話し合いを終えた三人は、妖精達に手を振られながら祠の跡地を辞した後、決戦の場所として選んだ六番へ向かった。
この場所を選んだのは勿論落とし穴があるからである。落とし穴のあるエリアは四ヶ所あったが、十番はノーラが潰したため除外。次に近い九番はどちらかと言うと密集した木々に挟まれている広めの曲がりくねった道、といった様相であり、木々の間から忍び寄る獣に有利な地形だったため候補から外した。二番は悪くなかったが遠すぎると判断し、消去法で六番が選ばれた、というわけである。
六番もそう広い訳ではない──広すぎると獲物の通る範囲を絞れず、罠に掛けられないからだろう──が、九番よりは大分マシだった。
六番は背の高い木で囲われた狭い草原である。真ん中に木々が内側に侵食するように生えて少し幅の狭まった場所があり、ここに落とし穴が仕掛けてあった。
狭い草原とは言ったがそれでも人が楽々駆け回れる程度の広さはある。
既に日は落ち切り、空には流れる雲で見え隠れする満月が低い位置に浮いていた。このような頼りない月明かりと持ち込んだ灯りだけが光源という状況で、巧妙にカモフラージュされた落とし穴を見つけるのはあると知っていても困難を極めたが、傭兵としての経験か、それとも単に勘が冴えたのか。アイビスが落とし穴を見つけることに成功。三人は落とし穴から少し離れた位置に陣取ることが出来ていた。
「落とし穴からは少し離れた方がいいだろう、とクレイオさんは言っていましたけど、この辺りでいいでしょうか?」
「分からん。奴がどの程度離れた位置から罠を看破できるかは未知数だ」
「とりあえず、あの魔獣が飛び掛かってきても罠の側に着地しない位には離れましたし、大丈夫じゃないですかね?」
何度も喰らったので、奴の運動能力についてはバッチリですよ? とノーラは嘯く。自虐めいたその発言に二人は何とも言えない目を向けたが、彼女は肩を竦めるばかりだった。
そう言い合う三人の顔には、昼間付けていた布は付いていない。クレイオから『漂う穢れなら、渡した珠が浄化するから気にしなくていいのですよ。そもそも対策として無意味ですし』と言われてしまい、外すことにしたのだ。ノーラに関しては洗ったものが乾いていない、が主な理由だが。
「ぶっちゃけ、これ以上はやってみないと分からないと思いますけどね? 悩むだけ時間の無駄というか?」
「それは……まぁ、確かに。では、ここで迎え討つ、ということで」
「うむ。異存はない」
アイビスが首肯いたことで、三人は口を閉じて警戒体制に移行する。
それは光源を持たないキャサリンを、感知能力が高く額にキャップライトを装備した二人で挟む形だ。ノーラは有事に即応出来るよう少し腰を落とした姿勢で短刀の柄に指を掛けて待ち、アイビスは槍を持たない左手を耳に添え、乏しい光源で制限された視界だけではなく聴覚でも異常を捉えようと耳をそばだてている。
元より勘が鈍く警戒行動が苦手なキャサリンは索敵に参加していなかったが、敵に気付いた仲間の反応を見逃さないよう、緊張した面持ちでメイスの柄を握り締め、彼女なりに気を張っていた。
そのまま、幾許かの時が経った。日中はあれだけ襲撃を受けたと言うのに、日が落ちた今は一切気配がない。しかし、襲撃が来ないと思っているものは誰もいなかった。三人共に、警戒心を保ったままジリジリとした時間を過ごす。彼女達の間を獣の呼気のような湿った風が流れ、ぬるりと肌を撫でていく。
そうして、少しだけ昇った月に掛かった雲が僅かに流れた頃に、ぴくりと顔を上げたノーラが森の一点に鋭い視線を投げ、叫んだ。
「! ……来ます!」
アイビスとキャサリンが直ぐ様反応してそちらへ獲物を向ける。集中した二つのキャップライトの灯りに照らされた薮を割ったのは、あの魔獣だった。
『──ゥルルルルル……』
低く唸りながら、魔獣はのそりと草原へと脚を踏み出す。その姿を、雲の陰から脱した月明かりが照らした。魔獣が纏っていた昏い澱みが、まるで月光に浄化されるかのように霧散していく。
「これは……妖精さんの力が効いている、ということでしょうか……?」
「そのようだ」
頷いたアイビスが懐からクレイオに託された宝珠を取り出す。虹色の珠は、彼の掌の中で確かな光を放っていた。澱みが薄れて顕になった猫とも犬ともつかぬ獣相が忌々しげにアイビスを睨み付けている。まるでそれが自分の力を奪う物だと理解しているかのようだった。
『ゥルル……ゴァアアアアアアアッ!』
そうして纏っていた穢れ全てを剥ぎ取られた獣が、太い尻尾を地面に打ち鳴らして咆える。それは歴戦のアイビスをして反射的に耳を塞ごうとしてしまう程の声量だ。身が竦んで機先を潰される。その一瞬の隙に、獣は動いた。
『ガァァァアアッ!』
「くっ……!」
自分が狙われるだろう、と予期していたアイビスは地面に身を投げ出すようにして獣の飛び掛かりを躱す。攻撃動作に入ったと見るや即座に回避に移ったというのに、魔獣の爪はアイビスの肩を浅く削っていた。
「アイビスさん!」
「問題ない。鎧を掠めただけだ」
倒れたアイビスに慌てて《ヒール》を掛けようとするキャサリンを声で制し、アイビスは健在を示すように跳ね起きる。握り締めていた宝珠を懐に突っ込むと、草地を削るように爪を立てて止まった獣へ槍を構えた。アイビスは憎々しげに唸るその目の中に、僅かな戸惑いと苛立ちの色を捉える。
「……効果あり、のようだな。動きが鈍っている」
「えっ、これでですか!?」
アイビスの呟きに、キャサリンが驚愕の声を上げる。彼女の目では相変わらず追えない速度だった。避けれる気がしない。
だが彼女のその頓狂な声に反応して、獣の注意がそちらへ向いてしまった。獣はすぐさまキャサリンに飛び掛かろうと一瞬身を屈め──その横っ面に硬い物がぶち当たる。
「──あ。耳、塞いでくださいね?」
キィィィィィン!!
遅すぎるノーラの警告と共に、獣の顔にぶつけられたクルミが炸裂。名前からは想像の付き難い甲高い音を、その名の通り爆裂するかのような勢いで周囲に撒き散らす。
『ガ!? ……ゴァァァァアアアアア!!!』
耳元で轟いた高音に、一瞬仰け反った獣はすぐにその場を飛び退き、怒りの咆哮を上げる。血走った目が闇の中、キャップライトの光を反射でもしたのか
「警句が遅い!」
アイビスが文句を言うのと同時に石が眩い光を解き放ち、草原を一瞬白で染め尽くした。それは彼が罠の手前まで移動しながら放り投げたもの。火を付けた閃光石だった。
「アイビスさんも人のこと言えないですよね!?」
「何を言うか。お前がクルミを投げた後は俺がここまで移動し、石を投げるのが手筈であろう」
現にお前も自ら目を閉じただろう、というアイビスに、ノーラはぐぬりと口を噤む。チャンスと見て脊髄反射的に投げたノーラと違い、それは予定された行動だ。彼女もきっちり目を庇って難を逃れた以上、主張の正当性は明らかにアイビスにあった。
『ガァァァアア!?』
だがもちろん、そんな手筈など知らない獣に閃光を回避出来るはずもない。聴覚に続いて視覚も奪われた獣は惑乱したように暴れ回る。だが視界が潰される直前に石を投げた者の姿は視界に入っていたのか、やたらめったらに爪を振り回しながらも獣は確実にアイビスの方へと向かってきていた。
「よし……いいぞ」
作戦通りに進んでいることを確かめ、アイビスは背後へ5m程跳躍して罠を跳び越す。助走も無しにそれだけの距離を跳ぶのは只人には難しいが、翼のある彼なら別だ。上手く翼を使って難なく跳んだ、その直後に彼の立っていた場所を魔獣の爪が薙ぎ払う。空振った魔獣が着地するのは当然、
『ゴぁァアっ!?』
落とし穴を後ろ足で踏み抜いた獣が、尻から落ちるように落下する。穴から上半身だけ出す形になった獣は、びくりと身体を震わせると縁に凭れ掛かるようにして崩れ落ちた。薬剤が効いているらしい。
「今ですッ!」
アイビスに文句を言った後、その場に伏せて気配を消していたノーラが妖魔としての力を解放し、両手両足、更に見えざる手も使って跳躍、獣に踊り掛かった。懐から引き抜いた
『ゴッ!? ガァァァアア!』
重い手応えと共に、獣が悲鳴を上げる。彼女の得物は狙い通りの場所に刀身の半ばまで埋まり込んでいた。ノーラはすかさず見えざる手を、そこに握り込んでいたもう一本の三徳包丁の柄尻を力の限り突き刺した三徳包丁へ叩き込む。
「これでどうです!?」
打ち込まれた刀身が完全に根元まで埋まり、獣が絶叫を上げた。しかしノーラは容赦しない。更にその柄を足場に空中へ跳び上がると、くるりと一回転しながら三徳包丁を持ち替え、全身のバネと遠心力を載せた一撃を一本目の隣に振り下ろした。更に短剣を引き抜いて四刀に持ち替えると被害を拡大せんとばかりに我武者羅に周りを斬り付ける。
「俺も続こう」
「私も……行きますッ!」
そこに空中に飛び上がったアイビスが急降下しながら魔獣の背中に槍を突き立て、両手でメイスを握ったキャサリンが回り込んで無防備なその頭部を殴り付ける。そのどれもが、彼女達の出来る会心の一撃。だが、
『──ゴォォァァァアアアアアアア──ッ!!』
頭を殴り付けられた獣が、そのメイスを頭の振りで弾き飛ばしてこれまでにない大音声で咆哮した。傷口を拡大することに執心していたノーラは意識外から叩き付けられた咆哮に、思わず短く悲鳴を上げて蹲ってしまう。メイスを弾かれたキャサリンは蹈鞴を踏んで下がり、そのまま狂ったように暴れ始めた魔獣に振り落とされ掛けたアイビスも咄嗟に獣の背を蹴って槍を引き抜き後退した。
三人が攻撃を中断した隙に、獣は力尽くで罠から脱出する。未だ眩んだままなのか目は閉じたままだが、罠から這い出すと同時に獣は叫びながら周囲を爪で闇雲に薙ぎ払った。狙いも何もあったものではないが、躊躇なく全力で振るわれた爪の先には二人の少女がいる。
「っ!? 神よ! 《アフェクション》!!」
回避は望めないと悟ったキャサリンは口早に奇跡を願い、被害を逸らすことを選択。彼女の前に現れた光の壁を爪が叩き、キャサリンは壁ごと後ろに押される形で後退した。
「ひぃ!?」
一方のノーラは情け無い悲鳴を上げてべったりと地面に臥し、何とかその一撃を躱した。そのまま転がるように危険域を脱出し、隙を窺っていたアイビスの隣へ並ぶ。
二人を追い払った魔獣は敵の位置を掴めないのか闇雲に動き回っては無軌道な攻撃を続けていた。右前方へ跳んで右爪を振るい、すかさず左前方へ跳躍しながら左爪で空を裂く。着地したかと思えば前進しながら噛み付き、すぐさま反転。大きく前方へ飛びながら右爪を地面に叩き付ける。とにかく動き回り、攻撃をし続ければ攻撃を受けないとでも思っているのか、それともただ与えられた痛みに荒れ狂っているだけか。
嵐のように暴れ回る獣を指指してノーラが叫んだ。
「全然効いてなくないですか!?」
「いや」
アイビスは冷静に首を振る。
「爪を振る際、僅かだが引き攣れ、庇うような動きをしている。特に左爪を振る時が分かりやすい」
言われ、ノーラは暴れる獣の動きに注視した。額や背中、そして三徳包丁を突き立てられた左脇腹から血を流しながら、獣は左爪で草地を薙ぐ。数秒その動きを観察したノーラはヤケクソ気味にアイビスを振り返る。
「微差ですね!?」
「そうだな」
アイビスは肯定した。
「だが、確かな差だ」
「であれば、無駄では無かったということです」
獣を迂回してきたキャサリンが合流してきて、言う。
「更に言えば、さっきの攻撃で付けた傷からは血が流れています。動き回ればその分流れる血は増えるでしょう。血を流して弱らない生き物はいません」
「そういうことだ。ここからは奴の傷を増やしつつ、暴れさせて消耗を強いるべきだろう」
「それはそうなんですけどね?」
ノーラはげんなりとした顔で獣を見る。穢れの力を失い、傷を負ったとてその攻撃力は依然として脅威だった。しかも攻撃してすぐに数m跳んで位置を変えてしまうので隙が突きにくい。リーチの短いノーラや瞬発力の劣るキャサリンでは尚更だ。
「やりましょう。ちょっと自信はないですけど」
弱気な言葉とは裏腹に、芯のある声でキャサリンは言ってメイスを構えた。自身の戦闘スタイルと相性が悪いことは百も承知だが、それは自分が足踏みする理由にはならない、とその翠の瞳が雄弁に語っている。
それを受けてアイビスは僅かに口元に笑みを作った。
「……深追いはするな」
短くキャサリンにそう言った彼は、獣を一瞥するなりそちらへ駆け出していく。獣の動きが緩み始めたのを見て取ったのだ。
早くも弱り出した、のではない。攻撃が当たらず、また受けもしないことで周囲に敵が居ないと勘付き始めたのだろう。
このまま落ち着かれては付け入る隙が減る。そう考えたアイビスはこれ以上の時間の消費を惜しんだのだった。
「──ふっ!」
『ガァッ!?』
矢のように突っ込んだ彼の槍が獣の左後ろ脚を傷付ける。短く苦鳴を上げた獣は弾かれたように跳び離れ、元のように暴れ始めた。
縦横無尽に跳ね回っては鋭い爪で周囲を薙ぎ払うその様はまるで次々に降り注ぐ火山弾か雷のようであり、辺りの地面は災害に見舞われたかのようにボロボロにされていく。
そこへ斬り掛かるのは自ら嵐に突っ込むようなものだが、短剣を両手に構え直したノーラはそっと唇を舐めた。
「まぁ、やるしかありませんね? キャサリンさん、いざという時はよろしくお願いしますよ?」
そう言い置いて、彼女も獣に向かって突撃する。向かうは跳んだ獣が次に着地した先。その頭を押さえるべく、浅く弧を描くよう駆けた彼女の目の前に、目論見通りに獣が着地した。
繰り出される爪をスウェーで躱し、上体を起こしざまに短剣を振るうが、
「っ、やっぱり素早いですね!?」
何か感じ取るものがあったのか、獣がすぐさまバックステップした為に空振ってしまった。
続くキャサリンに至っては後背を狙おうとするも、
「追いつけない……!」
攻撃と跳躍を繰り返す魔獣の動きに翻弄されるばかりでまともに動けなくなっていた。距離を詰めたことで彼女の動体視力が魔獣の動きについていけなくなってしまったのだ。移動の度に視線を振り切られてしまい、行方を探し当てた時には攻撃を終えた魔獣が再び違う方向へ跳躍してしまう。
こうなると気持ちだけではどうにもならず、攻撃するどころではない。
彼女が不甲斐なさに歯噛みしていると、ノーラの近くに着地した獣が攻撃せずにぐっ、と身体を沈めた。
「! チャンスです!」
「待てノーラ! 迂闊に──」
『ゴァアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
チャンスを逃さじ、と反射的に突っ込んだノーラにアイビスからの警句が届くより先に、獣が再び叩き付けるような咆哮を放った。至近距離で浴びてしまった彼女は反射的に耳を押さえてしゃがみ込む。それが致命的な行動だとノーラにも分かっていたが、抗うことができなかった。続く風切り音に、彼女は何とか刃を合わせようと両手をクロスに掲げる。
──ヒュッ!
「ッ!? ぐ、うぅぅ……!」
鞭のように横薙ぎに振るわれた太い尾が、ノーラの咄嗟の防御ごと彼女の身体を弾き飛ばす。獣は左脚を軸にして一周ぐるりと回転し、尾で周囲を打ち払ったのだ。
「ノーラさん!」
「大丈夫……まだ、やれます!」
打たれたノーラは左肩を押さえながらそれでも素早く立ち上がると戦意を見せた。中を切ったのか口の端から血を垂らしながらも、その唇は不敵な笑みを湛えている。が、その足は若干ふらついており、彼女の受けたダメージが軽くないことを窺わせた。特に打たれたらしい左腕は全体が酷い痣になっている。衝撃の瞬間に光の欠片が散ったことから、アイビスの警句を聞いて咄嗟に張った《プロテクション》は間に合っていた筈だが、この様子では暫く左腕は使い物にならないだろう。
「一旦下がれ、ノーラ。治療を……む!」
その様を一瞥したアイビスが声を出すも、至近に感じた吹き付けるような殺気に目を戻す。そこに彼は、自分を見据える紅い双つの凶星を見た。
明確な意志のもと振り下される爪を、アイビスは後ろに身体を流すことで辛うじて回避する。無理な回避をしたことで体勢が崩れるが、彼はそのまま地を蹴り、翼を使うことで一気に距離を稼ごうとした。だが。
獣は爪が空振ったと見るや、その手首を内側に捻った。地面に叩き付けるや否や深々と爪を食い込ませると、渾身の力を込めた後脚で地面を蹴り付け前方へ跳躍する。常ならば目にも止まらぬ速さで身体を移動させる脚力が、突いた右腕によって高速で身体を転回させる力に変化する。右腕を軸に回る身体、その先端にあるのは強靭な尾。針のように硬くなった剛毛に覆われたそれが、張られた障壁越しに目を見開くアイビスへ振り落とされた。
「がッ──!」
鈍い音を立てて打ち据えられたアイビスの身体が地面に叩き付けられ、衝撃で一度跳ねてから獣によって無惨な姿にされた草地の上を転がって行く。
「アイビスさん!?」
「──クルミだ! 早く投げろ!」
うつ伏せの姿勢で止まった彼から返ってきた返事は、思いの外鋭く、強かった。その声に反応したノーラが素早く見えざる手でベルトに括り付けたクルミを掴み取り、短剣の柄尻を打ち付けて投げる。
先程の動きはそれなりに無茶な動きだったのか、獣は地面に尻尾を叩き付けた姿勢のまま荒い息を吐いていた。一直線に飛んだクルミは、その耳元で過たずに炸裂する。
『ガァァァアア!?』
回復し掛けていた耳を再び潰された獣が仰け反って悲鳴を上げる。そこへ、上体を起こしたアイビスが痛みに顔を顰めながらも火の付いた閃光石を投げ入れた。ノーラへ指示を出した時から用意していたのだろうそれは、獣が仰け反ったとほぼ同時にその目の前で光を放とうとしたが、獣はその直前で目を瞑ると思い切り顔を逸らしてしまう。
「読まれたか……!?」
自身の目が眩まぬように庇いながら、アイビスが悔しげに舌打ちをする。すぐさま次の石を手に取ろうとし、彼は視界の端に煙を引いて飛ぶ別の石があることに気が付いた。
閃光が収まったと感じた魔獣が獲物を視界に収めるべく振り返る。その視界いっぱいに映ったのは、まさに光を解放せんとする新たな石だった。
『ギャァァアアアッ!?』
至近距離で浴びせられた光に獣は絶叫を上げて蹈鞴を踏んだ。一度躱したと思った瞬間に喰らわされたのだ、その衝撃は大きいだろう。
「良くやった、キャサリン」
「いえ……アイビスさんは動けないだろうと思って、急いで投げたのがたまたま……」
閃光石を投げたのはキャサリンだった。彼女は照れたように自身の髪を撫でると、一転して気遣わしげな顔で立ち上がったアイビスを見た。
「その、アイビスさん、お身体の方は……」
「大丈夫だ。問題ない」
そう応えるアイビスの翼は両翼とも半ばから折れ曲がっており、額からも血を流していたが、その立ち姿に揺れは無く、言葉もはっきりしている。もう翼は使えないだろうが、槍を振るうだけなら問題はなさそうだった。
「……踏み切る直前、奴の顔が確かに歪むのが見えた。痛みで完全に踏み切り切れなかったのだろう」
「では……」
「奴も確実に弱っている。この機を逃すな」
アイビスは両手で槍の柄を握り締めると、ダメージを感じさせない動きで獣へ向かって行く。
「仕方ないですね?」
ノーラもクルミを投擲した直後から飲み始めたHPポーションの瓶を投げ捨てると、言葉とは裏腹に気力に満ちた表情でその後を追う。ポーションを飲んだとはいえその効果は万全とは言えず、左腕が動かせる程には回復しなかったようだったが、これで充分とばかりに三振りの短剣を構えて駆けていった。
「……私も、今度こそ!」
キャサリンは少し気負った声でそう言うと、メイスを握り締めて一つ深呼吸する。
──この戦い、私は、全然私の役割が果たせてない。
自分の役割は仲間を護る楯であり、仲間の障害を払う打ち破る鎚だ。
少なくとも、キャサリンはそう信じているし、これまでもその信念の元常に前に出て敵の攻撃を受け止め、仲間の援護をしながらメイスを振るってきた。
しかし、この戦いでは傷を負うのは彼女の仲間ばかり。援護は出来ていると思うが、攻撃の方は罠に掛けた時以降はさっぱりだった。
更に言えば、今の彼女はギルドマスター代理だ。だが、戦闘中の指示は殆どアイビス頼りになっている。経験豊富な彼の指示は的確で早く、その内容に不満が無いのだが、これまで指示を出しながら戦っていた
だから、これでは足りないと、彼女は思った。
先程のように速度に振り回されるようでは駄目だ。
「まずは動きをよく見て……動きを読まないと」
獣はダメージを無視できなくなって来たのか、明らかに傷付けられた左後ろ脚を庇うような素振りを見せている。動きも精彩を欠きつつあった。それでもまだ彼女が追い付ける動きではなかったが、やりようはある筈だ。
獣の脚の踏み切る方向を見て、向かいそうな方向へ先回りする。これだけ目の前で跳ばれているのだ、目で追い切れてはいなくても、癖のようなものは何となく分かり始めていた。
考えることは同じだったのだろう。その向かった先には既にノーラが到着していた。短刀を構えて待ち構える彼女の前に、予測通り獣が着地する。それも好都合なことに後ろ脚が狙える位置だ。
「読み通りですね? ──っ! くぅっ!」
爪を振るえばその間に攻撃しようとノーラが前傾姿勢になった直後、獣が先程彼女を吹き飛ばした時と同じように前足を軸に旋回し、尻尾で周囲を薙ぎ払った。すんででノーラは身体を引いて躱したが、攻撃チャンスを逃してしまう。
そうして旋回した獣は、地面を爪で削りながら滑ると、何の偶然かキャサリンの目の前に脇腹を晒す形で止まった。目の前にはノーラの三徳包丁の柄が見えており、傷口からは未だ血が流れ落ちていた。
「! これなら……!」
ここを叩けば間違いなく痛打になる。魔獣は攻撃をしたばかりで次は移動しようとするだろう。急いで攻撃しなければまた跳ばれてしまう。
やや視野狭窄気味になっていた彼女は両手でメイスを握り直し、三徳包丁の柄目掛けて思い切り振り被る。だからその時、獣の耳が微かに、だが確実に動いたことに彼女は気付けなかった。
「! キャサリンさん、危ない!」
「え──」
視界がブレ、そして視界の中を目まぐるしく地面と空とが入れ替わる。一拍遅れて重い衝撃が脇腹を突き抜け、息が詰まる。一体何が、と思う間も無く、キャサリンは激しく咳き込んだ。
「もう聴覚が回復したのか……!」
アイビスは舌打ちしながらも冷静に距離を詰め、獣の左前脚を斬り払う。獣はこれにも反応しようとしたが、消耗と痛みの為か反応が遅れてリーチの長い槍の斬撃を避け切ることが出来ず、浅くない傷を受けていた。
獣は苦しげな唸り声を上げながら跳び、着地するなり更に大きく後ろに跳んで彼から距離を取る。それは完璧ではないものの、明らかに周囲を把握した動きだった。
「キャサリンさん、大丈夫ですか!?」
一方、血相を変えてキャサリンに駆け寄ったノーラが見えざる手で彼女を助け起こす。
「げほッ、がはっ……な、なんとか。一体何が……?」
「キャサリンさんは尻尾で殴られたんですよ?」
咳き込みながらも返事をし、自分の足で立ったキャサリンに、ノーラは表情に安堵を乗せると忌々しげな目で獣を睨み据えた。恐らく声からキャサリンの存在を感じ取ったのだろう。獣は移動せずに再度周囲を尾で打ち払ったのだった。
「なんて、迂闊……!」
抑えた脇腹に《ヒール》を掛けながらキャサリンは呻いた。功を焦って返り討ちなど、ただの恥でしかない。しかも、しかもである。同じようなことでノーラが暴走したばかりなのだ。彼女をそうさせてしまったことを反省し、そうならないようにしようと話をしたばかりだというのに、似たようなことを自分がやってしまうとは……!
「……。これは帰ったら、一緒に反省会ですね?」
慚愧に堪えぬ顔で俯くキャサリンに、ノーラは茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。それに一瞬呆けたキャサリンは、すぐに小さく微笑った。
「そうですね」
ノーラに一つ頷きを返したキャサリンは、視線を魔獣へ戻した。獣は血を流し、肩で大きく息を吐きながらも、尾を地面に打ち付けて彼女達を威嚇している。その目はまだ回復していないのか閉じられたままだが、そこにはともすれば赫怒に染まった紅の瞳が幻視出来るそうな程の鬼気が感じられた。震える脚で大地を踏み締め、獣は大きく息を吸い込む。
『ゴォォァァァアアアアアアア──ッ!!!』
それは弱っているとは思えない凄まじい轟咆だった。その音圧に肌が震え、込められた激情は抗する気概ごと押し潰さんとしてくる。
しかし、三人はそれを歯を食いしばって堪え切った。いい加減慣れてきたのもあるが、一番は気力の問題だった。負傷したり動き回ったりで体力的にはかなり消耗している三人だったが、気力的にはともすれば戦闘開始直後よりも充実していると言える。今更咆哮程度で怖気付く彼女達ではなかった。
咆哮が終わった直後、獣が力を溜めるように身を屈める。傷の影響が大きいのか、これまでのように即座に飛び掛かっては来なかった。その狙いが自分であると察したアイビスは鋭く目を細めると、懐に手を入れてある物を手に取る。獣が地を蹴ると同時に右手に握り込んだものをその顔面目掛けて投げ付けた。
握り拳大のそれは真っ直ぐ宙を飛び、狙い通りに獣の口に飛び込む。獣は反射的にそれを噛み砕く──いや、噛み砕こうとした。
──ギィン!
『ゴバッ!?』
牙が刺さり、脆くなった外皮が砕け、それ──爆裂クルミが炸裂する。口の中で解き放たれた高音に、鼓膜どころか脳まで揺らされた獣は口を大きく開いた状態でバランスを崩した。飛び掛かりざまに振おうとした爪から力が抜け、慣性に従って無防備状態のままアイビスの方へ突っ込んでくる。
「……終わりだ」
アイビスは前方へ倒れ込むように身体を沈めざま、獣に向かって槍を突き出した。突進力が上乗せされた槍は、獣の口から入り、そのまま後頭部に抜ける。
『ガ……』
小さく呻きともつかない声を上げた獣は、アイビスが手放した槍を生やしたまま宙を滑ると、濡れた音を立てて顔面から地面に突っ込んだ。衝撃でぼきりと槍の柄が折れ、赤黒く濡れた穂先がより大きく飛び出す。びくり、と魔獣は一つ大きく身体を震わせると、そのまま四肢を放り出して動かなくなった。
「終わり……ですか?」
「槍は脳髄を貫通している。間違い無かろう……む」
魔獣の身体の下を潜る形となったアイビスが、何かに気付いて懐に手を入れる。掴み出した手が握っていたのは妖精達から託された宝珠だった。
アイビスが掌の上に乗せた宝珠は、三人が見ている中でゆっくりと形を崩し、光の粒子に解けていく。それはまるで役割を終えたと言わんばかりの光景だった。
「綺麗ですね……」
見詰めるキャサリンが思わずそう声を漏らす。宝珠が変じた虹色の粒子は、三人を祝福するようにその頭上で緩く円を描くと、そのまま月明かりに溶けるように消えていったのだった。