東京の空はやや強風、進路に対して風の抵抗が強い。ホークスは背中の剛翼を何度か大きく羽ばたかせると上昇し、そこから勢いよく滑空するかたちで公安委員会本部ビル屋上を目指した。厚生省との脳無目撃情報の調査が始まって以来、ヘリポートとしても機能するこの屋上から帰投するのがすっかり日課になっている。
建物内に入ると慣れた足取りで廊下の奥まった部分にひっそり佇む貨物用エレベーターに乗り込む。公安の委員長がそうしたように決まったパターンで階層ボタンを押していくと、鉄の箱は秘匿された地下の研究フロアへと向かい始めた。
そうして到着を知らせる小気味良いベルの音と共に開かれた扉の向こう、厚生省公安課社会分析室に属する研究者たちのオフィスに向かった俺が目にしたのは、山のような吸い殻に埋もれた灰皿と側のソファで溶けるように転がっている監視対象の彼女だった。
「何をしてんです」
「見て分からない?干されてるんだ。公安委員会てばすっごく私たちのこと警戒してるよ。脳無の検体が未だにウチへ回ってこない」
「えー。お仕事してくださいよ」
「してるよ失礼だな。厚生省から持ってきたシステムの移行作業がやっと済んだんだ。今はこの地下でも満足に動くよう調整中。更新完了までやること無いだけ」
「ははあ。つまり言い訳」
「キミ、明日覚えておけよ」
軽口を何往復かしたところで不意に部屋の扉が開く。ドアノブを握ったまま固まった特徴的な痩せぎす姿は副室長で、彼は資料らしきファイルを小脇に挟んだまま俺と女を交互に見つめるとやがて眉を顰めて嘆息した。
「サボりですか?」
「ほらぁ。やっぱそう見えますって」
二人がかりの指摘にとうとう観念したのか、彼女は不服そうな様子を全面に押し出し渋々といった様子で居住まいを正した。その手元に副室長の男から半ば投げ出されるようにファイルが受け渡される。
「警察庁からの解剖依頼です。個性強化薬を多量摂取後に死亡したご遺体で死因は現時点では不明。Aiデータは室長のパソコンに転送済み」
言葉に従い彼女がファイルを片手にデスクへ移動する。背後から覗き込んだ液晶画面には海外のものらしい文書データが開かれていたが、彼女が手元でマウスを操作するとパッと消えた。
「Aiって?」
「『オートプシーイメージング』といって、死亡時画像診断のこと」
白衣が覆い隠す彼女の体はぞっとするような細さが目を引くが、それも液晶の前に一度座ってしまえば頼もしさが勝る。背後から覗き込んだモニターに現れたのは白黒で表示された人間のある臓器のCT写真だった。
「脳ですか」
「うん。ところでキミは映画を見る方なのかな」
「唐突ですね。人並みじゃないですか?映画館は行きませんけど」
「たまには行ってみなよ。真っ暗闇の中で物語に没入するって良い経験」
「あいにくファンがそれを許さないんで」
「ああー、そうだったか。じゃあプライベートシアターが必要だ」
彼女は人が悪そうな微笑みを唇の端に浮かべると白衣から煙草とライターを取り出して、はたと気付いたように固まった。こんもり灰が連なった灰皿をソファ側のローテーブルに置きっぱなしだったことを思い出したらしい。
でっち上げの困った顔をこちらへ不意に向けるので、ファンサービスたっぷりの笑顔を作って応えてやる。甘やかしてやるつもりはない。そうして互いに食い違う表情で根気よく見つめ合ったものの観念したように結局煙草の箱を置いたのは彼女の方だった。
「人間の脳は約10%程しか使われていないという言説がかつて存在した。脳の未使用領域がもし使えたなら。そんな空想によって様々な物語が世に送り出されてきた。超能力やエスパーと言われる類のものだね」
映画の話はこのための前振りかと納得する。サイエンスフィクション、つまるところSFは現代の映画や小説において今や一大ジャンルだ。
「個性発生以前の社会に生きた人々からすれば、現代の私たちこそSFの領域に至った世代と思うのかもしれないけど。実際のところ個性の有無に関わらず、私たちの脳は100%使用されているというのが現代科学の見解だ。ただし常時全てが使用されているわけじゃない。脳はその時々によって機能する領域を変えながら、そのすべてを十全に使用していた。これが現時点での真相」
だけど、と彼女はモニターに映る白黒の脳をデスクに転がっていたボールペンで指し示した。
「写真を見る限り脳全体の過活性化があったと考えられる。つまり本来いっぺんに全ての領域を100%使うべきではない人の脳が、その機能のすべてを総動員してしまっている」
「強化薬によって?」
「諸刃の剣なのかな。だけどこれ以上は実際にご遺体を解剖する前にあれこれ考えるべきじゃないよ。警察も待ってる。そしてキミは私たちを監視しなければならない」
解剖室、付いてくる?
その誘いには流石に首を横に振ったが、監視が必要なのは確かで。結局俺は彼女たちと一緒に警察庁の解剖室、その一歩手前までついて行くことになったのだった。
*
彼女と副室長の男をを解剖室まで見送った後、警察庁の休憩室でしばらく思考に沈み込む。硬い座り心地の長椅子はどうにも年季が入っていて所々布地が裂けそうになっている。そんな意識を引き上げたのは横から不意に差し出された一本の缶コーヒーが切っ掛けだった。
「塚内警部。お久しぶりです」
「福岡のヒーローが珍しいな。地元を空けていいのかい」
「人が悪い。なんで俺が東京くんだりまで召還されてるか、聞いてるんでしょ?」
警察庁の塚内警部と言えば、かつて平和の象徴オールマイトと共に数々の事件に関わった人物だ。社会における秩序と治安の発展・維持に尽力した陰の功労者といって差し支えない。
公安委員会との関係も深いもので、そんな彼がわざわざ厚生省側の目が無いこのタイミングで接触してきた意味を計りかねるほど単純な脳みそはしていないつもりだった。
「察しが良くて助かるよ。どうかな厚生省公安課は」
「まだ尻尾は掴ませてくれませんね。しばらく膠着状態が続きそうです」
「そうか。ところで今日、私が彼らに協力依頼を出したのは理由があってね」
警部が隣に腰を下ろす合間、受け取った缶コーヒーのプルタブを開ける音が小さく響く。
「やっぱ塚内さんでしたか」
視線を合わせることなく呟くと、有り難くコーヒーに口をつけた。
「厚生省個性医政局公安課社会分析室。彼らはそこで人の脳に関する研究をしていた事が分かった。その研究を彼らの目指すシステムに組み込もうとしていたようだ。だが何らかの壁にぶちあたり計画は無期限の長期凍結を余儀なくされた」
「だから脳無というわけですか。繋ぎ合わされた複数の脳と複数の個性を持ち合わせる死体。彼らの到達し得なかった何らかの技術がそこに用いられていると?」
「そうだ。そして死穢八斎會事件において治崎廻が用いた弾丸。ある人間の個性を物体に付与する技術と発想。脳無の存在を併せてこの二つが何らかの突破口になったらしい。計画は再始動した」
そこまで言うと、塚内は自身の背後に視線を一瞬向けた。自販機が数台並ぶ狭い休憩室はビル内全エリア禁煙が言い渡されるより前までの昔、数々の警察官たちが入れ替わり立ち替わりに一服していたせいか、今も壁紙に染み付いた煙草の匂いが濃く漂っている。
薄らと変色した天井。ごく僅かにではあるが、そこで蠢く何かの振動を背中の剛翼は逃さず感じ取った。恐らくは監視カメラ。
その予想に行き着くと、塚内と自分の口元がちょうど背中の翼で隠されるように少しばかり居ずまいを正す。東京に来て数日。パトロールや
「彼らの掲げる理想社会はSF小説じみたものかもしれない。だがそれを現実にするための足場作りは着実に進められていた」
「
「そうだ。加えて言うなら、大臣が法務省の人間とかねてより会談を繰り返していた事も新たに判明した」
「法務大臣も支持してると?」
「いいや。法務大臣はどうやらご存知ない。彼らが接触を図り、そしておそらく自分たちの陣営に取り込んだのは」
塚内が取り出した手帳をわずかに開く。挟み込まれた数枚の写真を取り出すと、彼はある内部部局の名前を告げた。写真を覗きながら聞き届けたその名前が本当なら、背筋に悪寒が這うようだ。一瞬息を呑んだ事をカメラに気取られないよう、すっかり冷えきってぬるくなったコーヒーを喉の奥に流し込む。
「……法務省矯正局!刑務所の管理部局が彼らの言うシステムの支持者だと?」
「可能性はある。この写真はオールマイトと共にタルタロスへ出向いた際、監視カメラに保存されていたデータのひとつだ」
タルタロスといえば
「一緒に写る男たちは矯正局の幹部だ。法務大臣を取り込む際の足がかりにするつもりかもしれない」
「嫌な感じだ」
「同感だよ。彼らの言うシステムがどういう仕組みにせよ、脳の研究をする人間と
「不明瞭な理由で拘置場から消えた
「現在まで全国どの拘置所でも確認されていない。少なくとも公的にはね」
空笑いが飛び出しそうだ。監視の目が向けられている以上、ゆくゆくは捜査の手が自分たちの足取りにまで及ぶことを想定していない連中だとは思えなかった。
本当にまずい事だけ伏せればいいと嘯いた、数日前の彼女の姿が脳裏に過ぎる。駆け引きを挑まれているような心地だった。実際そうなのだろう。やがて近付いてくる足音を聞きつけると、塚内が音を立てないよう素早く慎重に写真を仕舞った。
「会長からだ。君は引き続き彼らを監視しろと。伝えたぞホークス」
言葉を皮切りに自然な範囲で姿勢を崩す。監視カメラからは二人の口元の動きがもうハッキリと捉えられているだろう。塚内が警察庁内ですら監視の目を恐れた。それは彼ら厚生省公安課を支持する者は法務省を筆頭に、最早どこに潜んでいるか分からないことを意味していた。
足音が背後で止まる。申し訳程度の軽いノック音に振り返ると、開かれっぱなしだった休憩室のドアにもたれかかる彼女の姿があった。
「解剖。終わったけど?」
*
警察庁の面々に解剖結果を早々に説明し終えると、彼女は風のような早さで穴蔵のような地下研究室に舞い戻った。厚生省から持ってきたシステムとやらの状況が気がかりだったらしい。デスクに戻ってどこぞへ確認に向かったが直に肩を落として戻ってきた。どうやら解剖の間に更新が終わることは無かったらしい。
「で、解剖の方はどうだったんですか」
手持ち無沙汰な様子を見て問いかけてやれば、灰皿を手にデスクへ戻った彼女は今度こそ煙草に火をつけた。
「個性因子って分かる?」
「俺ならこの翼でしょ。『基本となる人体に特別な仕組みがプラスされたもの』」
「そうだね。キミの場合は背中に猛禽類の翼と同じ骨格がくっついてるわけだから、その説明でも意味は通るんだけどさ」
ううんと唸る彼女は何と言うべきか考え込んでいるようだった。煙をくゆらせたままそうしてしばらく考え込み、やがて言葉を選ぶように重たげな口を開いた。
「ならこう考えよう。キミは翼の羽をそれぞれ自在に操れるわけだよね。使ったぶんだけ羽は消耗する。抜けてるわけだから」
「その表現やだなァ」
「ごめんって。デリカシーの無い表現だと自覚してる」
どうやら悩んでいたのは自分の語りのまずさだったらしい。
「ともかくキミの個性因子は背中の翼そのものだ。そして翼を構成する羽は消耗する。だけど回復もするんだよね?傷ついた皮膚が瘡蓋に覆われていくようにさ。キミにとってその翼は人体の一部というわけだ。回復にはどれくらいかかるものなのかな」
「状態にもよりますけど。大きく消耗した時は通常数日はかかりますかね」
「早いね。ではキミにとって人体の一組織である翼に対して、消耗した羽を再び生え揃えよと命令を出している器官とは一体どこなんだろう」
医学的な話は専門外だ。それでも彼女と交わした会話を思い返せば、誘導されている事にくらいは気付く。
「それが脳って言いたいんですか?」
「そうだね。『人体に特別な仕組みがプラスされたもの』が個性因子であるなら、その個性因子を作り出しているのは脳であるというのが私たちの考え。とはいえ各々の人間が持つ個性に応じて脳の働きも異なるから、体系化して理論に落とし込むのが困難ではあるんだけど」
その過程が確かに困難であろうことは想像に難くない。世代を経るごとに複雑化していく個性を前に画一的な方法論では特に歯が立たなくなっているのが医療分野だ。全く同じ個性を持ってでもいない限り、厳密に表現すれば、自分と同じ肉体構造を持つ人間はこの世に誰一人存在しないとさえ言える。
「あのご遺体は薬物によって強制的に脳の100%を機能させたまま亡くなっていた。脳のリソース全てを個性因子へ作用させてしまう効果があるみたいだね。脳が過活性化するにつれて呼吸をすることも、心臓を動かすことさえ二の次にしてしまう。そうやって脳の全機能を使う頃には死に至る」
後に塚内警部から聞くところによれば。
亡くなった男性の個性は『体から棘を出す』というもので遺体は夥しい棘に覆われ、ほとんど人体の形を留めていなかった。彼女ら厚生省公安課に解剖依頼をかけたのはそういった背景もあり、何かと表に出せない凄惨な司法解剖にはこれまでも協力を要請していたようだった。
「
違法薬物の売買を撲滅すべく長年活動してきたファットガムからの報告だった。
ふと彼女が個性強化薬のことをどういうつもりで受け止めているのかが気になった。社会から全ての悪しきものを切除しようと言う彼女が、この一件をどう考えているのか気がかりだったのだ。
悟られないよう様子伺ってみて、思いのほか憤りの浮かばない表情に引っ掛かりを覚えた。眉間に皺を寄せたその顔は嫌悪というより思案しているようだった。
「犠牲者が出てる。だったら個性強化薬はこの社会にとって悪だ。取り締まるべきものだ。だけど正直惜しいよ。もしリスクではなくメリットだけを享受出来る形に進歩させられていたなら」
「呼吸も心臓も止まるような代物なのに?使用者を生命維持装置に無理矢理繋ぐでもしないと不可能だと思いますけど」
一瞬、彼女が呆気に取られたようにこちらを見つめ返す。まったく予想もしていなかった反応に何か思いもよらぬ核心に踏み込んだのではと背筋が冷える。
注意深く探りを入れようとした束の間に彼女もまたそれを察知したのか「意地が悪いね」と平静を取り繕うと本心を覆い隠してしまう。「お互い様ですよ」と返しながらも歯噛みする。俺はいま何か致命的なものを見逃してしまったのではないか。
内心で焦りを覚える俺をよそに彼女はぼうっとモニターを見つめている。白いライトを映したその瞳は何かに魅せられているようだった。
「こういう時に時々思うんだ。どんな技術も発明も最初はより良い未来のためだったはずなのにって」
床に小さなボールが転がるように、言葉が彼女の薄い唇から取り落とされてゆく。
不意に考える。もしかしたら。暗くて狭苦しいこんな地下で、恐ろしげな企みの一端を担わなくて済む人生が彼女にあったなら。夢想家で善良な、ごく普通の
だが想像は火のついた煙草から漂う濃い紫煙と共に霧散していく。そういう人間になり得た人だからこそ本気で夢を追った時、手がつけられないんじゃないのか?
今はまだ予感に胸が騒ぐまま、それ以上言葉をつぐんだ彼女と相対する他はなかった。