空と君のあいだに   作:苗根杏

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第1章 弦巻こころと眠る時計
1.あした


 10月11日、金曜日。今日の開店時間は12時。昼飯を食べ終わった俺は、表の看板を『CLOSE』から『OPEN』へと裏返す。

 

 今日もまた俺は、この店と社会の歯車として、歯車を直すのだ。

 

 月曜日は9時、火曜日は8時、水曜日は10時と、土曜日と年末年始を除いてほぼ毎日の営業をしている『時計の青美堂(せいびどう)』は、開店時間が曜日によって異なる。

 

 自分で言うのもなんだが、俺は気まぐれな性格で、ラーメンを食べようと家を出て何も食べずに帰ってくるくらいには気まぐれだ。ハンバーグを食べて帰ってくるとかならまだしも、普通にハードオフだけ行って帰ってきた事がある。

 

 そんな俺が開店時間を一律にできるわけもなく、母との協議の結果、甘んじに甘んじて毎曜日違う開店時間にすることとなった。

 

 母曰く、『マジで唐突に休むんじゃないよ』とのこと。流石に休みはしないよ。唐突に飯は食べ始めるかもしれないけど。

 

 というのも、この店、閑古鳥という言葉を私有化しても良いのではないかというくらいには客が来ない。

 

 立地としては、江戸川区の商店街の中ほどにあるという面では良いのだが、向かいに小綺麗な別の時計屋があるという面では本当に良くない。

 

 この店の方が圧倒的に時計屋っぽいビジュアルはしていると思うのだが。

 

 町中華で言えばブラウン管のテレビが置かれているポジション、すなわち店の角の上にある棚。俺はそこにあるCDラジカセに、中島みゆきのCDを入れる。

 

 最初に流れるのは『旅人のうた』。家なき子2のエンディングテーマだ。家なき子ほど2のナンバリングが似合わないタイトルも無いと思うが、前作とは作風ごと差別化されていて面白かった。

 

 無印は主人公・相沢すずの不幸や成長を描き、令和の今ともなれば少し尖っている、社会問題にもメスを入れるような作品だった。

 

 しかし2は一転してサスペンスやミステリーの色が強く、莫大な財産を狙って相沢すずが金持ちの家に潜入するも、その財産を巡って殺人事件が次々と起こる。バイオレンス色が前作よりも断然増していると俺は感じた。

 

 今の子からすれば画が古臭いかもしれないが、慣れればそれがノイズになることもなく、純粋にドラマを楽しめると思う。

 

「……店長」

「ん? どうしたの」

 

 椅子に座って、一昨日の依頼の品を分解しながら『安達祐実さんって歳ぜんぜん取らないよなあ』などと考えている俺の背後に、いつの間にか気配があった。

 

 作業場に何も言わずに入るとは、と言おうとしたが、多分俺が集中していなかったため気づいていなかったのだろう。

 

 振り返ると、見慣れた当店唯一のアルバイトがいた。というか、基本的に俺とこの子しかこの店では働いていないため、この子じゃあなかったら困るまである。

 

「もー、どうしたのじゃあなくって。おはようございまーすって」

「はいよ、よろしく」

「集中してますねー」

「まあね。こういう事があるからキミを雇ったんだよ」

 

 30歳にもならないうちに若くして店長となった、時計修理技能士試験イッパツ合格の俺、香月 進(こうづき-しん)

 

 しゃかりきフリーターにして自称・看板娘、死戻 月夜美(しにもどり-つくよみ)

 

 この2人によって、江戸川区の商店街の一角にある時計屋『青美堂』は営まれている。

 

「相変わらず人気(ひとけ)無いですねー」

「まだ店を開けて5分だ」

「いや、店長の影が薄いからより人気がなく思えるんスよ」

「何だそれは。クビにするぞ」

「職権濫用!」

 

 集中力を5分にして使い切った俺は、これが初期衝動と言うのだろうか、と分かりきった疑問を持ちながら月夜美の方を向く。

 

「店長〜、お昼ご飯って無い?」

「食わずに来たのか」

「えへへ、起きるのギリギリで。はらぺこった〜」

「何だそれ」

 

 こいつは『キラやば』だの『めちょっく』だの、どこで流行っているのか分からない単語をよく使うのだ。

 

 俺は作業机の下にストックしてあるカップヌードルを手に取り、彼女に投げる。

 

「ほれ」

「あざーす! へへ、シーフード好き〜」

 

 ナイスキャッチ。カップヌードルを受け取った月夜美はすぐさま、店内の待ち合いスペースにあるティファールの電気ケトルを手に取る。

 

 本来はお客様に待っていただいている時にお茶などを淹れるためのものだが、ここ半年は使われているのを見たことがない。なので、ほぼほぼ月夜美が軽食を食べるかお茶を淹れるかをするために、私物化していると言っても過言では無い。

 

 たまには使ってやらなくっちゃあ、ケトルだって拗ねるだろうと思い、俺は黙認しているが。

 

 レジの後ろに襖があり、それを隔てて休憩スペースというか、俺の家の居間がある。店内から居間に行くためには、そこそこ高い段差があるので、襖もまた、そこそこ高い位置にある。

 

 いつも彼女は襖を開けて、その段差に腰掛けて休憩している。というか、休憩していることの方が多い。何しろお客さんも来ないし、店内の掃除をしたら後は適当におやつを食べている。

 

 フリーターからすれば、これで時給が1100円も貰えるのだから、そりゃあ週6で開店から閉店まで入るよな、ともなる。店長といつも2人きりという環境は、人によっては苦手そうだが。

 

 少なくとも、そこでリラックスしきっている彼女はこの環境が本当に好きなようで。掃除も適度にやってくれているし、お客様の対応をする時も態度は懇切丁寧、こちらとしてはまあまあ有難いバイトさんだ。

 

 店内にある俺の軽食・おやつストックが無くなっていくのは、もう気にしないことにした。

 

「また中島みゆきですかぁ?」

「みゆきは何度聴いてもいいだろ」

「呼び方キモ……下の名前呼び捨てって……」

「いや、しかし、店内BGMを変えるのは実際アリかもしれない」

「ホルモンとか打首とか流しましょうよ〜」

「時計屋に合わないなあ」

「逆に何が合うんですか」

「……竹内まりや?」

「誰ですかそれ。あ、3分経った」

 

 俺がほぼずっと時計の修理をしていて、彼女は掃除をするか何か食べるかをしている。これが青美堂の日常だ。

 

「キミねぇ〜ッ……こんなに店内に時計があるのに、スマホのタイマーでカップヌードルの出来上がる時間を計ったのか?」

「その特殊なヤキモチは何なんですか」

「こんな環境にいるというのに勿体ないとは思わないのか。せっかくのアメリカ旅行でマクドナルドに行く奴がいるか?」

「いや、本家を食べたいって思う人はギリいるかもしれないですよ」

「ああ、確かに」

「弱っ。丸め込まれるの早っ」

 

 実際、俺は店を開けている時間の殆どを、依頼された時計を直しているか、店の時計の定期的な整備をしているかをしているが、正直なところ暇と言ってしまえば暇だ。

 

 時計の修理が終わる日も、預かってからでなければどれぐらい時間がかかるかは分からないので、あらかじめ言うのではなく、後日直った日にお客様に直接電話をする形になっている。

 

 なので、1日くらいサボっても大丈夫というのが現状である。というか、依頼が来るのも月に平均2〜3回なので、修理をする回数自体が多くない。それに加えて、店にある時計の整備だって、そこまで頻度は高くない。

 

 どんな日であろうと、実労働時間は大概4時間。あとは月夜美と喋っているか、時計専門の雑誌やサイトを見て知見を広げている。

 

「今日は来ないですかね、お客さん」

 

 月夜美はラーメンをすすりながら、窓から外を見る。

 

「もうすぐ降りそうだからなあ」

「えっ!? やだー、傘持ってくるの忘れたんですけど」

「まあ、帰りにどこかで買えばいいだろう」

 

 商店街はアーケードだ。どこかでビニール傘を買うくらいはできる。ここで暮らして二十数年の俺が案内してやらんこともない。

 

 そうか。今日は雨天だから、いつにも増して客が来ないのか。

 

「そうそう、だから今日は作業に集中できますねっ」

「ああ。そっちも食事に集中できるな」

「むっ、なんですか。人を食べてばっかのぬらりひょん的な妖怪みたいな目で見て」

「実際そうだろ」

 

 月夜美は「も〜! 店長は私の仕事ぶり見てないんですか〜っ!」と言いながらバックハグをしてくる。

 

 それ、この前来たお客さんにイチャついてると思われて、退店されかけたんだからやめなさいよ。カップルというわけでもないのに、こいつは距離が近すぎる。

 

 きっと学生時代は同級生男子を勘違いさせて泣かせていたに違いない。彼女の制服姿には微塵も興味など無いが、月夜美がチェリーボーイを泣かせている姿は、少し見てみたい気もする。

 

 そう考えている間にも、彼女は俺の背中に自分の体を満遍なく押し当てている。いや、のべつまくなしに。いや、止めどなく。いや、常住坐臥……。

 

 こいつは20代後半男性の性欲を無いものとして考えているのかもしれない。もしくは端から、俺の事を男性として見ていないか。どちらにしても、舐められていることは確かだ。

 

 しかし、俺としてはこいつを性欲の混じった目線で見る理由はないし、この状況を受け入れるしかない。不自由もしていないし、客に見られさえしなければいいことだ。

 

 根本的な解決にはなっていない気がするが、今はこれでいいのだ。正直なところを言えば、彼女といる時間はそこまで居心地の悪いものではないし。

 

 時計の雑誌を読みながらそういった思いにふけっていると、突然にドアが開いた。

 

「お邪魔するわ!!」

 

 無駄に広い店内にこだまする、来店者の声。俺は咄嗟に雑誌を閉じる。別に閉じたところでどうにもならないのは分かっているが。

 

 さて、どう誤魔化そうか。碇ゲンドウのようなポーズをして、脳内でスパコンの富岳並の高速演算をしていると、来店者の方が先に口を開いた。

 

「イチャついてるわね」

「あっ違います全然」

「イチャイチャしてますけど気にしないでください!」

 

 耳元で元気に月夜美が言う。

 

「そうなのね! 気にしないわ!」

「……してないのに……」

 

 声からして既存の客ではなく、新規客だ。信じてもらえてこそいないものの、せっかく気にしないと言ってくれているのだから、ここは真摯に対応しよう。そう思い、俺は顔を上げる。

 

 パッと見の印象は、学生。濃い茶色の制服だ。白の襟とライン、そして胸元の赤いリボンがアクセントとして光る、イカしたデザインのセーラー服。ワンピース型っぽいな。

 

 最近の子はこんなにかわいい制服を着てるのか。日本のどこかには、制服をデザインしたのがセーラームーンの作者だなんて高校もあるみたいだし、漫画家がデザインしたとしても違和感がないくらいに洒落ている。

 

 制服から視線を上に移すと、白玉のような顔に金糸雀色の目がふたつ。極楽浄土の川もかくやという長い金色の髪。雑に切られているようでありながらもバランスのいい前髪。長いまつ毛に薄ピンクの唇。

 

 絵に描いたような美少女だった。こんなに美しい人は、俺の人生で初めて出会う。その圧倒的な全体の明るさを尚更強めるのは、満面の笑顔だろう。

 

 竹から生まれたのか、赤いつぼみから出てきたのか、はたまた灰を被っていたのか。そう考えてしまうほどには、現実味のない美しさだった。

 

 俺は咳払いをして、エプロンを伸ばし整える。店内ではちょうど曲が変わって、みゆきの『横恋慕』が流れ始めたところだ。

 

「修理ですか。それとも……」

「おじ様! これを直して欲しいの!」

 

 修理か、購入か。ちょっとした相談か。そう言う前に、彼女は俺の作業机に近づき、懐中時計を出してこう言う。

 

 月夜美はというと、俺の後ろで何やら震えている。笑っているのか。

 

「おじさんって呼ばれてる……くく、んふふ」

「笑ってんじゃないよ。あと、おじ様だから。ちょっと上品だから」

 

 上品だったら、どーだこーだってんじゃあないが。

 

 と、いうか、そんな事はどうでもいいのだ。俺の視線は、彼女の出した懐中時計に集中していた。俺はそれを受け取ってもいいかと聞くと「いいわ、隅から隅まで見てちょうだいっ」と誇らしげに言う。

 

 無理もない。これはどれだけドヤ顔をして出しても、誰もが納得する時計だ。

 

 外見をさらっと見たところ、傷はひとつたりとも付いていない。綺麗な状態だ。表面の指紋を拭き取れば、新品として売れるくらいには。

 

 ゆっくりと蓋を開く。時計の針は動いていない。なるほど、恐らくこの針が動かなくなってしまったからウチに来たのだろう。

 

 まあ、ここまでは『時計屋』としての意見だ。そしてここからは、この香月進という一人の人間としての意見。

 

「……これはまた、とんでもないシロモノを持ってきたな」

「すごく綺麗よね、この時計!」

「ああ……」

 

 蓋には宝石の入ったエスニック的デザインの立体的な花。それを開けば、文字盤にも凝った金のディティールが盛られている。外装も金色だが、決して趣味の悪いものとして見られない、下品ではないくすんだような金色。

 

 文字盤に彫られた依頼人のものであろう名前。筆記体だが、おそらく印刷ではなくペンでの手書きだろう。そして、その名前の上にはメーカー名が書いてある。

 

 このモデル、ネットで見たことはあるが、実物を見るのは初めてだ。もちろん、ウチみたいな辺鄙な時計屋には置いていないような、とんでもなく高価な時計。

 

 分かりやすく言おう。こいつを買い取るとなれば、この青美堂は年度内に潰れてしまう。絶版モデルの上に、元の値段はおそらく一千万を超えるものだ。今はもっと値段が上がっているんだろうな。

 

 そして、その値段に見合う出来をしているのは間違いない。先程俺がつぶやいたように、とんでもない時計だ。手が震える。

 

 こいつをとんでもなくないなんて言うやつがいたら、そりゃもうとんでもない。それくらいにはとんでもない時計。

 

 もしも傷のひとつでもつけようものなら、依頼人のお嬢さんが許してくれても、俺は自分を許せずに割腹自決するね。

 

 はっきり言おう。俺は今、めちゃくちゃテンションが上がっている。そして、めちゃくちゃ怖い。一千万超えの時計を修理しなければいけないのだ、当たり前だろう。

 

「お、お嬢さん……この時計は、どこで買ったんですか?」

 

 震える声で聞くと、彼女は少し目を伏せて言う。

 

「パパがくれたの。でも、動かなくなっちゃって」

「……そうですか」

 

 こんな博打の快楽も酒の味も知らなさそうな奴でも、この時計の価値は知っているみたいだな。壊れたという言葉を口にしてから、見るからに落ち込んでいる。いや、父親がくれたものだからか。あるいは、そのどちらもか。

 

 それはともかく、俺は少し目頭に熱いものを感じている。老いたな。このくらいでジンと来てしまうとは。

 

「お嬢さんの父さんは、どうやらよっぽどお嬢さんを愛してるらしい」

「へ? どういう事ッスか、店長?」

 

 この時計の価値を、この場で誰よりも知っている俺からすれば、彼女の父親が、彼女のことをどれだけ大事に思っているかは自ずと分かる。

 

 本当に、誰よりも家族を大切にしている方なのだろう。俺は少し震える手に力を入れ、みっともなく見えないようにハッキリと伝える。

 

「お嬢さん、こいつはリンカーンが愛用していたブランドです」

「リンカーン……ッスか……!?」

「リンカーンって、あの16代アメリカ大統領の?」

「人民がどうこう言ってたヒゲのおじさんですか!?」

「ああ。このブランドは日本はおろか、世界でも持っている奴はなかなか居ない。スポーツカー並の値段の時計です」

 その名も『Walters Sam(ウォルターズ・サム)』の、『A kiss deeper than silence(沈黙よりも深い口付け)』。アンティーク懐中時計の中でも格の違う出来を誇る、市民が買える中では最高級の懐中時計だ。

 

 これ以上ランクが高くなると、もはや貴族だの王族だの石油王だのが持つものになってしまう。

 

「壊れたことに関する心当たりは?」

「いいえ。ある朝、ふと見てみたら壊れてしまったの。学校にも持っていってないし、大切に部屋に置いておいたのよ。でも、毎日欠かさずにぜんまいは巻いていたわ」

「そうですか、毎日……大事にしているんですね」

「当たり前よっ!パパがあたしのために買ってくれたものだからっ」

 

 毎日巻いていて故障するパターンとしては、ぜんまいが特殊で、八日巻き──8日に1回巻けばキチンと動くぜんまい仕掛けのこと──か何かで歯車あたりがイカれるというものがあるな。いや、このメーカーの時計は全て毎日巻くモデルだ。

 

「一日にどのぐらい巻いているんです?」

「だいたい20回よ。前まではそれで動いていたの」

 

 ぜんまい関係ではないのだろうか。質問を変えよう。

 

「水に浸ったり……とかは、ないですかね」

「ありえないわ。いつも棚に置いていたもの、部屋から持ち出したりもしていないわ」

「近くに磁石のようなものは?」

「置いていなかった気がするわね。棚は本だらけよ。念の為、携帯も近づけていないわ」

「落としたり、ダメージが与えられた様子もない……」

 

 後ろで抱きついたままの月夜美が「なんかプロの時計屋っぽい」と、独り言をつぶやく。そうじゃなかったら俺は何なんだ。俺の事を何だと思っているんだ。

 

 ここ数ヶ月の依頼は、目立った壊れ方が多かったからな。分かりやすい部品交換で済む修理が続いていた。実際、俺も久しぶりに時計屋らしいことをしていると実感している。

 

 修理の話に戻すと、こいつもアンティークものだ。経年劣化も有り得る。とにかく、ここまで彼女に聞いて分からないからには、実際に開けて見つけるしかない。オーバーホール、つまり歯車を分解してひとつひとつを掃除する。これはちょいとばかし骨が折れるぞ。

 

 それに、部品の交換なんてことになったら、海外からの取り寄せになってしまうし、かなりの修理費がかかる。このお嬢さんに払えるのだろうか。

 

「依頼が一件残っている。それが終わったら、お嬢さんの時計を見ましょう」

「ありがとう、おじ様っ!」

「ちょいちょいちょいちょい……」

 

 依頼が成立しようとした時、月夜美が俺の首を腕で絞める。

 

「ぐえっ」

「えっ? 正気ですか?」

「な、何がだい」

「いやいやいや! えっ、あの! この人……!」

 

 首を絞めていないもう片方の手で、依頼人を指さし、彼女は耳元でこう叫ぶ。

 

「あの弦巻(つるまき)財閥のお嬢様!! ここら辺はおろか、日本有数のお金持ちさんですよ!?」

「おおー、知らなかった。詳しいんだな」

「えへへ、それ程でも〜……じゃなくて!! てかそれを抜きにしても、その時計めっちゃ高いんでしょ!? ヤバい時計なんでしょう!? 早く直しちゃいましょうよッ!」

 

 偉い人なら指をさす方が失礼だろう。俺は至って冷静に「考えてもみろ」と言う。

 

「まあ、先程は少し興奮してしまったが、それとこれとは別だ」

「ど、どういう事ですか……っ」

「財閥だの何だのってぇのは、修理の順番に関係ない。お得意様でも初めましてでも、貧乏でも金持ちでも。早い者勝ちに変わりは無い。総理大臣が来ても、顔見知りの八百屋のおっちゃんが来ても、俺は依頼を順番にこなす」

 

 どれだけチップを払っても、どれだけ武器で脅されても、早く来たお客様の後ろに並べないようでは、どこの店でも通用しない。

 

 俺はそこそこにいい事を言う。首が絞まっているので、細い声で。

 

「それに、親父ならきっとそう言うよ」

「ん"……な、なるほど」

「さ、首絞めを解くんだ」

「あっ、やば」

「おじ様、顔が青を通り越して緑になってるわ。ピノキオみたいに」

「ああ、葉巻吸った時のね」

 

 俺は咳払いをして、彼女に話しかける。

 

「という訳です、お嬢さん。待てますかい」

「もちろんよ! 毎日待ってるわ!」

 

 そう言った彼女の顔は、笑顔ではあるものの、いまいち曇り気味のように見える。

 

「パパはその時計、誰でも買えるって言ってて……でも、あたしにとっては、世界に一つだけの大切な宝物。だから、必ずその子を直して欲しいの。本当は預けるのも怖いくらいだけど……お願いっ」

 

 彼女は深く頭を下げる。

 

 正直、この時計は、普通の社会人の年収が何年分か積み重なってようやく買えるものだ。誰でもは買えないとは思うが、そこはやはり月夜美の言っていた通りの大金持ちならではの個人的な感想だろう。

 

 だが、このお嬢さんに言わせてみれば、例えどれだけ値段が高くても、どんなに美しくても、愛する父から貰ったものは嬉しくて仕方がなかったし、壊したくもなかったのだろう。

 

 彼女にとって、この懐中時計は値段ではなく思い出の価値がついている。俺は、こういう客が好きだ。時計が好きでなくとも、その時計に対する誠意が伝わる客がな。

 

「おじさんに任せてください。何がなんでも、絶対に直します」

「っ……!」

 

 彼女は瞳をうるうるさせながら、俺の手を取る。

 

「ありがとう、素敵な時計屋のおじ様。名前を教えて貰っても?」

「香月進です。店長をやっている者です」

「はいはーい! 死戻月夜美でーす! 私はアルバイトですっ!」

「進おじ様に、月夜美ね!」

「あっ、私は呼び捨てなんだ」

 

 名前を確認すると、彼女はこう言う。

 

「あたしは弦巻こころ! 世界中に笑顔を広めるバンドのボーカルよ! その時計が動くのを、いつまでも待っているわ!」

「ああ。そうだ、弦巻さん。電話番号を教えてくれますか」

「分かったわ!」

 

 軽い自己紹介をしてから、彼女はルンルン気分でスマートフォンを操作する。表示された電話番号を、俺は作業机の端にある付箋に書き込む。

 

「こころ、は平仮名で……うん、番号が……はい、ありがとうございます。改めて、直った時はここに電話をしますので、その時はよろしくお願いしますね」

「ええ!待っているわね、おじ様!」

 

 騒がしくするだけして去っていく、嵐のようなその子を見て、俺と月夜美は少しばかりの時間、呆然と出入口を見つめていた。そのうち、月夜美が俺を抱きしめる力を強めて言う。

 

「だって。頑張ってね、おじさん店長」

「こども店長みたいに言うな」

 

 ふふ、と笑う彼女の声を間近で受け取りながら、俺は作業用の眼鏡をかける。

 

 1週間後までに目立った修理の進捗が報告できるよう、今請け負っている依頼は今日中に終わらせてしまうか。俺は少し腕をまくり、申し訳程度ではあるが何時もよりも気合を入れる。

 

「店長」

「……なんだ」

「離れた方がいい?」

「揺らさないなら、そのままでも」

「やったぁ〜。ふふ」

「ちゃんと店の掃除もしろよ」

「分かってますってばぁ〜っ」

 

 月夜美はへらへらと笑う。呑気な奴だ。あのお嬢さんの時計を直せないとなったら、謎の勢力に店を潰されてバイトがなくなるかもしれないというのに。

 

 そうして俺は今日も、時計を直すんだ。自分が生きるために。この店を続けるために。

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