで、あの男の経歴に調べがついた。だがそれは向こうも同じことだ。あんたの過去を知った以上、連中は必ずホークスを仕向けてくる」

 あまりの剣幕にたじろいで、知らず足が一本後ろに下がる。テーブルにぶつかった腰骨が鈍く痛むんで、つい数十分前までここで普通の市民たちのように食事を取っていたのが嘘のようだった。

「言っている意味が分からない………。何が言いたいの?」

 言葉が現実を拒絶している。無意味な抵抗を続けている間にも、私の頭は思考を回し続けていた。共同研究開始前、ただ一人どうしても調べがつかなかった彼の経歴。歪とはいえ公安組織である厚生省公安課と大臣の権限を持ってして何も分からないということは、彼が私たちからの追跡に対して殊更に警戒を払っている別の組織の人間だということを暗示していた。そんなものは公安委員会の他に存在しない。

 更に言うならここまで徹底して情報が隠されている以上、彼の背後には相応のものがあるということだ。たとえば、背景が明らかになれば、およそヒーローとして成り立たないような致命的な何かが。

 公安委員会。不自然なほど完璧に隠された経歴。そこにあるだろう致命的な何か。そして私の過去。必要なピースは過不足なく揃っていた。息が詰まる。事件の日の暗い押し入れと同じだ。心臓が恐ろしく大きな音で私の体を内側から叩いて、血管の一つ一つが破裂するんじゃないかと思う。

「ホークスは殺人犯の息子だった。才能を買われて公安委員会に拾われたんだ。その過程で自らの出自の一切を洗われた。だから奴の父親にも妻子は無かったと公的に記録された」

 頭の中で浮かび始めた最悪の画を拒絶しようと心は必死なのに、思考だけは澱みなく続いていく。長い年月を超えて今再び、想像力が私自身に牙を剥いていた。

「奴は、鷹見の息子だ」

 瞬間。

 私の喉からは声なき声で引き攣れた絶叫が上がった。全身を爪の先に至るまで、絶え間ない恐怖が支配していく。あまりのことに逃げ出そうとした体はしたたかにテーブルへ打ち付けられ、コーヒーの淹れられたカップが落下していく。床に叩きつけられて悲鳴のような音を立てながら陶器のカップが割れた時。足元に飛び散った黒い水飛沫が、押し入れから引きずり出されたあの日に目にした事件現場の血痕とフィルムのように重なっていく。

 耐えきれず男に縋りつく。男は錯乱する私へ何かを懸命に語りかけていたが、そのすべてが今の私の脳みそには言葉として認識することが出来なかった。

 私を取り巻くこの部屋の何もかもが、私自身を脅かすものであるかのように感じられた。部屋だけじゃない。昨夜共に過ごした夜も、行き場のない心の内を叫んだベランダも、空の上で交わした会話も、あの日の会議室も、病室も、地下の研究施設も、彼のいたすべての記憶に生まれて初めて私に暴力を知らしめたあの恐ろしい男が重なっていく。

 私は自分の脳と、その脳が行う認識というものがいかに容易いものであるかを心の底から理解した。初めて出会った、同じ理想を見つめている人だと思った。この世に私以外の誰かがが、私と同じものを見ている。考えている。感じ取っている。たとえそこに向かうための手段は違っていても。その実感にどれほど胸がすいたことか。どれほど救われた心地になったことか。だが今となっては思いの分だけ心が悲鳴を上げるばかりだった。

 どうして忘れてしまっていたのだろう。どうしてあんな風にまだ暴力を知らない人たちのように振る舞えていたのだろう。誰かを愛しかけ、身を清め、食事をして、他愛のない会話など交わせていたのだろう。忘れてしまえば戻れると思ったのか。苦しいほどに羨ましい平穏なあの社会。弾かれたはずのその場所で行われる人の営みを、自分も再び送れるのだと思い上がったのか。

 頭の中のおよそすべてが、あの日の恐怖に上書きされていく。水に漬けられた洗いかけの食器。シンクへ置き去りになった一人分のカップ。遠く脱衣所から聞こえてくる洗濯機の駆動音にさえ彼の面影を感じると共に、その全てがいかにも恐ろしく感じるようになっていた。変わったのは私。忘れていたのは私。思い出したのは、私。

 

 私は。

 私は。

 

 私は、毒虫。

 




オリキャラ(夢主)の人物造形テーマのひとつは、『鷹見啓悟(ホークス)・オルタナティブ』でした。

■章タイトル 引用元
F・スコット・フィッツジェラルド「楽園のこちら側」
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