心地よい日差しが降り注ぐ、梅雨時には珍しい晴れの朝。
"ちょっと出かけてくるねっ!……大丈夫〜っ、すぐ帰るし、私は迷子になったりしないよーっ!"
そう言って魔王軍の門を飛び出し、しばらく走った。
……後に、猫は足を止め、自然と深いため息をつく。
"…………はぁ……"
この頃猫は、彼岸の生き物に何度も引き摺り込まれかけるほどに弱っていた。
猫ほど怪異として強い存在は、滅多にいない。
怪異が手っ取り早く強くなるためには、同族の吸収をするのが一番の近道。
だから、この世のものでは無いものたちは、猫を隙あらば自分の養分にしたがっている。
平時であれば、向こうが手を出してくることなどない。だが、猫は今、抵抗力が弱っていた。
それを付け狙って、これでもかとこの世のものでは無いものたちが猫を狙い、襲っていた。
振り返った先、物陰、ベッドの下、木陰、街の路地裏。あらゆるところに、それらは居た。
人の形をしたものから、原型のない黒い塊まで、無駄に種類が豊富だ。
……ライオンでも、死にかけていればネズミ相手ですら負けて、屠られてしまう。
もちろん抵抗して生還することは出来ているが、それがいつまでも続けられるとは到底思えなかった。
なぜこれほどまでに弱ってしまっているのか。
それには様々な理由が絡んでいる。
未だに治まりきっていない食人衝動。目を閉じればフラッシュバックする、あの子の苦しんだ日々と、最初で最後の食事の光景。
生きていた時も、死んでからも、あの子に何もできなかったどころか……。
"う゛…………っ゛……"
如月駅に向かう道中。
ストレスから来る猛烈な吐き気に襲われて、膝をついた。
草むらで吐き気と戦いながら、ぜぇぜぇと息をつく。
その隙を狙って、手が暗闇から伸ばされ、影がまとわりつく。
……それらを乱暴に振りほどき、……猫は無理やり立ち上がった。
ふらふらと時折よろけながら、吐き気を抑え込んで駅へ足を運ぶ。
猫は、少し視力を取り戻した第3の目を使って、ぼんやりとした予感を確信に変えていた。
自分は怪異としても生き物としても中途半端だ。
彼岸にも、現世にも、居てはいけない。
……それに、いつか誰かを食べてしまうかもしれない。
こんなにも不安定なまま、存在してはいけない。
誰にそう言われた訳でもないが……、そう思った。
おぼつかない足取りで、人気のない路地裏を歩いていく。
……路地裏の少し開けたところには、そこに無いはずの駅があった。
猫は、待ち構えていたかのように現れた電車に乗って……やがて電車は、如月駅で止まった。
電車から降りて、駅のホーム……冷たく、少しひび割れたアスファルトの上に、どさり、と崩れ落ちるように座り込む。
……誰にも言えないまま、ここまで来てしまった。
膝に鈍い痛みを感じながらも、少しの間そのままでいた。
が、やがて、無気力な体を、ずるずると引き摺るように移動する。
ベンチの上に置かれたままの、あの子の鞄に手を伸ばして、それを膝の上に乗せる。
……もはやこれと、あの血溜まりだけが、あの子が居たという物証になってしまった。
きっと、あの子のいた場所には、あの子が存在した物証はない。
ぎゅっ……と、名残惜しそうに鞄を少し抱きしめて。
意味もなく、線路の方へ目を向ける。
形がギリギリ保たれている黒い塊が、反対側のホームや、線路で数匹うろついている。
いつもは餌があるときにしか現れないのに、今日はやけに数が多かった。
……自分が倒れるのを、今か今かと待っているのだろう。
"……ふぅ……"
……息をついて、ゆっくり立ち上がる。
"…………私……もう、充分だよね……"
そう言いながら、すっかり乾いて色褪せた、血溜まり跡の上に立った。
……あの日、最初で最後の食事をしてから、猫は随分強くなったらしい。
足を止めずに、ただただ進み続けた。
異端者の割には歓迎され、いくつか居場所ができた。
……その一方で、止まってしまった背中を幾度となく見てきた。
……本能や理に抵抗するのも、段々と疲れてしまった。
本当は名残惜しかった。
けれど、今がちょうど、物語の終わり時、なのかもしれない。
"……もう……終わっても…………"
妙に納得してしまった猫は、血溜まり跡の上に横になる。
所々錆び付いているホームの天井、常に明かりがついたままで、消えることのない電球。
……あの時、猫に食いちぎられたあの子は、こんな景色を見ていたのか。
ほどなくして、線路の方から、蠢いてこちらへ向かってくるものの気配がする。
…………猫はゆっくり、目を閉じた。
飲み込まれた感触がする。
さすがに無抵抗でも取り込むのに時間がかかるらしく、すぐに意識が無くなるわけではなかった。
ぼんやりと、記憶を遡る。
走馬灯のようなものかもしれない。
体が、記憶が、端から少しづつ無くなっていくのを感じながら、悠長に幸せな記憶を思い返していく。
これで、いいのだ。
物事には、終わりがある。終わりから逃げることは、できない。
振り返った思い出は、賑やかで、愉快で、時に穏やかで、どうしようもなく悲しく、……とても、美しいとは言えなかったが、それでも……愛おしいもの、だった。
振り返りるのに満足すると、ほんの少し後悔と未練を抱いたまま、深い闇に身を任せる。
自身の境界が、段々と自身を喰らうものの意識と混ざって、曖昧になっていく。
意識を静寂が包んで、眠るように、沈んでいく。
これが、死。
本来もっと早く味わうはずだった感覚。
あるべき状態に、戻っていく。
思ったより、怖くはなかった。
ほんの少し笑みを浮かべて、糸が切れるように、ぷつりと。
ようやく、長い長い愚かな怪異の物語が終わる……はずだったのだが。
……僅かな違和感が、あった。
気に留めずに眠ってしまおうとしていたのに、結局、気になって気になって仕方がなくなって……薄れていた意識が、引き戻されていく。
違和感の正体は、思い出し切れなかった記憶。
……瞼の裏で……箒星が、堕ちていく。
1度は、この子も同じ。もう終わってしまったのだと。
二度と出会うことはないと、そう、どこかで諦めていた。
けれど、それは覆された。
彼女自信の意志と、数々の冒険者の想いによって。
ゆっくりと、彼女が振り向く。
……猫は、その名を呼んだ。
二度と呼ぶことはないと思っていた、その堕ちた箒星の……星霊の名を。
"……あ……"
猫が、目を開く。
瞳は僅かに揺らいでいた。
こんなにも……、
こんなにも大切なことが、頭から、抜け落ちていたのかと。
あの日、猫は知った。
確かに、物事には終わりがある。終わりから逃れることはできない。
……けれど。
決して、終わってしまった物事は二度と始まらない……というわけではないのだ。
終わってしまったのなら、また始めてしまえばいい。
"……わたし…………"
夢から覚めたように、ゆっくりと身を起こす。
"やだ……"
機能を失いかけていた足を酷使して、立ち上がろうとする。
さすがに力が入らず、立ち膝の態勢で、ふらふらと重心を保てないまま……それでも。
"やっぱりまだ……っ!?"
声を張り上げた途端。
大きくよろけ、咄嗟に手を伸ばす。……しかしここは暗闇の中、掴めるものは何もなく。
そのまま顔から突っ込んでいくのかと、諦めて目を閉じた。
その瞬間、両手を掴まれた感覚があった。
……目は、閉じたままだった。
けれど、その手が誰のものなのかを、間違える訳がなかった。
ゆっくりと、瞼を開く。
確信はあれど……もしも間違っていたらと思うと、怖くて、顔を上げられなかった。
「……やっと会えたねっ。███。」
声を聞いた瞬間、猫は反射的に顔を上げた。
そこは……明らかに先程まで居た、暗闇の中……ナニカに飲み込まれた先、ではなかった。
少し眩しく、ほんのり暖かい日差し。
そよそよと凪いでいる風は、平和そのもの。
辺り一面には、青いネモフィラが咲き乱れている。
そして、猫の両手を握って、真っ直ぐ見つめていたのは。
あの日、あの時、骨の1片も残さず猫が食べてしまった、あやめそのものだった。
"っあ…………あ、あっ……!!"
うまく、声が出ない。
すとんと腰が抜けて、立ち膝から正座になり、ガタガタと手が震えて、涙で視界が歪む。
"あ、あや、め、……う、そ……"
震える喉から無理に声を出したせいで、とても情けない声が出ている。
……当の猫は、そんなことを気にするどころではなかった。
「あははっ、ごめんねっ。びっくりさせちゃった?」
そんな猫の様子を見て、彼女は笑った。
"ど、どして……、ここ、に……"
動揺を抑えられないまま、猫は言葉を捻り出す。
「本当はねっ?姿、見せないつもりだったんだよっ?」
そこで1度言葉を止めて、少し照れくさそうに続けた。
「……でも、あんまり消えちゃいそうだったから、つい……ねっ。」
そう言い切ると、にこりと微笑みかける。
幻なのかも判別が付かず、圧倒されている猫に、あやめは聞く。
「ね。せっかく会えたんだしさっ?ちょっとだけ、私の話、聞いてくれないかな……っ?」
猫はハッとした後、黙ったままこくりと、頷いた。
少しの静寂の後、あやめは口をゆっくりと開く。
「あのねっ……なんて言ったらいいか……うまく、伝えられないかもだけど……私を食べたこと、███は、気にすることないんだよ。」
相変わらず、そよそよと心地よい風が吹き抜けていく。
丁度近くにある木が木陰になって、夏2歩手前の日差しでも涼しく感じられた。
「だって、私が頼んだんだから。」
そこまで言って、すぅ、と、あやめは深呼吸をする。
……柑橘色のヘアピンが、木陰から射す光を反射してきらきらと輝いていた。
「むしろ、私が……、私が、謝らなきゃなんだよっ。」
また言葉を止めて、あやめは俯いてしまう。
猫は心配そうに、ただ見つめていた。
どう声をかけるべきか。混乱している猫には、答えが出せなかった。
……何度も何度も深呼吸して、それからやっと、こちらを真っ直ぐ見つめ直し、あやめは話を続ける。
「……███を苦しめるような約束をさせて、ごめんなさい。……それから……お願い、聞いてくれて、ありがとう。」
徐々に、声が震えていく。
真っ直ぐこちらを向いていたあやめが、再び俯いて……そのまま、顔を上げられなくなった。
「…………███は、なにも悪くないし、……形は、ともかく……ちゃんと、私を助けてくれたよ。」
大きく息を吸い込んで、震える声のまま、ほんの少しお腹に力を入れて、言う。
「だから、もう後悔しなくて、いいの……!███は出来ることをやったの、えらい子なんだよ!」
言い終えてから、間も開けずに猫に抱きついて、わしゃわしゃと猫の頭を撫でる。
この撫で方は……ちょっと雑で、毛並みも乱れるから、たまに嫌で避けていた。
でも、今は、避けようとは思わなかった。
髪が乱れるのも気にせず、大人しくそれを享受して。
懐かしさと、赦された安堵で、再び視界が涙で歪んで……とめどなく涙が溢れ、とても堪えきれなくなる。
"わたし…………わた、し…………〜〜っ……!!"
元飼い猫は、元飼い主の胸に顔を埋めて、大泣きした。
強く抱きついて、それこそ子供のように……わんわん泣いた。
泣き慣れていない不格好な泣き声は、しばらくの間続く。
……あやめは猫をひとしきり撫でて、猫が落ち着いたとわかると、抱きしめたまま言った。
「……さ。もう、気にする事は、ないはずだよっ。……███の帰りを待ってたり、また会うのを楽しみにしてたりする子は、いるよ。███だって……どうせ本当は、まだ終わりにしたくないんでしょっ?」
"…………うん……"
こくりと頷きながら言う猫の返事を聞いて、あやめは抱きつくのをやめ、そっと腕を離した。
「なら、もうやる事はひとつだよねっ?」
両肩にそっと手を置いて、微笑む。
「ここからは、███のしたいようにしていいんだからねっ。大丈夫、███なら必ず、思ったようにできるよっ。」
風がほんの少しだけ、強くなる。
別れの予感がした。
"あやめ、ありがと……逢いに来てくれて……"
「ふふふっ、いいんだよっ。███を助けてあげられなかった、罪滅ぼしみたいな、ものだから……」
いっそう風が強くなる。
「そろそろ……戻らなきゃだねっ。お互いに。」
"うん。……また、逢おうね。"
今度は猫から、ぎゅっと抱きついた。
「うん。また逢おうね、焔。」
"え……いま……!!"
ぶわっ、と一際強い風が吹いて、視界がネモフィラの花びらでほんの一瞬覆われる。
……その一瞬の間に、あやめは姿を消していた。
"……いっちゃった……"
ふと膝の上に目をやると、そこには柑橘色のヘアピンが2つ、落ちていた。
"……夢じゃ……なかったんだね。"
少しの間、静かな花畑で、柑橘色のヘアピンを手に取って見つめたままでいた。
今起きたことは夢ではないのだと、ヘアピンを証拠にそう思った。
……たとえ精巧な夢か幻覚だったとしても、救われたのは本当だ。
やがて、猫はようやく決心がついたように立ち上がる。
静寂に包まれていた如月駅のホームに、猫を喰らって吸収している真っ最中だった、ナニカの絶叫が響き渡る。
ナニカの身体の内側から指が生え……ぶちぶちと、体を引きちぎっていく。
その力は段々と強まり、最終的に思い切りナニカの腹を引き裂き……その中から出てきたのは、猫だった。
体についた黒いもやを払って、ふぅ〜〜、と、一息つく。
獲物に逃げ出され、腹を割かれたナニカは、首をもたげて、猫に向かって文句を言うように話しかけてきた。
如月駅にいるナニカたちには、ここまで喋ることはできないはずだが……猫の力を、中途半端に吸ったせいだろうか。
"縺翫∪ェ━━━━━━━縺ェ縺懊@縺ョウト━━━縺ェィ━━━━?縺翫∪ェ━━繧ゅ≧縺翫oり━━━━━━━━━━━━━━━!"
"……終わりかどうかを決めるのは、わたし。君じゃないよ。"
そう淡々と告げて、ナニカが叫び返すのも待たず、ぐしゃり、と容赦なく頭を潰す。
頭を潰されて、ナニカはぐたりと動かしていた体を落とし、もやとなって散っていく。
もやの1部は、取られた分を補充するために、猫が吸収した。
"さて……帰らないと。そろそろ怒られちゃう……"
無事、猫は帰路につけた。
……帰り道。猫は気紛れに寄り道して、はじまりの町の子供に魔法を披露していた。
慣れた手つきでネモフィラの花を1輪、手から作り出す。
"はい、どーぞ!明後日には魔法が解けて消えちゃうから、忘れないで、覚えておいてね。"
そう言いながら、屈んで子供に手渡す。
作り出したネモフィラを渡された子供の反応は上々。
「わー!お姉ちゃんすごい!ありがとう、お姉ちゃん!」
"ふふんっ、どういたしましてー!じゃあ、またね!"
そう言って去ろうとする猫を、子供が引き止めた。
「あっ、お姉ちゃん待って待って!」
"ん?どうしたの?"
猫は振り向いて子供の側まで行き、目線を合わせる。
「あのね、お姉ちゃん、花言葉って知ってる?お花にも、色んな意味があるんだよー!」
ぴょんぴょんと跳ねながら、自慢げに言った。
"花言葉か〜。あんまり知らないなあ。"
「私、いっぱい知ってるの!1つのお花にたくさんの意味があってね、面白いんだよ!」
まだぴょんぴょんしながら話す子供の話を聞き、猫は興味を持つと、1つ質問した。
"じゃあ、ついさっき渡したネモフィラの花言葉も知ってる?"
「うんっ!昨日図鑑で見たばっかりだよ!えっと、かれん、成功、すがすが……しい……?心、それから、あなたを許す、っていうのもあるんだって!」
猫は一瞬目を僅かに見開くが、すぐ元のご機嫌そうな表情に戻る。
"……ほんとに、いっぱいあるんだね〜。物知りさんだ!教えてくれてありがと!"
「えへへへ、どういたしまして!あ……」
子供の見る方へ視線を動かすと、母親がこちらへ来ていた。
「それじゃ、お姉ちゃん、またね!」
"うん、またね〜!"
お互いに手を振り、猫は魔王軍へ帰る道を歩いていった。
……道中でふと、立ち止まる。
"……あの子、みんなのことを許してあげてたんだなあ。…………私のことも……"
ぽろりと独り言が漏れ、少し目を閉じた後……目を開けて、頷く。
"うん。わたし……まだ、ここに居よう。"
風が吹いて、髪が靡く。それに合わせて、夕日で長くなった影も揺らめいた。
……これは、終わりの終わり。