瞼を閉じれば、彼の姿を思い返す事ができる。
いや、今になってようやく、彼の事を思い出す事ができるようになった……と言うべきか。
──やー、ソラくん! 久しぶりだね、元気にしていたかい? 少し見ない間にまた大きくなったね。目元もクレオメくんに似てきていて、やっぱり親子だなって実感するよ。
プラターヌ博士。
カロス地方のポケモン博士であり、ポケモンの進化と変化──特に“メガシンカ”と呼ばれる現象の研究に熱心な人物。
ソラの父、クレオメ博士と彼は、古くからの知己だったと聞いている。
彼は同じカロスに住む者同士、何より友人の忘れ形見として、幼かったソラの事を何かと気にかけてくれていた。
『そこのあなた! また悲しそうなカオをしていますわね! ここはひとつ、あたくしが一肌脱いで、最近あった面白い事を教えて差し上げますわよ!』
『それは逆効果だよジーナ……。驚かせてゴメン。でも、この家はいいところだね。クレオメ博士の資料は面白くて、ぼくもフィールドワークの参考にさせてもらっているんだ』
ソラが別荘に住まいを移してからも、彼は自らの弟子たちとともに時折別荘を訪れては、助けになろうとしてくれていた……筈なのだ。
『これ、お土産のミアレガレットだよ。買ってすぐリザードンに乗って飛んできたからね、焼き立てアツアツさ! ニャース
『……いらない。どうせクラスの男子みたいに、中身は泥団子なんでしょ?』
それを、当時のソラは──酷く、拒絶してしまっていた。
無理も無い話だ。
当時は「クレオメ博士は学会で自分の妄想を吹聴していた」という風評が最も色濃かった時期であり、それだけに、娘のソラへ向けられる悪意もより強かった。
今でこそ精神も成熟し、過去についてもある程度は達観(或いは諦観)しているが、当時の幼く脆い情緒にもそう在れ、というのは些か理不尽というものだろう。
ニャース以外のすべてが敵に見えていた当時の少女にとって、純粋に友人の娘を案じていたプラターヌ博士もまた、他の有象無象と同じ「悪意を以て近付いてくる存在」だったのだ。
『お前の父親は地底人だから、娘のお前も土が大好物なんだろ?って……女子も笑って見てるし、先生は止めないし。お父さんがウソつきな事はみんな知ってるって、オーキド博士も父さんを最低だって思ってるに決まってるって、あいつらが……』
『……申し訳ありニャせん、博士。ひいさまは昨日からこの調子で御座いニャして……。また日を改めて訪れて頂けると……』
『構わないよ、翁。そんな時に不躾に来てしまったのはボクの方だからね。
ボロボロ泣きながら敵意を向ける自分に対しても、博士はカラッと笑い、こちらを排斥しようとする素振りなんて、ちっとも見せなかった筈なのに。
そうして博士は、やおらにしゃがみ込み、こちらと目線の高さを合わせてくれたのを、ソラは覚えていた。
『けどね、ソラくん。1つ、きみの言葉を訂正しなければならない。オーキド博士は……クレオメくんのお師匠さんはね、決して彼の事を馬鹿にしたり、最低だなんて思ったりはしていないよ。あの人は、行方不明になったきみのお父さんの事を、いつも案じておられる』
『……うそ。だって学校の先生も、いきなり家に来たおじさんたちも、みんなそう言ってて……博士も、お父さんの言ってること、ウソだと思ってるんでしょ?』
『……きみの気持ちは分かるつもりだ。だからボクも、誠意を以て、嘘偽りなく答えよう』
目を伏せ、言葉を選ぶように沈黙し。それから博士は、ゆっくりと口を開いた。
『
『……やっぱり、ウソつきだって思ってるんだ』
『おっと、結論にはまだ早いよ。でもね、彼は凄い人だよ。彼の研究で新たに発見された史料、見直された古代史はいくつもある。シロナくんも感嘆していたよ。できる事なら、自分も“マハルの地”について調べてみたいって』
1つ1つの言葉をハッキリと発音し、幼い少女にもキチンと聞き取る事ができ、また言葉の意味が理解できるように。
その語り口には、傷だらけの心を抱えた少女への、配慮と優しさがあった。
『ボクたちは、世界のすべてを知っている訳じゃない。過去に起きたすべての事も、完璧に把握している訳じゃない。何より、ボクたちはポケモンの事を何も知らないんだ。だからボクたちは、クレオメくんの語る“マハルの地”の事を、「絶対にウソ」だとは否定しない』
『……なんで』
『それが、研究者というものだからさ。この世に絶対は無い。今は誰にも分からなくても、いつか分かる時が来るのかもしれない。今分からない事を、今の知識と価値観だけで否定するのは、研究者という存在そのものへの侮辱と愚弄になるからだ』
理解できない。分からない。
悲しみと怒りと失望と恐怖と、その他の色んな感情がぐちゃぐちゃに入り混じった少女の心では、プラターヌ博士の語る言葉を完全に理解し切る事はできなかった。
博士もまた、その事をきちんと分かっていたのだろう。
だから“マハルの地”の虚実に纏わる話はそこで止めて、「いいかい?」と次の句を紡ぎ出す。
『もしもきみが、何かを肯定したいと思うなら、その何かを否定する人と会いなさい。そして逆に、何かを否定したいと思うなら、今度はそれを肯定する人と会うんだ。異なる価値観、様々な考え、真逆の思想を受け入れ、ぶつかり、考えるんだ』
『……お父さんのことを馬鹿にする人たちと、お話しなきゃいけないの?』
『無論、今すぐにって訳じゃない。やりたくないなら、強制もしない。他人とぶつかるのは痛みを伴うし、辛い事だ。でもね、ソラくん』
──考え続けるんだ。
「……プラターヌ博士はそう言ってた。それから暫くして、わたしがもう来ないでって言ったせいで、それきり来なくなってしまったけど……。なんで今まで、こんな大事な事を忘れてたんだろう」
いや、理由は分かっている。ソラが、心に蓋をしていたのだ。
心が押し潰されそうになって、耐え切れない事を悟った幼子が、無意識に辛い記憶ごと心に鍵をかけ、意図的に忘却してしまっていた。
それでも、彼や彼の弟子からかけられた言葉は、確かに心の中に残っていたのだろう。
だから彼女は、決定的に擦れ切ってしまう事無く、諦観なれども穏やかな少女のままでいる事ができていた。
そんな心の鍵が、“マハルの地”での冒険で少しずつ解きほぐされ、封じていた記憶を再び蘇らせるに至ったのだ。
そうして少女は、自分にも味方が──優しい誰かがいた事を、ようやく思い出した。
「じゃあソラは、そのプラターヌって人にもう1度会って、話がしてみたいのか?」
「……とは言っても、正直、まだ信じ切る事は難しいと思う。心のどこかで警戒しまうのはやめられないかもしれないし……無いと思いたいけど、でももしかしたら、あの時の事を怒っていて、もう会ってくれないかもしれない」
でも。
少女はそう息を吐いた。
「……ちゃんと、謝りたい。あの時の事を。それから、これまでにあった事を全部話して、教えてもらって……それで」
そこで1度言葉を止めて、リクの方へ振り向く。
少年もまた、その気配を感じたのだろう。作業の手を止めて振り向き、少女と視線を交差させた。
「……
父の汚名を晴らすでもなく、世間を見返すでもなく。
自分が味わった感動を、ドキドキを、興奮を、皆にも共有してほしい。
それはただ、それだけの感情であり──それ故に透き通った、旅の動機でもあった。
「……そか」
リクは頬を緩ませ、それだけを呟いた。
それが無関心や嘲笑故の事ではないと、ソラは理解していた。
「なら、このジムテストを終わらせて、次の街に行かなきゃな! この世界の隅から隅まで知り尽くして、ドーンとプレゼンしてやろうぜ!」
「……うん、そうね。こんなところで足踏みしている場合じゃないわ」
頷き、掃除用具を片付け始める。
彼らとて、ただお喋りに興じていた訳ではない。
こうして言葉を交わしている間にも作業は進められており、たった今、指定された階層の掃除を大方終えたところだった。
「……よしっ、この風車の掃除はこれでおしまいね」
「だな。そんじゃ、外に出てシェラさんに声かけようぜ」
取り零しが無いかきちんと確認した後、ポケモンたちを連れて風車の外へ出る。
その後ろを、監視役のヨルノズクが静かについてきていた。どうやら彼の目から見ても、問題は無かったらしい。
ゴミ袋は、ソラとリクとで分担して持ち運ぶ形だ。
何分、ヤミカラスたちが巣作りに使っていた端材や、盗品らしき光り物(“しんじゅ”や、“ほしのかけら”などの事だ)もある。その辺りの分別と仕分けは、シェラにしてもらわなければならない。
「──おっ! お掃除おっつかれさまー♪ 2人いたとはいえ、1時間で風車1つのお掃除完了とは、中々やりますなー☆ その調子で次も頑張ろーね♪」
……そうして外に出た途端、シェラがしれっとそこにいて、2人を出迎えた。
彼女も使った形跡のある掃除用具やゴミ袋を抱えており、ソラたちよりも先に自分のタスクを終えていた事は、目に見えて明らかだ。
「……上層や羽の掃除、もう終わったんですか?」
「まーね☆ シェラちゃん的にはいっつもやってる事だしー、ついでに他の風車も羽を止めてきたから、サクサク次へ行けちゃうよ♪」
「い、いつの間に……!?」
バッ、と遠景に目をやれば、確かにいくつもの風車がその回転を止めていた。
事前に根回しはされていただろうし、街の仕事に影響は出ないのだろうが、しかしその数は……
「いち、に、さん……え、いくつあるんだ!?」
「ああ、安心して? 流石に全部やってもらうワケじゃないからさ☆ いくつかは
んー、と人差し指を頬に当て、考え込むようなわざとらしい仕草。
上に向けられていた視線が少年少女を捉えた時、どこか猛禽類めいた威圧感を覚えたのは、果たして気のせいだろうか?
「1時間でやれたんなら、そうだねっ! あと3、4
驚きのあまり顎が外れてしまう漫画的表現は、どうやら真実だったらしい。
それほどに大きく口を開けたまま呆然とするリクの横で、目眩に襲われたソラがゆるゆると地面に膝をついた。
「こ、れは……開幕から過酷な巡礼になりそうね……」
「ソラ、過酷な旅ってこういう意味じゃないと思う……」