無重力落下のような奇妙な浮遊感に耐えた果て、私は自分の体が悪天候に揺れるヘリコプター内部へと弾き出されたことに気が付いた。
「出すぞ!」
操縦桿を握って吠えるように叫んだのは外務省の男だ。左腕の袖だけが捲り上げられ、止血帯できつく縛られているのが分かる。隣に座るのは副室長で、そのすぐ側に転がる強化薬のアンプルと注射針には使用された形跡があった。
福岡からの脱出、そして地下研究施設へ侵入する時点で既に薬剤によるブーストと中和を繰り返していたというのに、私を回収するため更に追加で個性をブーストをしたのだろう。あの男の個性『テレポート』は確かに反則級の移動手段ではあったが、地下から屋上のヘリ内部までほとんど一息に移動できるような有効範囲を誇る能力じゃない。ましてや自分ではなく、視認も出来ない距離にいる任意の対象を移動させるなんて。
「馬鹿なことを」
口をついて出たのはそんな言葉で、機内の壁に背を預けると杖もない体は力無くずるずると崩れ落ちていった。
男の眼球は既に端から充血し始め、鼻からは細く血が流れ始めている。一分に満たない間とはいえ、脳が生命活動の維持よりも個性の使用を優先させた反動だ。薬剤を追加投与しての個性使用は私を地下から強制回収した時の一度きり故にこそ、この程度で済んだのだろうが。それ以上長く個性を使用していれば、間違いなく私の二の舞になっていたことだろう。
とはいえ無茶をした事には変わりない。多少の猶予があるとはいえ、いずれは意識の混濁が現れる。この逃走経路はあくまで本命である飛行場へ向かうため、海上をヘリで一気に縦断するというものだ。だがこのままでは操縦者である男の体が保つのか危うかった。そうなれば、この機体は海上で墜落することになる。
「どうして分からないんだ。空を使った時点で、私たちはこの逃走経路を選ばされているんだよ。最初から逃げ場なんてないんだ。彼は必ず私たちに追いつく。こうなっては計画の完全阻止のために私たちは殺される」
それはこの数日間、繰り返し伝えてきたことだった。陸路と海路を潰され、多くの同僚たちが公安委員会に身柄を拘束された。その度持ち出した研究成果を託されては、命からがら逃げ出してきた。しかし逃げ延びる最中、頭上から私たちを見下ろす赤い翼に気付いた時。あるいは、飛び乗った逃走用車両から不意に現れては姿を消した羽の一片を見つけた時。私たちは逃げ回っているのではなく、空へ向かって追いやられているのだと理解した。
そこは何人も手の届かない彼の独壇場だ。敵として相対して初めて分かるウイングヒーロー・ホークスとしての手腕。その徹底ぶりを身をもって思い知る度に、彼はこうやってあの街を作り上げてきたのかと体に刻みつけられる気持ちだった。
だからこそ訴えた。私たちは既に詰んでいる。この上、地下施設に残った研究データを破壊したところで亡命は成功する事なく、私たちは必ず捕らえられる。自分一人の手で間違いなく始末をつけるために、彼は私たちに空からの逃走を選ばせているに過ぎない。いかに命を賭けたところで手遅れなのだと。しかし私の言葉は聞き入れられることはなく、底のない穴に落ちていくかのようにただただ無意味だった。
皮肉なことに、今や彼はこの世で最も私を理解する人物だと言って過言ではない。しかしそれは私も同じだ。鷹見啓悟という公安ヒーロー、殺人犯の息子、そして私が好意を寄せる人は、意図してここまでやってのけると肌で理解出来た。
だが計画の主要メンバーにとっては到底納得出来るものじゃない。彼らは言葉通りこの計画に命を賭けていたし、私の二十数年に渡る葛藤も心情も知ったことではなかった。何より彼らの目に映る私と彼は、加害者の息子と被害者の娘でしかなかったし、それ以上の関係などあり得るはずもないという発想しかなかった。
私たち厚生省公安課の面々がそれぞれに抱えた
分からないのはむしろ、同様の感情を抱えながらも彼を想うことを止められないでいる自分自身。私には、もう自分の感情と思考に手がつけられないでいた。
「もう止めよう。私たちだって最期の時くらい穏やかに過していいじゃないか………」
言い終わるか終わらないかといった瞬間、揺れ続ける機体に地鳴りのような音が響いた。
「ふざけているのか?僕の前でよくもそんな事が言えたな⁈」
それは怒りの形相で振り返った副室長が私の体を機内の壁に叩きつけた音だ。
打ち付けられた肩甲骨が鈍く痛んで、私は思わず息を詰まらせた。体全体が痺れたかのように軋んでいた。視界はうっすらを涙の膜で滲んでいて、痛みによる反射的なものだと思っていたかった。
「君も聞いたことがあるだろう。僕の息子が爆発事故で死んだと。………だが、真実は違う!」
ぼやける視界の中で、副室長は肩を震わせながら項垂れながら私の襟元を掴み上げていた。その事件のことはよく知っていた。私が世間一般の同年代とはまったく異なる幼少期を施設で過ごしていた頃。当時まだ肩書きを持たなかった副室長は一人息子を亡くしてからそれなりの年月を重ねてきてはいたものの、その目は思い詰めたように深く落ち窪み、ほとんど狂気と正気の狭間で生きているような様子だった。大臣がいなければ飛び降りでもしていたかもしれない。他人の目にはかつての自分も姿を同じくしていたとは知らずに、常に大臣と連れ立って何事かを話し合っているこの人を子供心に今にも倒れそうだと思って見ていた。
しかし計画を辿れば、その原点はこの二人にあったのだ。他の研究員も、外務省の男も、私自身でさえ、ある意味では大臣と副室長の元へ誘蛾灯のように引き寄せられたに過ぎない。全ての始まりは彼らという名の、ある加害者と被害者存在だった。
「あれは、息子が起こした個性事故だ。些細なことで機嫌を損ねたあの子を叱った。その癇癪が引き金となって、あの子は初めて『個性』を発現させた。四歳児検診の前だった」
語る男の肩は、背負ったものの重さになんとか耐えようと震えていた。
「息子の個性はなんだったのか?推測は出来ても、正確なところはもう誰にも分からない。爆心地と化した息子の体は個性の発現と共に吹き飛んで遺体すら残らなかった。息子が原因だと分かったのは、隣で手を繋いでいたはずの妻の遺体の損傷が最も激しかったから。周囲の被害状況から計算した結果、この個性事故の加害者は、まだ四歳にもなっていない息子だと結論付けられた」
苦悶に呻くかのように歪むその顔は、肉を抉るほどに深く自身へ突き立てた自責と後悔の念を象徴していた。
「あの日、僕もその場所にいた。研究に苦心する姿を見かねた妻が、息子を理由に僕を外へ連れ出したからだ。だけどその息子の子供らしい我儘が当時の僕には気に障って………叱るだけ叱った後、自分本位にも研究所へ戻ろうとしていた。だから僕だけが死ななかった」
絞り出すように苦しげに震えた喉は「あの子への罰のつもりだった」と小さく続ける。事実、彼はそのつもりだったのだろう。言うことを聞かない子供は置いていくぞと叱っただけ。ただ当時の彼には周囲を見渡せるほどの余裕がなかった。純粋に父を慕う息子が待ちに待った時間の中で突き放されるような仕打ちを受けた時、その小さな心が一体どれほどの悲しみで絶叫したのか理解することが出来なかった。だから、この事故は起きた。
事故発生当時、記録によれば男はすんでの所で被害範囲の外となる位置にいた。そこで背後に突如として起こった轟音と爆発音を聞き、血相を変えて事故現場に戻った。つまり彼は警察より、消防より、救急隊より、誰もよりも早く五体満足でその現場に踏み入ったのだ。
死傷者は実に四十七名。原因が個性の暴発によるものだと正式に公表されていれば、国内最大規模の個性事故として人々に長く記憶されることになったであろうその現場の有様は、凄惨という他なかった。
聞き分けのない子供への小さな罰。だがその言葉は男が現場を目にした時、あるいは事故原因を知った時、過たず男自身へと跳ね返った。倒壊した建物。四方から響く悲鳴。充満する煙と、血と肉が焼けていく匂い。地獄の釜が開いたかのような光景の中で男は思った。これは罰だ。自分の行いが目の前の光景を産んだのだ、と。
「警察は当初原因を究明しようとしたが、個性事故の発生原因となった人間は、社会では事実上の『加害者』として人々の目に晒される。それが年端もいかない子供であれば尚更だ。息子の存在は、四十七人を殺傷した最年少の加害者としてこの社会に記憶され続ける。あの子を人殺しとして世間に記憶させたくなかった。事故が起こったのは、あの子は死んだのは、僕のせいだからだ!」
絶叫するように叫んだ男の肩は、今なお強い自責の念から荒い呼吸で過呼吸気味に上下している。
「しかし、望むなら真実を伏せてもいいと持ちかけた人物がいた」
その人物こそは公安委員会を追われ、厚生省で実質的な私設組織を作り上げ、妻を亡くして後は孤児院の運営を秘密裏に引き継ぐと、計画に向けて必要な人材を囲い込み育成した。
「それが厚生大臣だった。息子が殺傷した47名の中には、彼の妻子も含まれていた。あの男は当然僕を恨んだ。憎んでさえいた。だが自分が公安委員会を追われるきっかけとなった計画に僕の『個性』は有用だという可能性に気が付くと、葛藤の果てに僕へ取り引きを持ちかけた。計画に協力するのなら、息子が事故の原因だという真相を闇に葬ってもいいと言ったんだ」
こうして加害者の父親と被害者の父親、二人の男たちの歪んだ協力関係は始まった。それがこの計画の始まり。
大臣と最も深く強固な因縁で繋がった副室長が、計画の実質的な主導者の立場である厚生省公安課社会分析室長の肩書を私に譲った理由はここにある。
「正しい選択だったとは思わない。表にこそ出さないが大臣は今でも僕を恨んでいる。加害者と被害者という因縁はどこまでもついて回り、消えることは無い。だから僕には、君と鷹見啓吾がなぜこうなったか理解出来ない。理解したいとも思わない」
ほんの少し彼を知る順序が違えば、私だって同じように思っていただろう。だが現実に全ては思いもよらない形で進んでいき、私の中では彼を恋しく思う自分と、どこまでも鷹見の息子としてしか見れない自分が矛盾しながらも同時に存在していた。そしてその事実こそが、今まさに私を苦しめていた。
「あの子を人殺しにさせはしない。それが父親として、死んだ息子のために出来る唯一だったから、僕は今日まで協力してきた。分かるか?もうとっくに、君ひとり心折れたからといって止められる計画ではなくなっているんだ!」
頭のいい男だ。副室長自身、この状況が最後の悪あがきでしかないことは理解していないはずがない。それでも命を惜しんでの投降ではなく亡命の断行に踏み切ったことこそが、この男を駆り立てる過去と失った命の重さを示していた。たとえそれがどれほど愚かで間違った選択だったとしても、動き出した以上はもう誰も止まれはしないのだ。
「君にもついてきてもらう。地獄の底まで」
私を睨みつける副室長の瞳が小さく揺れている。それはこの先に待ち受ける破滅を予感しながらも、最早ひた走るしか道はないと理解した男の顔だった。
「ああ………。そうだったね」
私は力無く頷いた。口元には諦めから微笑みさえ浮かんでいたように思う。誰からともなくあるべき倫理を踏み越えたの日。新たなる罪と罰の創造が悍ましいものだと分かっていながら、誰もが踏みとどまれなかったあの日から、すべては私一人の手に負えるものでは無くなっていた。今再び、その事実がどうしようもない形で再確認されただけだった。
私は自分の身勝手さを呪った。どうしてこうなってしまったのかを考えた。本当に、心の底から、この社会にある一切の暴力と不条理を無くしたかった。そこで苦しむ人が誰もいない社会に変えたかった。システムを作ろうとしたことそのものへの後悔はない。たとえ何度やり直しても私たちは同じ決断をするだろう。だけど考える。どうすれば、こうまで醜悪に目的と手段を取り違えてしまうことを防げたのか。あるいはどんな運命であれば、彼とこうまで対立せずに歩めただろうかということを。
「話が終わったなら席に戻ってください。あんた達には生きてもらわなきゃ困るんだ。俺が死ぬ前になんとかして飛行場へ送り届けます」
血の滲むような苦しげな声で言ったのは、操縦桿を握る外務省の男だ。その喉からは荒れた呼吸音が言葉に混じっていて、強化薬の副作用が呼吸器に現れ始めたことが伺えた。
私と副室長は言葉なく互いの席に戻った。亡命のための逃走手段、その本命であるところの飛行場へはまだ距離がある。男は必死に舵を取ってはいるが、本来ならフライト自体を断念する天候だ。吹き付ける雨と雷で視界は最悪で、荒々しい風が巻き上げた何らかの飛来物がぶつかったのか、操縦席のフロントガラスには既にいくつかのヒビが入っており、割れるのは時間の問題に見えた。
不安定に揺れ続ける機体のなかで、体の奥底まで響くエンジン音と鉄の板を叩くような雨の音にじっと耳を傾け、目蓋を閉じる。私は胸の中でひっそりと彼を待っていた。
「キミはきっと来てくれるよね」
声に出さず呟いた言葉は思いがけず、折れかけた心に沁み渡った。
「必ず私を捕まえてくれるよね」
その先で自分が彼の手によってどういう末路を迎えるかを考えながら、私はひたすらに待った。恐怖と嫌悪感が薄れることはない。ましてや鷹見の息子の手で終わる事を思えば、体は今にも悲鳴をあげて逃げ出そうとさえしていた。私にとってそれはあの日の殺人事件の続きに等しい。だけど私自身がこれまで計画を止めきれなかった負い目と、何よりも今日まで目にした彼の姿が、奇妙にも同時に私の心をどこか安らかにもしていた。
早く。早く。早く来て。すべてが取り返しがつかなくなる前に。私たちが逃げおおせる前に。
恐怖と正気のなかで懇願するように祈り続けた果て、座席側の小さな円形の窓の向こうで私の目は瞬くような赤を捉えた。他の誰に出来なくとも、ただ一人この場所に追いつけるヒーローを私は知っている。
ほとんど同じタイミングで副室長も気付いたらしい。その顔から血の気が失せた一方で、私の喉は長い間待ち侘びたように小さく震えたのだった。
「やっぱり来てくれた………」
*
雷が降るような暗雲の中を征く。翼を羽ばたかせる度、雨に立ち向かうように飛んでいくので、バイザーに覆われていない俺の頬を大粒の雨水が絶え間なく叩き続けている。稲妻が走る度に光は昼間と見紛うほど辺りを照らし、閃光と共にほとんど遅れることなく轟く雷鳴が腹の底を震わせた。空気を真っ向から切り裂くように加速を続けた果て、天候に反してクリアな視界の中、不安定に風に流されながら飛行する機体を捉えた。
その機体には本来側面にあるべき扉が無く、機内の様子が見え隠れしている。軍事用ヘリの特徴だ。座席部分に乗員が一人。逃走した顔ぶれを考えれば、操縦席と他の場所にあと二人いるはず。だが未だ遠く見える人影だけではどれが彼女なのか判断がつかない。拘束すべき対象は、外務省の男、副室長、そして彼女。そのためには、結局のところあの中に直接突っ込む必要がある。
ヘリ内部は扉の無い側面を除けば密室に近しい狭所。満足に翼を広げることは叶わない。空の上ではあるが、この条件では剛翼の威力は半減だと覚悟しておくべきだろう。自身が助からない覚悟で死に物狂いの抵抗をする人間の底力とは、時に恐ろしいものがある。そうなっては殺すしかなくなるということを、公安委員会の下で秘密裏に活動してきたこの数十年間、俺は身をもって理解していた。そうはさせないために、やはり剛翼だけではなく己の手による確実な制圧が必要だ。
侵入口となる機体側面を確認する。本来扉があるべき場所付近には、代わりに機関銃らしき物々しい装備が取り付けられている。この国では使用されていないモデルで、所有国を示す塗装は見当たらない。剥がされたか、塗り潰されたか、あるいは公的には存在しないことになっている機体なのか。システムの提供という交換条件の下、第三国が亡命にも秘密裏に手を貸していたとすれば、逃亡が失敗した時に備えて拿捕された機体から足がつかないよう対策するのは当然のことだろう。所属が明らかな機体を手配されるよりかはずっと良い。その場合、俺に捕捉された時点で第三国が証拠隠滅のためヘリを放棄することも想定していた。
事態は相変わらず最悪。だが活路は残された。
強く、強く、推進力となるように、背中の翼で空気を押し出すように大きく羽ばたく。嵐に歯向かうように飛ぶ俺の体を、雲の上の凍えるような気温と雨粒がひっきりなしに叩いていく。
そうして逃亡者たちの黒い機体を俺の背後へと追い越し、更に上空へと上昇した時。同じ頃、操縦席から俺の姿を認めた二人の男たちが血の気を失った時。あるいはその空飛ぶ密室の中で、項垂れた彼女が誰に知られることもなく、待ち侘びたように微笑んだ時。大きく横へ急旋回すると、目的地を眼下の黒い機体へと見定めた。空気抵抗を可能な限り減らすため、翼を広げる範囲は最小限に。着地点で背中の翼で微細にコントロールしながら、上空よりその場所目掛けて落下しながら加速していく。
目指すは扉の無いヘリ側面からの一点突破、機内への強襲。それはあの日、真実に足を取られ、駆けつけることの出来なかった逃亡劇をやり直すかのように。機体に取り付けられた機関銃が動き出すより早く、意図に気付いた操縦者がヘリを大きく旋回させるよりも早く、今度こそ。上空から落下するように突入した俺の体は、はるか遠くからは針先ほどの隙間に見えた扉の無い入口へと過たず滑り込み。剥き出しの計器類が覆う狭い軍用ヘリ機内にて、遂に三人の逃亡者を視界に捉えた。
「殺せ!」
血のあぶくを口の端から飛ばしながら吠えるおぞましい声。叫んだのは外務省の男で、その瞳は既に虚ろなまま気力だけで操縦桿を握っている。薬の副作用だとすぐに直感した。喉からは風を切るような奇妙な呼吸音が響き、肺が満足に酸素を取り込めていないことを物語っていた。
隣には息を呑んだ様子の副室長、背後には愕然と二人の男を見つめる彼女の姿を視界の端に捉える。男がこのまま意識を失うことは、彼女たちの生命さえ危ういことを意味した。研究者二人に軍用ヘリを扱えるとは思えない。制御を失ったヘリは海上へと墜落する。
「それを使うな!」
彼女の細い悲鳴が上がるとほぼ同時、俺たちは動いていた。前方に飛ばされた剛翼の羽が握りこまれた操縦桿ごと外務省の男を拘束した時、鈍く銀色に光るケースからアンプルをセットした小型の注射針を取り出した副室長が俺に襲い掛かろうとしていた。揺れる機内の中を転がっていく空のアンプルを視線が一瞬捉える。それはあの針の中身が、彼女から四肢の半分の自由を奪った強化薬であることを示していた。
翼を満足に広げられない機内で、使える剛翼は通常の半分以下。操縦桿を握る外務省の男の拘束をここで解くわけにはいかない。一瞬の逡巡の後、注射針の先を俺に向け突き立てようとする副室長の手首を握り込んで食い止める。向かい合ったその瞳は血走って俺を睨みつけ、噛み締められた唇からは獣のような唸り声が上がっている。その力は日々の大半を研究施設で過ごしてきた研究者のものとは信じ難い。己の命さえ勘定に入れない人間の鬼気迫る底力というものは恐ろしく、時として訓練を重ねたヒーローさえも凌駕する。
振り下ろそうとする腕を止めることは出来ても、ギリギリで押し返しすことが出来ない。取っ組み合ったままの膠着状態。その俺の背後から身を乗り出した彼女が、細い手で横なぎに払うようにして副室長の手の中からアンプルを弾き飛ばした。床に叩きつけられたガラス容器の割れる音が機内の振動に飲み込まれていくと共に、俺もまた力み声を上げながら副室長を押し返す。
新たに飛ばした剛翼の羽で目の前の相手を拘束しようとした、その最中。剥き出しの計器類に阻まれながら飛ぶ剛翼が到達する直前、焦燥感に突き動かされるように隣へ手を伸ばした副室長の手が、操縦桿を思いきり下へ押し込んだ。
途端、四人の乗員を襲うのは片足を奈落の一歩先へ踏み出したような浮遊感。機体は操縦に従って斜めに沈み込み、バランスを失ったまま降下し始める。俺が強襲をかけた入口は今やはるか眼下の海面に向けられていて、ヘリは空中で横転した。天地が九十度ひっくり返った機内では、重力に従って四人分の悲鳴が飲み込まれていく。勢いそのままに左半身を壁に叩きつけられた視界の端で、バイザーにヒビが入ったのが分かった。
その橙に染まる視界の向こうで。一瞬の無重力空間のなか、機内のあちこちに叩きつけられる彼女の細い体、痛みに耐える苦悶の表情を見た。薬剤で個性をブーストした代償に、彼女の四肢の半分には未だ補助無しに一人では満足に歩行もできない麻痺が残っている。そして俺が機内を強襲した時、彼女は入口付近の後部座席側に位置していたはずだった。
咄嗟に動いた目が、彼女の体が叩きつけられるべき場所の一部にぽっかりと穴が空いていることを視認する。軍用ヘリの特徴。それはあるべき場所に扉を持たないこと。
「操縦桿を戻せ‼︎」
叫ぶ言葉が喉を焼く。最悪のタイミングで、剛翼は副室長を拘束していた。身動きを封じられた彼の体は重力に従って俺の上へ落下するように衝突し、瞬きほどの数秒、新たに飛ばした羽の動き出しが遅れた。計器のどこかに酷くぶつけたのか、彼女の額から血が流れているのが見える。機内の壁に、天井に、計器にぶつかりながらも、彼女のどこまでも頼りない薄い体が吸い込まれるように機体の外の夜空へと放り出される。その一瞬、嵐で荒れる海面から吹き上げた気流に乱れて靡く長い髪の向こうで彼女と目が合った。そう、目が合ったのだ。
目の前の光景が、脳裏によぎった会議の日と重なっていく。計画されたシステムとは、摘出された人間の脳に常時個性を発揮させることで成立すると分かった瞬間。摘出されるべき脳の持ち主の一人こそ彼女であると分かったあの日。同じようにこうして目が合った。
だけどあの日のように、彼女のひび割れた薄い唇は音もなく言葉を口にはしない。涙さえ流さない。ただ諦観に凪いだ表情をたたえるその小さな体が、夜空へと放り出されていく瞬間。
俺には彼女の顔が、
落ちていく彼女の姿を目で追いながら、耐え難い絶望と焦燥に唸りをあげる副室長を押し返す。機内の二人は剛翼で拘束したまま、今や暗い海面に向けて落ちる奈落のようになったヘリの側面から外へ身を躍らす。剛翼は広げずにほとんど畳んだまま、遠く彼方にまだ見えている彼女を追って加速しながら海面へと落ちていく。
夜の海はかつて二人で飛んだ早朝の海岸部とは似てもつかず、ただ塗りつぶされた黒が地平線の彼方まで続いているように見える。この高さから海面に叩きつけられたらひとたまりもないだろう。こんな所で、たった一人で、彼女を暗い海の底に沈ませるものか。
重力に従って体が空気を切り裂き、鼻先には徐々に潮の香りが届くようになる。嵐はいつの間に過ぎ去ったのか、遠雷の音だけが聞こえてくる。二人の人間を拘束するため羽を割いてるぶん、飛行性能は万全とは言えない。このままでは追いつけないと踏んで、空中で体勢を立て直した。頭上を海面へ。つま先は空へ。背中の両翼を広げ、真っ直ぐに加速していく。最初は粒ほどにしか見えなかった彼女に追いついていく。
徐々に、視界がはっきりと彼女の姿を捉える。すべて委ねるように空を落ちていったその人は薄らと目を開けると、驚いたように俺を見た。宙に浮いたまま伸びる枯れ木のような細腕がこちらへ伸ばされることはない。
やつれた顔には、恐怖に耐えながら最期を受け入れようとする諦観だけが浮かんでいた。
それでも手を伸ばす。彼女は俺の手を拒みはしない。けれど掴もうともしなかった。それでも良い。たとえ当人が助かろうとしていなくとも、俺は彼女を助ける。
落下していく空中で遂に彼女の腕を掴んだ。そうして薄い体を迫り来る海面から庇うように腕の中へ招き込みながら、こうまでして彼女を助けようとする訳を自分に問いかける。ヒーローとして命を救う、なんて理由で自分の気持ちから目を逸らすことは出来るけれど。しかしその本音は、結局単純なものだった。
俺は俺自身の望みとして、彼女に生きて欲しい。システムとしてではなく、この社会に生きる一人の人間として、ただ生きていて欲しいのだ。彼女に向けるこの気持ちを愛と呼んでいいのかは分からなかった。殺人犯の父と、その逃亡を幇助した母の元に生まれついた。時として生命さえ脅かす暴力を行使していた彼らが、俺を愛していたとは思わない。愛がなくとも親と子にはなれる。身に染みて分かっていたことだ。では俺自身はどうなのか。たとえ本心では救いたいと思っていても、そのために見せかけとはいえ逃走する彼女を脅かすことが出来た俺は。亡命を図る彼女の仲間を追い立て拘束した。地下施設で彼女に刃を向けた。そうしてここで、逃げ延びようとする彼女たちを強襲した。
公安から殺害命令が出ているなかで出来る最善を尽くしたと自負している。彼女の生命を最優先した選択肢。この行動が間違いだったとは思わない。彼女を殺さずに済む状況を作り上げるためなら、何度やり直したとしてもきっと同じ行動をする。必要であれば時として武器を突き付けることさえ躊躇いはない関係。それを愛と呼ぶのは抵抗があった。
命を保証されたその先で、彼女がどんな扱いを受けるのかは想像がついている。夢は踏み躙られ、あれほど愛した社会から脅威と認定され、行く末は暗い監獄の中。関与した計画の性質上、厳しい尋問が待っているだろうことも覚悟していた。
けれど俺は彼女が好きだった。人として生きていて欲しかった。脳だけを残して人間性の死に至る、そんな破滅を見たくはなかった。そのために生き延びた先で彼女の半生と夢がどれほど踏み躙られるか理解していながら、ただ生きていて欲しいという俺の望みを叶えた。公安に背いて、彼女を殺したくないという俺の願望を優先させた。
他に道があったかと言えば無かったと答えるだろう。俺たちの間にはあまりにも多くの人間の思惑と因縁と打算が絡み合い、当初の形もあるべき姿も失った。腹を探り合う異なる組織の構成員にも、加害者と被害者にさえ戻れない。
ここにあるのは歪だが何者にも代え難い、名前のつかない関係だけ。おぞましく醜悪に変わり果てた唯一無二の何か。互いに一方的に過ぎるこれを仮に恋だと呼ぶのなら、たぶん、それは。冬虫夏草じみた恋だった。