森は魔獣が跋扈している状況に反し、長閑な様子だった。外から見た様相通り木々のない開けた場所が多くあり、そのような場所は日の光が良く入って明るくなっている。反面、木々の茂る場所は密集していて見通しが悪く、明暗が良く分かれた土地となっていた。
一方で地形そのものは三人が思っていた以上に起伏が激しく、ちょっとした崖や岩場が散見される土地であった。無論乗り越えようと思えば越えられなくはない場所も多いのだが、装備を抱えて越える手間やそれによる体力の消耗を考えると無理のない道を選択することになり、ルートが限定されてしまう。おそらく先が行き止まりなのだろう場所はあからさまな石が置かれているなどで道が潰されており、自然と渡された地図通りに移動することとなった。
小川の流れる一番を抜け、岩場と木々が作る細長い隘路を通り、三人は二番を訪れていた。木々に囲まれた広くなだらかな草地であるそこは、よく陽が当たり、下生えに隠れるように咲く小さな花が群生する長閑な場所だった。
「んー……実に平和な光景に見えますね? とても静かですし?」
先頭を歩くノーラが右肘に左手を添えて伸びを打つ。顔にはフェイスベールを付けたままだ。それなりに気に入っているらしい。
「そうだろうか。鳥の鳴き声がまるでしない。小動物の姿も見えん。平和とは程遠い光景だと思うが」
最後尾を歩くアイビスが真顔でそう返すが、
「それくらい分かっていますよ?」
失礼ですね? と歩きながら振り向いて頬を膨らませるノーラに、アイビスは溜め息を吐いて首を振った。その顔には鼻と口元を覆う白い布が巻いてある。魔獣が纏うという靄のようなもの──おそらく瘴気に対し、無いよりはマシ、程度の考えで付けた物だ。キャサリンも賛同して同じようにしている一方、ノーラはフェイスベール以外付けていない。一応布も付けておいた方がいい、と二人で勧めたのだが、そういえば、わたしは妖魔だから瘴気とかは効かないんですよ? 残念でしたね? と何故かアイビスを煽ってきたので馬鹿らしくなり放置している。
「ノーラさん、おそらくここが二番だと思います。シンディさんはここに落とし穴があると言っていましたから、もっと注意して歩いてください」
真ん中を歩くキャサリンが地図を閉じてぴしゃりと言うと、ノーラは唇を尖らせて前を向いて足元を調べ始めた。
「むぅ。なんだか、この依頼に来てから急にキャサリンさんが説教くさくなった気がしますね?」
「え、そうですか?」
「しっかりしたというか? いつもはもっと抜けてたと思うんですけどね?」
「ぬ、抜け……」
キャサリンは頬を一瞬ひくつかせたが、直ぐに気を取り直すと鎧の胸に手を当てた。
「今回はアルミナさんにギルドマスター代理を任されていますから。アルミナさんならきっとこうするだろうなって考えながら頑張ってみたんです」
「そうなんですか?」
「そうです。アルミナさんの顔に泥は塗れませんから」
そう言って、キャサリンは少し誇らしげに胸を張る。抜けてるだとか説教臭くなっただとかいう言われようは少し気になるが、普段よりしっかりして見えるというならちゃんと自分は彼女の代わりが出来ている、ということなのだろう、と考えながら。しかし、
「いっそのこと、このままキャサリンさんがギルドマスターをやったらいいんじゃないですかね?」
「え、えぇ!?」
地面を
「むむむ、無理ですよぅ、ギルドマスターなんて!」
「そうですか? 村では中々堂に入ったギルドマスターっぷりだったと思いますよ?」
「うむ、そうだな」
キャサリンが狼狽えていると、周囲を見渡していたアイビスが参戦してきた。
「受け答えも実に堂々としたものだった。流石は騎士の娘だと感心したものだが」
「アイビスさんまで……! 私はそんな器じゃないですし! 確かにお父様は騎士ですけど、私はただの養女であってそんな感心されるようなものでは……!?」
あたふたとしながら段々言動が怪しくなり始めたキャサリンに、地面に棒を突き刺したノーラが噴き出す。
「ふふ……! 冗談ですよ? やっぱり、キャサリンさんはこうでないといけませんね?」
「ふぇ……冗談ですか?」
目を瞬かせるキャサリンに、ノーラはそうですよ? と首肯いた。
「わたしは、アルミナさん以外のギルドマスターを、認めるつもりはありませんからね?」
「そう……そうですよね!」
キャサリンは顔を綻ばせる。
「俺は冗談を言ったつもりはないが」
一方のアイビスは微かに面白く無さそうな色を声に滲ませて言った。
「俺も彼奴がギルドマスターであることに異を唱えるつもりはないが、キャサリン、お前の行動には概ね満足している。お前がギルドマスターでも大過なく運営できるだろう」
「そんな……」
「謙遜は悪い癖だぞ。お前の言いたいことも分からんではないが……人を率いるなら彼奴の方が向いていると言うのだろう」
アイビスの言葉にキャサリンは頷く。任されたことを熟す自信は付いてきたが、アルミナのように人を率いて引っ張っていける自信は全く無かった。覇気だろうか、それともカリスマ性だろうか、客観的に見てそういったものが欠けているのだ。村長と相対した時、彼は最初アイビスと話をしていた。あれは後の反応を見るに、アイビスがギルドマスターだと勘違いしたのだと思うが、ここにアルミナがいれば村長は最初から彼女を見て話をした筈だ。そんな確信がある。自分は結局、人を率いるよりも後ろで補佐をする方が似合いなのだろう。
アイビスは少し眉尻を落とす彼女を見て、やれやれとばかりに首を振りながら手にしていた槍の穂先を持ち上げた。
「より向いた者がいるということは、決してお前が向いていないということを意味している訳ではないのだが……さて、ノーラ。気付いているな?」
「えぇ、勿論ですよ?」
いつの間に抜いたのか、両手に短剣を握ったノーラが、僅かに腰を落としながら左手、十m程離れた位置に広がる木々へと不敵な笑みを向けた。腰の後ろに付けた鞘からは僅かに引き出された白刃が顔を覗かせる。突然の戦闘態勢に一瞬惚けたキャサリンは、すぐにその意味するところを察して楯を胸の前に持ち上げた。
「敵襲!?」
「うむ……向こうもこちらに気取られたことに気付いたようだな」
背中の翼を広げたアイビスが鋭い視線で木々の間に蟠る闇を睨む。その視線の先を追ったキャサリンは、闇から這い出るように現れた二つの光を見つけることができた。
赫い閃光が、疾る。闇色の刃が、風を裂いた。
「──がッ……!?」
「ッ!? ノーラさんッ!」
砕かれた障壁の欠片と血反吐を撒き散らしながらノーラの小さな身体が吹き飛ばされる。その脇腹には五条の巨大な爪痕。彼女を引き裂いた影は、少し離れた所で訝るようにノーラの方を振り返っていた。光を呑み込む黒い毛並みの間から、目に見える程濃密な瘴気を陽炎のように揺蕩わせ、血紅色に染まった瞳で見据えながら低く唸り声を上げている。地面を太い四肢で掴み、太い尻尾を苛立たしげに打ち据えるその姿は話に聞く魔獣そのものであった。
「ぐぅ……ぅぅぁあああッ!」
苦しげながらも己を叱咤するように叫んだノーラが、倒れ込む前に見えざる手で地面を叩いて跳ね、反動を利用して大きく振りかぶった両腕から短刀を擲った。傷口から派手に血を撒き散らしながら行ったその反撃に、獣は僅かに硬直したような素振りを見せたが、すぐさま右前脚を起点にして跳躍し、ひらりと躱してしまう。
だが、瞬時。獣の身体が宙に浮いた。
「──ノーラよ、良く動いた」
翼をはためかせて地面を疾駆するように飛んだアイビスが突っ込んだ。一瞬で彼我の距離を詰めた彼は、着地した左足で地面を突き刺さんばかりに踏み締め、重槍を手にした長身を弩のように引き絞る。
「刮目せよ」
狙うは不用意に浮いた獣の脇腹。そこへ渾身の力で槍を突き入れる。
「是が、我が槍の一撃也」
『ガァァァァァ! ゴァァァァアアア!』
狙い過たず脇腹に吸い込まれた槍を受け、獣が怒りの篭った咆哮を上げた。反射的に身が竦む程の威圧に満ちた咆哮であったが、アイビスは眉一つ動かさず槍を引き抜き、地面を蹴って離脱する。闇色の毛皮の間にある傷口からは血の代わりに瘴気が噴出しているのが見えた。それはすぐに勢いを失い、身に纏っている瘴気に紛れて分からなくなってしまう。
「……浅かったか」
再び着地したアイビスは低く呟くと、両手で槍を構えて獣を見据えた。背後で倒れたノーラにキャサリンが駆け寄る気配がする。彼は槍を握る手に一層力を込め、僅かに腰を落とした。と、
『ゥルル……』
アイビスを睨みながらしきりに尾で地面を叩いていた獣だったが、ふいに一歩後ろに下がると、憎々しげな一瞥を残して背後の茂みへ跳躍した。その姿はあっという間に木々の間の暗がりと同化し見えなくなる。
「去ったか……報告通りだが」
そのまま気配が去っていくのを感じ取り、アイビスは長めに息を吐いて構えを解いた。
「ノーラさんッ、大丈夫ですか!?」
「うぅ……助かります」
血が足りないのか、青い顔で脱力するノーラ。傷口の様子を確かめたキャサリンは、一つ息を吐くと《ヒール》を掛けた。暖かな光がノーラの脇腹の傷を覆い、緩やかに、しかし確かに広がっていた血溜まりが止まる。
「キャサリン、ノーラの容態はどうだ」
「幸い、傷は内臓には達していないようでした。咄嗟に身体を引いたんでしょう。流石です。私には見えもしませんでしたから……」
少し緊張の緩んだ表情でノーラの治療を続けながら、キャサリンは答えた。
「少し休んだ方がいいですけど、このまま治療を続ければ問題なく動けると思います」
「そうか……幸い、一先ずの危険は去った。周囲の警戒は俺がする故、キャサリンは治療を続けてくれ」
「分かりました」
キャサリンが頷いたのを確認したアイビスは先程ノーラが投げた短剣を回収しにいく。彼女達の元へ戻った時にはもうノーラは身体を起こしてぺたんと地面に座って治療を受けていた。多少血色を取り戻したノーラがアイビスを見上げる。
「奴は、逃げたみたいですね?」
そう口を開く彼女の様子はいつもと変わらないように見える。アイビスは感心しつつ、短剣を彼女に差し出しながら頷いた。
「ああ。これ以上の戦闘はこちらにとっても危険だった。寧ろ逃げてくれて助かるぐらいだが」
「まぁ、そうですね? 普通にやったら攻撃が当たる気がしませんしね……?」
短剣を受け取って鞘に仕舞いながら、ノーラは溜め息を吐く。
「何なんですかね、あの動き? 全然見えませんでしたけど?」
「事前情報通りだろう。シンディ殿も目で追えぬと言っておったであろうが」
「あそこまでとは思ってませんでしたよ?」
ノーラは理不尽だとばかりにぷんすこと頬を膨らませる。
「文句を言っても始まるまい。実際見たのだ。認識を修正せよ」
「むぅ……」
反論が出来ないのか、ノーラは口を尖らせて押し黙った。
「しかし、彼奴の驚異的な回避力は何かしらの対策が必要だな。一撃こそ入れられたが、直前のノーラの攻撃が奴の意表を突けた故だろう。正直運よく当てられただけに過ぎぬ」
「ふふん。感謝してくださいね?」
「うむ。良くやった」
一瞬で機嫌が回復したノーラに、口元に苦笑を浮かべながら頷くアイビス。一方のキャサリンは眉を吊り上げた。
「良くないですよ! あんな無茶な動きをして……致命傷じゃないってだけで重傷には違いないんですから!」
「強敵に立ち向かうためには、時には無茶も必要ですよ?」
「うむ、その通りだ」
「もう! アイビスさんまで!」
まるで先程のノーラのように頬を膨らませるキャサリンに苦笑を濃くしたアイビスだったが、すぐに笑みを消して真面目な顔に戻った。
「とはいえ、そうそう無茶も続けられん。意表もそう何度も突ける相手ではあるまい」
「そうなるとやはり、道具を使って罠に掛けるのが良さそうですね……?」
「うむ。先程槍を突き入れた時、手応えに妙なものを感じた。一度や二度の攻撃で仕留められるとはとても思えん。足は確実に止める必要がある」
「妙なもの……ですか?」
首を傾げるキャサリンに、アイビスは頷きを返す。
「上手く言えぬのだが……何か弾力のある膜のようなものの上から肉を突いたようだった。奴の纏う瘴気の所為かも知れぬ」
「膜のようなもの、ですか……」
キャサリンは考え込むが、すぐに情報が無さすぎると思ったのか首を振った。
「或いは、妖精さんの力を借りられれば?」
ふと思い付いたようにノーラが言う。
「どんな力かはよく分かりませんけどね? 妖精さんが魔物を抑えていたというなら、弱体化も出来るんじゃないですか?」
「ぬぅ……」
ノーラの言葉に、アイビスは眉根を寄せて唸った。魔獣の強さと速さが想定を上回っていたのは彼も同じである。彼の感覚では受け取った道具と罠をあの魔獣相手に有効に使い熟せるかどうか怪しいと感じており、もう一手、出来れば状況を一変させられるようなものが欲しいというのが正直なところであった。
「……効果も、実在すらもあやふやなものを当てにせねばならんとはな」
「仕方がありませんよ。どちらにせよ、妖精の祠と思われる場所には行ってみたいと思っていましたし、まずはそちらを目指すことにしましょう」
キャサリンの提案に、アイビスはむっつりと頷いたのであった。