四
次の朝、目を覚ますとまだ早かったようでほかの者は全員寝ていた。なので邪魔にならないよう本でも読もうと窓の方へ身を寄せると、ソニアの姿が目に入った。
ソニアは昨日と同じ体制で眠っていた。この教室へ入るにはあそこを通らなければならず、扉を開けようとすればソニアが振動やドアが体に当たり気づく。これならば眠っていても大丈夫ないい仕組みだと思った。
ソニアは寝息こそたてていたものの、時々寒そうに身をよじらせた。だから昨日の感謝も込めて私の上着をかける。カーテンもあったが床に敷いていたものはさすがにな、そう思った。
シャツ一枚で寒さを露骨に感じたが寝ぼけた体にはちょうどいい感じがした。
鋭敏になった指先でページをめくる。
目の周りの腫れが少しひいたのかいつもより目は開きやすかったし、ものもよく見えた。やっぱり目は二つないと、そう思った。
それでもまだ包帯を取るような状態ではなく右頬や右耳、そして右目が真新しい包帯に包まれている感じがなんとなくむずむずした。
そうして本を半分ほど読んだところであることに気づいた。
ブックカバーの中央から一本の紐が伸びていた。平たいある程度の幅があるその紐はどうやらしおりのようで何か文字が刻まれていた。
『Valeria』
名前のようだった。私の者ではないし、聞き覚えのないものだった。
そうやってにらめっこしていると視界が急に真っ暗になった。何か布がかけられたようで思わず腕で払うと、ばさりと音をたてて落ちた。私の制服だった。
気づけば起床したソニアがそばに立っていて見下すように私を見ていた。
「まったく、けが人が気なんて使ってんじゃねえよ」
そういうとソニアは私の横に腰を下ろした。寒いな、なんて話を二三した後、あることを思い出し聞いてみる。
「これ見てくれよ、これ『Valeria』ってなんだ」
その言葉にソニアはピクリと眉を動かし、心底呆れたかのような深いため息をした後、言った。
「あいつの名前だろ。リボンの。元々、あいつに贈られたのをお前にやったんだよ」
言われてはっ、となった。そうだ。あの子の名前だ。
以前助けたときに名乗られてそれ以来名前を聞くことはなかったから考えがそこまで及ばなかったのだ。
「ヴァレリア」
口に出した彼女の名前をしっかり脳に刻む。爆発の瞬間ではなくあの時、ともに昼食をとったこと。本が好きなこと。素敵な笑顔だったこと。そんなきれいな思い出でヴァレリア、彼女を記憶する。
泣くよりも祈るよりも、そうやって記憶することが彼女が最も喜ぶことだと思った。
そうやって何も言わずにいると心配したのかソニアは何も言わず何度か背を叩いて見せた。彼女なりの励ましは意外と力強く少し痛んだが嫌な気はしなかった。
しばらくたつとみんなが起きてきてラーダが朝食を作り、みんなで食べ、一日が始まった。
今日はよく晴れていて遠くの景色がよく見えた。けれどそれは同時にレユニオンの白いフードも目に入るということでそれがたまらなく嫌になった。
そうやってただ外を見ていると声をかけられた。
ソニアだった。
「ちょっと来いよ」
そういわれてついていくとソニアは私に残りの食料を見せた。
ほとんどが缶詰などの保存食で味気ないものばかりだった。
「ラーダと一緒に外に探索に行く。食べられそうな野草を探しにな」
ソニアの手には鞄が握られ、ラーダもこちらに駆けてくる。ほかにも数人の生徒ともに行くようで五人程度のパーティが組まれていた。
「お前はここの守りを頼む。アンナもいるから何かあれば聞け」
そうやって言い放つとソニア達は教室を出て行った。
もう一度食料を見る。
どう考えてもこの人数で一週間と持たない。早ければあと三日、持つかどうかだろう。
そんな考えを打ち消すように、私はアンナのもとへ向かった。
アンナはダクトテープを使って窓の修繕をしていた。私が声をかけるとちょうどよかったです。そういい、私にテープを手渡した。
「高いところまで届かなかったので助かります」
「いいよこれくらい」
私はアンナの指示通りテープを貼っていった。どうやら窓が割れたときの飛散防止のためらしく、まだ無事な窓へも貼っていく。石が投げられたのか完全に割れてしまったものは残った部分を叩いて取り除き、その上からダンボールや木の板などを張り付けていく。
作業はしばらくかかりちょうど昼過ぎまでかかった。
どうやらソニア達は野草を取る以外にも使えそうな物資を探しているらしく時間がかかっていた。
そうやってアンナと私は教室の修繕を行っていった。窓に始まり、みんなの寝床代わりになるものや机や椅子のバリケードの確認、そういった細々としたことをこなしていく。
その間、アンナは様々なことを話してくれた。
もともとはアンナが連れてきた生徒たちだったこと。
抑止力にもなるソニアにリーダーをお願いしたこと。
意外にもラーダがボーイスカウトだったこと。
特にラーダのことになるとアンナは口数が増えた。
アンナがまとめているときもラーダが励まし続けていてくれたこと。ラーダのおかげで保存食がおいしいこと。私を治療できたこと。
淡々とした機械的な口調だった。だがアンナにとってそれらは苦しいものでもあったが思い出深いことでもあったようで声色はいつもよりずっと優しさを感じられた。
作業が一段落すると私とアンナで水を汲みに行った。ともにこの教室にいるマキシムという生徒が部活のために持ってきていた大きな水筒とどこかの部室から持ってきた水を入れるタンクを持って廊下にある流し台へ向かった。
不思議と校内は静まっていてなんだか不気味だった。教室の扉の隙間や窓から無数に視線を感じたものの私が剣を持っているのを見るとその気配は薄まっていき、何も感じなくなった。
アンナもそれを感じ取ったのかふと口を開いた。
「私は別に普段からリーダーやこういったまとめ役をやっているわけではないんですよ」
「そうなの? 賢そうだし、学級委員でもやっているのかと思った」
「よくいわれます。私はそういったものが得意ではありませんし、それに貴族ともめるのは嫌ですから」
アンナはそういうと蛇口をひねる。錆がきているのか耳障りな音をたてたが、問題なく水が出て水道管は壊されていなかったことに安堵した。このまま寒くなって凍結してしまうことが怖かったが今はこの恵みに感謝する。
「最初はあなたを受け入れることに反対していました」
「へえ」私は鼻を鳴らした。「俺のこと貴族だと思った?」
「そうではありません。私もあなたのことは知っていました。あのクラスに剣を持ったやつがいるなんて少し噂になっていましたから変なイメージがついてしまっていたんです。それに以前、廊下ですれ違ったとき風が吹いてあなたが耳にピアスか何かをつけているのみえました。そういったこともあり不良のようなイメージがついてしまったんです」
「まあ、そうだろうね。けれどこれは剣の師匠からもらった大切なものなんだ」
そういって私は髪をかき上げ左耳の耳飾りを揺らしてみせた。
「本当はもう片方にもあるけれど、今はね」
「ええ、早く良くなるといいですね」
アンナはそういうと蛇口を閉めた。水筒にもタンクにも透き通った水が満たされていて、水面には私の顔が映った。顔色は昨日よりもよくなっていたが派手にまかれた包帯のせいでとても不気味に見えた。ホラー小説に出てくる怪人のようだと思った。
「俺、この包帯のせいで余計に怖がられてない? 怪人みたいだし、夜この顔を見たら悲鳴をあげそうだよ」
そういうとアンナはくすくすと口をおさえて笑った。
タンクと水筒を手に持ち私とアンナは並んで歩いた。足音がいつもよりも響いて嫌なことでも起こる気がしたがそれは杞憂で無事に教室までたどり着いた。
互いに感謝を言って扉を開ける。
ソニア達はすでに帰っていてラーダや複数の生徒が食事の準備を始めていた。
野草が入った鞄にいくつかの使えそうな物品が机の上に置かれていた。服装に乱れはなく襲われたりそういったことはなかったようで心から安心した。ほかの生徒も同じようでみんなやつれてはいたもののラーダに向ける声色や話し声も優しげなものだった。
だがソニアは険しい顔をしていた。そして私を廊下へ連れ出すと聞かれないよう、小声で話し始めた。
「気づいたか」
「何にだ。特に変わったことはなかったよ」
「ちげぇよ」
思わず大きくなってしまった声に驚いてしまった。ソニアは慌てて声を潜める。
「校内の様子だ。変じゃないか」
そう思い耳を澄ませてみる。声はあまりせず、静かなものだった。
「ほんの二、三日前お前が寝ているときはもっと騒がしかったんだ。食べ物を探す奴らが争ったりする声があちこちからしたんだ」
「けれど今はしない、と」
ソニアはうなずいた。思い浮かぶことは一つだけだった。
「きっと限界なんだろう。俺たちはまだ食べれている方だ。けれど中には数日間食べていない者もいるだろうし休むところさえない者もいる。そういった者たちが限界でじっとしている」
「で、限界になったやつらが何をするかっていうと」
争いだ。そう遠くない未来に起こるであろうことは不安にさせたし、焦りも生んだ。何か打開策が欲しかった。
そういえばウルサス軍はどうしたのだろうか。貴族も監禁されている以上もうかけつけていてもおかしくないだろうに、いまだその気配はない。
その考えは嫌な冷たさを感じた。芯から体を冷やすようなそんな冷たさだった。
すっかりあたりを闇が包み込んだころ私たちは食事をとり、しばらくして眠りについた。
けれど今日の夜はいつもと違った。
みんなが寝静まった後、かすかに振動を感じて体を起こすとソニアもそれを感じたのか扉に耳を当て、原因が何か探っているようだった。
「ソニア」
「しっ」ソニアは唇に指を当てる。「階段のあたりからだ。距離はそう遠くない」
私は剣に手を置いた。いつでも迎え撃てる体制をとる。
──もし通してしまったら。ふとヴァレリアの顔が浮かんで彼女が迎えたであろう最期を想像するとかすかに歯が震えた。その震えをおさめるようにしてさらに力を入れた。
「なんか揉めてるな。階段のあたりで二人、男だ。『約束』?」
ソニアがそういった時だった。何かが倒れる音が響いて何度かガタガタと派手な音をたてると音は止んだ。直後、走っていく音が聞こえ彼方へと消えていった。
「ソニア、どうする」
「アンナを起こせ」
私は忍び足でアンナの寝床へ向かった。アンナの肩をゆするとすぐに起きて手をつないでいたラーダもゆっくりと身を起こした。
「階段のあたりで何かがあったらしい。どうする? 派手な音がした。ついさっきだ」
「ラーダ、マッチを彼に」
私はラーダからマッチを受け取った。心許なかったが確認するだけなら充分だった。
「ここは私に任せてください。ソニアとあなたで見てきてもらえますか」
「ああ」
短くそう言った後、ソニアのもとへ戻った。ソニアは片手に小さなランタンを持っていてそれに火を入れると薄暗くはあったがしっかりと灯りがともる。
「いくぞ」
ソニアに続いて外に出る。扉を開ける音がやけに大きく聞こえた。
ランタンの灯りは心強かった。空は相変わらず厚い雲で覆われていて星一つ見えない日々が続いていた。
足音を消し廊下を歩く。ソニアが先頭で、私がそのすぐ後ろを歩く。剣のリーチならば少し踏み込めばカバーも早く行える。ソニアもそれがわかっているのか恐れることなくずかずかと進んでいった。
しばらくすると階段が見えてきた。周辺に潜む者も気をこちらにやっているのかいくつかの視線を感じたが、現場に訪れている者はいなかった。みんな怖いのだ。何もかもが。
階段に着き、ゆっくりと灯りであたりをくまなく照らす。少し降りたところ、踊り場のあたりに何か見えた。
血痕だった。最初は数滴、わずかなものだったが降りていけばいくほどそれは増していき一階に着く頃には血はべったりと階段に付いていてその主もすぐそばにいた。
男だった。ペテルヘイムの制服に身を包んだ彼を私もソニアも見たことがあった。
彼だった。食料をわけ、教室を離れていった彼がそこに倒れていたのだ。
近寄り、脈をとるため彼の手首を触ると体は温かくただ眠っているかのようだった。
しかし、脈もなく後頭部から流れ出る血液が彼の死を知らせる。なんどか顔もぶつけたのか歯の欠片や内出血の跡も見られた。目は見開かれており、死は突然もたらされたものであることは明白だった。
「おい」ソニアの声が聞こえて彼女の方を見る。「大丈夫か」
「ああ。もう脈はない。死んでる」
「ならさっさとここを去るぞ。アタシたちが疑われる」
「わかってる。けれどちょっと待ってくれ、手が──」
彼の右手が握られていた。固く握られた手を一本一本指をはがすようにして取っていくと手の内にあるものが何かようやくわかった。私は黙ってそれをポケットに入れソニアとともにそこを去った。
哀れな彼の体を整えてやりたかった。だがそれで私たちが殺した、と勘違いされるかもしれない。それに弔う物資の余裕も時間もなかった。
なんだかひどく疲れてしまって教室がひどく遠くに感じた。けれどソニアと離れるわけにもいかず懸命に足を動かした。
教室へ戻るとアンナとラーダは変わらず起きていて心配そうな顔をしていた。
ランタンを消し、暗闇の中で顔を見合わせるようにして私たちは話した。
「なにがあったんですか」
アンナの声にソニアは顔をしかめる。私も何をどう言おうか迷った。
だからまずこれについて聞くことにした。
「アンナ、これはなんだ?」
ポケットの中からあるものを取り出す。片眼鏡の奥の瞳が細められ、アンナは言った。
「第四高校の制服のボタンです」
華やかな装飾がつけられた金のボタンは夜闇の中でもかすかに輝いて見える。が、だれもその輝きを歓迎することはなかった。ただ沈黙と困惑が支配し、ソニアは黙り込む私から目をそらして今はただ床に刻まれたなんでもない傷を見つめている。ラーダはただうつむくアンナの背に手を置き目を閉じた。
学校が封鎖されてから二人目の死者。貴族によってもたらされたことは明白だった。
眠っていたせいであいまいな日付感覚に少しばかりイラつきながら乾パンを食べる。水気がなく食べにくかったが昨日汲んできた水で流し込んだ。
今日は朝早くから全員が起きていた。まだ朝日が昇ったばかりであるというのにみんな目がさえているようで私のように食事をする者やただ座り込み震える者もいた。
それもそうだろう。朝、女子生徒の悲鳴が聞こえた。その声はよく響いてよく聞こえた。
その声で多くの者が目覚めたのか周囲の教室も騒がしくなり、扉が勢いよく開いた後、廊下をかける生徒たちの足音が聞こえた。
昨日の彼を多くの者が見つけたようで朝から悲鳴は何度か聞こえたし、中には怒りの怒号を上げる者もいて眠るどころではなかったのだ。
きっと貴族のせいだ。いいやあいつだ、いいや──、そんな憶測や悪質なうわさ話ばかり聞こえてなんだか気がおかしくなりそうだった。
昨日はあんなに無気力な者が多かったのに生存本能を刺激されたのか活発に動き回っていた。
今日ばかりはアンナも怯えるラーダを励ましていたし、ソニアもただ扉に背をつけぼーっと座るのみで教室は静かだった。ほかの生徒はなにがあったのかアンナにきいたり、たまにする怒号におびえるだけでこの状況を好転させるには至らない。
地獄の窯が開く寸前だった。
ポケットの中にある金ボタンが見つかっていたら貴族と平民の戦争が始まっていただろう。
それを理解してかソニアもアンナもラーダも、それを口にすることはなかった。彼が死体で見つかったことを誰かが聞いても知らないの一点張りだった。
だが学校中を疑心暗鬼にさせるには彼の死は充分すぎるものだった。教室の空気も重く先日のように何かをする気分にはならず、心を許した者と身を寄せ合うのみだった。
私は本でも読もうと窓辺に身を寄せる。相変わらず分厚い雲で覆われていて読書をするには薄暗かったが気にせず読むことにした。とにかく時間がたつのを祈った。この忌まわしく騒がしい朝が早く過ぎていくことをとにかく願ったのだ。
そんな無意味な時間がたち昼前になるとふと教室の扉が叩かれた。コンコン、と気遣うように叩かれたあと声が聞こえた。
「アンナ、いる? 私よ」
「どうしましたか?」
アンナは向こうへ聞こえるよう大きな声で言った。
「少し話したいことがあるの、入ってもいい?」
アンナはソニアへ視線をおくる。ソニアはゆっくりと立ち上がり扉を開けた。
目にはいったソニアの顔に彼女は驚いていたがすぐに悲し気な目に戻る。死んだ彼とともに立ち去った彼女だった。
「アンナ、彼が死んだわ」
「ええ、聞いています」
そういうとアンナは彼女のもとへ歩み寄る。二人の声はよく聞こえた。
「殺されたのよ。誰かに階段から落とされたの」
「はい……そういっていたのを聞きました」
「彼はね、お願いに行っていたのよ。食料も限りがあるし寝る場所にも困っていたから。だからお願いにいったのよ、貴族のところにね」
彼女は何度か涙を流した。よく見ると何度も泣いたのか目の周りが赤くなっていて唇を噛んだのか血が滲んでいる。
「馬鹿よね。貴族が助けてくれるわけないのに。けれど彼は私にこう言ったわ『あてがみつかった』って。嬉しそうに言ったわ」
「貴族の、誰ですか」
「工場を持っている家の三男と、彼は言っていたわ。そこでお父さんが働いていて面識もあるらしかったの。それで昨日の晩にその三男と打ち合わせがある。そういって彼は出かけて、帰ってこなかったわ」
彼女は何度も目をこすった。それでも涙はぬぐいきれなくてアンナは彼女の背に手を置くと優しくなでる。嗚咽がひどくなったがそれでも彼女は話し続けた。
「ねぇ、アンナ。なんで私たちこんな思いをしなきゃならないの。ただ平民であるというだけで彼は死んだの? 居場所を求めたのが悪かったの、ねえ教えて、教えてよアンナ……」
彼女は力が抜けたように座り込み、アンナはそれを支えた。居場所を失ったソニアが近くに座り、ラーダも寄ってきてソニアの隣に座った。
並ぶように座った私たちは話すことなく、ただその光景を茫然と見続けた。ラーダは次第に感化されたのか涙を流し慰めるようにしてソニアは下の方で手をつないだ。
それでも私はただ泣き続ける彼女を見続けた。そして考える。
もしヴァレリアを目の前で失い、意識を失っていなかったら私もまたああなっていたのかもしれない。
ただ泣き続け、前にも後ろにも進むことなくこの異質な環境で命を浪費し続ける。その先に待っているのは何だろうか。生けるしかばねのように学校をさまよい続けるのかそれとも──
頭の中を不吉なものが埋め尽くそうとしたとき、手に何か当たった。
ソニアの手だった。包帯をしている右手に曖昧な感触を感じて思わずソニアの方を見る。
細められた青い目が彼方へとむけられ、扉の向こうのさらにその先を見透かすような目をしてソニアは言った。
「辛気臭い顔すんな。ラーダがまた泣く」
か細い声だったがしっかり聞き取ることができた。軽く息をついて気持ちを切り替えるとソニアの手を握り返す。
包帯越しにも感じる温かさに心から感謝した。
彼女はしばらく泣き続けた。アンナはそれを慰め続けたしこの教室にいる多くの者がそれに心を痛め、彼女に後で声をかけた。知り合いだった者も多く名前はヴィカというようだった。
ヴィカは日が暮れるまでここにいて、私たちは食事も、と誘ったが彼女は断った。ただ眠れていないから今日はここで寝かせてほしい。私たちは快諾し、ヴィカはアンナの近くで眠ることにしたようだった。
「なぁ」
定位置の扉の前に座ったソニアが手招きをした。身を寄せると、周囲には聞こえないよう話し出した。
「お前、大丈夫かよ」
「なにが? 火傷は結構よくなったよ、かゆいけど」
「ちげぇよ」ソニアはそういうと目に力を入れて私を見る。真剣な顔つきで変なことを言ってしまうとぶん殴られそうなすごみがあった。
「大丈夫ならいいけどよ。あの時のお前、やばかったぜ。目が虚ろでさ、ラーダも心配していたからあとで一言言っとけよ」
「ごめんな、ソニア。別に何かあるわけじゃないんだ。ただ、」
「思い出すんだろ。アイツのこと」
その時、パチリと音がなって木が爆ぜた。水分を含んでいたのか何度かそれを繰り返したあとようやく静かに燃えはじめる。ただその間私の脳内にはあの時の光景がフラッシュバックしてなんどもヴァレリアの顔が浮かび、力が抜けた。右目の火傷がひどく痛んで涙が滲み、息が荒くなる。妙な汗がにじんで指先がビリビリと痺れたとき、肩に何かが当たった。ソニアの拳だった。ドアのノックするように肩を叩いていて私が想像の世界から戻ったのを確認し、手を引っ込める。
「今日で何日目か、お前覚えているか」
ソニアは心配そうな声で言った
「五日目、もうすぐ六日目かな」
「そうか──」ソニアは息を吐く。「そうだな」
飢えてレユニオンの恐怖にさらされながら大きな箱に閉じ込められている。食料はなくとも寝る場所も雨風もしのげているのに私たちは消耗しきっている。
昔読んだ漂流記のように互いに協力しあい、貧しくも生きていくようなそんなものはなかった。
あるのは階級による差別と搾取で、踊らされた者達の悲鳴や怒号がいまに昼夜問わず聞こえるようになるだろう。そんな予感がした。
なのに私はこの現状に抗うことなく、膝を抱え怯えている。目の前で失ってしまった彼女をなんども思い出しては立ち止まるしかなくて、それを責めるようにして耳飾りは揺れた。
──しっかりしろ。
いつか見た夢の中の黒き戦士がそんなことを言った気がした。
「少しいい?」
気づけばヴィカとよばれた少女がすぐ近くに来ていた。いいよ。そういうとヴィカは近くに腰を下ろす。
「あの時はごめんなさい。彼も私も限界で、あなたにも冬将軍にもひどいことを言ってしまったわ。ごめんなさい」
ヴィカはそういうと頭を下げた。その様子にソニアは「気にしちゃいねぇ」そう言った。私はただ黙り込んでいた。ヴィカの胸の内に何が潜んでいるのか無意識にそんなことばかりを気にしていて嫌悪感がこみ上げる。
それでも気にせずヴィカは話し続けた。
「アンナから聞いたわ。あの晩、貴族のところにお願いにいってくれていたのね。怪我から回復したばかりなのに」
「いいよ、俺も意識が戻ったばかりでハイになっていたのかもしれない。悪かったよ」
ヴィカはそれを聞くと安心したのかそっと胸をなでおろす。
「ねぇ、どうなると思う。この先、この悪夢のような現実はいつ目で続くと思う」
「わからない。ウルサス軍がすぐ来ると思っていたけれどそれもないし、とにかく情報がなくて先が見えないんだ」
「そうよね──」ヴィカは少し考えた後再び口を開いた。「そんな中、あなたはどうするの?
彼がいなくなって私は、分からなくなったわ。他人を蹴落としてでも生きていくことに希望も何も持てなくなった」
ふとヴィカの雰囲気が変わる。存在が希薄になっていき、どこかへもやのように消えてしまうようなそんな危うさがあった。
「俺は──」ヴィカを引き留めるかのように私は話し出す。「やれることをやるだけだよ」
「やれることって?」
内ポケットにしまった本の厚みを確かめるようにして私は胸に手を当てる。
「秋の始まり、今よりもっと陽が暮れるのが遅かったときに剣の師からあることを言われたんだ。『あなたが貴族なら』そんなことをね。あれからずっとそのことに考えてきたんだ。俺が貴族になればなにか変わるのか考え続けたんだ──」
「けれど何も変わらないと思う。どこまで行っても貴族は貴族で、先祖が勝ちとった権力によって自分より下の者から奪い取っていくんだ。大切なものもなにもかもをまるで盗賊のように。そこの一員に俺が加わったところで何も変わらない。ロストフ家でもきっと無理だ。それでも──」
そういって思い出す。あの日、私がルカを倒したとき強い戦士が、膝をつき泣いている姿を。
「その人のためなら、って思うことがあるんだよ。その人のためなら体を張ってもいい、その人のためなら頑張れるとか、そんなことを。きれいごとかと思うだろ。だけどそういう風にルカは──師匠は思ってくれたんだよ、俺のことを」
そっと剣をなでる。頼もしい感触だった。指先からビリビリとした感覚がひろがっていき自然と肩から無駄な力が抜ける。
「俺たちは階級やルールのために生きているんじゃない。ましてやテロリストに膝まづくためでもない。ただ周りの人が無事でいてほしいだけ。そのためにまあなんとかやっていくんだ、なんとかね」
二人は黙って話を聞いていた。ソニアは黙りこくったまま遠くをみていて、ヴィカは私を見て静かに泣いた。消え入るように何度か嗚咽を漏らした後、涙が頬を伝う。それがどこまでも透き通って見えて、思わず見とれてしまった。
「けれど信用できるの? あなた騙されるかもしれないのよ、その信頼できる人に」
「まあ、その時はその時だよ。絶対的な信頼なんてないし、それがないと信頼しちゃいけない理由にはならない。だから俺は強くなりたいんだ。権力を使って奪ってくる奴らや、馬鹿にしてくる奴らに負けないくらいの力が欲しい。だから俺は剣を持ったんだ」
私の手の中で剣は圧倒的な存在感を持っていた。威圧的なものでなくどこか心安らぐような柔らかな気配。それに私は何度も励まされてきたのだ。
「あなたに」
ヴィカは声を漏らした。かすかなささやきのような声だった。
「あなたにもっと早く出会えていたら、よかったのに。ピョートル、やっぱりあなた運ないわよ」
ヴィカは茶化すように笑ったあと私に言った。
ピョートル、亡くなった彼の名前よ。
そういうとヴィカはアンナのもとへ行き横になった。こちらからは背になって見えなかったけれど、よく眠れるように心から祈った。
ソニアはその様子を静かに見守っていた。透き通った青い目だった。
「なあ、今日は何日だっけ」
ソニアは突然そんなことを聞いてきた。
「六日目、さっきも聞いたぞ」
「ああそうだな」ソニアはいら立ちを抑えるかのように足をガタガタと揺らす。
「そうだったな。アタシが言ったんだ。そうだった──」
そういってソニアは目をつむり、扉に背をつける。何かから恐れるようにして両腕を組んだ後ソニアは言った。
「早く寝ろよ」
いら立ちと悲しみを含んだ声、それを頭の中で何度も繰り返して眠った。
襲撃も悲鳴もなかった。ただ廊下を歩く複数名の足音が聞こえ、そのたびに紐が軽く引っ張られた。
不気味な夜、いまだに月も星も姿を現すことはなく黒雲が空を覆っていた。
翌朝、ヴィカは水を汲みに行くと言って出ていったきり彼女は帰らなかった。