あの頃の俺は、彼女こそが世界の全てだと思っていた。
「あなたのことが好きです‼︎ 俺と付き合ってください‼︎」
「うん。君とだったら、いいよ」
勢いよく下げた頭の上に待ち望んでいた答えが降ってきたのは、夕暮れの屋上でのこと。
バッと頭を上げた俺の視界に映ったのは、彼女の慎ましやかな笑顔。
「こちらこそ、不束者ですが……よろしくお願いします」
彼女のその顔が赤く染まって見えたのは、夕焼けに照らされているからというだけではなかったと思う。
「よ……よろしくお願いしまっす‼︎」
俺はもう一度、ハンマーを振り下ろすような勢いでバカみたいに頭を下げながら、元気よく返事をした。
俺の人生の中で彼女ができたのは、高校2年のこの時が初めてだった。
率直に言って、この時は舞い上がっていた。この世の春がようやく来たのだと、神様だとか仏様だとか色んなものに感謝したい気持ちでいっぱいだった。
この時に俺の人生は始まったのだとか、そんなことまで思っていたぐらいだ。
……本気で、思っていたんだ。
俺が彼女に告白し、OKをもらった次の日。
俺の目に映る世界は、鮮やかな色で満たされていた。
次の日には早速クラスで、俺と河辺さんの交際は噂になっていたのだ。その噂を鼻高々に友人たちに肯定して自慢してやったら、どいつもこいつも悔しそうな顔をしていたっけ。全員の顔を見渡すあの瞬間は、ニヤケが止まらなかったなぁ。前の方の席に座る彼女と目が会った時に、笑顔で手を振り返してくれたものだったから、余計に。
付き合っている女子がいるだけで、こんなにも優越感と充足感に満たされるなんて。
だから、思ったんだ。
この幸せを守るためなら、なんだってやろう。彼女が離れていかないように、人生の全てを彼女に捧げよう……そんなことを。
その日から、自分にできることは思いつく限りなんでもやっていた。
朝は早起きして、自分の分と彼女の分の弁当を作り。
待ち合わせ時間の30分前には通学路で彼女がやってくるのを迎えて。
一緒に歩いている時は話題に事欠かないよう、彼女がオススメしてくれた番組は全部観たし、オススメされた曲は全部聴いた。
昼は普段一緒に食っていた友人の誘いを断って、必ず彼女と二人で弁当を食べる。
彼女に余計な嫉妬はされないよう、他の女子はもちろん男子との付き合いだってシャットアウトだ。
放課後だってなんとなく続けていた部活なんてフケて、友人からの遊びの誘いは全て断った。そんなことより、帰宅部の彼女と一緒に帰ることの方がはるかに大事だった。
顧問や友人が何か言ってきても、そんなものは無視だ無視。
そうして帰宅したら、まだ小学校に上がりたてで幼い弟妹が折り紙やらゲームやらの遊びに誘ってくるのを振り切って自室に戻り、勉強勉強。
なんべんも誘いを断ったせいで弟妹に泣きつかれた時は、さすがに少しだけ胸が痛んだものだったが。それでも、俺は彼女の顔を思い出して、誘惑を振り切って部屋に籠った。
彼女がいる人間が成績不良なのは、カッコ悪いと思ったからな。
勉強の合間の休憩時間には彼女のオススメの番組や曲をチェックするのも、忘れない。なんなら、休日のデートプランを考えることも並行してやっていたから、休憩とは名ばかりの作業時間だったぐらいだ。
休日はデートに行くか、またはデートスポットへ下見に行くか。それまでカフェやクレープ屋なんてどこにあるかも知らなかったのに、気がつけば週に何回も違う店に行くのが当たり前になっていた。
高校生としてはけっこう痛い出費になったので、親に頭を下げてお小遣いの値上げを要求したり、バイトを始めたりもしたっけ。
勉強熱心になったことで親の心証は良くなっていたので、どちらも許可はどうにか得ることができた。
ただ、母さんは「熱いわねぇ……」なんて、溜め息混じりに俺の様子に呆れていたなぁ。父さんは何も言わなかったけど、何か言いたげな様子で俺を見つめてたっけ。
好きな人ができたんだから、熱くなるのは当たり前じゃないか。俺には、二人がなぜ冷めた様子で俺のことを見ているのか、心の底から理解ができなかった。
そんな日々が、一ヶ月ぐらい続いた。
彼女のためだけの生活を続けるのは、苦じゃなかった。俺には、付き合っている女子がいる。その事実がもたらす満足感と充足感は、そのまま俺を動かすエネルギーになっていたみたいだ。
彼女のために過ごした時間は俺の自信になって、彼女のためなら何でもできると本気で思ってたぐらいだ。
率直に言ってしまえば、調子に乗っていたんだと思う。そんな時のことだった。
彼女から、『別れて欲しい』とスマホにメッセージが来たのは。
そのメッセージを受け取ったのは、暗い空から雨が降ってきたのを部屋の窓から眺めながらのことだった。
最初、その文字列の意味を理解するのに、たっぷり一時間はかかった。
ようやく意味が理解できた頃には、『なんで』という言葉を50回はメッセージで送りつけていた。
だって、意味がわからない。毎日毎日君のことだけを考えていたじゃないか。君のための行動だけをしたじゃないか。俺の人生の全てを君のために捧げて、君だけが中心の世界で過ごしてやったじゃないか。そこまでしたのに、なんで。
『そういうところが重くて、もう疲れちゃった』
メッセージアプリにそれっきりの返事を残して、彼女はもう何も返してくれなくなった。
これは夢だと思って布団をかぶっても、翌朝に同じメッセージはくっきりと残っていて。
朝の通学路にいつも通り30分前に到着したのに、待ち合わせ場所で1時間待っても彼女は来なかった。
その頃には背中には冷や汗がびっしりと滲んでいて、その感触を気持ち悪く感じていた。
それでもなんとか少しずつ足を進めて、遅刻を確定させながらも教室まで辿り着いて。
教室の中に、彼女はいた。
だけれども、彼女と俺の視線は一度も合うことはないまま、一日が過ぎた。
その日は、どうやって家に帰ってこれたのか覚えていなかった。
それから一週間、一日も学校に通えていないのが現在の俺だ。
決して目が合わない彼女の姿が脳裏に思い浮かぶ度に視界は灰色になり、全身から力が抜けて。そうなると、立つことすら覚束なくなっていた。そんな状態では通学路を歩ききることすらできず、三日が経った頃には部屋から出る気力どころか、起き上がる気力すらなくなっていた。
両親は最初こそ心配する言葉をかけていたが、一週間が経った今ではご飯を俺の部屋の前に黙って置くだけになった。
正直、何も言わないでいてくれるのが、今は一番ありがたかった。原因や理由を聞かれたところで、両親には意味不明な返事しか返せないだろうから。
そう、俺にとっては、彼女は世界の全てだった。彼女のために自分の全てがあり、自分の行動の全てを彼女のために尽くすことこそが俺の人生なんだと思っていたんだ。
だけれども、彼女にとって俺は、世界の全てではなかったのだろう。
ただそれだけの、話だったのだ。
その事実を、俺と目を合わせない彼女の姿と一緒に噛み締めると、それだけでまた身体から力が抜けていくのを感じる。世界が、灰色に染まっていくのを感じる。
もう俺は、人生全てを捧げていたかけがえのないものを失ってしまったのだ。俺が生きる理由なんて、なにも……
そんなことまで、大袈裟ではなく本気で考えていた時。
カチャン、と部屋の扉の前に、皿が置かれる音がした。
それから、ゆっくりと去っていく足音が響く。
おそらく母さんが、部屋の前に料理を置いてきてくれたのだろう。
タイミングよく、お腹がグウと音を立てた。
前にご飯を食べてから、随分と時間が経っていたらしい。
時計を見ると、もう普段ならとっくに夕飯を食べ終わっている時間だった。
仕方なしに身体を起こして、ノロノロと部屋の扉まで歩き出す。
食べても悩みは消えないが、悩んでいようがお腹は空くのだ。
ご飯を食べて、今日はもう寝よう。
そんなことを思いながら、部屋の扉を開ける。
部屋の前に置かれていた料理のお盆を取ろうとして、ふと手が止まった。
毎日の料理に加えて、ショートケーキが一品置かれていたからだ。
それも、ご飯茶碗ぐらいの面積はありそうなぐらいに大きな大きな――――折り紙でできた、ふにゃふにゃのショートケーキが。
幼い弟妹が作ったのであろうそれを、そっと手に取る。食べようと思ったからではない。中央に文字が書かれていることに、気がついたからだ。
弟妹達の、拙いひらがなで書かれた、一言……
「おにいちゃん またげーむ しようよ」
――――その文字を読み終わった瞬間、なぜか涙があふれた。
自分の中に感情が湧いてきたと感じるのは、学校に行かなくなってから初めてだった。
折り紙のケーキに涙をこぼしてから、俺は慌てて涙を腕でぬぐう。
涙の痕が顔に残っていないことをスマホのカメラで確認してから、俺が向かったのは家のリビング。
リビングでは、大きなテレビ画面の前に座った弟妹が、ゲームに夢中になっていた。
まだ二人が起きていたことに感謝して、俺は二人の名前を呼んで。
それから三人で、久しぶりにゲームを楽しんだ。
ゲームをやりながら、俺は何度も笑った。笑い方なんて忘れたと思っていたのに、笑顔は随分と簡単に俺の中に戻ってきていた。
……それからゲームに夢中になりすぎて夜更かししてしまい、母さんには弟妹も合わせてたっぷりと怒られたけど。
もう世界が灰色に見えることは、なくなっていた。
翌日、俺は学校に登校することができた。
前日に夜更かししていたものの、30分も人を待たなくていい朝の通学路は、案外ゆったりとした歩き方でも遅刻することはなく。
教室では、友人から色んな言葉をもらった。心配だった、また来れて良かった、良い女なんてすぐ見つかるよ、エトセトラ。
ひとつひとつの言葉に、笑って返した。笑うことが、自然にできていた。
やがて教師がやってきて、俺達は席に着く。教師は一瞬俺の姿を見たあと、すぐに何事もなかったように朝の連絡を始めた。一週間サボってた程度の生徒の扱いなんて、そんなもんだ。そのうちに俺が一週間休んでた時のことも、誰の話題にもならなくなっていくのだろう。
そんなこんなで俺の平凡な一日が、再び始まる。
朝礼を終えて席に着く時、一瞬だけ彼女が視界に入った。
少し前まで、俺の人生の全てだった彼女。
彼女との視線は、今日も相変わらず合わないまま。
そして、これからも一生、俺達の視線が合うことはないのだろう。
ただの直感だけれど、きっとこの予想はあたるという確信があった。
だけど、それで身体の力が抜けることは、もうなくなっている。
そのことが、彼女のことはもう思い出だけの存在になっていることが、少しだけチクリと胸を痛めたけれど。俺はその気持ちに気づかないフリをして視線を、彼女から逸らした。
そして俺は、別のことを考え始める。
今日は、何をしようかな。放課後には、友人と遊びに出かけたりしてみようか。カラオケに行くのもいいし、ゲーセンとかも面白そうだな。
それとも、しばらく顔を出していなかった部活に、顔を出してみようか。あそこの顧問は熱血系な人だから、しばらくサボってたことは盛大に怒られるかもしれないけど……
俺の頭には、次々と色んな考えが浮かび始めていた。
その全ての選択肢の中に、もう彼女はいない。
彼女の世界はもう、俺の世界とは関係がないのだから。
だけども。
それでも俺は、まだ終わっていない俺の人生を、これからも生きていく。