「はぁっ……はぁ……は、ぁあ……」
走って、走って、ひたすらに走り抜いて。
目的も無く走り抜けたのち……そうして辿り着いたのは、いつかの古井戸の前。
10日前、研究所から逃げ出したポケモンたちを追いかけた末、まだデシエビだった頃のびぃタロが隠れていた場所。
幸いにも、昨晩のナミノルロス襲撃の被害を受けていなかったらしく、砂埃を被っているものの、至って以前と変わらない状態だった。
路地裏の突き当たりにある事もあって、周囲に
「ぁ……あ、ぁあ、ぁあああぁあ……っ」
どこを目指すでもなく、無我夢中に走ってきたにも関わらず、この場所に辿り着いた。
その事実に、少女はフラフラと井戸へ歩み寄ると、半ば崩れ落ちるようにして座り込み、石造りの井戸にもたれかかった。
ぼんやりと、力無く天井を見上げる。
遠く、遠く、手すら届かない遥か高みに、もう1つの世界“
“
それが、この旅の目的だった。それが、ソラがこの“マハルの地”を旅する理由だった。
その為には、こんなところで足踏みをしている訳にはいかない。
なんせ、昨日の昼に、シェラから1つ目のバッジをもらったばかり。最果てに至る為に必要なバッジは、まだ7つもある。
旅を再開しなければならない。
プルガーシティの西を目指し、次の
けれど、だけれども。
「……ひいさま。ここにおられニャしたか」
「っ……じいちゃん、か」
自分以外にいない筈のこの場に、何者かが現れる。
一瞬ビクついたソラだったが、しかし現れたのがニャースだと分かると、すぐに落ち着きを取り戻し、全身がにわかに脱力した。
「いきなり飛び出しニャされて、皆様たいそう驚いておいででニャしたよ。……と言っても、ひいさまのお気持ちも分からぬ訳ではありニャせんが」
「……うん。そう……そう、だよね。うん、きっとそう……きっと……」
枯れた井戸に背中を預けたまま、己の膝を寄せ、体育座りのような姿勢になる。
膝に顔を
ニャースは何も言わない。
何も語らずに寄り添い、己の主が気持ちを整理し切るまで、ゆっくりと待つ。
やがて、少しばかりの時が経った頃。
ソラは、どこか苦痛に呻くような、か細い声を漏らし出す。
「……分かってたんだ。分かってた、筈なのに」
その呟きは、懺悔にも似ていた。
「急激な進化はポケモンに負担を与える事も、“ボルテッカー”の反動が強烈な事も……どっちも、分かってた。分かって、ちゆりんにそれをさせた。わたしが、そう指示した。でも……実際のところは、分かってた
「ひいさま……」
「知識はある。父さんの残した大量の研究資料を、絵本代わりに呼んだ事もある。スマホを開けば、世界中の色んなニュースやバトルを目にできた。わたしの頭の中には、ポケモンに纏わるたくさんの知識がある」
でも、と少女は声を零す。
「……わたしには、経験が無い。知識はあっても、それを活かした経験が無い。だから、知識として知ってる事でも、
ネガティブな思考ばかりがグルグルと渦巻く中で、ソラが思い出したもの。
それはウツシタウンから旅立ち、初めて1番エリアに繰り出した時の事だ。
まだモンスターボールの投げ方も下手っぴで、野生ポケモンを取り逃がしてばかりだった頃。
あの頃のソラは、資料やネットで得た知識だけが頭の中にあって、経験というものにとんと欠けていた。
それから少女は、旅立ってからの1週間で、色んなものを目にしてきた。
未知のポケモンに、初めて会う人物たち。彼らとの出会いが、少女にポケモントレーナーとしての経験を与えた事は間違いない。
この世界に来てより、かれこれ11日目。
多くのものを見て、体験してきたソラの価値観は、地上にいた頃のそれとは、明らかに変わってきている。
それでも、たったの11日なのだ。
の在り方が完全に変容し、また成長するには、2週間に満たない日数というのは、あまりにも短い。
「この世界に来て、わたしは変われる事ができた。少なくとも、地上にいた頃よりは成長してると思う。でも……やっぱり、わたしはわたしのままだ。変われてないところの方がずっと多くて……頭の中の知識に引っ張られてしまっているのは、前と変わらない」
シェラとの
なまじ頭がよくて、理屈ばかりが先行した結果、足元を掬われ、バトル中にも関わらず酷く落ち込んでしまった。
その時こそ、「時には理屈で考えずに突っ走る事も大事」と気付き、結果として勝つ事ができた。
けれどもやっぱり、知識や理屈に引き摺られ、足元を見落としがちになる短所は、完全には改善し切れていないのだ。
「それが、わたしだけに波及するなら、まだいい。ヴォイド団を相手にする時みたいな、命に関わるバトルとかでも無い限り、負けても次がある。取り返しのつく失敗なら、皆に怒られながらでも、その度に修正したりできる」
「……」
「でも……今回は違う。症状こそ軽いらしいけれど、もしも何かが違ってたら、ちゆりんの命そのものが危なかったかもしれない。わたしの軽率な判断で、あの子の命を危険に晒した。そして、わたしは……その結末に、どんな償いをすればいいのか分からない」
目が潤み、涙が滲み出すのを、必死になって押し留める。
服の袖に両目を押し当てて、涙が溢れないように、泣いていると思われないよう務める。
分かっている。
こんなところで、悲劇ったらしく泣いていても、何も解決しない。
ソラが今やるべきは、決断を下す事。
博士たちの見解を仰ぎつつ、当のちゆりんとも対話し、最終的な判断を彼女が下さなければならない。
自分の失態を、浅慮を、いつまでもグチグチと漏らしていたって、状況は何も進展しない。
そんな事は分かっている。
けれど。
「ポケモンのする事、ポケモンにする事の責任は、トレーナーが取る。全部がわたしの判断で、全部がわたしの責任。わたし、わたしは……その言葉の意味を、これまで、本当の意味では分かってなかったんだ……」
己の両肩に乗せられた、
ポケモンの“おや”となる事。そのポケモンの命を負う事。
それを真の意味で実感した瞬間──立ち上がれなくなるほどに、ズッシリとした重責を感じざるを得なくなった。
そして、己の行いがどんな意味を持ち、それ故にどのような結果を生むのか。
その事実から目を逸らしたくて、それでも逸らす事ができないジレンマが、更に少女の心を苛んでいた。
「あの時……神官の人たちが、わたしたちが戦いに参加しようとしたのを、必死になって止めた理由が、ようやく分かった。今の……バッジも1つしかない、今のわたしの実力じゃ……わたしや、わたしのポケモンたちの命を、無為に危険に晒すだけだったんだ」
そう話し続ける間にも、頭の中の激情は未だ渦巻き続け、ちっとも纏まりやしない。
話せば楽になるかとも思ったが、実際はその逆で、語れば語るほどに、思考がより一層撹拌されゆく始末。
早くテントに戻って、飛び出した事を皆に謝って、これからどうするかを考えるべきだ。
分かっている筈なのに、体が動かない。足が石になってしまったかのように、力を込める事ができないのだ。
「……そうでニャス、なぁ……」
ソラの吐露が終わったのを待って、ニャースが重々しく口を開く。
彼は、彼女が生まれたばかりの頃から、ソラの事をずっと見てきて、そして世話をしてきた。
故にこそ、こういう時にどう寄り添うべきかを知っている。どのように声をかけるべきかを知っている。
「ひいさまは、後悔しておられるのでニャスか? ヴォイド団を、ナミノルロスを止める為に、戦う事をお選びになった事を。その結果として、ちゆりんさまのお体に障りが起き、旅から外さざるを得ニャくなったが故に」
「……わかんない」
ぽつり、と声が上がる。
ニャースの呼びかけは、まるで夜に絵本を読み聞かせる時のような、穏やかなものだった。
それ故にソラは、荒ぶる事なく、静かに声を紡ぐ事ができた。
「もしもあそこで、わたしたちが戦わなかったら……ナミノルロスを倒さなかったら、町にもっと酷い被害が出てたかもしれない。もしかしたら、誰かが死んじゃってたかもしれない。町にいたじいちゃんも、巻き込まれてたかもしれない」
「それは確かに、そうで御座いニャしょうなぁ……。ニャーは老いさらばえ、戦う力も持たぬ身。あのように凶暴なオヤブンには、とても太刀打ちできたものではありニャせん」
「うん……。勿論、ただの『
段々とか細く、弱々しくなりゆく声。
果たして、その先にどのような言葉が待っているのかを、老ポケモンはしっかり理解していた。
「
「……うん」
三角座りで、膝に顔を
ここまでの旅の中で、ソラは、自分のポケモンたちを信じる事が肝要だと学んだ。
ポケモンたちの力を信じて、彼らに己を託す。ポケモンたちは、そんな自分に応え、最大限の力を以て報いてくれる。
それが、トレーナーとポケモンの関係性。
だが──もしも、そんなポケモンたちの命運を、己の未熟さが故に、悪い方向へ傾けてしまうとしたら?
「わたしが、トレーナーとしてもっと優秀だったら……ポケモンたちの力をもっと引き出せて、皆の体の事にも気を使えるくらい強かったら。……おかしいよね。こんな事を今考えてたって、どうにもならないのに……そんな事ばっかりが、頭に浮かぶんだ」
ソラは頭がいい。
経験こそ足りないが、知識は勿論、思考力や頭の回転の早さも上々だ。
だから彼女は、自分に何が足りないのかも、これからどうするべきかも、なんとなくなれども分かっていて。
その上でなお、それ以上のネガティブな感情に絡め取られて、動く事ができずにいるのだ。
「怖い……怖いよ、じいちゃん。わたしが未熟なせいで、皆に迷惑をかけちゃうかもしれない。わたしが弱いせいで……わたしは、わたしを信じて、わたしに応えてくれるポケモンたちに、取り返しのつかない事をしてしまうかもしれない……」
「ひいさま、それは……」
違う、と。
ニャースが、そのように言葉を続けようとした、その声に被せるようにして。
「バァカ。この程度の事、いくらでも取り返しがつくに決まってんだろ」
路地裏の出口から差し込む影ひとつ。
同時に漂ってくるのは、ヴォイド団の秘薬が帯びる甘ったるい匂いではなく、鼻が曲がってしまうような煙の刺激臭。
果たしてその正体は、やはりルスティカ博士だ。
その手の内では、テントの中にいた時は持っていなかった筈のタバコが1本、もうもうと煙を吐き出していた。
今の今まで俯いたままだったソラも、彼女の登場に思わず顔を上げる。
見上げた先の博士は、いつものような、ふてぶてしい態度のままで立っていた。
「は、かせ……?」
「ルスティカ博士、お体は大丈夫でニャスか? 病み上がりの身でタバコをお
「るっせ、吸ってなきゃやってられねー話題だろーが。そこは後で怒られとくさ」
何の容赦もなしに、ズカズカとソラへと近付く。
己の体を覆うほどの長い影に、少女の体はビクリと震える。
己の浅慮を責められるのではないか。
或いは、己の未熟さを呆れられ、失望されるのではないか。
地上にいた頃は感じもしなかった──否、他者への関心を諦めていたが故に、抱く事の無かった感情。
“マハルの地”で、暖かく優しい人たちに巡り合ったからこそ抱いてしまった、「見捨てられたくない」という恐れ。
「わた、わたし……博士、あの、わたし、は……っ」
震える喉。震える体。揺れる瞳孔。
すっかり怯え切った少女をまじまじと見下ろし、ルスティカ博士は──
「
「……ぇ」
「進化したばかりのピカチュウに“かみなりのいし”を使えば、どうなるか。あたしはそれを知っていた。知った上で、あんたに石を寄越した。あんたのライチュウがああなった責任は、少なからずあたしにもある」
「そ、んな……。でも博士は、あの時、ちゃんと警告してくれていて……わたしは、それを聞いてて、その上で……」
「あたしは曲がりなりにもポケモン博士だ。そう自認する立場にある。そんなあたしが、『警告はした』で責任を果たせたとは思っちゃいねぇ。それでもあの場は、ああする方がいいと判断して……町と、あんたのポケモンとを、天秤にかけた」
頭を上げた時、博士の目に映っていたのは、ソラに対する糾弾でも、失望でもない。
「だから……そんな風に、自分を追い詰めんじゃねぇ。あんただけが悪かった訳じゃねぇし……そもそも、あたしがヘマしてこんなザマにならなきゃ、あんたらの手を煩わせる事も無かったのによ」
己の不甲斐なさに対する怒りと、ソラへの罪悪感。
先ほどまでのふてぶてしさはどこへやら。そこには、悲哀を噛み殺すような顔つきだけがあった。
タバコを持つ指先にも、必要以上の力が入り、タバコが微妙にひしゃげているのが見て取れる。
よほど、自分の無力さが悔しく……そして、申し訳が無いと思っているのだろう。
「だからこそ……ってのもおかしな話だが、ライチュウがこの町に残るってのは、ある意味じゃ渡りに船でね。ソラさえよければ、あいつをあたしに預けちゃくれねーか?」
「渡りに船……って、どういう──うわひゃ!?」
「ジャララ!」
ルスティカ博士の背後からヌッと現れたのは、うろこポケモンのジャラランガ。
それも昨日、オヤブンナミノルロス相手に戦いを挑み、そして敗北した例の個体だ。
やはりあの後、戦闘のダメージが響いたらしく、全身至るところに包帯が巻かれている。
それでも元気ハツラツといった様子で、ふらつくところも見せずにノッシノッシと歩いている辺り、伊達にドラゴンタイプではないという事か。
「こいつ、元は“死出の森”を追い出されてきたはぐれなんだけどな、これがまた小生意気な奴でよ。町に居着きこそすれ、あたしらの手伝いをする事には乗り気じゃなかったんだが……今回の件で、どうも思い直したらしい」
「ジャーラァ!」
「んん? えーっと、
尻尾を振り振り、何かを主張するジャラランガの呼びかけに、ニャースが耳を傾ける。
今でこそ人間の言葉で話すようになっている彼だが、ポケモン同士、
「……どうやら、ちゆりんさまの事を『師』と仰いでおられるようで御座いニャス」
「師……? えっ、ちゆりんがあなたの師匠……って事?」
「ジャァラ!」
「こいつ、ナミノルロスにボコられてノビてたろ? 自分を負かしたナミノルロスをブッ倒したってんで、あのライチュウの事をリスペクトしてるらしい。あいつの下に着きたい……みたいのを、主張してるっぽいんだ」
なんとも奇妙な話だが、元が野生出身ともなれば、さもありなん。
自身より格上のポケモン相手に
「今回こそなんとかなったが、またヴォイド団が襲ってくるとも限らねぇ。そこでだ。
「ボディー、ガード……博士の護衛、って事ですか?」
「ロコンだけじゃ、数で押された時にジリ貧ってのが分かったからな。数は多い方がいい。その点、ライチュウは最終進化の種族だ。それに、あたしも一応、
確かに、博士がポケモンを育てるのが上手いというのは、シェラからも聞いた話だ。
事実、博士のロコンのみならず、ソラが捕まえ預けていたポケモンたちも、それなりに育っているのを知っている。
「あたしに預けてくれりゃ、悪いようには絶対にしねぇ。ポケモン博士の名にかけてな。それに、この先どんな街に行ったって、宿屋にゃパソコンが置いてある筈だろ。あんたが言いえば、いつでも話くらいはさせてやるさ」
「……わた、わたし、は……」
言葉を淀ませるソラを見て、博士は鼻から息を吐く。
それからタバコを口に咥えて、煙を口の中で転がし、瞑目した。
「……確かに今回の件、あんたが無鉄砲に突っ走ったのも原因のひとつだろうさ。そりゃ間違いねぇよ。ライチュウがあんな状態になってるのは、あんたに力が足りなかったからかもしれねぇ」
「……っ」
「それでも、その根底にあったのは、この町を守りたいって気持ちだったんだろ? ……すげぇよ、あんた。この町の住人でも
不意に、手が伸ばされる。
ソラが抵抗する暇も無く、博士の手は、彼女の髪をわしゃわしゃと撫で回した。
乱暴ながらも優しさのある手つきが、ラベンダー色の髪をこれでもかとくすぐって。
それが終わって、少女が顔を上げた時、ルスティカ博士はタバコを咥えたまま、ニッカリと笑いかけてきていた。
「ありがとうな。あたしたちの為に戦ってくれて。あたしたちの為に、命を賭けてくれて。そんで……ロコンを、あたしの大事な家族を救ってくれて、本当にありがとう」
そこが、限界だった。
その言葉をかけられた瞬間、今の今までどうにか堪えていた涙が、ぶわりと、滝のように溢れ出したのだ。
「あんたから受けたこの恩は、絶対に忘れねぇよ。約束する」
「わ、わたっ、し……ごめ、ぁ……わ、ぁああぁああぁああああ……っ!」
叱られると思っていた。或いは、見捨てられると思っていた。
己のしでかした事の罪と、その重さを、まざまざと突きつけられるのだと思っていた。
だが、違った。
博士は、ソラの未熟さを指摘した上で、それでも町を、己の家族を救ってくれた事への感謝を告げてきた。
それは、ソラにとっての救いであり──同時に、罰でもあった。
嬉しさの内に、
「強く……っ、強く、なりますっ! 皆を、守れるように……! ちゆりんを……皆を、あんな目に、合わせないくらい……っ! 強くて、賢くて……っ、
それは、ひとつの決意であり、誓いだった。
もう、誰も傷つけないように。誰も奪わせないように。
そして──その為に行動した結果として、自分が誰かを取り零す事が無いように。
その叫びを、博士とニャースは、静かに見守っていた。
彼女の涙が終わるまで、ずっと、寄り添うように。
「……ああ。あんたなら、きっとなれるさ。これは、あんたの
この後【18:00】より2回目の追加投稿を行います。