自転車をしゃこしゃこと忙しなくこいでいるから、正面から強めの風がずっと吹いている。
おかげで髪は流されて、後ろのほうへたなびく。
ビーチェのことだ、赤いおさげは後ろの方へと揺れていた。
数日前からずっと、ああだこうだと悩んでいる。
先生と連絡したらやはり忙しそうだったし、となれば浦和さんは当然忙しいだろうし、おれは暇で、やることは全然なくて、やりたいことはできないから……
それで、ずっと悩んでいる。
ふと、横目に空をみた。
夕焼けから黄昏に移っていたはずの空は、もうすっかり夜だ。
街灯の光が、夜空を薄いけれど確かに覆う雲にあたって、なんだか白っぽいような黒いような、中途半端な具合に仕上げていた。
おれの気分が似たり寄ったりだから、ちょっとシンパシーを感じるけれど、だからといって好転するものは特にない。
「……ふぅ~。」
細長いため息が、口からこぼれ、頬を撫でていく。
あたたかい吐息だった。
「……私に聞きたいことがあります。」
「ん?」
おさげのビーチェはたなびいていたけれど、そのボディをぐんと前に持ち上げた。
声が一気に聞き取りやすくなった。
「このままずっと悩みを抱えているよりも、はやく解消しにいったほうがいいと思います。
確かに、浦和ハナコや先生の邪魔になるかもしれませんが、しかし……
いえ、言葉を変えましょう。
あなたが心配です。」
「心配?」
「私は必要以上にこの件を重要視しているようにみえます。
気にするにしても、そこまでしなくていいように思うのです。」
「それは、そうだな。」
「……
ではなぜ、ほかのことに視点を向けないのですか?
たとえばクレープを食べるときに頬にクリームが付かないよう気をつけること……これは結局、ノートに書いたっきりやろうともしていませんよね。」
「うう……それは、うん。」
「手を付けられるものからやればよろしい。」
「うん……」
「けれどそれは嫌と。」
「うん……」
「もう少し、自分を優先してもいいのでは?
もっと、ほかのひとを信用し、頼ってもいいはずです。
先生は頼りになる人物であり、同時に浦和ハナコは非常に優秀であることが明白です。
補習授業部の件は、きっとどうにかなるはずです。
そう考えて、すこしお邪魔をしても、いいではないですか。」
「ビーチェ、それは、ちょっと違う。」
おれは自転車のペダルを、変わらない力加減でこぎ続ける。
運動をしているからか、そのことばはすっと出てきた。
「おれは浦和さんにもっと幸せになってほしいのであって、いやな気分になんてちっともしたくないんけどさ。
それはたぶん、おれがそう感じたいから、そうしたいってことなんだ。
根っこはそこなんだよ。
やりたいことをやるために、やりたくないことをやる必要は……
少なくとも、これが義務とかに結びついてない以上、ないんじゃないかな。
だから、ビーチェのいうことは間違いないし間違いじゃないけど、おれは多分間違ってる最中だけど、それでもこうしたいから、このままだ。
もう決めた。なにいってきても変えません。」
それから少し、風の音だけが続いて……
おれはちょっと不安になって、ビーチェをちらりとみた。おさげは、風にたなびいていた。
そのとき、小さな声がした。
「実に、興味深い……」
「え?」
「私はいま、感動しました。」
「え???」
ビーチェの声は上ずっていた。
「主体性を失うことによってこそ得られる知見ですね……
あなたが私でよかった。
いえ、私は、あなたの一部になれてよかった。
本心からそう思いました。」
「な、なに?ちょっとこわ……」
「ふふ……
気にする必要はありませんよ。
こんなにすっきりした気分は、いつぶりでしょうか……
あらためて、ありがとうございます。」
おれは少し唇をもにょもにょした。
よくわからん……
そのときふと、疑問が浮かんだ。
(そういえば、ビーチェの過去って教えてくれるのかな?)
「……過去ですか。
そう楽しいお話にはできませんよ。」
「教えてくれるの?」
「あまり、気分はのりません。
ですが、多少は教えても、いい気がしています。」
「教えて。」
ビーチェはやはり、その細長く赤いボディで、たなびいている。
「私は、崇高とよばれるものを目指していました。
それがなんなのかはさておき、それを目指した理由なのですが……
それが立派な手段だったからです。」
「……ん?」
「私はやりたいことや目指したいものがなかったのです。
幼少期から人格形成をするにあたって、適した刺激を受けなかったためだと、自己分析できます。
そして私にとってそれは、それまでただ生きるために生活を積み重ねてきましたから、当たり前でした。」
「……」
「やがて成長するうちに、大人と呼ばれるひとを知り、真似をして、大人が行うような行動というものを知り、真似をして……
そうして、立派な手段である崇高に至った結果が、いまです。」
おれは、どういう話をすればいいのかわからなかった。
深刻な話に聞こえるが、それがなぜそうなのか、わからなかった。
少しして、ビーチェはまた、言葉を投げてきた。
「そういうわけですから、先ほど感動したのです。
……私ははじめて、やりたいという気持ちを理解できた気がします。」
「そ……っか……」
(重!)
おれは唇をもにょもにょする。
どう受け止めればいいんだ!?
わからない……
けれどビーチェは(おさげだからよくわかんないけど)満足した雰囲気で、ずっとたなびいたままだ。
おれは悶々としながら、自転車をこいでいく。
そしてずっとして、とりあえず帰るか、という気分になって、帰って、寝た。
そういう夜が、あった。