中国で生まれた発光する謎の赤子の誕生。この現象を切っ掛けに世界では多くの人々が個性を発現させるに至った。
この対応に追われたのが既存の医療制度である。個々人が全く異なる個性を持ち、中には蜥蜴や鯱、蛙など、通常の人類ではあり得ない身体的特徴を備えた人間までもが出生するに至った。既存の医療制度と保険制度のおよそ一切が通じない異常事態。
システムの抜本的改革を叫ばれた政府は二つの省庁を統合して久しい厚生労働省を解体・再編成する決断を下した。すなわち四半世紀以上ぶりに労働省と厚生省が組織されたのだった。
その厚生省において新たに編成されたのが、旧医政局を前身とする『個性医政局』。つまりはホークスの監視対象にあたる研究者の所属先。厚生省個性医政局公安課の所属組織である。
個性医政局。
それはこれまで個性を持たない通常の人類を想定した社会システムを運用していたこの国で、主に医療に関わる法と社会制度の抜本的見直しを行うことを目的とする組織だった。社会制度の個性対応は真っ先に医療分野がそれを求められただけあり、組織当初は混迷を極める有様であった。
しかし世界総人口の約八割が個性を有するまでに至った現代において、その変革は一応の決着を見たと言って良い。現在では個性社会に対応した保険医療に関わる法整備や、医療分野における各種申請の処理業務等を行なっている。
「で、厚生省公安課ウチはそこで『公共の健康かつ健全な社会を実現・維持する』という観点からお仕事をしてる。『公共社会の安全と秩序の維持』を掲げるヒーロー公安委員会とは方向性が少し違うってこと」
説明したのは件の女性研究者である。複数のモニターがずらりとならんだテーブルを前にキーボードを叩く手元には、まだ正午だというのに灰皿を埋め尽くす煙草の燃え滓が強くその存在を主張していた。
「室長の昼なら毎日これですよ。煙草とインスタントコーヒー。気になるなら調査の合間に何か買ってきてください。君は脳無の調査で外を飛び回っているんだろう」
横から口を挟んだのは、昨日は姿を見かけなかった眼鏡の男だ。痩せぎすで落ち窪んだ眼窩が目元に影を落としている。ともすれば骸骨とも間違われそうなその男が他人の興味関心を瞬時に察知するような鋭敏さを備えているようにはどうにも思えず、ホークスは首を傾げた。
「よく分かりましたね、俺がなに考えてたか」
素直に疑問を口にはしたものの、男はこちらに見向きもせず手元の資料に目線を落とすばかりだ。こちらを殊更に警戒しての事のようには思えない。まさか常からこれなのかと思った所で、助け舟を出すようにモニターからこちらに向き直った彼女が口を開いた。
「副室長の個性なら『読心』だよ。短時間だけど他人の思考を読み取れる。でもあまり複雑なことは分からないよ。精々がお腹減ったなとか、今眠いなとかその程度。そこから先は本人の推測」
「へえ。ていうかそれ俺に話して良いんですか?」
一瞬、きょとんと呆気に取られた彼女がたっぷり数秒後可笑しそうに破顔した。公安がマークするような計画を主導する研究者と聞けばどんなものかと思えば、見た目に反して彼女は存外に話が通じる。
「だってキミ明らかに私たちのお目付け役じゃない。公安肝入りの秘蔵ヒーローだったわけだ。それが分かったなら逆に安心だよ。どうせ嗅ぎ回られるなら本当にまずい情報だけ伏せておけば良いんだから。昨日はやな態度取ってごめんね?」
「ハッキリ言うなぁ」
嘯きながら、脳裏の片隅で鳴ったサイレンに従い彼女の警戒レベルを引き上げた。腹の底が見え透いた者同士の探り合い、どうにも上手く情報を掴まされる危険がありそうだ。
「ところで室長とか副室長っていうのは?」
「私たちの正式な籍は、厚生省個性医政局公安課に属する社会分析室にあるからね。私が室長、彼が副室長。そこで『公共の健康かつ健全な社会』実現のための研究を行なっていた」
「その健康とか健全ってのがいまいち分からんのですよ。何をもって定義しようって?」
途端、彼女の目の端をきらりと光る。行儀悪くデスクを蹴って自身の座るローラー付きの椅子を転がすと、半ば椅子に突っ込む形で副室長に近寄った。
「頭の回転速いね。流石は公安のヒーロー。そう思わない?」
怪しく目を細めながら副室長に囁くが、反応は一向に返ってこない。痺れを切らしてか肘で小突くが、対する彼は呆れたように嘆息するだけだった。
「キミ年は?」
「二十二です。俺のことは調べてるんでしょ?」
「そりゃ調べたけど年まで覚えてないよ。しかし五歳下か。公安は随分優秀な人材を見つけて来たんだね」
今度は副室長のデスクを蹴って自身のテーブルに戻ると、彼女はコーヒーが黒いさざ波を立てるマグカップに口を付ける合間、もう片方の手で何やらキーボードを叩くといくつかのデータを液晶に表示した。コーヒーを流し込むのに合わせて細い喉が上下し、同時に眉根が顰められる。パソコンの裏側から覗くインスタントコーヒーのメーカー名には見覚えがあった。あそこの銘柄は安くて大容量だが泥水みたいに不味いことで有名だ。
「死穢八斎會の治崎廻。知っているかな」
「連合と繋がっていた敵役ヴィランですね。今はタルタロスに収監されてる」
「そう。彼はある古い思想に則って行動してた。個性とは現代社会の病気だと主張する古い学説」
指先で手招きされるがまま画面を覗き込む。表示されていたのは一発の弾丸の写真と、その成分分析結果らしい数値の一覧だ。死穢八斎會事件には直接関与することは無かったが、この弾丸が『時間を巻き戻す』個性を持った少女の血肉と骨を使って生成されていた事は、ホークス自身も公安から伝え聞いていた。
結果として被弾者の個性を完全に消去する力を持った弾丸。大した研究施設も持ち得ない一介のやくざ者が特定個人の個性能力を付与した道具の開発に成功していた。その事実だけでも充分に脅威的な話だというのがホークスの認識だった。
「治崎は議論の余地なく社会の悪だが、実の所かなり惜しかった。彼の発想そのものは悪くない線をいってたというのが私たちのスタンス」
「と言うと?」
「個性は病だと彼は言った。だがそれは違う。個々人が異なる個性を持ち共存する社会と、そこで暮らす市民という集団にとって、秩序の維持とは他を置いて優先されるべきことだ。その最大優先事項に対し危険要素となり得るものの方こそ『病んでいる』。病は早急に社会から取り除き、市民という集団の健全さを維持し続けなければならない」
「ちょっと待ってくださいよ」
言葉を遮ったのは頭が追いつかなかったからじゃない。むしろその言説はあまりに手垢がついたものだからだった。
「つまりあなたはこう言ったことになる。敵役ヴィランこそが病であり社会から隔離すべきだと」
「合ってるよ。実際そう聞こえたんだよね?」
あまりにも当然のように語る言葉に肩を落としそうになった。かつてはオールマイトを筆頭に作り上げられたヒーロー社会。その恩恵が絶大であるほど敵役と呼ばれる犯罪者たちとの分断もまた深刻化していったのが現代社会だ。
結果としてこの社会は敵役の更生より排除を選んだ。その最たるものがAFOオールフォーワンも収監される対"個性"最高警備特殊拘置所『タルタロス』だ。本土から隔離されるようにして海上に位置するその施設は、不名誉にも個性社会の闇という別名をほしいままにしてはいる。
だがその誕生を自ら欲し選択したのもまたこの社会に生きる市民たちだ。無意識的なものにせよ、市民という集団において敵役ヴィランとは自分たちと違う異分子であり、異分子は排除すべきであるという思想は残念ながら特筆すべきものではないのが実情だった。
「意外に平凡だなって思った?」
意地悪く吊り上がった彼女の微笑みへ反応を返すのが遅れたのは、まさしく俺自身がそう思っていたから。これのどこが対象の抹殺まで見越して警戒する必要がある思想なのかと、内心で疑問が頭をもたげたからだった。
「ここまでは前提。そしてここからが本題」
データを眺めながら話していた彼女の視線がこちらへ向き直る。液晶の放つ人工的な青白い光が薄らと彼女の輪郭を縁取っているようだった。
「治崎の弾丸が驚異的である理由は二つ。一つは特定個人の個性能力を道具へ付与する事に成功したから。二つ目は道具を使いさえすれば任意の個性を誰でも自由に行使することを可能にしたから。そこで私たちも考えた」
声音はどこまでも淡々と。興奮気味という事もなくもむしろ冷静に。
「この弾丸のように。もしも誰もが道具を使うだけである人間の社会的脅威を判定出来るようになったなら。平和の象徴を失ったこの社会は退化ではなく更に向こうへと進化する事が可能だとは思わない?」
だからこそ続けられた言葉にはどこまでも本気であると腹の底まで響くような迷いのなさが宿っていた。
「社会に紛れた敵役ヴィランを見つけ出すだけでなく個性や思考を読み取り、市民集団にとっての危険分子を早急に発見・隔離することが可能になれば。そのための道具としてのシステムが構築出来たなら」
夢物語のような理想社会。そんなものはあり得ないと一蹴出来ていれば、多分、俺と彼女をこの先待ち受ける未来も少し違っていたのかもしれない。
だけど現実に込み上げたのは信じられない可能性の閃きを目にしたような熱さで。
「誰でもって言うのはそのままの意味で?」
「言葉の通り誰でもだよ。つまりは特別な訓練を受けたヒーローでなくとも」
今や俺の胸の内には続きを聞こうと身を乗り出すような衝動が生まれ始めていた。それを臓腑の底に力ずくで押し戻す。蓋をしろ。気取られるなと自身に言い聞かせる。
この先に追い求めて来た理想によく似たものがあるかもしれないと期待してしまえば、決裂の時に迷いを押し殺す羽目になる。
「敵役ヴィランこそが病である。だけど病は敵役ヴィランだけじゃない。危険思想のシンパや身に余る個性を宿した子供だってそう。彼らのような危険分子を未然に発見し、社会から隔離する。そこで保護あるいは矯正していく。そういうシステムが出来上がれば、オールマイトのような不世出のヒーローにこの社会の治安秩序の全てを任せることもない」
ヒーローへの落胆ではない。彼女が俺に向ける眼差しに批難や恨み言めいたものはどこにも見当たらなかった。本気で言っているのだと実感する。彼女は正気だ。社会に蔓延るどうしようもない悪徳や理不尽を正しく認識したうえで、夢物語のような理想論の社会を現実のものにするための手立てを本気で考え続けている。
「その社会に敵役ヴィランはなく、ヒーローさえ最早不要のものとなる」
落とされた言葉はコンクリートの冷たい地下室に消えていくのに、聞き届けた俺の喉元が震えるほど熱い。しかし熱に浮かされるにはあまりに危険だと判断するだけの理性が頭に残っている。結局その熱は喉を焼きながら腹の底へと落ちていく他はなかった。
くだらない御伽話。叶わないからこそ夢想するSFじみた空想の平和と断じるような話だというのに。
「ただ、そうなると正確にはまだ敵役ヴィランとは言えないような、悪事を働く前の市民たちが拘束されるケースだって当然発生することになる。だったらその社会は本当に実現すべきものなのか、それは市民たちによって議論されるべきだと思う。だけど私はこう考える。この社会を更に向こうへ進めるためのシステムは作り得るというのなら、それは完成させなくてはならない」
今も追い続ける、ある未来を思う。
ヒーローが暇を持て余す世の中。いつからか欲しいと強く思い続けたその未来を夢なんて言葉で語る気はなかった。最短最速で手に入れるべき社会。必ず成し遂げてみせると言葉なく叫びながらヒーローとしてやってきた。そのために脇目を振り返ることもしなかった。
一方で分かってもいた。敵役ヴィランは決して根絶出来ない。悪心は悪人の中にのみ宿るものじゃない。萌芽の時が訪れるか訪れないかの違いだけでどんな人間も敵役ヴィランになる可能性を持っている。時の巡り合わせ。運の無さ。間の悪さ。たったそれだけのことでどんな人間も悪を成し得る。
人の目の前にはいつだって選択肢がある。善と悪は選択肢のどちらを選ぶかによってその時々で分かたれているだけに過ぎない。そしてその選択とは、時として自身を取り巻く環境によってどちらか一方を選ばされてしまう時がある。そういうことが人生には起こり得る。どうしようもない現実なのだと考えていた。だからこそ速さを研ぎ澄ませてきた。誰かを助けられるように。誰かがこれ以上取り返しのつかないことをしないように。
己が、そしてきっと誰もが仕方ないと看過してきたものを彼女は本気で越えようとしている。届き得ない星へ手を伸ばすに等しい行為が、束の間、眩いものに感じなかったと言えば嘘になる。
「俄然あなたに興味が湧いてきた」
「なら良かった。これで私はキミの中で路傍の石ころじゃなくなったわけだ」
石ころ。
思わず口をついて出そうになったのが分かったのか、彼女はデスクに放り出された煙草の箱に伸ばしかけていた手を止めるとおかしそうに破顔した。
「そんな風に見えてたんですか?結構傷つくなァ」
「ファンサービス抜きだとこんな感じなんだなって思ったよ」
軽口の応酬も互いの腹の内を探るようにどこか剣呑な雰囲気は拭えない。今度はこっちが一歩踏み込む番だった。
「話を聞く限り、あなたは治崎の弾丸にいたく感化されているようだ。あの弾丸が特筆されるべきは、特定個人の個性能力を道具へ付与することに成功したから、でしたよね」
「そうだね」
「で、俺は思ったんですけど。あなたの場合、システムに対して誰かの個性能力を付与しようとしてるって事でいいんですか?」
死穢八斎會事件で使用された弾丸は『時間を巻き戻す』個性を持つ少女の血肉から製成することで、同様の効果を持つに至った。万が一にも彼女たちが同じ方法でシステムを作り出そうとしているのであれば、それは当然許されるべきものではない。
「だとすれば、一体誰の個性を使うつもりなのか?そもそも、そんな事が可能なのか?非常に気になるところではあるんですけど」
問い正すように互いの視線がぶつかる。彼女は微笑んだまま押し黙るだけだ。「ねえ」そうしてやっと破られた沈黙に必然次の言葉へと耳を傾けてしまうのは致し方ないことだった。
「煙草吸っていい?」
拍子抜けて肩をすくめながら「どうぞ」と促せば枯れ枝ように細い指が慣れた様子で箱から煙草を一本取り出していく。どうやら先ほど機会を逃した時点で相当に口寂しくなっていたらしい。
このまま話も煙に巻く気かとも思ったが、彼女は向けられた言葉を味わって咀嚼するように一服すると、唇から煙草を離した。
先程まで小さな紙のロールを咥えていたその唇は血が滲んでいそうなほど荒れてひび割れている。そうしてしばらく思案すると冷え冷えとした言葉の裏にどこか期待を押さえ込んだ声音で語った。
「私たちもそのためにここへ来た。すべてのお話は脳無の共同研究が済んでからになるね」
脳無。
雄英高校襲撃事件以来この社会に姿を表した異形の怪人。およそ個人と呼べるだけの人格を剥奪され複数の個性を強制的に付与された動く死体。剥き出しになった頭部の脳と相まって例え目の前に表れずとも、存在そのものが社会にとって充分な脅威となっている。
脳無、そして治崎の弾丸から一体何を作ろうとしているのか。知らなければならない。そして恐らくは覚悟しなければならない。もしも彼女の言うシステムが敵役ヴィランたちの所業に勝る醜悪さを伴うものであるならば。
願いそのものは理想論の眩い夢から始まったものだとしても、確実に踏み躙らなければならない。この場所に立たされたのは公安がその役目を期待しての事だと、俺はようやく腹の底から理解しつつあった。
この頃のオリ主のイメージは、アグネス◯キオンでした。