優しい心を持ったが周りの子の様子がおかしい   作:なな

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第一話

 朝が近い時間帯、とある古びたアパートの一室。

 本来静寂に包まれるこの時間に男の苦悶に満ちた息遣いが室内に響く。

 その男は仰向けに倒れていた。

 全身は汗だくで皺が刻み始められた両手で激痛を訴える胸を必死に押さえている。

 うまく息ができず、直感的に男は死ぬのだと理解した。

 しかしその瞬間、男は安堵した。

 

 ……ようやく終わるのか。 

 

 俺は人に愛されたことが無かった。

 それなりに裕福な家系に生まれた俺だったが、秀でた才能が無かった俺は両親に早々に見限られ、いない存在として扱われてきた。

 だからだろうか?

 他の人が笑顔を浮かべて幸せそうにしているのを見るとそれを恨み妬むようになった。その黒い感情は年を重ねるごとに濃くなっていった。

 特に俺の代わりに両親に愛されていた舞香には……。

 自分がそんなだからなのか、他人を信頼することもできなかった。

 できるだけ自分が傷つくことを避け、自分以外の人間の不幸を願っている自分が常にいた。

 

 ……それがまさかあんなことに。

 

 とにかくそんな自分がたまらなく気持ち悪く嫌いだった。

 自己嫌悪に陥り全てを否定的に捉え、それがさらなる自己嫌悪を生むという負のループに陥った。

 そしてそんな俺の周りに人が寄り付くはずも無く無意味な人生を送り、こうして今孤独死を迎えようとしている。

 

 ……どうしてこうなったのだろうか。

 

 自分の酷く醜い人生を振り返り自然と瞳から涙がこぼれる。

 

 

 

 俺だって心から人を愛し、人から愛されたかった。

 

 他人を信じられる人になりたかった。

 

 人を憎むような醜い感情なんて知りたくなかった。 

 

 

 

 心の中でそう呟いたのを最後に俺の意識は途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……兄さん、……兄さん?」

 

 呼びかけられた僕ははっとしたように我に返る。

 

 ……あれ? 僕は今何を……?

 

 頭の中が靄がかかったように意識がぼんやりしている。

 まるで長い夢を見ていたようだ。

 それに何か変だ。まるで心がポカポカするように暖かい……気がする。

 心なしか体が軽くなったような?

 

 前方から視線を感じふと顔を上げる。

 目の前には心配そうな表情を浮かべてこちらを見つめている舞香がいた。

 双子の妹とは思えない程、顔の整った舞香。肩下まで伸びた黒髪は手入れが行き届き艶がかっている。七歳にも関わらず将来間違いなく美しい女性になることが誰の目にも明らかだった。

 

「……大丈夫、兄さん?」

「あ、ご、ごめん。ちょっとぼーっとしてた……」

 

 そんな僕の返答に舞香はより一層心配そうにこちらを見つめてくる。しかし、どこか怯えるようにびくびくしているようにも見える。

 

「……その、塾のことだけど気にしなくていいと思うの」

 

 舞香はなるべく僕を刺激しないようになのか、穏やかな口調で言ってくる。

 その言葉で思い出す。

 そう、僕は塾のテストで両親が掲げた目標の点数を取ることができなかった。今までのように怒られると思った。しかし違った。怒られなかったのだ。代わりにお前はもう塾に行かなくていいと言われたのだ。

 

 ……いや、そうだ。それよりもだ。

 

 ある事を思い出し、僕の中に喜びの感情が際限なく溢れでてくる。

 僕は目を輝かせて舞香の手を取った。 

 突然のことに舞香は恐れるようにびくっとなるが僕は気付かない。

 

 

 

「凄いやっ! 舞香はあの難しいテストで満点を取ったんだよね?」

 

 

 

「……………………え?」

 

 

 

 舞香は戸惑ったようにそのくりっとした目を見開く。

 

「…………あ、えと、う、うん」

 

 少しの間の空けて我に返った舞香のその言葉に僕はさらに顔を輝かせる。

 

「わぁっ! 本当に凄いなぁ……! 勉強頑張ってたもんね! おめでとう舞香!」

 

 可愛い妹がテストで満点を取ったことで嬉しさのあまり興奮したように手をぶんぶんと上下に振り心からの祝福の言葉を投げかける。

 

 ……ああ、本当に凄いな舞香。僕も見習わなきゃ!

 

「え、あ、え、えっと……」

 

 何が起きているのか分からないといった舞香は僕から視線を逸らし顔を赤くしながら困惑している。

 

「あ、ごめんね。嬉しくてつい……」

 

 舞香が困っていることに気付き慌てて手を離し一歩下がる。

 舞香は大きく息を吸い気を落ち着かせると、窺うように横目でこちらをチラチラと見つめてくる。

 やがてもじもじとした様子でこちらに向き直ってくる。

 

「え、えと。その、ありがとう……。おめでとうって言ってくれて」

 

 恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにそう言う舞香を見て僕も幸せを感じる。

 

「ううん! 本当に舞香が凄いって思ったからだよ! 僕もがんばらなきゃね!」

 

 間髪入れずにそう答えると舞香は恥ずかしそうにしつつも笑顔を浮かべる。しかし、すぐにその表情は暗いものへと変わる。

 

「でも兄さん、もう塾に行かなくてもいいって……」

 

 舞香がそう悲しそうに呟く。

 

 ……本当に舞香は優しいな。

 

 塾に行かなくていいと言われたのは僕の努力不足が原因だ。お父さんとお母さんの判断は正しい。この悔しさをばねにこれから頑張ればいい。しかしまさか舞香を悲しませてしまうなんて。

 

 ……僕は兄失格だ。

 

「仕方ないよ、僕が頑張らなかったのが原因だから。それにこれから頑張ればいいしね!」

 

 僕が明るくそう言う。しかしそれでも舞香の表情は暗いまま。

 

「……でも」

「そうだ! それなら舞香、僕に勉強を教えてよ! 舞香が他の人に勉強を教えているところ見てたことがあるんだけど凄く教えるの上手そうだったからさ!」

 

 僕がそう言うと舞香は顔をばっと上げて嬉しそうに「う、うん!」と、こくこくと頷きながら了承してくれた。

 

「ありがとう! 舞香が教えてくれるなら僕も一気に賢くなれるよ!」

「うん! 私も頑張る!」

 

 そう力強く答えてくれた舞香の顔は僕がこれまで見た中でも一番の笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数週間後のある日。

 

「なるほど! さすが舞香! 分かったよ! すごいっ! こう解くんだね!」

「ふふ、良かった」

 

 この日も僕はリビングで舞香と一緒に勉強をしていた。

 算数の問題で分からないことがあり苦戦していたのだが、舞香の教えによってたちまちに解決してしまった。

 そのことが嬉しい僕は大興奮で舞香にその気持ち伝える。舞香もそんな僕を見て幸せそうににこにこと笑顔を浮かべている。

 舞香はあの日から丁寧に分かりやすく勉強を教えてくれていた。

 しかしずっとなのだ。

 僕が勉強をしている時は常に舞香が僕の勉強を見てくれると言う構図が出来上がっていた。それこそ一日に何時間も舞香を拘束しているような状況だった。

 

「ねえ、舞香」

「どうしたの兄さん? また分からないところがあったの?」

 

 相変わらずにこにこと微笑みながら僕のほうを見つめてくる。

 

「僕の勉強を見てくれるのは嬉しいけど、たまにでいいからね。舞香も疲れるだろうし」

 

 しかしこの質問を受けた舞香が急変する。

 

 

 

「…………どうして?」

 

 

 

 場の空気が凍り付いたような感じだった。舞香は相変わらず笑顔を浮かべている。なのに舞香の言葉には例えのようのない重みがあった。 

 

 ……え? 何か舞香を怒らせるようなことを言った?

 

 慌てて自身のセリフを反芻するがやはり何がいけなかったのか分からない。

 

「……あ、いや、舞香はずっと勉強を教えてくれているからしんどくないのかなって。舞香も自分の勉強があるだろうし、塾もあるからさ」

 

 僕の言葉を聞いた舞香はじっとこちらを見つめてくる。僕は緊張したように舞香を見つめ返し言葉を待つ。

 舞香は安堵したように息を吐く。

 

「……兄さん、私は大丈夫。成績は伸びているから。私は兄さんと勉強するのが楽しいの。……それとも兄さんは嫌なの?」

 

 今度は舞香が緊張するように不安げにそう質問を投げかけてくる。

 

「そんなことはない! 僕だって舞香と勉強するのは楽しいよ! ただ舞香の邪魔はしたくなかっただけだよ! 舞香がいいならずっと教えてほしいよ!」

 

 迷わずそう答えると舞香の顔に花が咲いたように笑顔が浮かぶ。

 

「……ふふ、ならいいじゃない。これからもずっと一緒に勉強しようね」

「そうだね!」

 

 舞香がいいならいいのだろう。そう言えば以前学校の先生が人に勉強を教えるのは教える側も理解が深まるとか言っていた気がする。それなのかもしれない。

 すっきりしたところで勉強を再開しようとしたその時だった。

 

 

 

「最近、よく二人とも一緒にいるわね?」

 

 

 

 突然二人の世界に割り込んできたのは母さんだった。年若くブランド物の服に身を包み化粧をした母さんは訝し気に舞香のほうを見つめていた。買い物に出かけていたはずだが今帰って来たらしい。

 なぜか舞香は母さんの言葉が聞えて来た瞬間、顔を伏せてしまった。

 

「うん! 舞香に勉強を教えてもらっていたんだ!」

 

 僕がいち早くそう答えるも母さんは反応しない。その代わりちらりとこちらを一瞥したのみだった。

 

「……舞香、あなたは特別なんだからあまり構うんじゃないの。いいわね?」

 

 母さんの言葉に舞香は顔をゆっくりと顔を上げて母さんを見つめる、

 

 

 

 ――にこにことした笑顔で。

 

 

 

 ぞくっと僕の全身に鳥肌が立つ。

 なぜかは分からない。

 最近いつもこうだ。

 母さんや父さんに向ける舞香の笑顔を見る度にこうなるのだ。

 舞香の笑顔は見慣れているはずなのになぜかこの舞香の笑顔は怖いと思ってしまう。僕に向ける笑顔でこんな風になることは絶対にないのに。

 

「……でもねお母さん。他の人にお勉強を教えるのは自分の理解を深めることにもなるって塾の先生も言ってたの。今日のテストも満点だったよ?」

 

 まるでテストの問題に答えるようにすらすらとそう答える舞香。

 母さんはふんっと鼻を鳴らす。

 

「……そう、まあほどほどにね。あまり低レベルな子と一緒にいても舞香まで馬鹿になるわよ」

 

 そう言って母さんはこちらに背中を向けてリビングを出て行こうとする。

 そして一方の僕は密かに嬉しさを感じていた。 

 

 ……そっか、やっぱり舞香は僕に勉強を教えることで理解を深めていたんだ。

 でもお母さんの言う通り、僕もある程度舞香と近い成績を保たないと。あまり成績に差が開きすぎるとだめだろうしね。

 

 とにもかくにも自分も舞香の役に立てていたことが分かり嬉しくなったあまり「ねえ、舞香」と呼びかけながら、母さんから舞香の方に視線を移した。

 しかし、飛び込んできた光景に僕は頭が真っ白になる。

 

 

 

 舞香が鬼のような形相を浮かべてお母さんの背中を睨んでいたから。

 

 

 

「……え?」

 

 驚きのあまり小さく声を漏らし、思わず大きく瞬きをする。

 しかし次に見えた舞香の姿は僕の知る優しい笑顔を浮かべる舞香だった。

 舞香は「どうしたの?」と穏やかな口調で問いかけてくる。

 

 ……あれ? 

 いやでも、舞香があんな怖い顔を浮かべるはずないよね。

 きっと見間違いだ……。

 

 その時、ズキッ……と突然頭に痛みが走った。

 

 この光景に似たものを知っている気がする。

 しかしそう思ったものの何も思い出せない。

 気のせいだと判断した僕はすぐにそのことを忘れる。

 

 そのまま僕たちは何事も無かったように勉強を再開し、楽しい時間を過ごした。

 

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