目的地の村はログレスから見て川の下流に位置していた。それなりの流量のある川は運河として使用されており、行きだけであれば最寄りの街まで船を使う方が陸路より早く目的地に到達できる。依頼者側もそれを分かってか船賃を前金に含めて来ており、ノーラ、キャサリン、アイビスの三人は現在船上の人になっていた。
船と言っても、河川で貨物の運搬に使う、筏に毛が生えたような小舟だ。帆などはなく、積まれた木箱や樽が縄でいくつも船体に固定されている。乗客も三人だけで、他には船頭が一人いる位の静かな船旅だった。
この日は風も少なく、澄んだ水面は凪いでいる。否が応でも視界に入り込んでくる貨物が鬱陶しい以外は快適な船旅となる筈であった、が。
「うゔ……ぎぼぢばるいで……うぼぇ……」
キャサリンがとてもではないが人に見せられない半死人の顔をして水面と向かい合っていた。まさに百年の恋も醒めようかという光景で、乗船時は彼女へちらちらと視線を送っていた若い船頭も今ではそっと視界に入れないように目を背けている。それが気遣いではないのはその臭い表情を見れば明らかだった。
「ううむ……ここまで船に弱いとは、想定外であった」
「そうですね? わたしと違って、初めてではないと聞いていたのですが?」
少しキャサリンを遠巻きにする様にして、アイビスとノーラは困ったように声を低めて頭を悩ませていた。
「途中で降りますか?」
「いや、次の港から暫くは対岸になる。このまま目的地まで行くしか無かろうな」
「そうですか……では、暫く我慢してもらうしかありませんね?」
肩を竦めて自分の板──丸太で組んだ船底の隙間から跳ねる水を避ける為に持ち込むと良い、と旅経験の豊富なアイビスが助言したもので、未だ彼に隔意のあるノーラも、初めての船旅ということで今回は大人しくそれに従っていた──の上に座り直す彼女の様子は、陸地の上と変わらないように見える。
「お前は、平気そうだな」
「そうでもないですよ? この、常に揺れているという状況には中々馴染めなさそうですね?」
言いながら、ノーラはキャサリンのいる方向──座る彼女の目線からだと貨物に遮られて見えない──に視線を送る。その目は心配しつつもどうしてああなるのか理解出来ないと雄弁に語っていた。
「そこは体質と訓練次第だろうな。体質と言えば」
アイビスは組んでいた腕を解くと、ノーラを見下ろし、落としていた声を更に一段下げた。
「お前、ヒューリンではないな」
そうアイビスが口にした瞬間だった。ノーラの放つ気配が、ざわりと変わる。
「……どうしてそう思うんです?」
視線に剣呑とした色を乗せたノーラは僅かに口の端を吊り上げ、地を這うような低い声でそう問うた。しかし、突如発せられた産毛が総毛立つような気配を浴びて、なお泰然とした態度を崩さなかったアイビスは嘆息して首を振る。
「その反応では自ら暴露しているのと変わらんぞ……グライアイか」
グライアイ、と言った瞬間、拗ねた子供が膨らませた頬から空気を抜くようにノーラは剣呑な気配を納めた。少し唇を尖らせたノーラは半眼を彼に向ける。
「確かにその通りですけどね? わたしの質問に答えていませんよ?」
「普通のヒューリンは自分をヒューリンとは言わん。最もありふれている故な。そこを態々ヒューリンの、などと宣う輩は、逆に己がヒューリンではないと喧伝しているようなものだ」
「むむむ……」
確かに自分をヒューリンだと名乗るヒューリンを見たことが無いのか、ノーラは悔しそうに思い切り眉根を寄せた。
「まだある」
「……まだあるんですか?」
嫌そうに荒んだ目を向けてくるノーラに、アイビスはうむ、と頷きを返す。
「お前、腰の後ろにも短剣を二本差しているな。お前は予備だと言い張る腹積りかもしれんが……」
「うぐぐぐぐぐ……!」
まさにそう答えようとしていたノーラは、先んじて言い訳を潰されたことに歯軋りする。
「その向きでは、常人には少し抜き難かろう。加えて、予備にしては些か鞘の傷みが多いように見受けられる。であれば、普段からよく使っていると考えるのが道理だろう。その向きで抜きやすい腕でな。確か……《インビジブルハンド》……と言ったか? その異形は」
「……! よく、ご存知ですね……?」
己の異形まで言い当てられたノーラは更に不貞腐れた顔でアイビスの顔を睨め付けた。その腰の後ろでは、短剣の鞘が少し動いて両手で得物を手にしやすい向きへと調整されていく。もうバレている以上は隠す意味もないと言うことだろう。見えざる手の仕業だった。
「様々な地を渡り歩いて来た故な、顔が広いのが取り柄の一つだ。その中にはドゥームガード*1の女侍やホブゴブリン*2の拳闘家のような妖魔種族の者もいる。グライアイはお前で二人目だ」
「それは良かったですね? それで? わざわざ人の隠しごとを暴いて何がしたいんですか?」
敵愾心剥き出しの顔でノーラは噛み付くが、アイビスには何の痛痒も与えない。一つ頷いて話を進める。
「これから背中を預けることになるのだ。どのように戦うのかを把握して起きたかった、というのがまず一つだ。見たところ、足を使って動きながら普段は二刀で派手に立ち回り、攻める時には見えざる手で抜いた二刀を用いて奇襲、そこから四刀の手数で畳み掛ける……というスタイルだと推察するが」
「まるで見てきたように言うじゃ無いですか? 貴方の前で剣を抜いたことはないですよね?」
「お前の性格と筋肉のつき方、装備の痛み具合を観察し、経験に基づいてそう判断した」
「こんな幼気な女の子の身体を観察するなんて、とんだ変態ですね?」
ノーラは態とらしく自らの身体を掻き抱き、身を隠すように科を作った。
「その評価は心外と言わざるを得ないが……」
「それで? 先程一つといいましたが、他はなんです?」
敵愾心こそ一旦収めたが、今度は白眼を背中越しに向けてくるノーラに、流石に顔を顰めていたアイビスは諦めて一つ溜め息を吐き、続きを話し始める。
「……初めて顔を合わせた時から、どうやらお前が己の種族を隠したいらしいということは分かっていたのだが、どうにも隠し方が杜撰でな。一つ指南でもしようかと思ったのだ。折良く……と言っていいかは分からんが、あの娘はあの様子だ。こちらを気にする余力はあるまい」
「余計なお世話ですよ?」
あからさまにむっ、とした表情を浮かべたノーラは、体勢を戻すと真っ直ぐにアイビスを睨み付けた。
「わたしは自分がグライアイであることを積極的に広めるつもりはありませんが、殊更隠したいとも思っていませんよ? アルミナさんには面白いから秘密にしてますけどね?」
「そう……なのか?」
意外そうに目を瞬かせるアイビス。
「そうですよ? いつか驚かせようと思いましてね? せっかくキャサリンさんは黙ってくれているんです、くれぐれもアルミナさんにはバラさないでくださいね?」
そのノーラの返答に、アイビスはまじまじとその金の双眸を見返した。険しさはあるが、暗いものの無いその輝きに、アイビスは僅かに目元を緩める。
「成る程な。確かに余計なお世話であった。謝罪しよう」
どうやら考えすぎだったらしいと感じたアイビスはノーラに向かって軽く頭を下げた。多少溜飲が下がったのか、ふふん、と胸を反らす。
「分かればいいんですよ? 分かればね?」
「あいすまん。しかし、そういうことであれば、先程の鞘は無理に向きを直す必要がないな」
「何を言ってるんです? 妖魔だとバレるから直せと言ったのは貴方じゃないですか?」
ノーラは怪訝な顔をアイビスに向ける。
「そこまで言った覚えはないが。異形の知識が無ければ精々違和感を持たれる位であろうし、そもそも勘が鈍かったり剣に明るく無かったりすれば、気付きもしないであろうな。土台、妖魔だと隠すつもりは無いのだろう? であれば、態々剣を扱い難くしてまで偽装する意味はないと思うが?」
「……まぁ、そうですね? どうせポンコツメイジのアルミナさんには分からないでしょうし? いいでしょう、貴方の口車に乗ってあげますよ?」
そう言いながらノーラは鞘を元に戻す。その姿を見ながらアイビスは、ノーラに気取られない程度に軽く息を落とした。
──彼奴が気付かない筈が無かろうに。
アルミナは彼女の故郷では英雄と謳われた剣士の娘だ。剣についてはみっちりと仕込まれている筈。今でこそ魔道を修める為に剣の道から遠ざかってこそいるが、身のこなしを見るに同年代の剣士に混ざってもそれなりに通用するだろう。何より培った知識と経験は失われない。剣と妖魔の知識を持ち、何より目敏い彼女が鞘の向きの不自然さに、ひいてはその遣い手の出自に気付かない筈が──。
「……案外抜けているからな、彼奴も」
アイビスはそう漏らして頭を振る。その脳裏には、かつて村に滞在した時に、アルミナとその父親が起こした数々の騒動が蘇ってきていた。一方で、アイビスの呟きを耳にしたノーラがにたり、と笑みを浮かべる。
「そういえば、貴方はアルミナさんの知り合いでしたよね? 昔のアルミナさんの話を訊きたいのですが?」
先程までの険悪な表情はどこへ行ったのか、きらきらとした目でノーラはアイビスに一歩迫る。
「俺が彼奴の故郷に滞在したのはそう長い期間ではないし、そう昔のことでも無いぞ」
「構いませんよ? 何でもいいので、アルミナさんがやらかしたことを教えてくれませんか?」
「……やらかすことが前提なのか?」
「当たり前じゃないですか? あの人が何かやらかさずに過ごせるわけがないでしょう? さぁ、話してくれれば、今回のことは手打ちにしてあげますから、キリキリ吐いてくださいね?」
「手打ちが必要となるようなことをした覚えはないのだが……一つ訊くが、何故そのようなことを知りたがる?」
「そんなの、アルミナさんを揶揄う為に決まっているじゃないですか? ネタはあればある程いいものですからね?」
「……そんなものか」
悪戯っぽい笑みを見せるノーラの答えにアイビスは小さく鼻を鳴らす。他人の失敗を喧伝するのもどうかと思ったが、垣間見えた彼女達の関係性から考えれば、微笑ましいじゃれあい程度にしか使われまい。ならば構うまいか、とアイビスは己の記憶を掘り返し始めるのだった。