PERFECT BLUE【完結済】   作:yoshiko

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最終回です。
製本版・pixivにはこの続きとなる書き下ろしがあるので、時期を見てアップするか考え中。次回は自己満足ですが、原作最終回を間近に控えた今(2024.8.3現在)、あとがきを書き下ろそうかと思っています。
(2024.8.3.21:05追記)お酒を飲みながら書いていたのですが、素面になるごとに恥ずかしくなりすぎてとても書き上げられませんでした。「僕のヒーローアカデミア」に出会えてよかった、今はそれだけです。


♯18 完璧な世界 (最終話)

 会長を筆頭とする上層部数名が睨みを効かせる会議室中央。そこへ召還されたホークスは動揺する素振りも見せずに座っていた。

「つまりあなたは」

 眉根に皺を寄せながら鋭い視線を向けた会長へと眉根を吊り上げてさえみせる。こういう時こそふてぶてしくというのは、幼少より続く公安での生活において、組織に使い潰されないため身に付けた生き方の一つだった。

「あくまで海上保安庁に目撃されたために、任務を中断したと主張するのね。あなた自身に公安への叛意はなかったと」

 言外に疑念が含まれることを知りながら、素知らぬ振りで「ええ」と肯定する。

 海上保安庁の動きを辿り、何者かが国交省と通じて公安の抹殺指令を阻もうとした可能性を探られることは最初から分かっていた。情報をリークした張本人が目の前にいることは、国交省を動かした張本人である警察長官と塚内が白状しない限りは明らかにならない。

 彼女と副室長というシステムに必要不可欠な脳を持つ二人を抹殺することで、確実に計画を阻止するというのが公安の目的。対する警察庁の目的は、あくまで捜査による関係者の一斉摘発だ。両者の意向は真っ向から対立し、公安の目的が達成されることは即ち、すべての真相が闇に葬られることを意味していた。

 オールマイト引退後、敵役(ヴィラン)受け取り係の汚名を返上すべく改革を表明したばかりの警察庁がそんな真似を許すはずもなく、それが俺にとっては好都合だった。

 

 つまるところ、あの夜の真相はこうだ。

 彼女を腕に抱いたまま暗い海上へ真っ逆さまに落ちていった時、眼下に小さな光が瞬くと共にサイレンが響く音を聞いた。塚内を経由して海上保安庁に出動要請をかけた巡視船、その到着を知らせる合図。

 来た、と内心で確信すると両翼を大きく広げて減速する。懸命に羽ばたき続けるうちに、二人分の加重で加速していった体は徐々に空中で平衡感覚を取り戻していった。

 状況が飲み込めないまま辺りを見渡そうとする彼女の視線を遮るように腕の中へと抱き締め直す。吹き上げる潮風で凍てつきそうな夜の空気を切り裂いて、海上に浮かぶ小さな灯りを目指して飛行する。果たして嵐の余波で未だ荒れる黒い海に浮かんだ巡視船、その船首部で俺がやって来るのを待っていた人物こそ、警察長官の司令で船ごとこの場所に送り込まれた塚内警部だったのである。

「確かに無理を言われたよ。嵐が去っていなければ出港さえ危うかった」

 大波に揺られ続けたせいか、塚内の顔は随分と青白い。公安の命令に従うまま彼女をこの手で殺したくはないという俺の望みは、ここに果たされた。海上保安庁の巡視船と遭遇し、対象の抹殺を目撃されるわけにもいかず、止むなく任務を中断したという筋書きだ。

 疑念はまず間違いなく向けられるだろうが、事ここに至るまで空の上で何が起こったか知る手がかりは俺の証言以外にない。たとえ監視の目だろうと、空の上では何人も俺には追いつけないからだ。そのために、彼女には何がなんでも空路で逃げてもらう必要があった。

 福岡での逃走劇。厚生省が仕掛けた妨害工作。その流れを汲み咄嗟に弄した策ではあったが、なんとか狙い通りに嵌ってくれた。塚内とは互いを労いたい気持ちが無かったわけではないが、事態はそれ以上に急を要していた。

「この先で逃走用のヘリが墜落します。強化薬の副作用で、操縦者が意識を失いかけてる。セントラルへ連絡して急ぎ受け入れ準備を整えてもらってください。俺が搬送します」

 国立セントラル病院は、彼女が同様に強化薬の副作用で倒れた時に搬送された場所だ。機内で見た外務省の男の容態は深刻に見えたが、セントラルという国内最高峰の医療設備と、彼女という前例を併せ持つ病院なら間に合う可能性はあると踏んで判断だった。

 羽ばたきながら空中で静止すると、腕の中の彼女をゆっくりと甲板へ下ろしていく。触れ合った指先が離れる間際、潮風に吹かれる長い髪の間からのぞく瞳が、自分を手にかけなかったことへの疑問に揺れながら俺を見つめ返していた。

「先行して中にいる二名を救助します。塚内さんはこのまま海保と協力して付近に民間船舶を近付けさせないようにしてください」

 視線を振り切るように、はるか上空に取り残された軍用ヘリの元へ急行する。その視界の端で、自らのジャケットを彼女の細い肩にかけてやった塚内が努めて冷静にかけた言葉を聞いた。

「残酷なようだが我々に出来るのはここまでだ。君たちの抹殺を阻止する以上の介入は行わないというのが、ホークスとの密約に際し上層部が出した条件だった。彼もそれは承知している。警察庁からの取り調べがつつがなく行われる限り、公安委員会が君たちをどのように尋問しようとも我々は関与しない」

 彼女の命を最優先に下した決断。その結果として、命以外すべての安全の保証を放棄した。この選択がどれほど彼女を踏み躙ることになるのかは分かっていた。それ以上に、ただ生きていて欲しかった。何よりも俺が望んだことだった。

 彼女がどこまで理解したのかは分からない。けれどあの日、海上に浮かぶ船を突き放すように上昇を続ける最中。振り返った甲板の上で、彼女は一人佇みながらいつまでも俺の姿を見つめていた。

 

 一連の経緯を公安には報告していない。塚内や警察庁は沈黙を続けている。空の上で何があったのか知る術はない。それでも目良の報告や海上保安庁の不自然な動きから、俺の仕業であることを内々では断定しているのだろう。

 互いに視線を合わせた上層部は揺さぶりをかけることに決めたらしく、最初に口火を切ったのは彼女を連れ立っての福岡行きを俺に持ちかけたあの男だった。

「対象の排除が不可能であれば、我々としては厚生省の残した成果をせめて今後の治安維持活動に役立てたいというのが本音だ。とはいえ地下施設に残された研究データは厚生省の女研究者が仕込んだウイルスによってクラッシュしてしまった。警察庁が修復にあたっているが、おそらくは時間の無駄だろう」

 男が言う通り、嵐の夜に彼女は目的を達成していた。身柄の拘束後、塚内ら警察庁の捜査員と共に地下で研究データを確認しようとした時のことだ。立ち上げた途端にモニターの表示はブルースクリーンへと切り替わり、雪崩のように数値が表示されるとその場にいた全員が声を上げる間も無く電源ごとぷっつりと途切れた。再起動をかけるも時は既に遅く、システムへ流用されたであろう脳無の研究成果は軒並みクラッシュされた後だった。

 公安の本拠地と言える地下施設に戻るからには、やれる事は限られると彼女は最初から分かっていたのだろう。だから研究データを持ち出すことも、消去することもせず、確実にこの機材を調べに来るだろう第三者がシステムを立ち上げると同時に起動するウイルスを仕込んでいた。

 分からないのは、自分たちが空路を選ばされていると既に気付いて逃走の意思を喪失していたはずのあの時の彼女が、それでも本来の目的を果たした理由だった。現に地下で再会した時、外務省の男の個性で強制的にテレポートさせられるまで、彼女には逃げようという意思が見られなかった。

 塚内はその手がかりを一瞬のうちに現れては消えた数列に求めた。0と1のみで構成された数字の連なり、つまりは二進数で表記された機械語から彼女がこのコンピューターの前で最後に何を行ったのか調べようとしたのだ。データの復旧と共に行われる解読作業。そこに、立場上公安の尋問へ介入出来ないことに対する塚内なりの謝罪の意が込められていることには気付いていた。現在秘匿収監中の彼女の身に何が起きているのか、公安よりも先に俺はもう知っていた。

「従って我々は件のシステム()()()有効活用することにした。その最たるものが矯正保護施設の構想だ。厚生省にとっては計画が成就した後の展望でしかなかったのだろう。だが彼等は実際にシステムで捕捉した危険人物の矯正を見据え、強化薬の効能を逆方向へと発展させる事にも成功していた」

 計画のため彼女が開発した薬剤は、個性強化薬をベースに効果を高めたものだった。その薬効は脳にまで及ぶ。かつて彼女自身が語ったことだった。通常の脳はその時々によって使用する領域を代えながら機能している。だからこそ計画に用いられる筈だった薬剤は、すべての脳の領域に個性の強化と発動を強制させるもので。そのために生命活動すら停止してしまうから、彼女の頭を切り開き、その脳だけを取り出す必要があった。

 今となっては遥か遠く、まだ何も知らなかった俺たちが地下施設で過ごした日々を思い返す。

 厚生省。

 強化薬。

 首都監視網。

 個性事故。

『解析』の個性。

 そしてすべての始まりとなった、あのシステム。

 もう二度と手の届かない時間の中で、取り留めもなく交わした会話へ彼女が隠した小さな種。それがここに来て更にもう一段、彼女自身さえ予期せぬ形で芽吹こうとしていた。

「つまりは脳機能の抑制による個性の強制的鎮静化。実用化出来れば敵役(ヴィラン)の捕縛どころか、既存の保険医療体制の変革にも大いに貢献したのだろうが。強化薬同様、前提として脳の全領域に作用するものであるために、生命維持活動に支障をきたすという問題点は克服出来なかったらしい。収監先のタルタロスで今も試験投与を受ける彼女自身が、そのバイタルデータを以て結果を示している」

 奥歯の軋む音がする。俺への揺さぶりと公安委員会の実利を兼ねた彼女への尋問。塚内ら警察庁からの協力で事前に知らされていればこそ保てた平静は、しかし手の内に食い込む爪先にだけ押し殺した怒りが溢れていく。

 分かっていたことだった。彼女を生かそうとするならば、公安は絞れるだけの情報と利益を得ようとする。その果てに抹殺が叶わないのであれば、行うべきは半永久的な無力化だ。強化薬の効能を反転させたという鎮静剤の使用は、公安にとって絶好の尋問手段になったことだろう。

 社会を揺るがす脅威となる人間を殺さず封じ込めるためにはどうすべきか。そんな命題でこの状況と選択肢のみを机上で与えられていたのなら、多分、同じ決断をする。そのように訓練されてきた。

 あの嵐の夜の選択が、この先どれほど彼女を踏み躙ることになるのか。公安委員会という組織が社会にとって危険分子と見なした存在に決して容赦をしないという事は、抹殺任務を命じられてきた俺自身が骨身に沁みて理解していたことだった。覚悟していた、はずだった。 

「動揺しているぞウイングヒーロー。君の選択こそが彼女を苦しめる事になるとは想像出来なかったのかね?自分の立場をよく考えろ」

 暗に示された道は、すべての真相を吐いて彼女の尋問を止めるよう嘆願すること。脅迫に従えば、上層部は俺と彼女が通じていたと確信するだろう。そうなればまず間違いなく、この先で俺が彼女のために働きかける全ての行動と発言は制限される。

 だが逆に、あくまでも今回の一件に彼女との個人的繋がりを認めず、また公安もその証拠を掴めないのであれば。今後の俺の立ち回り次第では、彼女が社会の治安維持に有用な人物であると示し、その身柄を正当な手順で解放する可能性が残される。そのためには今ここで、彼女への尋問を見過ごすしか方法は無い。

 目の前で睨みを効かせる上層部たち、その手の中にある報告書が忌々しかった。紙面に並ぶ文字の羅列だけを追うならば、厚生省の構成員たちにとって彼女はさぞ薄情者であるかのように映るだろう。身柄を拘束された後はあたかも追及されるまま捜査に協力したかのように。

 文字によって彼女はそのような人物であったと規定される。すべてを変えられてしまった殺人の日から、彼女が苦しみ、のたうち回り、苦悶の果てに追い求め続けた理想社会。その最中に彼女が胸の内で抱えた葛藤のすべては紙の上で削ぎ落とされていく。そうして公安委員会という組織にとって都合のいい形に整えられたものが、事実として作り上げられる。

「タルタロスに彼女を秘匿収監すべきと進言したのは君だったな。なるほどよく考えられている。国内最高水準の警備を備えた実質的に脱獄不可能な拘置所。内から出さないということは、外から入れないということでもある」

 一向に口を割らない俺に痺れを切らしたのか、別の男が畳み掛けるように言葉を続ける。一瞬感じたのは尋問を焦った事を咎めるような視線。それが会長から飛んだものだと察すると、俺は視線の相手に向き直った。

「それはどうも」

「逆に言えば収監という形で行動の自由を制限し、この国で最も安全な場所へ彼女を隠そうとしたとも言える。あそこにいる限りは亡命先の第三国も、息を潜める他の監視派も共に手出し出来ない。計画を再始動させたくとも身柄の奪還自体が不可能というわけだからな」

 無数の視線が針のように体を刺すのを感じる。その上で「身柄の奪還を警戒しての事です」淡々と言葉を返すと、この場にいる他の誰よりも早く口を開いた。

「お疑いのようですが、()()命令は計画の確実な阻止を目的として厚生省の研究者二名に対して出されたものです。亡命を幇助していた外交官には発令されていない。そして彼は自らの行動の結果とはいえ、強化薬の副作用によりその生命自体が危ぶまれていた。任務を目撃された以上、あの状況では目的の遂行より、ヒーローとしての判断を優先させる他ありませんでした」

 長い沈黙が落ちる。突き刺さるような視線が俺に向けられるなかで会長の嘆息がやけに大きく聞こえた。

 かつて幼少の俺を見出し、父と母との関係を精算して、まったく新しい別の人物として生きるよう作り物の経歴を用意した張本人は、逡巡の果てに何か決断を下したかのようにこう言った。

「ホークス。あなたの組織に対する忠誠心が高くないことは知っている。我々とあなたの意向が合致するのは、社会の治安秩序の維持に関してのみとさえ言っていい。その意味で幼少の内にあなたへ首輪をつけられたのは幸運だった。私たちのやり方にどれほど不満があったとしても、あなたがこの組織から逃れる術はない」

 不快感で目が細まる。公安という組織から一生逃れられないことは、明日から知らない名前で生きていくのだと言い渡された時から理解していた。

 書類上他人となった母の生活は、俺が公安に所属することを担保に成立している。充分な衣食住の保証された今の生活でこそ母は道を誤らずに済んではいるが、仮に環境が一変する事があればそうもいかないだろう。生活能力もなく、殺人犯の男と子供を作ってしまうような人だ。環境が人を作るという言葉があるように、公安が生活を保証したことで犯罪から遠のいた母の状況こそが、まさにそれだ。親子の縁は切れたとはいえ、あの人をむざむざ元の環境へ叩き落とす行動を取ろうとは思わない。何よりヒーローは俺自身の夢だった。かつて俺が助けられたように、正しく生きようとする誰かに手を伸ばしていたかった。

 万が一にも公安を裏切る真似をしようものなら、上層部は自らが握りつぶした過去を明るみに出して俺を潰しにかかるだろう。殺人犯の息子と分かってなおヒーロー活動を続けられるとは思わない。それこそこれまで想定されることさえなかった未曾有の非常事態でもなければ。

「与えられた指令に理想を抱かず、あくまでも自らの意思に基づき任務を遂行する。今回のようなケースはあれど、我々はあなたのそういう資質を買っています。あなたの前任を失ったのは我々にとっても手痛い失態だった」

 公安に俺の前任として活動した人物がいたことは知っていた。学生時分にスカウトされると、プロヒーローとして活動する傍ら下される命令を遂行してきたという。

 表の活動は慎重にコントロールされ、市民と敵役(ヴィラン)の目につかないようビルボードチャートでは目立つ順位には位置しなかった。それは万が一にも処分が必要になった場合への準備であったが、奇しくもその備えは功を制することになる。

 度重なる抹殺任務と表向きのヒーロー活動へのギャップで精神的に疲弊。遂には当時の公安の会長を殺害するに至りタルタロスへ収監された。会長の言葉通り一連の事件が公安内部へと及ぼした影響は大きかった。良くも悪くもその恩恵を受けたのが後任として育成された俺であり、だからこ今まで多少の無茶を押し通してきた。表裏共に結果さえ出していれば上層部はある程度口を噤んだし、何より前任という公安の貴重な駒を無為にした経験が、彼らに俺を咎めることを躊躇させていた。

「いいでしょう。今回の件はひとまず保留とします。ただし次の任務であなたは我々の信頼に応えなくてはならない。相応の死地に身を投じてもらいます。敵役(ヴィラン)連合への潜入任務、必ずやり遂げてもらうわよ」

 信頼!空笑いが込み上げそうだ。

「事態は深刻と言いたげな口ぶりですね」

 会議室内の空気が張り詰めていく。身内の問題が片付けば次は敵役(ヴィラン)連合だという話は、彼女と共に福岡へ発つ前に聞いていた。あの時から事の深刻さは何段階か引き上がったらしい。

「尋問中の彼女から得た副産物よ。現在蔓延する超常解放思想のシンパ、その拡大が顕著であることが監視網の記録から明らかになった。未だ捜査中ではあるけれど、マスメディアを始めとして政治家やヒーロー内部にも思想は広がっている。幸いにも敵役(ヴィラン)連合との結びつきは今のところ確認されていないけれど、解放論者たちが万が一にも連合と手を組むようなことがあれば、社会にもたらされる混乱はどれほどのものか。想像もつかない」

 その思想が社会に蔓延し始めていることは、在りし日に彼女と地下研究施設で共に過ごした時に気がついていた。脳無の目撃談を調査する合間、文字通りあちこちへ飛び回る最中に、『超常解放戦線』と題された犯罪者の自伝を何度も見かけた。

 今になってそんな思想を間に受ける人間がいること自体、個性拡大に伴う社会の転換期に溜め込んだ膿が噴出した結果であるようにも思うが。一人ひとりがまったく異なる能力を持つこの社会で、画一化された司法や行政では手が届かずに置き去りにされてきた人間の根深さというものもまた、無視出来ないことは理解できる。

 とはいえ彼らの嘆きが本物だとしても、その矛先を今ある社会に向けることは許されない。これに関しては彼女もきっと同じことを言っただろう。そう断言出来る。もう戻れない場所を守るために、自分自身を薪として火に焚べ続ける。そういう女性ひとだと今はもう分かっているから。

「必ず任務を遂行します」

「結構。詳細は追って指示します。退出なさい」

 言葉に従って会議室を後にしようとした時だ。上層部の一人が釘を刺すように背後から声をかけた。

「今の君は支持率だけで言えばこの国のナンバーワンだ。そのような公人を前任者同様に処理することは我々をもってして容易に出来る事ではない。オールマイトの引退後とあっては尚更だ。自分の立ち回りに救われたな」

 扉が閉まっていく。狭まっていく隙間の向こうでずらりと並んだこの国の秩序を預かる者たちの顔を睨み返す。そうして俺はこの日初めて本心を一つ言葉にした。

「その為に駆け上がったビルボードチャートですから」

 公安の意向に反し、ヒーローとして目立った実績を積んできたのは、それが俺の理想とする社会の実現に必要だったからというだけじゃない。プロとしてデビュー次第、可能な限りの速さでチャート上位に位置することは、公安に所属しながらも組織自体から自分の身を守るために必要な行動だった。

 ただその立ち回りが結果的に今日の俺と彼女を救うことに繋がるとは、当時は夢にも思っていなかったというだけで。

 *

 塚内ら警察庁の手引きを受け、遠く本土から隔離するための長い連絡橋を渡りタルタロスへ向かったのは、その日の午後のことだった。AFOオールフォーワンを筆頭とする凶悪敵役(ヴィラン)たちを拘留するその場所で、彼女はひっそりと隠された最上部のフロアに収監されていた。

 改正治安維持法に基づき拘束された思想犯や政治犯を収容する目的で作られた一室。病室を思わせる白一色の構造にこそ変わりはないものの、ベッドや机といった最低限の家具が用意されている。片面の壁はアクリル状の分厚い防弾ガラスになっていて、部屋の中を包み隠さず監視員へとさらけ出す形状をしている。

 その透明な壁一枚を挟み、俺たちは実に数週間ぶりに互いの姿を見た。

 彼女は視線の端に俺を捉えると、薄く微笑んで手の中の文庫本を閉じた。反対側の手は力無くだらりと椅子の脚に向かって垂れている。その腕には細く透明な管が伸びて、吊り下げられた点滴から今もポツポツと水滴が落ち続けていた。困難ではあるがリハビリさえ積めばまた元通りに動くようになると言われていた片手と片足は、繰り返される薬物投与と尋問の果てにほとんど動かなくなっていた。

「目良さんって言ったかな。見兼ねたのか差し入れを持ってきてくれたんだ。でも見てよ。よりにもよってドストエフスキーだなんて」

 視線を手の中に落とした彼女が本の表紙をこちらへ向ける。罪と罰と題されたその本が今の状況にはやけに似つかわしくて、随分と皮肉げに思えた。

 彼女も同様に感じていたのだろう。か細く掠れた声は喉を震わせることにも難儀しているようで、それでも言葉の端々におかしさが滲んでいる。

「物語の主人公は『一つの微細な罪悪は百の善行に償われる』と考えた青年だ。私たちがそうだと言いたいのかな?意外にも彼は皮肉の天才だったらしい」

 ゆっくりと重い頭をもたげるように、彼女が視線を上げていく。少し伸びた傷んだ髪、よれた白衣の代わりに身に纏う真っ白な病院着が光に反射して目に痛かった。

「さすがに耐えきれなくて色々喋っちゃったよ。大臣は今頃カンカンなんだろうな。彼が差し向けた刺客によって私から脳みそが盗まれずに済んでいるのは、キミのお陰なのかな?」

 そうして向き合った果てに。言葉通り病的に青白さを増した彼女の顔、疲れきったように目を細めた微笑みを見た。

「また会ったね。鷹見啓悟くん」

 ひび割れた声音の理由が感情の起伏によるものだけではないことを知っている。タルタロスへの移動中、塚内の運転する警察車両の中で聞いたことだ。

 鎮静薬の投与を繰り返すなかで彼女の心肺機能は低下する一方で、取り調べでの受け答えにも支障が出るようになった。既に彼女から一定の証言を引き出せていたこと、更に言えば俺の処遇が保留となった事で、公安委員会は尋問を一時中断。彼女には治療が施されることとなり、その容態は徐々にではあるが快方に向かい始めているということだった。

「煙草の匂いはすっかり消えました?」

「煙草もコーヒーも、もう体が受け付けないよ。鎮静薬はシステムの運用を開始した後、敵役(ヴィラン)や社会的危険人物たちを収容した矯正所で使用するという構想だったんだけど………。人道的に難があったね」

 最後の言葉は自嘲気味で、彼女自身もう懲り懲りと言いたげだった。かつて共に過ごした日々に時間が戻ったと錯覚するような、内容に反して穏やかな声音で交わす言葉。けれど互いにそんなものは幻だと分かっている。やがて胸の内に渦巻く感情に飲み込まれていくように、彼女の顔が苦しげに歪んでいった。

「キミと会うのは正直とてもつらい。あらゆる感情が掻き立てられて、自分でも収集がつかなくなってしまう。なぜ今になって面会になんて来たの。キミは私を、どうしたいの………」

 項垂れる頭と共に揺れる髪を、まだ動く片手が乱している。九州での逃走から嵐の夜まで、伝えたことはなかった。すべてに決着がつくまで一分の隙も見せることは出来なかった。俺が彼女の命を救けるために動いていたことがどこかで知られてしまえば、その瞬間に彼女の生命の保証は無くなる。目的のための最短距離。そのために彼女をここまで追い詰めてきたのは事実だった。

 だから多分、初めて、彼女に向けた俺の胸の内を言葉にした。それが目の前で細い肩を震わせているこの女性を更に苦しめることになると分かっていながら、喉を焼き込み上げた言葉を止める事が出来なかった。

「俺はあなたに生きて欲しい。ただ生きていて欲しい。その為ならあなたを苦しめてでも、あなたの命を守る」

 御簾のように垂れた長い髪の間から、涙に濡れる瞳が恨めしげに俺を見つめ返す。

「だったら………」

 その声は嗚咽に震えていて、かつての夜と同じ大粒の涙が溢れて病院着の色を変えていった。

「だったら私を、ここから出して」

 部屋の中に彼女の小さなすすり泣きだけが落ちる。荒れた呼吸に合わせて細い肩が上下していた。

 その薄い体を腕の中に抱き込みたかった。出来る事なら、ごめんと伝えたかった。だけど現実に俺たちの間には透明な分厚い壁があり、そして今や目の前にある隔たり以上に俺たちの距離というものは離れてしまっていた。その距離こそは彼女の命の守るために必要なものであり、そして俺自身が作り上げたものだった。

「ここから出たらあなたは今度こそ、脳だけになるんでしょう」

 そうして長い髪の間から垣間見えた涙に濡れるその顔は、諦めたように微笑むものだった。

 監視派による身柄の奪還よりも、大臣が仕向けた刺客よりも恐ろしいもの。それは彼女自身だ。彼女が今度こそ自分の息の根を止めようとひた走るその行いだ。

 ここから出られたとして、彼女はきっとシステムを完成させるため動き出す。元よりシステムに対しては肯定的なのだ。大臣の放った刺客を前に、自ら姿を表すことさえやりかねない。

 ユニット化された脳はおよそ個人としての人格を失い、強化された個性を発揮し続けるだけの機能となる。彼女が語ったことだった。ただの機能と成り果てたその先に、自己のあらゆる葛藤は存在しない。苦しみもない。迷いもない。だから踏み切る。彼女がそうすることを俺は何よりも恐れていた。彼女自身から、彼女の命を救けたかったのだ。

「俺は人としてあなたと話がしたい。この社会で暮らしてほしい。街に出て、道行く人を眺めてほしい。そうしてまたいつの日か、同じコーヒーが飲みたい」

 息を呑んで彼女が俺を見つめ返す。乱れた呼吸が割れた唇の端から空気を揺らしながら漏れていく。胸の内に渦巻くあらゆる感情を複雑に滲ませた彼女の顔からは、今どんな思いでいるのか正確には分からない。

「また来ます。あなたをここから自由に出来る、その日まで」

 背を向けるとフロアを後にする。姿が見えなくなる寸前まで、俺たちは互いを見つめていた。きっと言葉にできる事は多くない。だからこうして語り合うこともなく、眼差しを交わし合うことだけが、俺たちにいま出来る最大限だった。

 *

 久しぶりに帰った福岡の事務所では、たんまり仕事が溜まっていて、ヒーロー活動と並行しての処理はそれなりに大変なものだった。とはいえ職員はすっかり俺のサポートに慣れた面子で揃えていたから、あとは淡々と用意された仕事をこなしていけば済む話だ。

 ヒーローとはいえみんな家族も恋人もいる。窓の外が暗くなる頃には、たまたま交代で夜勤に入る予定だったサイドキックを残して俺と彼だけが事務所内に残されていた。

「珍しいですね、ホークスが疲れてるの」

 短期集中で事務仕事を終え、応接用のソファにだらしなく横になっていた時のことだ。声をかけたのは他のサイドキックのまとめ役も買って出ているリーダー役で、近く恋人と入籍予定らしい。

 厚生省との一連の捜査に取り掛かる前、職員のひとりから彼への祝いの品を何にすべきかと相談されたのを思い出す。だからだろうか。少し馬鹿な話を持ちかけてみたくなったのだ。

「好きな人がいてね。でも大喧嘩しちゃって」

 途端、事務所内に奇妙な沈黙が落ちる。訝しげに彼の方を見やれば驚愕で固まっているようだった。

「そんなに意外ですかね?」

「いや、この手の問題もパパッと片付けるタイプだと思ってたので」

 正直な感想に口元が緩む。そうであればどんなに良かったか。

「まァね。でも今回は色々根が深くてさ。こういう時ってみんなはどうしてるもんかなと」

 この事務所は原則として俺のトップダウンだ。最速を求めた結果としてその形に行き着いたのは必然で、他人に意見や方針を求めることはなかった。

 それだけに彼を襲った衝撃は相当なものだったのなろう。言葉を選ぶように頭を悩ませながらも出た答えが「取り敢えず謝ります………」だった時、俺は耐えきれず大声上げて笑ってしまったのだった。

「えっ⁈おかしいですか?時にはこっちから折れる事も必要ですよ!」

「いやァ、ごめんごめん。人が良いなと思ってさ」

 未だ笑いの収まらない俺がくつくつと喉を鳴らしているのが不服らしい。

「はー、笑った」

 サイドキックは夜勤に向けて出動準備を整えながらも、批難したげな視線をじとりと寄越している。俺はと言えば腹の底から長く息を吐いて、そうしてようやく込み上げた笑いを最後の一滴まで絞り出した。

「その人のことは今も好きなんだ。でもお互いに絶対許せないことだったから、どちらかが折れることも出来ないんだよ」

 事務所内に言葉が落ちていく。怪訝そうに首を傾げるサイドキックをよそに、フライトジャケットのポケットを鳴らした端末を確認した。

 連絡は二通。公安からは本部への招集だった。敵役ヴィラン連合への潜入に向けて本格的に動き出すのだろう。もう一通は塚内からだ。地下研究施設でのデータは未だ修復途中だが、ひとまずウイルスが起動した瞬間に表示された数列を復旧・解読することには成功したらしい。

 君に宛てたものだと思う、と付け加えられたメッセージを確認した時。最後に彼女と会った時、別れ際に互いが心の内に抱えていたものは同じだったということを、俺は遂に知ったのだった。

「また少し留守にします。今度はどれくらいになるか正直分かりません。俺のいない間、事務所を頼みます」

 背後に響く動揺した声を置き去りに、事務所の窓から夜空へ身を滑らせる。背に折り畳んでいた剛翼を広げれば、慣れた体はあっという間に空中を滑空し始めた。

 眼下に広がるビル群、その向こうに見える住宅街や、上空から小さく見える車が細い道路を走っていく光景を眺める。風に乗って聞こえてくる踏切の音。誰かの話し声。信号機の変わる音。たくさんの人たちの生活が、確かな存在感をもって街の中に存在する。またここから、この社会を守っていく。

 嵐の夜、彼女が残したメッセージを思い返す。どんな思いで彼女がこれを残したのか想像する。そうしてガラス越し最後に言葉を交わしたあの日、彼女が何を思ったのか考える。

 

 メッセージは一言。

 "キミともう一度、コーヒーが飲みたい"

 




11000010101101 11000011011111 11000001101000 11000010000010 11000001000110 100111000000000 101111010100110 11000000000001 11000010110011 11000011111100 11000011010010 11000011111100 11000001001100 1001100011110010 11000001111111 11000001011111 11000001000100
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