空と君のあいだに   作:苗根杏

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第4章 氷川紗夜と夢みる時計
16.NEW LIFE


 8月初頭にして、東京都の最高予想気温は39度。ヒートアイランド現象によって更に高くなることが見込まれている、日本のフライパン・東京。

 

 うちわで顔を仰ぎながら、扇風機の風を浴びても、店内の空気はなおも体感30度。エアコンつけたくないんだけどな。

 

 月夜美は、裏のドアを開けて出勤してきて早々、湿気の溜まった部屋に向かって叫ぶ。

 

「日本の夏あつーい!!」

「うるさい!」

「本当だからだーっ!!」

 

 そんな勢いすごかったっけ。あのおじさん。高確率で客のいない店だからそんな吠えられるけど、ほかの店だったら全然よくてクビだぞ。

 

「うがぁ……何なんですかこの街……都会なら街全体に効くクーラーとかつけてよ……」

「冷たい空気が逃げるだろ、それ」

「じゃあこの店の中だけでも!」

「んん……」

 

 ドア・イン・ザ・フェイスが上手いな、こいつ。経営学部かよ。

 

 大学行ってないからよく分からないけど。こういうの教わりそうだろ、経営学部。

 

「仕方ない、クーラーつけるか……」

「やったー! ハッピーうれピーよろぴくお願いしまーす!」

 

 敬語だと語呂悪くなるな、ジョセフのそれ。

 

 エアコンは壊れているわけじゃあないんだが、そういえば俺らのためだけに回すのってどうなんだろうな、と思って、なんとなく今日はつけていなかった。

 

 一応近くに置いてあったリモコンの、除湿のスイッチを押すと、真っ先に月夜美はエアコンの下に立って冷風を浴びる。

 

「うぁあ……とける……」

 

 それって大体は、暑い時に言うものだろう。

 

「店長! すごいですよ! 文明の利器ッ!」

「そりゃあよかった」

「さすがは三種の神器ですね!」

「70年前の話をしてるのか? キミは……」

 

 確かあのキャッチコピーが出たの、おやっさんが生まれるより前だぞ。

 

 月夜美はポロシャツの首元のボタンをひとつ外して、ショーシャンクごっこを楽しむ。

 

 この気温でクーラーにありついた彼女にとっては、確かにこの状況は脱獄くらい気持ちいいよな。

 

 さて、俺も少し涼むとするかな。扇風機をつけて店内全体に冷たい風を送りつつ、月夜美の横で手を広げて同じようなポーズをする。

 

 仰け反ると背筋が伸びて、冷風とダブルで気持ちいいな。朝から座りっぱなしの腰と背中と足にはなかなか効くぞ。

 

「良いでしょ〜っ」

「ああ、なかなか」

 

 そして、思い切り油断している俺に、月夜美は抱きつく。脇腹に顔を埋めて。

 

「ちょっ、お前!」

「いいじゃないですかぁ。最近こういうのしてなかったし」

「ご無沙汰の夫婦みたいな言い方するな!」

 

 人によって、パーソナルスペースという、誰ならここまで近づいていいかという、個人的な対人距離があるのだが、月夜美にはもうその空間が無いとしか思えないな。その空間が狭いどころか、無い。

 

 本当にこのアルバイトは、店長にひっつくのが好きみたいで、そこら辺の俺と同じ年代の店長だったら手でも出してるんじゃあなかろうかというひっつき方だ。

 

 俺はそのうち月夜美に押し倒されて、抱きしめられる。さっきまで暑いとか言っていたはずだが、どうして人にくっつくんだ。

 

 店内では、松任谷由実の『真夏の夜の夢』が流れている。

 

「んん……いい匂い……」

「店がか?」

「店長がっ」

「……そうかい」

 

 人によってはブレーキが壊れて襲いかかっているところだが、俺は月夜美から香ってくる、少しの汗とシャンプーの飾り気のない匂いを感じていた。

 

 彼女は普段、香水なんかつけてないはずだが、いい匂いがするのがいつも不思議で仕方がない。花といえば花、果物といえば果物といった、なんだか夢のような匂いである。

 

 涼しく、いい匂い。そして重すぎない、丁度いい圧迫感もある。心地よい。

 

「撫でてくださぁい」

「ええ? 犬かよ」

「わふっ」

「ははっ、大型犬だ」

 

 30の大人の男として、これでいいのかという不安はあるが、彼女の方も満足そうにしているので、今日はしばらくこうしていてやるか。

 

 こんなに暑けりゃあ、客も来なさそうだし。

 

 そう思った時。いや、正確には上記の文の『来なさ……』くらいの所で、店のドアが開く。

 

 この前ドアにつけた風鈴の音が、店内に響く。

 

 仰向けで月夜美に跨られたまま、入口の方を見ると、逆さになってお客様が見える。

 

 店内に入り込む夏の光に、涼し気な薄いターコイズブルーの長い髪が照らされ、透かされている。そして、肩からトートバッグがずり落ちて床に墜落する。

 

 暑さ由来ではないだろう汗が頬を伝っているお客様は、じりじりと後退する。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 月夜美はそれに気づくと、飛び起きて踵を揃え、敬礼する。俺に向けていた含みのある笑顔ではなく、敬礼をして。

 

 俺も腹筋を使って立ち上がり、尻を手で払う。お客様の方を向いて、俺も踵をそろえ、背筋良く立って頭を下げる。

 

「いらっしゃいませ」

「いやいやいや」

「今のは気にしないでください。事故です」

「事故? ……そうかなあ」

 

 キミ、はたから見たら襲いかかってた側なのによく言えるな。

 

「あの……何をしていたのかを、一応聞いていいですか」

「休憩ですね!」

「……まあ、休憩になるか」

「…………」

 

 入る店を間違えた、といったような顔をしている。このままでは逃げられてしまう、どころかこの店の悪評が広まってさらに客足が遠のくと思い、俺は頭を下げる。

 

「すみませんでした」

「えっ!? 謝るんですか!?」

 

 キミは一番驚いちゃいけないだろ。一応、無礼なところを見せたんだから。

 

 基本的に接客業は、お客様が来た時に寝転がっているところを見せてはいけないだろう。俺も感覚が麻痺しすぎて今気づいたが。

 

 俺は月夜美の頭を後ろから掴んで、頭を下げさせる。たじろぐお客様は「いや、謝る必要はありませんが……」と、一応許してくれそうな顔はしている。

 

 気を取り直し、俺はお客様に声をかける。

 

「こちら、死戻月夜美。アルバイトです」

「はいはーい! 死戻月夜美、ですっ!」

「俺は香月進。この店の店長です」

「は、はあ」

 

 俺らは懇切丁寧に挨拶をする。

 

「改めて、ようこそお越しくださいましたー!」

「いらっしゃいませ。こちら、腕に懐中・振り子に掛け。どんな時計もお任せあれの、時計の青美堂です。修理ですか? それとも購入ですか? 買取もしていますよ」

「買取も……だからこんなに時計が店内に沢山あるんですね」

 

 お客様は、店内をぐるっと見回して言う。出ていかなさそうでよかった。話せばわかる。

 

 そういえば最近は、大声でふて寝した懐中時計を持ってきたり、その人が学校でかき集めた様々な時計の数々が押し寄せてきたり、とんでもなくデカい置き時計の写真を持ってきたり、旅行先で緊急修理をしたりと変則的な依頼が多かったものだから、マトモな依頼は久しぶりに思える。

 

 お客様は俺に「修理です」と良い、トートバッグから大きな鉄の塊を出す。

 

「依頼品を見ましょう」

「はい、こちらです」

 

 色で言えば、パステルの水色というか、シアンというか、そういったファンシーな色の時計。ただ、最近の修理では少し見ない形状だったもので、俺は少し驚いてしまう。

 

「……目覚まし時計、ですか」

「おおっ……なんっ……え?」

 

 月夜美は俺の横で、俺よりも驚いている。全体的に見ても、あまり来ない品物なので、無理もない。

 

「見たことないのか?」

「あ、ありますけど……これって直せるんですか?」

「中の構造によるな」

 

 基本、目覚まし時計というのはデジタルとアナログに分けられる。

 

 デジタルだった場合、大体はプログラムの故障になる。それでも直せないことは無いが、俺の修理の得意分野はアナログだ。

 

 アナログの場合は、歯車が回ると24時間に1度、設定した位置についた切り欠き、『カム』に時計自体の歯車が噛み合うようになっている。

 

 特定の時間になるとそのカムの切り欠きに歯車の歯が食い込み、モーターを作動させて上のベルを鳴らすのだ。

 

 俺は「失礼します」と、差し出されたそれを手に取り、色んな角度から眺める。

 

 この目覚まし時計は、見たところアナログだ。ブランドは全国民が知っている、あの『TEIO(テイオー)』。

 

 1000円から腕時計を提供する、一般市民の生活に長年寄り添ってきた、ある意味では一番愛されているブランドである。

 

 この前直した『Sumer』がドルガバあたりに位置し、この『TEIO』はGUかユニクロあたりになるだろう。

 

 お客様は、眉を下げて不安そうに言う。

 

「直せそうですか?」

「直したこと自体はありますよ。アナログもデジタルも。ただ、中の様子によっては外注になりますね」

 

 俺は待合スペースに彼女を案内し、机を挟んで2人で座る。月夜美は、頼む前に既にお茶を入れている。今回は暑いので水出し。手際はいいんだよな、彼女。

 

「冷たい緑茶でいいですか?」

「お構いなく」

「まあまあ♪」

「……すみません、お願いします」

 

 お茶を入れながら、月夜美はこちらに耳打ちしてくる。

 

「こんなに依頼が来るなんて! ウチも有名になったんですかねっ!」

「だったら2週間もヒマしてないよ」

 

 世の中の時計たちが頑丈に作られているのはいいことだが、せめて店内の時計を買うくらいの客は来て欲しいところだな。

 

「今年の春から、親元を離れて一人暮らしを始めたのですが、これでないと起きられなくて……」

「スマホのアラームが代用にならないんですね」

「お恥ずかしながら」

「いえ、そういうお客さんも結構いますよ」

 

 これがないと起きられないから直してくださいって人は、一定数いなくもない。

 

 枕が変わると寝られない人や、風呂場で用を足してしまう人と原理は一緒だろう。その習慣が染み付いてしまっているのだ。

 

「なるほど、一人暮らしか……」

 

 月夜美は大きく頷き、お茶を出した後にお客様の肩を、慰めるようにぽんぽんと叩く。

 

「大変だよねえっ、うんうん……わかるわかる」

「店長さん。この人は何なんですか」

「先程も言いましたが、ただのアルバイトです」

「アルバイト……」

 

 言いたいことは分かるが、俺にはこの人しかいない。この場は一旦その困惑は収めてもらえると嬉しい。

 

「何年くらい一人暮らしをしてるんだったか、キミは」

「6年ですっ!」

「6……すごいですね。院に行っているんですか?」

「ずっとフリーターです!」

 

 彼女が自信満々に言ってから数十秒、店内に沈黙の時間が流れる。まあ、気まずいよな。

 

 まるで世の中の人間は全員大学に行っているのが普通みたいな、そういう失礼極まりない質問をしてしまった……というような顔をするお客様。

 

 大丈夫ですよ。この人、あんまりそういうの気にしない人だから。気にしていたとしても、そうでないように見える人だから。

 

「お客様……えっと、なんて呼べばいいですか?」

「お客様でいいんですけど」

「いいですから、いいですから〜♪」

「……氷川、紗夜と申します」

「紗夜さんは、大学に行ってるんですか?」

「はい。それに加えて校外活動もありますし、これが直らないのは死活問題なんです」

 

 月夜美はお客様、あらため氷川さんに先輩風を吹かせつつ話しかけている。

 

 ならば、その世間話をしているうちに俺も仕事をしておこうかな。一応、こうしてお客様の対応をするのもアルバイトかつ接客担当である彼女の、本来の仕事だ。

 

「氷川さん、開けてもよろしいですかね」

「あ、はい。隅から隅まで」

 

 許可を取り、俺は軽く修理のための下見をするべく、作業机に行く。電池蓋はネジがなくとも取れるが、裏蓋そのものはネジ式。

 

 開けると、電池は入っていない。修理なので、外してきてくれたのか。いいお客様だ。常識人で優しい。

 

 電池を入れてみると、あっさりと時計は動き出す。本当に鳴らないだけか。

 

 それと、針の挙動にも異常はない。針に直接繋がっている歯車に異常がなく、かつ音がならないなんて。『カム』の構造上は、なかなか地味か、なかなか複雑な故障をしているんだろう。

 

 精密ドライバー各種セットを取り出し、裏蓋を開けてみることにする。

 

 電池形のパーツを外すと、中身の見た目は、またもやと言ったところであろうか、至って違和感のないものだ。

 

「とにかくね、ストレスが溜まるくらいなら少しくらい汚れててもいいの! 自分の部屋なんだから!」

「な……なるほど……ストレスフリーが大事なんですね」

「そうそうっ。あ、一人暮らしの人におすすめの配達弁当もあってね?」

「それは助かりますね。自炊も毎日は疲れますし」

「でしょ!? いやホント、ガス代も馬鹿にならないし……」

「あ、私の家はIHですね」

「えーっ! いいなあ! あ、でもライターが無い時に困るよねっ」

「ライ……ター……?」

「あ、私は吸わないよ? 先輩の話だから」

「それ、自分の話の時に言う常套句じゃあないですか」

 

 いつの間にか、氷川さんは真面目に月夜美のアドバイスを聞いている。

 

 まあ、彼女も割とサバサバと効率重視で生きているところはあるから、学べるところもあるだろうな。俺も彼女に教わったズボラ飯のレシピは数え切れない。

 

 それはともかく。

 

「……上のベルか、内部の問題か……」

 

 そう呟いて、俺は裏蓋をネジで閉じる。そして、氷川さんに声をかける。

 

「下見が終わりました」

「どのくらいで直りそうですか?」

 

 氷川さんは、椅子から立ち上がってこちらに少し近寄ってくる。

 

「1週間もあれば。余程のことがない限り、1ヶ月単位で長引くことはありません」

「こんな閑古鳥なので、真っ先に修理できますよ! 安心してください!」

 

 余計なことを、と言いそうになるが、実際この店で修理依頼が溜まっている時期は、俺が店長になってからは数える程しかない。

 

 父の頑張っていた時期の売上などの遺産がなければ、とっくに潰れているだろうな。

 

「目覚まし時計を直すのは数年ぶりですが、とりあえずやれる所までやってみます」

「……有難うございます……っ」

 

 彼女は安堵の息を漏らし、こちらに深々と頭を下げる。

 

「それでは、こちらに名前と連絡先を……」

 

 俺がそう促すもなお、氷川さんは頭を下げ続けていた。命の恩人でもあるまいし、大袈裟だと思ったが、彼女にとってはよほど大切な時計なのだろう。

 

 そう思い、とりあえず頭を無理に上げさせることも無く「いえいえ」と言ってはみたが、それでも頭は上げない。

 

 というか、様子がおかしい。まるで地面が揺れているかのように、身体の芯が少し安定していない……気がする。

 

「っ……」

「お客様?」

 

 返事は帰ってこない。やがて、足は大幅にふらつき始め、頭を上げる。そのライムグリーンの目は、今にも裏返りそうだった。

 

 仕方ない、彼女により近い月夜美に俺は叫ぶ。

 

「月夜美! セット!」

「え!?」

「お客様の後ろに滑り込め!!」

「あっ、はい!! スライディングーっ!!」

 

 俺の予想通り、氷川さんは仰け反って、足を滑らせると言うよりかは、自立する筋肉が完全に緩んだのか、膝がガクッと曲がって後ろ向きに倒れる。

 

 月夜美は背中で、彼女の頭と背中を受け止める。俺と月夜美は、同時にほっと息をつく。

 

「あっ……ぶな……」

「熱中症か? ……月夜美、すまない。背中は大丈夫か?」

「ぜんっぜん平気です! これも接客担当の仕事ですので!」

「それは何より……」

 

 氷川さんは、完全に目を閉じている。気絶しているのか、月夜美は体勢を変えて声をかけてみるが反応は無い。

 

「よかったですね、私がアドリブ力高くて」

 

 高校では演劇部に入っており、カリスマ演者だったんだそうだ。咄嗟の反応に強くて助かった。

 

 月夜美は引き続き声をかけ続けるが、彼女は氷川さんの目を見てハッとする。そして、目元を親指で少し擦ってみると、顎に手を当てて唸る。

 

「どうした」

「私……分かります。目の大きなクマが、メイクで隠されてる」

 

 なるほど、度を超えた寝不足だったんだな。

 

「……よし、一旦寝かせよう。月夜美、和室まで持って行けるか」

「任せてくださいっ」

 

 彼女にも色々あったんだろう。お節介というか、老婆心というか、それを聞きたい気持ちも俺の中にはあるが、今は寝かせておこう。

 

 京都旅行から四半期強、弦巻さんが来て半年以上が経った今。また当店には、訳ありそうなお客様が来たらしい。

 

 どんなお客様であろうが、この店はお客様を笑顔で返すがね。

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