今回泊まる旅館の第一印象は、『外国人の想像する日本』という感じの所だった。
サッカーでもするのかというくらいの広すぎるエントランス、窓から見える中庭の伝統的庭園とししおどし、そんな中庭を見ながら入れる大浴場。
次々に運ばれてくる雰囲気のある御膳的和食、何十年物の酒がずらりと並ぶバー、そんな旅館を囲む厳かな雰囲気漂う竹林、桜を望んでチルできる屋外デッキ、エトセトラエトセトラ。
館内着で廊下を歩いているが、この季節は下着に1枚これを羽織るだけでも丁度いいな。暖かくなってくるのは実にいいことだ。
スパを終えた俺は、部屋に戻る。月夜美は、ツヤツヤとした顔で缶チューハイたちを並べている。
「お酒ね!」
「ああ、酒だ」
「酒が飲める飲めるぞ〜♪」
そういえば月夜美は、毎晩の晩酌を楽しみに生きているんだったな。俺の親父と似ている趣味だと思った覚えがある。
俺は早足で座椅子に着席し、アルコール3%のカシスオレンジを手に取る。
酒、飲まずにはいられない。スパでスッキリしてから、久しぶりに飲みたくてたまらなかったんだ。あの父と同じようなことをしている自分は、そこまで嫌いじゃない。
「店長、結構女の子っぽいお酒飲みますね」
「ジェンダー平等!」
いいだろ。このくらいがちょうどよく酔えて気持ちいいんだ。
けらけらと笑う彼女は、寝転びながら鬼ころしの瓶の蓋を開ける。
「お前こそジジイみたいな酒選びやがって」
「にゃんですとう!?」
だってそれ、度数が10超えてるんだろ。ストロングなんたらより大きい度数なんだろ。じゃあそれはもう消毒用じゃあないか。あと、姿勢からしてもうジジイだろ。
それは消毒のアルコールだの、そっちこそ酒ではなくジュースだの、俺らがやいのやいのと言い合いをする中、弦巻さんはいつの間にか取り出した牛乳の瓶をこちら側に向けてくる。
「ねえ! 乾杯しましょうよ!」
「え? ああ……」
「お、そういう事ですか」
月夜美は「そういう事なら!」と、アニメ業界で言う、いわゆる金田動きを挟みつつ、飛び起きてから勢いよく着地し、瓶を天に掲げる。
「それじゃあ、今後の幸せとか色々を祈願して! 乾杯の音頭をとらせていただきまーす!」
「きゃーっ! 月夜美、かっこいいわー!」
弦巻さんも立って、月夜美に向かって野次のように聞こえる心からの褒め言葉を飛ばす。そんな彼女に向かって、月夜美もノリノリで投げキッスをする。
テンション爆アゲだな、2人とも。おじさんもついていかなくては、と立ち上がる。
「飲料を掲げよ!!」
「うっわ、それかよ」
「掲げたわよっ!」
乾杯の音頭が読めた俺は、渋々カシスオレンジを、3人の中央に掲げる。
「カントゥーヤー!!」
「かんとぅーや〜〜!!」
「カントゥーヤ〜ッ」
瓶と缶がぶつかり、それぞれがそれぞれの飲み物を口にする。
月夜美は「かぁーッ! この一杯のためだけに生きてるっ!」と野原ひろしのようなことを言い、弦巻さんは「美味しいわね〜っ!」と満面の笑みを浮かべている。
俺はというと、酒を飲むのが久しぶりで、こんな味だったかと数年前を思い出す。
なにしろアルコールにとことん弱いし、1人で飲むと気持ち悪くなりがちだし、何かめでたい日にたまに飲むくらいで。生活から酒が遠い位置にいるのだ。
弦巻さんは、牛乳を飲みながら俺の持つ缶を見ている。
「あたし、おじ様の持ってるこれは知ってるわよ! カクテルって言うんでしょう?」
「おお、よくご存知で」
えっへん、という風に胸を張る弦巻さん。あまり館内着の浴衣でそういうポーズを取るとはだけそうなものだが。
念の為、チラッと見たところ、どうやらタンクトップのようなものを着ているらしい。安心だ。ここには弦巻さん以外には、彼女のことをそういう目で見ない2人しかいないので、元より安心だが。
いや、酔った月夜美に揉まれかねない。深めに酔ったあいつは何をするか分からない人間爆弾だ。
「どんな味がするのかしら?」
弦巻さんは、俺の飲みかけのカシスオレンジから漂う匂いを、理科の実験のように、鼻まで仰いで嗅ぐ。まあ、このくらいならしてもいいだろう。
「クセのあるジュースって感じです」
「匂いは美味しそうね!」
月夜美が弦巻さんに後ろから抱きつく。こいつは本当に誰かの背中にくっつくのが好きだな。前世は子泣き爺かチープ・トリックだったのかもしれない。
「飲んじゃダメだよ〜、こころちゃん。あと4年か3年くらいしたら飲もうね〜」
「そうね! 大人になったら、パパと一緒に飲むわ!」
「そいつはいいですね……父にとって、子供と飲むっていうのは夢のひとつだと思いますから」
特に、子供に『Walters Sam』の『A kiss deeper than silence』なんて買うような方は。
父は俺が成人する前に死んじまったもので、共に晩酌みたいな粋なことはできなかった。
しかし、母と一緒に飲んだ時に、酔った母が『本当にいい子だよ、こうして一緒に飲んでくれるなんて』と泣いていたのだ。
もしも父が生きていたら、母と同じように彼も泣いてくれただろうか。
「カクテル自体は、どこで知ったの?」
「パーティーで見たことがあるの!」
「ぱーてぃー……豪華客船で、みたいな?」
「前に素敵な船でパーティーをしたわ! 怪盗さんもいたわね!」
ふうん、と俺はその光景を想像する。限定ジャンケンが行われているような豪華客船、中にはカジノやバーがごった返している。
客室も大学生が借りるワンルームよりも2倍くらい広くて、夜飯はビュッフェ形式で、その中をワイヤーで浮きながら颯爽と駆け回る怪盗……。
「へぇ〜! やっぱり船かあ! いいなあ、私もいつか船の上で……」
「ん!? 怪盗!?」
「あっ、ですよね!? やっぱ言ってましたよね、怪盗って!!」
聞き間違いかと思っていたらしい月夜美と共に、俺らは弦巻さんにその怪盗とやらに関して質問攻めをする。
どうやら彼女の口から聞く限り、なんだかルパンのギャグ回みたいな怪盗だったらしいが、本当なのだろうか。
というか、彼女の端々に出てくる『ミッシェル』とは、確かあのピンクのDJ熊だったと思うのだが、あの子も巻き込まれていたのか。
ミッシェルの状態で? 本当か? と言おうとしたが、弦巻さんを含めた数人のバンドメンバーは真剣にミッシェルを『そういう生き物』として見ているらしいので、夢を壊しかねない発言はやめた。
「ミッシェルって何人か代わりばんこでやってるんですかね〜」
「? ミッシェルは1人よ?」
「コラァ! お前ランド行くの好きなくせに、そういう配慮もできんのか!」
「あっ、そうだ……無神経だった、ごめんね」
「そのごめんね自体が無神経だ」
俺はやれやれと立ち上がり、カシスオレンジを飲み干す。
いつの間に、と思った諸君。俺がカシオレを1本飲むまでに、月夜美は鬼ころしと月桂冠とワンカップを1つずつ空けている。
確かに俺は、酒を飲むまでのスピードは遅い方かもしれないが、ここにいる比較対象がバケモンだ。どうだ、比較にならないし比較をする気にもならないだろう。おとといきやがれ。
「ちょっと追加の飲み物買ってくる」
「私サッポロ〜!」
「いちごミルクをお願いするわ!」
「はいよー」
俺は少し熱くなった頬を手で仰ぎながら、ヒノキの香りが微かにする廊下を歩く。
ガラス張りの窓から、大きな中庭にある枯山水的庭園が見える。そこを、鮮やかな色合いの蝶が数匹飛んでいるのが見えた。
下からライトアップされた大きな木が中央にある中で、自由に飛んでいる姿に、俺は財布を懐に入れたまま、いつの間にか見蕩れていた。
酔っ払った脳が、素直な言葉を口から出力するように命令する。いわゆる、大きな独り言だ。
「綺麗だなー」
「綺麗……」
独り言に、返事が帰ってきた。声の主の方、後ろに顔を向けると、今日の昼間に見たばかりの少女が目を丸くしてこちらを見つめていた。
手首の時計を見て、改めて確認する。間違いない、倉田ましろさんだ。
「あっ」
「……え?」
倉田さんは、慌てたようにこちらにお辞儀をする。
「ど、どうも」
「ッス……数時間ぶり、ですね」
それだけ言って去ろうかとも思ったが、このままではなんだか気まずい気がする。
それに、こういう時にうまく話せないと、おそらく倉田さんは1人で夜中に脳内で反省会をするタイプだと思う。俺は「少し、付き合ってくれますか」と言うと、倉田さんは無言で頷く。
行く先は、自販機前のベンチ。玄関から2階に上がり、その玄関ごと一望できる広い吹き抜けの縁にベンチはある。
倉田さんの分の飲み物も買って、俺はベンチに座る。
「すみません、奢ってもらって……」
「いいんですよ。大人ですから」
「……どこか、行くつもりだったんですか」
「追加の酒を買うついでに、月夜美と弦巻さんの飲み物をと」
俺は、隣に置いてあるラガービールといちご牛乳の瓶を指さす。倉田さんは、ああ、と納得したように言う。
ビールを開けて、一口。日頃酷使している目や指先に染み渡る、という気がする。気がするだけだ。
倉田さんは、牛乳をちびちびと飲みながら、こちらの様子を伺っている。
「いい宿ですね。俺、あんな広い風呂に入ったの初めてですよ」
「男湯の方も広かったんですね。私たちのお風呂も広かったし、部屋にも露天風呂がついてて……」
「アレすごいですよね。さすが月ノ森、いい旅館選びますよ」
「そ、そちらこそ、こころさんが手配してくれたんでしょう。さすがです。というか、こころさんの方がよっぽど月ノ森に合うっていうか……私なんて……」
いつの間にか話題が自己嫌悪に変わっているな。
そして、今、俺は見逃さなかった。彼女が『私なんて』とつぶやいた途端、時計が止まった。
そして、先程から、俺は見続けていた。時計は先程まで動いていた。
まあ、秒針の動きだけで言えば不規則そのもの、二〜三秒に一回だけ動くような、元々壊れているような動きだった。しかし、今の言葉を発した瞬間、完全に止まった。
そういえば昼間、俺らに会うまでは動いていたと言っていたな。
本当にタイミングが紛らわしいだけで、そうではない可能性の方が何よりも高いのだが、ここ数ヶ月で『不思議な時計』に会っている俺は、『そういう可能性』を疑ってしまう。
彼女の性格か精神性かが影響して、時計が自我を持ってわざわざ止まっている可能性を。
俺は、そうだとしたら何かこの場でヒントが得られないかと、彼女に軽く話を振ってみる。
「月ノ森、嫌いなんですか?」
「嫌いっていうか……こう、場違いな感じがあって、入学から1ヶ月経っても落ち着きませんでした」
そこから彼女は、思い出したかのように、溜め込んでいたかのようにも、あるいは諦めて水風船を手放したようにも話し出す。
「食事のマナーとか、芸術に集中とか……はあ、なんか私みたいな普通に生まれて普通に育った人には向いてない感じがするんですよ」
と言った感じに次々に話すそれらは、学校への愚痴に聞こえて、自分への悪口であった。
「何故、そんなに自分のことに関して自信が無いんですか」
「……昔からずっと、こうなんです。今更変えられないっていうか、今更理由も分からないっていうか」
開き直っているようにも見えるが、その瞳はあくまで行き止まりの壁の隅っこをいじけて見つめているような視線を、斜め下に送っている。
して、その時、俺は目を疑った。倉田さんの左に座っている俺は、ほぼ常に彼女の左腕にある時計に視線のフォーカスを合わせていたのだが、驚きのあまりブレそうになる。立ちくらみのようなブレが。
時計の針が、逆行している。
言わば、『後ろ向きに全速前進』といった感じだ。
やはりそうか。ほぼほぼ確信のようなものが持てた。この倉田さんという人間の精神性によって、この時計は動いている。
「ちょっと、失礼。改めて時計を見せてもらっても?」
俺がそう言うと、倉田さんは「はい? あ、どうぞ」と突然の要求にも応えてくれる。優しいんだよな、ネガティブ思考がちと激しいだけで。
倉田さんは、指輪をはめられる直前のように手の甲を上にして、時計を見せる。
「失礼します」
そう言ってベルトに触れると、指の皮膚が燃えるような熱さを感知する。続けて、肘までのあたりが痺れるような感覚。
「あっ!?」
「え!? ど、どうしました!?」
「ってえ……せ、静電気……?」
じ〜んと痛む腕。こいつは静電気なんてもんじゃあない、ただの電撃だ。スタンガンだ。確かに熱さを感じたぞ、俺は。
時計は依然として逆行しているが、倉田さんは確かめるように、恐る恐るで文字盤を包み込むように触る。
しばらく、ベンチと自販機のあるゾーン、その周りには、旅館のBGMしか流れなかった。倉田さんは、驚く程にノーリアクションだ。
「何も、ありませんけど」
「ええ……」
倉田さんは再び、こちらに手を差し出す。まあ確かに、普通の静電気の可能性もあるよな。
酒飲んでると感じやすいとかあるのかな、なんてふわふわとした思考で、俺はビールをもう一口飲んでから、時計に手を伸ばす。
金属部分に触れた途端に、やはり先程のような痛みと痺れが身体に走る。
「あっちぃ!? いや熱くなっ、あ、ええ!? あぁ!?」
「大丈夫ですか、進さん……!?」
「いやあ……その、ですねえ……」
彼女は、少しだけ挙動不審になって目が泳いでしまう俺を見て、急に顔を青ざめさせる。
そして、時計を守るように左手首、時計の少し下あたりを掴んでさっと左手ごと、彼女の身体で言う右の方向に避ける。
倉田さんの目は、うるうるしていて今にも泣きそうだ。まるで、裏切られたように。
「触りたくもないんですか……?」
「違います! その、時計がですね!?」
彼女か左手首をきゅっと握ると、俺側から少しだけ見える文字盤は、明らかに様子がおかしい。有り得ない速度で短針も長針も回っている。
さすがに音か振動かで気づいたのか、倉田さんも自分がつけている『B-E』を見て、ぎょっとする。
「はっ!? えっ!? な、な……!」
「倉田さん! 深呼吸です、深呼吸! 吸って!」
俺は倉田さんの背中をさすって、落ち着かせようとする。
「んすぅ……〜〜っ」
「吐いて!」
「おうぇっ……!」
「誰がそんな古典的なボケしろって言ったんですか?! 息を吐いてください、息を!」
そこから数回深呼吸をして、時計は止まり、倉田さんは顔こそ青ざめたままではあるものの、超常現象を目の当たりにしたにしては落ち着いた状態になった。
しかし、恐らくこの時計、月ノ森特別仕様の『B-E』は、どうやら倉田さんの『マイナスの感情』に共鳴するらしいな。
倉田さんが怖い、悲しい、居づらい、などと感じた時に、止まったり逆行したりするのだろう。分解こそしていないものの、きっと今まで倉田さんを見る限りは発動条件は心の動きだろう。
どうしたものか。俺は、倉田さん自身の精神性が心配になりつつも、この時計を直すにはやはりハッキリと『ポジティブに考えてみよう』と言わなければならない。
弱ったな。俺は、お客さんに笑顔になってもらう所までが仕事、そこまでがワンセットと捉えているが。
「倉田さん。俺は今から、まあまあ酷いことを言います」
「えっ? は、はい……」
賢しらなことかもしれないが、知ったかぶりをして傷つけるかもしれないが、やらない善行よりやる愚行だ。そのうち誰かに言われることでもある。
それに、今の時点で好感度は若干ゼロに近づきつつある。ここで何をしようがプラマイゼロかプラスかである。俺のダメージ自体は少なく済む。
俺は、顧客を失う覚悟で、そして、倉田さんの精神にトラウマを残さないように、ベンチの上に正座して言う。
「あなたは自分を下に見ることで、楽になろうとしている……のだと、思うんです」
「……はい?」